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    | 2023/04/12 | - | | - | - |

    敬語の難しさ

  • 2007.02.06 Tuesday
  • 先日、文化審議会国語分科会の「敬語の指針」(答申)が出ました。新聞その他でご覧になられた方も多いでしょう。
    敬語というのは本当に難しいものですね。僕も完璧に使いこなせているかどうかはハナハダ自信がありません。そんなふうに以前思い知ったことがありました。
    ずっと前のことなのですが、僕はちょっと研修用に敬語のマニュアルの資料を作らされたことがあるのですね。もちろん新入社員向け。めんどくさい作業なのですがそのときに面白がってかなりいろいろ敬語について書かれた本を読みました。普通はこういう時はビジネス心構え書などから引っ張ってくればいいのですが、何をトチ狂ったのか国語学の本なんか読み出してしまいましてね。実に面白かった。常にこういうことを仕事にさせてくれれば僕は寝食を忘れて取り組むのに…おっと余談でした(汗)。
    しかしマニュアルにするためには、ちゃんと理屈がわかっていないとダメなものでありますからね。例えば上司に何故「ご苦労様です」と言ってはいけないのか。何故「お疲れ様です」でないといけないのか、といったことですね。

    その際に、僕はそれまで国語教育において言われていた「尊敬・謙譲・丁寧」の三分割が実態に合致していないことを知ったのです。学者さんたちの方では、「尊敬・謙譲・丁重・丁寧・美化」の五分割にすべきであると言われていたのです。この話はややこしくてとてもここでは書けませんが、読み込むと納得させられました。

    今答申では、この五分割がはっきりと打ち出されています。
    ・尊敬語(話題中の動作の主体が話し手よりも上位であることを表す語 行く→おいでになる)
    ・謙譲語1(自分側から相手側または第三者に向かう行為・物事などについて、その向かう先の人物を立てて述べる 行く→伺う)
    ・謙譲語2(これが丁重語。自分側の行為・物事などを、話や文章の相手に対して丁重に述べる 行く→参る)
    ・丁寧語(です、ます)
    ・美化語(お酒、お花)

    分かりにくいですね。特に尊敬語及び謙譲語1、2が。もう少し砕いて言ってくれないものでしょうかね。
    ですけどこれはよく考えればそのとおりなのです。具体例を示せばわかりやすい。なので答申にはたくさんの例が挙げられています。「おいでになる」ですと、例えば「先生がおいでになる」。先生に対する敬意です。これは、もちろん会話の相手が先生であってもいいのですが、僕と同級生との会話の中ででもありうるのです。会話の中に出てくる登場人物に対しての敬意。それが「話題中の動作の主体」という書き方なのですね。謙譲語1でもそうなのです。「先生のところへ伺う」は、先生に対して言うだけでなく僕と同級生の会話の中ででも成立する。この尊敬語及び謙譲語1は、どっちも「先生に対する敬意」です。もちろん会話している同級生に対してのものではない。
    ところが謙譲語2は、「会話している相手」に対して敬意を持って言うのです。「先生のところへ参ります」は、会話の話題になっている「先生」に対しての敬意ではなく、話をしている相手に対する敬意だということ。同級生が先輩になればわかりやすいか。こうなると例えば「弟のところへ参ります」という全く敬意を払わなくていい弟の話でもいいわけです。今話をしている先輩に敬意ですから。ところが謙譲語1ですと「弟のところへ伺います」。これでは不適切だということです。
    難しいですね(汗)。でも、この区分は僕は妥当だと思います。「伺う」と「参る」が同じ謙譲語でひとくくりとなっているのは矛盾がある。それを是正したというだけのこと。

    この答申は「実態に合った」という面で評価に値するものであると言えます。また従来の「敬う」「へりくだる」と言った身分差別的な言い方を改めて「相手を立てる」と言いかえた事などわかりやすくなっている点が多々あります。
    ですが…もう少し踏み込んでもよかったのになぁと思うのです。特に、「バイト言葉」と言われるものについての考え方などは。
    今答申では「マニュアル敬語」として言及はされています。一応ね。「マニュアル敬語」はバイト言葉ばかりではありませんから。しかし多少は関連性があるかな。
    しかし答申は「過度に画一的」であることを問題とし、「相手や場に応じた」使い方が出来ないといけない、と言われます。結局は言葉は「自己表現」なのだからちゃんと自分で考えなさいよ、そうすれば多少間違ったって心を受け止めてくれるさ(そこまでは言っていませんが)という考え方なのでしょう。それも正しい。
    バイト言葉については、僕も古いタイプの人間なので違和感が確かにあるのは認めます。ですが、もうそろそろ国語学的に分析されて「敬語の一形態」として位置づけられてもいいような気もしているのですけれどもね。そこをちょっと期待したのですが…そこまでには至らなかったようで。

    次回に続く。バイト言葉もそうですが、もう少し書いてみたい事柄があります。敬語については。方言もこれにはからんできますので。
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    | 2007/02/06 | 言葉 | 23:03 | comments(0) | trackbacks(0) |

    普通にヤバい

  • 2007.01.21 Sunday
  • 「このラーメンまじヤバくねぇ?」

    まあ定着していると思うのですが、まだまだ慣れない「ヤバい」。昨日は夜中まで呑んでいたのですが、最後のシメに食べようと思って入ったラーメン屋さんで同行の人が言った言葉が上記のものです。これは若者言葉の範疇なのだと思っていたのですが、これを言った人は僕より年上です(汗)。まあ泥酔状態であったとはいえ、40歳も半ばの人から出たセリフとは…驚きで酔いも醒めましたわ(笑)。その人は関西人ではなく確か千葉の出身なのですが、千葉では昔からそう言っていたんでしょうか(そんなわけないか)。

    この「ヤバい」。実に隠語っぽい匂いがプンプンしますねぇ(笑)。語源を以前に調べたことがあるのですが、よくわからなかったのです。辞書的には「『やば』の形容詞化。もと、盗人・香具師などの隠語」なのですが、そっから先がワシャ知りたいのですよ。「やば」って何よ(笑)。語源由来辞典にも載ってるんですけれども詳細がわからん。監守が来た、って言う意味だというのもどこかに載っていましたが「ヤバ」はもともと名詞で監守などの意味なんかなあ。
    語源についてはまだ諸説あって、「いや危ない」から来ているとも。「イヤアブナイ→ィヤァブヌァイ→ヤブゥァイ→ヤバイ」なのか(笑)。また「夜這い」から来ているとも。夜這いはバレるとヤバい、なのかと思えば泥棒に入ることも一種夜這いなのだそうで。難しいなぁ。でも結局、あまり由来は「いい言葉」ではなさそうですねぇ(笑)。

    結局「身に危険を感じる」という意味であるのですが、そこから「(身に危険を感じるほど)美味い(他にも面白いとか)」という転化なんでしょう。あまりに美味くて狂いそう、狂ったらヤバいということらしい。
    確かに絶品の料理を食べたときに「ああもう私おかしくなっちゃいそう!」てな表現は結構文学的ではありますよね。昔二葉亭四迷がI love youを翻訳するのに苦心した挙句「私はもう死んでもいい」と訳した(当時は「愛」という言葉が一般的でなかった)ことを思わず思い出します。
    だから、「ヤバい」は「ここぞと言う時に」使用するといいのですがね。どうもあまりヤバいヤバいを連発されると値打ちも下がるような気もします。そこが苦言と言えば苦言かなあ。

    さて、僕は以前から「正しい日本語を使用しろ」と日本語の乱れを声高に叫ぶ知識人を胡散臭い、権威主義者的だとずっと言っているほうの人間なので「ヤバい」の連発にもわりに寛容的視点を持ってみていますが、それでも「こりゃおかしいな」と思うのが「普通においしい」という表現なのですね。
    「普通に」と言えば僕らは「平均的な・普遍的な」という意味をすぐ連想しますが、若者達はこれを最上級で用いているらしい。うーむ。
    「マジやべぇよ。これ普通にウマいぜ」これはいかになんでもおかしくはないですか? 平野啓一郎公式ブログの「普通においしい」という記事が話題らしいですが、この方のおっしゃるように「中庸的な」意味ならなんら問題はないのです。しかしどんどん意味が変わって、どうも平均以上のものに対して使われる傾向が昨今見られる。ほぼ最上級に近い意味で。そこが「ヤバい」よりはるかに問題点を内包しているように思えるのです。どうなんでしょいったい。「まずいかと思っていたら、食べてみると普通においしかった」という味覚の落差をそのまま使用して、という感じですね。うーん。まだまだ考える余地はありそうだ。

    ちなみに若者はイマイチだったもののことを「ビミョー」と言います。これは便利な言葉ですね(笑)。婉曲ですな。マズい、とはっきり言わないというのは日本文化かとも思いますので、これは容認(笑)。

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    | 2007/01/21 | 言葉 | 14:34 | comments(8) | trackbacks(0) |

    おしょらいさん

  • 2006.08.15 Tuesday
  • お盆ですね。
    宗教によっていろいろあるようですが、いちおうこの時期は、先祖の精霊が家に帰ってこられる時期ということになっています。
    この「精霊」のことを京都では「おしょらいさん」と言うのですね。実によくわからない言葉だと思います。
    「精霊」をどう読むかについてですけど、漢音では「せいれい」ですね。呉音だとこれが「しょうりょう」となります。日本に入ってきた時期から考えると、呉音の方が漢音より古い。なので伝統的仏教では「呉音」を使って表現しています。
    例えば、「往生(おうじょう)」「勤行(ごんぎょう)」「如来(にょらい)」「明王(みょうおう)」など皆そうですね。「おうせい」「きんこう」などと言ったりはしない。
    「精霊」はやはり「しょうりょう」。これを「せいれい」と読んでしまうと、とたんに西洋の妖精みたいな感じがしてしまいます。言葉というものは読み方にも文化や歴史がありますね。
    さだまさしは「精霊流し」を「しょうろう」と言いますね。これはまあ音便化したものでしょう。
    さて「おしょらいさん」。漢字で書くと「お精霊さん」とよく書かれますが、なんででしょ? 「しょう」を「しょ」とつづめて言うのは京言葉ではよくあります。お醤油を「おしょゆぅ」と発音したりします。これは分かる。しかし「霊」を「らい」と読むのかな。
    「礼」は漢音で「れい」、呉音だと「らい」ですね。しかし霊と礼は全然違うしなぁ。「らい」が音便化して「りょう」となったのなら話はわかるのですが、これは逆パターン。こういうつまんないことで僕は悩むのです。もしかしたら全然別の漢字、例えば「招来」とか当てるのかしらん。どなたか詳しい方がいたら教えていただきたいものです。

    今年も、母親は京都にある六道珍皇寺へ「おしょらいさん」を迎えに行ってきたようです。去年は僕も時間が空いていたので一緒に精霊迎えに行ったのですが(龍馬はんに逢ってきた参照)、今年は付き合えませんでした。
    先日実家へ帰ってきたわけなのですけれども、おかんが迎えに行ったのでこの時期はじーさんやばーさんたちは家にいるわけです。もう死んじゃってずいぶんになるな。昔のことを思い出しながら仏壇に線香を上げてきました。
    明日は、ご先祖さまがあっちの世界へ戻っちゃう日。京都では、盛大に送り火を焚いて、「また来年帰ってきてね」と送り出します。つまり五山送り火(大文字焼きと他所の人は言う)ですね。そうして、夏も終わっていくのです。

    しかしまだ終わらないな。あづいあづい(笑)。

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    | 2006/08/15 | 言葉 | 22:29 | comments(2) | trackbacks(0) |

    ら抜き言葉 3

  • 2006.07.25 Tuesday
  • 「ら抜き言葉」についてはもう終わる予定だったのですが蛇足です。

    この記事を書くのに何冊かの本を読んだのです(いや、正確には何冊かの本を読んで「ら抜き」について書きたくなったのですが)。それはうるさい丸谷才一氏や大野晋氏の本であったり、方言の本であったりしたわけですが、もっと図書館なんかに行っていろいろ探せばよかったなぁと思っています。例えば、こういう本が出ているのを知りませんでした。
    ら抜き言葉殺人事件
    ら抜き言葉殺人事件 島田 荘司 

    なんだかわかんないけど面白そー!(笑)。

    読んでいないので感想はありません(読んでもミステリーなんで感想は書けませんが)。うーむ。文法学か方言学かどっちからのアプローチなのかは知りたいですね。島田荘司だから考察はしてくれている…かな?
    ただ、この単行本が出たのは1991年なんですよね。15年前だ。その頃はおそらく、「ら抜き言葉」問題が声高に叫ばれていたのでしょうね。だからミステリーの題材にまでなっている。記憶を辿ると、確かにその頃は今よりもやかましかったかもしれないなあ。

    さて、蛇足の1。権威主義の弊害について。
    「ら抜き言葉」以外にもよく「日本語の乱れ」として言われる現象があります。「さ入れ言葉」なんてのはそうですね。

     行かせていただきます→行かさせていただきます。

    敬語表現っていうのは本当に難しいと思います。僕だって全然自信がない。ついこういう言い方はやってしまいそうですねぇ(汗)。
    他にも、「レタス言葉」なんてのは興味深いですよ。

     読める→読めれる 書ける→書けれる

    これは方言としては当たり前の地域もあるようです。jasminteaさんにお伺いしたいのですが、岡山では当然の言い回しだと聞きますがそうなんですか?

    さて問題は、「ら入れ言葉」というものが現在は存在するらしいのです。

     長良川では鮎が獲れる→長良川では鮎が獲られる

    ややこしいのですが、この「獲れる」は可能動詞です(「獲る」が五段活用動詞であることから。前記事参照)。したがって、「ら」を特に無理して入れなくてもいいのですが、つい入れてしまうという現象がおきています。
    これは、「ら抜きはいかん!」という論調が強すぎて、「獲れる」「蹴れる」「殴れる」なども「ら抜き」ではないか? とビビッてしまって入れなくてもいい「ら」を加える、という現象だそうで。
    この「ビビる」という部分が本当なら、「日本語の乱れ」を声高に叫ぶ権威主義者が、日本語の乱れを誘発していることになります(定着した可能動詞を歪めるという点で)。こうなると、本当によくわからなくなりますよね。

    蛇足その2。「ら抜き言葉」という言い方は果たして正しいのでしょうか?
    これは孫引きのまた孫引きみたいな話なので、出典も分からず書いていいかどうか迷っていたのですが書くことにします。
    五段活用動詞(行く、書く等)は、可能動詞を生みました(行ける、書ける等)。
    この「行く」から「行ける」が派生した過程は、つまり可能の意味を持つ助動詞「れる」をつけた形「行かれる」→「行ける」となったとするのが自然です。「行かれる」でも可能の意味はもちろんあります。
    さて、音の省略のことを考えてみたいと思います。まずは可能動詞から。
     
     行かれる(ikareru)→行ける(ikeru)

    太字の部分「ar」が省略された(抜け落ちた)形であると言えます。
    では、「ら抜き言葉」を考えてみましょう。

     見られる(mirareru)→見れる(mireru)

    これも、arが省略された形であると言えます。「ら」ではなく「ar」に着眼して考えると、五段活用動詞から派生した可能動詞と、「ら抜き言葉」にはきちんと音韻の省略に法則性があることがわかります。単に「ら」を抜いたのではなく可能動詞の成立と同じ道を歩んで出来た言葉であると。これは「ら抜き言葉」が「可能動詞」足りうる証明になるとも考えられます。(そこまで言うのなら「考えれる」と書かんかい!)
    したがって、「ら抜き言葉」ではなく「ar抜き言葉」と言えば、ちょっと権威主義者はぐらつくと思いますよ(笑)。
    ※この話はどこで読んだのか、誰が最初に言われたのかが恥ずかしながら分からないのです。ごめんなさい。

    蛇足の話が一番長いですね(汗)。失礼しました。「ら抜き言葉」終わります。
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    | 2006/07/25 | 言葉 | 21:55 | comments(6) | trackbacks(0) |

    ら抜き言葉 2

  • 2006.07.24 Monday
  • ら抜き言葉に関する雑感、その2です。

    前回記事で、僕はら抜き言葉が地方によっては昔から遣われている言葉である、と言うことの他に、「日本語の進化」の可能性があるかもしれない、と書きました。

    このことは、ら抜き言葉擁護論の主体となっていることです。
    助動詞「れる・られる」には4つの意味があります。
    可能・受身・自発・尊敬です。これは分かっていただけると思います。
    このことが、例えば日本語を習得する外国語文化圏の人たちにとって難しいことであるのはわかります。ややこしい。

    「チーズがありますが、お義母さんは食べられますか?」

    この場合、「お食べになりますか(尊敬)」なのか「食べることが出来ますか(可能)」なのかわかりません。
    しかし「食べれますか?」と聞けば、「食べることが出来ますか」だけの意味になります。分かりやすいですね。このように「ら抜き」は可能だけの意味をあらわします。
    これは合理的なことです。今まで曖昧で理解に食い違いが生じる可能性があった部分を見事に修正していると言えます。ある意味日本語の完成度が高まったという見方も出来るのです。

    日本語には「可能動詞」と分類される一群の言葉があります。「行ける」「書ける」などですね。これらは(ややこしい話ですが)五段活用動詞に限って認められています。ただ、下一段活用(食べる等)や上一段活用(見る)などは、助動詞「られる」を使って可能をあらわさなくてはなりません。その「られる」には尊敬や受身の意味もあるのです。これは不合理です。なので、「食べれる」「見れる」は新しい「可能動詞」の出現であるという見方も出来ます。
    「行ける」だって本来は「行かれる」で可能の意味もあらわしていたのでしょう。しかし時代が移るうちに「行ける」という言葉が出現した。その当時はこれもおそらく「日本語の乱れ」だったのでしょう。しかし文法学が完成する頃には既に「行ける」があったためにこれを日本語文法は「可能動詞」として採用しました。文法学の完成時点がもう少しずれていれば、おそらく「見れる」「食べれる」も「可能動詞」として採用されていたでしょう。日本語文法を完成させた時期だけの問題なのです。

    この時代、日本語文法ももう少し整理すればいいのにと思います。そもそも文法学というものは「実際に遣われている言語」を整理説明するためのものであるはずです。言語が主体で文法は従。なので、文法がこうであるからと言って実際遣われている言語を過去につくられた文法体系に合わせることなどは本末転倒であるはずなのです。
    「日本語の乱れ」を声高に叫ぶ人たちも、「行ける」「書ける」はOKなのです。これらはかつて「乱れた日本語」であったはずなのに。「可能動詞」というお墨付きがついたとたんに「正しい日本語」になる。権威主義もいいところです。
    こういう権威主義が嫌いな僕は、慣れませんが「ら抜き言葉」を非難することは出来ないのです。自分は頭が固いのでなかなか遣えないくせに(笑)。

    次回、蛇足に続く。
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    | 2006/07/24 | 言葉 | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |


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