前回、「日和見をする」という言葉から全共闘時代に「ひよる」と省略され、それに伴って少し意味が付加されたのかもしれない、という話を書きました。まあこれは学者の話ではなく僕がぼんやりと思っただけであるので真偽はどうかは責任は持てないのですけど。
こういう例が他にもあるのかってことですね。
「ひよる」は「日和見をする」を縮めた言葉で、言ってみれば新しい動詞を作っちゃったわけだと思いますけど、こういう例は日本語には時々ありますね。
例えば「ぎゅうじる」。「牛耳る」とちゃんと変換してくれますが、この言葉の元は「牛耳を執る」です。→
語源由来辞典 これが「牛耳る」とつづまったかたちになっちゃったのです。(これを短く動詞化したのは、金田一春彦氏は夏目漱石だと言われています。「野次を飛ばす→野次る」も同様夏目漱石だとか)
夏目漱石だとすればこの言葉の発祥は明治であり、短くすることによって意味が変化したということもない、とも言えます。
ここからは僕の我田引水的広げ方ですが、「牛耳る」も「野次る」もどうも現代ではマイナスイメージがあるような。「あの会社は結局ヤツが牛耳ってるんだよ」「野次るのは止めろよ」などと例にすれば、あんまりいい意味じゃないような。
これはちょっと書きすぎですね(汗)。そもそも野次はからかいや非難の意味が内包されていますから。
ちょっと話はそれちゃうかもなのですが、日本人は言葉を次から次へと生み出しますね。外来語も咀嚼して取り入れちゃう。そもそも「漢字」だって外来ですからね。今ではすっかり日本語です。明治以降は欧米の言葉も取り入れて新語を作る。
「トラブる」などは本当に傑作だと思います。これはそもそも「trouble」ですがな。それを日本語動詞化しちゃった。「トラブらない・トラブります・トラブるとき・トラブれば…」五段活用しますぜ。「パニクる」「サボる」「ハモる」なんかもそうですね。柔軟な言語だとつくづく。
そして、形容詞化も行う。「エロい」なんてそうですね。「ナウい」なんてのはもう死語かと思いきや、今でも揶揄してりする場合には使うようで。「おーにいちゃんナウい格好やなぁ」と言えば、時代遅れのファッションであるという意味にも使うようです。「ナウい」という言葉が時代錯誤であるという意味から逆説的に使ったりしているようで。「モボ・モガ」だともっと古く、「ハイカラ」ってのも古いですね。「当時の新しさを示す言葉」って面白いなあ。
あーどんどん話がそれる。それはさておき。
動詞から形容詞に話が移っていますが、その「ナウい」。これは1970年代に広く膾炙した言葉だと言われますが、その対義語として「ダサい」というものがありました。この言葉は今でも死んでいない。命脈を保っています。語源はわかんないのですね。よく「田舎い→ダシャ(田舎)い→ダサい」だと説明がされますが俗説とも言われます。決め手はない。
これは語源が特定できない以上「日和る」のような省略動詞とは言いがたいのですが、新語であるのは間違いない。
「ヤバい」については書いたことがあるのですが(→
普通にヤバい)、これも語源がわからない。でも、なんだか同種の臭いがします。あんまりいい言葉じゃないという意味で。
さて、こうした中で、「日和る」が「日和見をする」から「弱気になる」と意味を少し変えてきたような例もいくつか見受けられるのです。
例えば「コクる」。これは「告白する」という言葉がもちろんつづまったものですが、この「告白」とは、「心の中に秘めていたことを、ありのままに打ち明けること」です(→
goo辞書)。三島由紀夫に「仮面の告白」って小説がありますね。別に愛を告げることだけを指す言葉じゃない。しかし、「コクる」になるともう「相手に好きだって言う」ということに限定されちゃうのですね。新語動詞と言ってもいいような気もします。
ここまでは「面白い」と言っていられるのです。ですが、最近の形容詞をつづめた言葉にはどうも抵抗を感じるのですね。
例えば「ケバい」。これは「けばけばしい」が短くなった新語形容詞だと思いますが、そもそもの意味はもちろん派手であるということ。どちらかと言えば品がない場合に使用します。「けばけばしい電飾」とかね。しかし「ケバい」になると、どうも対人だけで使われる言葉のように聞こえるのです。衣装や化粧が派手で品がないという場合ですね。「あのねーちゃんケバいなあ」とか。そしてこれはどうしても「揶揄」の意味を含みます。それがちょっと…。
その代表が「キモい」「キショい」でしょう。この話は以前に「とまれ」の
コメント欄でアラレさんと会話をしたことがありました。アラレさんはこれらの言葉は「侮蔑を含んでいる」とおっしゃる。その感覚は鋭い。確かにこれは主として対人で使用される新語形容詞だからです。
以下書くことは「
ふいんき」で書いたことの繰り返しになってしまうのですが、再び書きます。
「キモい」はもちろん「気持ち悪い」からの言葉ですが、決して「呑みすぎてキモい」などとは言わない。「あいつキモい」と人に対して使用する。そこが侮蔑・揶揄専用の言葉だと感じる所以です。「キショい」もそう。
また「ウザい(うざったいの略)」もそうですね。対人用。またこれは略語なのかどうかわからないのですが、「イタい」という言葉も最近頻繁に使用されますね。これも揶揄だ。うーむ。
言葉は生き物である、といつも考えています。時代に合致して新語が出来たり意味が付加されたりすることはありうる事であり、それは考え方によっては「発展」ともとれる場合もあるわけで、やみくもに「日本語の乱れ」と切り捨てる権威主義者にはなりたくありません。僕は頑なな人間で、「
ら抜き言葉」や「
ヘンな敬語」には実に違和感を感じてしまうのですが、それらについても冷静に考察してきたつもりです。自分の頭で感情とは別個に考え、肯定すべきところは肯定する。
しかし、これらの侮蔑的な新語にはどうしても抵抗があるのです。
「言葉狩り」をしようとは思いませんよ。僕はとても使用する気にはなれませんが、そんな言葉つかうな、と言っても無駄。感情を排して言えば、言葉には罪はない、と言えるかもしれません。生み出した社会に問題がある。言葉は社会の鏡。こういう対人侮蔑語を生み出した社会とはなんだろうか、とまた鬱々と考えてしまうのです。