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  • 2016.12.30 Friday
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    | 2016/12/30 | - | | - | - |

    旧西宮市図書館ステンドグラス続報

  • 2012.12.16 Sunday
  •  おひさしぶりです♪ (* ̄▽ ̄)ノハロ〜
     さて、12月16日は久々の国政選挙、あたしも参政権を行使しに投票に行ってまいりました。僕は甲子園在住で、投票所は春風公民館です。

     

     公民館という場所には、ホント選挙のとき以外に来たことはありませんね。地域の行事その他にいかに参加していないか、ということなのですが…(汗)。
     さーて、清き一票を投じましょうか。と、僕は勇んで公民館の門をくぐったわけなのですが…

     


      あっ


     

     これはぁぁ!

     どう見ても、これは旧西宮市図書館のステンドグラスではないですかぁぁ!

     これについて少し解説します。西宮市にはかつて図書館が六湛寺町〜現在の市民会館あたりに建っていました。建造されたのは昭和3年で、その頃の「阪神間モダニズム」のムーブメントを体現するかのようなスパニッシュコロニアル風のモダンなデザインで、西宮の文化の中心として君臨し市民に親しまれてきました。昭和60年、その役割を終え取り壊されました。
     その旧図書館には、モダンな建築物らしく窓にステンドグラスが配されていました。そのステンドグラスは旧図書館のかたみとして保存され、現在市内にある図書館などに記念として活用されています。
     これについては、かつて西宮流では西宮芦屋研究所員さんが言及され(西宮芦屋研究所レポート:旧図書館のステンドグラスのある図書館)、にゃんこさんが市内図書館を丁寧に回られました(てもちぶたさん:図書館のステンドグラス以降の記事)。

     また僕も(当時は西宮流のことは知らなかったのですが)ひょんなことから同時期くらいにそれを知って、西宮市の全図書館を回りました。それについては拙サイト「ちょっと歴史っぽい西宮」でもふれています。
     その記事でも書いたのですが、中央、北口、鳴尾、北部図書館と山口、甲東、越木岩、高須分室にステンドグラスの一部が移築保存されています。しかしその8ヶ所の図書館以外にも存在しているとの噂があり、僕が調べた中では大社小学校にもあることがわかりましたが(宮っ子バックナンバー)、それ以外はちょっと雲の中でした。

     

     灯台下暗し。まさか、自分が住む最寄の公民館に存在していたとは。何回もここには選挙に来ていたのになぁ。ぜんぜん気がついていませんでしたよ。
     これは、昭和3年に白鹿の辰馬吉左衛門氏によって寄贈された旧西宮市図書館のステンドグラスのかたみのひとつだと思われます。確認したわけではありませんが、デザイン的にみて間違いないでしょう。
     しかも、市内図書館に残されているステンドグラス群は「かけら」とでも言うべき大きさにカットされていますが、この春風公民館のものは原型をとどめています。縦長だった旧図書館のステンドグラスそのままのかたちです。これは貴重だぁ。

     「ちょっと歴史っぽい西宮:阪神間モダニズム」の項にリンクして、補足とさせていただきます。

    ※初出:西宮ブログ「凛太郎の自転車操業
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    | 2012/12/16 | 西宮流 | 12:01 | comments(0) | trackbacks(0) |

    阪神甲子園線 架線柱の痕跡

  • 2012.09.23 Sunday
  • ※この話は、ちょっと歴史っぽい西宮の補足記事となります。

    以前書いた「昭和〜廃線跡ウォッチ3〔路面電車〕」という記事、この記事は主として西宮市に残る既に廃線となった路面電車の痕跡を散策する記事なのですが、そこに過日、14たくぢさんからコメントをいただきました。以下一部引用。
    甲子園筋には、他にも遺構が残っていますよ^^。
    「ららぽーと甲子園西」バス停の北向き側のところをはじめ、
    架線柱の台座が甲子園駅南側の西側歩道に最低3つはあります。
    おおっ!そんなものがあったのかぁぁ!
    僕は、この昭和50年に廃線となった路面電車「阪神甲子園線」に乗ったことはありません。西宮に越してきてからその存在を知ったのです。
    なので痕跡探しは、ほぼ文献資料に拠っています。「新西宮歴史散歩」などには、阪神甲子園線の痕跡として北側の引込線跡、甲子園駅の停留所屋根、一本の架線柱、道路高架下の吊架線支持金具、浜甲子園の廃線跡が紹介されています。僕も、それに沿って歩いています。
    もちろん自分でも路線のあった甲子園筋を何度も見ていますが、それ以上のものは見つけられませんでした。僕は路面電車が走っていた時代を知りません。古写真などでイメージしているだけですので、具体的に当時どういうものが存在していたのかがよくわかっていない部分もあります。僕の鉄分がもう少し高ければ「架線柱がここらへんにずらりと立っていたはずだから何らかの跡があるかもしれない」などという発想が湧いたかもしれませんが、あいにく鉄道マニアほどの知識はなく、歴史散策の一環としての視点しか持っていませんでした。うーむ。

    まあそんなことはともかく。14たくぢさんが教えてくださったことに従って、とりあえず探してみることにしましょう。

     

    阪神甲子園駅の東口です。画像真ん中に立つ「甲子園駅東改札口」の表示がタテに付けてある鉄塔が、唯一残っているとされる阪神甲子園線の架線柱です。

     

    その架線柱の根元です。となりにあるたいやき屋さん(余談ですがここの70円のカスタードたいやきが好物です。僕は皮の厚いしっぽの先まで餡がはいってないやつのほうが好き♪)の荷物が無造作に置かれていて撮影に困るのですが(汗)、架線柱の台座はコンクリートに埋まっています。なのでありし日の姿はわかりませんが、ある程度の台座の大きさは想像できますので、これを念頭に入れて探してみます。14たくぢさんに教えていただいた「甲子園駅南側の西側歩道」を中心にして。

     

    甲子園駅南側を進むと、国道43号線と阪神高速の高架をくぐればもう西側には甲子園球場があります。西側歩道がこれです。南に向かっていますので、歩道の西側は甲子園球場、東側は道路(甲子園筋)です。道路との間には街路樹が並び、植え込みがあります。それらしきものは見当たりませんが、植え込みの陰を丁寧に見てあるきますと…。

     

    あっ、これだっ!! 架線柱の台座跡発見!
    しかし、このように植え込みに隠れて存在していますので、歩道を歩いていればまず見つけられません。車道側からなんとか確認できる位置にあります。なるほど。
    歩を進めますと、こんどははっきりとわかる位置に、北からふたつめの台座跡があります。

     

    これなら、歩道側からも気がつきますね。しかしあたしゃ全く気づいていませんでしたがな(涙)。キョロキョロ度合いが足りませんでしたね(汗)。

     

    アップ。架線柱を形成していた4本の足が切り取られた痕がはっきりとわかります。架線柱の痕跡と断定していいでしょう。ひとつ穴が開いていますが、何か電気系統に関係したものでしょうか。架線柱に詳しくないのでよくわからないのですが…。
    下部をコンクリートで補強してある以外は、先ほどのものと同じ形状です。
    さらに、北からみっつめ。

     

    これも、比較的発見しやすい場所にあります。

     

    先ほども申しましたが、穴がひとつ開いていて、この台座跡ではそこから何やらワイヤーのようなものが出ています。
    よっつめは、バス停横にありました。

     

    わかりにくいのですが、阪神バス停留所「ららぽーと甲子園西」の南側の植え込みに隠れています。ではアップ。

     

    これも、形状は同じですね。架線柱の足を切断した痕跡もはっきりしています。
    では、さらに南下。スクランブル交差点になっている酒蔵通りを渡ります。

     

    さすれば、団地前あたりに、植え込みに隠れていつつめの台座跡があります。

     

    アップ。ふたつめと同様下部にコンクリートの補強があります。切断痕と穴ひとつ。同じ形状です。
    さらに、少し南下。そうすれば、むっつめの台座跡があります。

     

    これがいちばん分かりにくいのではないでしょうか(汗)。繁った植え込みに完全に隠れています。歩道側からは完全にその姿を消し、車道側ですら見えにくい。

     

    埋もれてますなあ(笑)。しかしながら、ここまでくればもうこれが先の5つと同じものであることは間違いありません。

    ここより南には、台座跡は確認できませんでした。臨港線より南にもありません。また、甲子園筋の東側歩道もチェックしましたが存在はなく、僕の見落としがなければ、昭和50年に廃止となった路面軌道「阪神甲子園線」の架線柱の痕跡は、阪神甲子園駅東口に一本そびえる他、甲子園筋西側歩道(甲子園球場東側)に台座跡が6つ存在する、ということになります。
    いやー知りませんでした。ご教示下さった14たくぢさんに心より御礼申し上げます。

    ところで、なぜこのような架線柱台座跡が甲子園筋西側歩道の一部にだけ残っているのでしょうか。
    僕は近年しかこのあたりを知りませんので推測になるのですが、これらの架線柱は廃線後もしばらくは撤去されずに残されていたのではないでしょうか。例えば、街灯が設置されたりなどして転用されたとか。
    おそらく歩道の整備は廃線後にもなされているはずでしょうから、廃線と同時に架線柱が撤去されていたならば、痕跡が残ることが考えにくいのです。撤去に時間差があったため、痕が残ったのではないでしょうか。全くの推測でしかありませんが。
    その後の架線柱の撤去は震災がきっかけであったのか、それより以前なのか、そこらへんのことも全くわかりません。古写真などを折に触れて探してみたいと思いますが(球場横なので多く残っている可能性もありますね)、ご存知の方は是非ご教示いただけませんでしょうか。古くからお住まいの方には常識の範疇かもしれませんので。

    というわけで、阪神甲子園線における架線柱の痕跡散策でした。
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    | 2012/09/23 | 西宮流 | 14:54 | comments(2) | trackbacks(0) |

    西宮の道をふさぐ木

  • 2012.06.30 Saturday
  •  なかなかスーパー等には行く機会がないのですが、先日カミさんに付き合って(荷物運びとも言う)酒蔵通りに登場した「マルアイ」に行ってきました。
     その折にちょっと確認したい事もありまして。これです。
     
      

     この巨木、前からありますね。スーパー建築工事にも無事で残ったようです。以前より少し周りが整備されてますね。
     しかしよく考えればこの木は邪魔なんですよ。道を塞いでいますから。「開発」という名の破壊活動は、こんな木くらい直ぐに切り倒してしまう威力を通常は発揮しますが、何故かこの木は生き残り、道の方で避けています。植替え移転する予算の節減か、或いはこの木に何か謂われでもあるんでしょうか。
     邪魔なのに切られない木には、たいてい理由があります。京阪萱島駅の御神木とかね。この木にも何かあるのかも。大関に問い合わせればわかるかもしれないのですが、煩わせるのも何かと思い聞いていません。どなたかご存知ありませんでしょうか。

     西宮には、こういう「道を塞ぐ木」が何本かありますが、その中には、ちゃんと謂れが知られているのもあります。常磐町の一本松。
      
      

     全くもってこの木は通行の妨げなのですが(笑)、この松はかつて武庫郡と菟原郡の境界を示していたとされ、「史跡往古武庫菟原郡界傳説地」の碑も建っています。谷崎潤一郎の「細雪」にも登場します。これは、史跡ですから切れませんね。
     こういう伝説のある木はわかるのですが、首をひねる木もあります。甲子園五番町にあるこの三本の松。
     
      

     おそらく、この木はかつて甲子園筋が枝川だったときの、堤にあった松林の名残なのでしょう。廃川前は、川の土手は鬱蒼と繁った松林でした(→写真)。その痕跡は北郷公園や駅前の松林であり、位置的に考えてこの三本松もその一部だと推測できます。
     歴史の址が残っているのは嬉しいのですが、どうしてこんなふうに往来の真ん中に三本だけ残されているのか。あまり交通量の多い道ではありませんけれども、不思議です。

     動かすと祟りのある岩、というのは西宮にはあります。神楽町交差点を北上して山口に向かう県道82号線の鷲林寺町あたりに道を塞ぐ岩があります(鷲林寺HPより「夫婦岩と夫婦池と夫婦橋」)。これは心霊スポットにもなっているようですが、マルアイ横の木や枝川名残りの松にはそんな祟りや呪いの話があるようにも思えず。ゴミステーションになってたりしますから。
     僕は西宮生まれではないので、民間伝承に疎いところがあります。もしかしたらいろいろ伝説があるのかもしれません。ご教示いただけると有難いのですが。

     僕が知っている範囲でもうひとつ。鳴尾は小曽根線のco-op裏に老松公園がありますが、そのさらに東側。
     
      

     十字路の真ん中に木があります。榎でしょうか。どう考えても通行の邪魔だろうと思いますが、倒されることなく大いに繁っています。

      

     木の根元には何とベンチがあり、さらに高さ標識が付いています。大型車は通れません。火事のときだけは心配ですが、それ以外はこれくらいの妨げがあったほうが自動車も通らず町も静かでしょう。日陰で夏でも涼しそうな「憩いの木」です。
     もうそれだけで存在価値のある木だとは思うのですが、なんだかやはり不思議な感じもします。
     他にも、市内にこんな木はあるのでしょうか?


     ※追記1
     大道歳男氏の「なるを」に、この木のことが書かれていました。うっかり見落としていました。
     「全村流出の難、萬治の洪水(戸崎切れ)」の項に、この木が載っています。「小松・小曾根境界ヨケ堤の楠の木」として、この水害から復旧のときに造られたという除け堤の上にうったと伝えられている木だと。なるほど。
     しかし、本当に植物関係には僕はどうも疎くて。これはクスノキだったのか(汗)。


     ※追記2
     滅多に行かない坂の上なんですけど、満池谷墓地とニテコ池の近く、こんな木がありました。

      

     かの有名な光雲荘の西側です。かなり大きな松が、道にはみ出しています。ふふ、ここにもあったぞ(笑)。
     この場所は、ニテコ池の西側丘陵(南郷山)のピークといってもいい場所です。そこから、この木について少しだけ想像をふくらませることはできます。
     式内社でもある古社、名次神社は、平安時代は越水丘陵にあったという説もありはっきりしませんが、明治時代には南郷山の上に存在していたとされます。
     つまり、ちょうどこのあたりにあったことが想像できます。当時は、相当に廃れていたと言われます。そして明治41年に、おそらくは宅地開発のためだと思われますが、この場所より少し北に規模を縮小して遷座しました。
     この巨木は、もしかしたら明治末までこの地にあった名次神社の御神木だったのではないでしょうか。
     そういった意味合いで、道を塞いでいるにもかかわらず現在もこうして残っているのではないでしょうか。想像ですが。
     なお、松下幸之助氏がこの地に邸宅を造られたのは昭和で、名次神社の遷座とは直接関わりはありません。松下家は、この巨木を守ろうとされたとも考えられます。



    【西宮流(nishinomiya-style)ブログより転載】


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    | 2012/06/30 | 西宮流 | 09:23 | comments(0) | trackbacks(0) |

    上之町の道標

  • 2012.06.10 Sunday
  •  今津っ子さんの記事にいざなわれて、移設された上之町の道標を拝見してきました。
    (= ̄▽ ̄=)V

     詳細は今津っ子さんの上記事を参照していただきたいのですが、かつて半分は地面に埋もれ、そして丹精された草花にも囲まれてほとんど刻まれた文字は読めず、宮崎延光氏が編まれた「西宮の道標」を参照しなければとてもそこに道標があるということすら気が付かない場所にありました。2011年はじめ頃の撮影ですが、こんな感じ。

      

     現在、そのお宅の改築によって掘り出され、近くの別の方のお宅の庭先にその全貌を見せてくれています。私有地なので、詳細は書けませんが。
     かつて、門戸東町の軒先に埋もれていた道標も掘り出されてその姿を現しましたが、こういうものが撤去されず文化財として保存されるということであれば、大変に嬉しい事です。現在この道標は暫定的に置かれているのかもしれませんが、是非ともこのまま保存していただきたいものです。

     蛇足ですが、僕も撮影してきました。

     「左 尼嵜大阪道」

      

     この「大阪」ですが、ちょうどコンクリが当たっていた部分なのか、多少見づらくなってしまっています。おそらく「坂」ではなく「阪」だと思われます。

      
     
     よくこの「坂」と「阪」によって、江戸時代のものか明治のものか、ということが言われたりします。僕もそのように思っていましたが、こうしていくつか道標を見ていますとあまり関係ないようですね。
     もちろん明治4年の廃藩置県より「大阪」と決められたのですが、「坂」だからと言って江戸時代のもの、「阪」は明治以降のもの、とは限らないようです。江戸時代にも「坂・阪」は併用されており、表記に決まりはありませんでした。また明治以降でも民間で建立された道標は、初期であれば以前よりの慣習で「坂」としてしまう可能性もあります。
     また明治以降「阪」と決められたことについて、坂は「土に返るから縁起が悪い」「反乱武士の蜂起を連想させる(士が叛く)」などから「坂→阪」に改められたとの説がありますが、これも都市伝説の可能性もあります。
     かつて江戸時代、そして明治の人は今とは比較できないほど漢学の素養があった、とは言われますが、こういう枝葉末節とも言うべき部分にはあまり拘らなかったのかな。
     余談ですが、以前横須賀に坂本龍馬はんの奥さんだったおりょうさんの墓を訪ねたことがあります。そこには「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれ、あれ?と思ったことがありました。坂でも阪でも、どっちでも良かったのかもしれません。
     したがって、この道標が江戸時代のものかそれとも明治のものかどうかは、これだけでは判別がつきません。「尼嵜」と刻まれていることも決め手になるかどうか。

     「右 厄神明王道」

      

     あっ、ワシの足が写ってる!しまった! ( ̄ー ̄;

     もう一面には、「願主尼嵜 信者中」と。

      

     宮崎延光氏の「西宮の道標」には、「誰の建立か尼崎の下の文字は土中に埋ってその人の名を知るすべとてない」と記されていましたが、その人の名は残念ながらもともとありませんでした。

     自サイト「ちょっと歴史っぽい西宮・江戸時代〜道標」の項にリンクして、補完とさせていただきます。


    【西宮流(nishinomiya-style)ブログより転載】


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    | 2012/06/10 | 西宮流 | 17:46 | comments(0) | trackbacks(0) |

    西宮砲台30 世界史上に位置する西宮砲台〜むすびにかえて

  • 2012.05.26 Saturday
  •  
      

     西宮砲台。今日も昨日とかわらず、でーんと香櫨園浜に鎮座しています。

     修復されて、もう37年。薄墨色の迷彩も徐々に色褪せ、漆喰の崩落もみられます。海風のほかに、地震の影響もあったかもしれません。そうして、建売り住宅の壁のようと言われたこの修復後の肌あいも、徐々にまた古色を帯びてゆくのだろうと思われます。

     唐澤靖彦氏の論文「マルテロ・タワーとしての和田岬石堡塔:その世界史的位置」は、以下のようにしめくくられています。
    現存する和田岬砲台の石堡塔の歴史的価値は、日本の近代を告げる史跡という価値だけにとどまりません。それは、日本が世界に開かれていくことになる神戸に築造された、そして世界のマルテロ・タワーのなかでも最後期に造られた日本式のマルテロ・タワーという、世界史的価値をも有しているのです。
     マルテロ・タワーは、実は世界的には、1850年代でほぼ建造が終わっています。
     それは、軍艦砲のレベルが上がったからです。施条砲弾(ライフル砲)により照準が安定し正確になったことがあげられます。火砲力の向上。これによりマルテロ・タワーはフロリダのキーウェストで建造中のものが1866年に工事を中断。以後、史上に姿を見せなくなります。
     だから砲台は時代遅れなのだ、と言ってしまうことも可能です。しかし、唐澤先生もおっしゃってますが、黒船によっていきなり西洋軍事技術に直面した日本人が、必死で蘭書を読み解き、想像し、それまでの日本技術を融合させながらあれだけのものを造ったということは、誇るべきことであるように思えて仕方がありません。
     そして、1866年にフロリダで最後の工事が中断したということは、慶応2年(1866)に完成した西宮砲台こそが、「世界最後のマルテロ・タワー」なのです。唐澤先生の「日本の近代を告げる史跡という価値だけにとどまらない、世界史的価値を有するもの」とおっしゃる言葉は、まさに西宮砲台にこそ与えられてしかるべき冠である、と僕は思うのです。
     そういう面も踏まえて、この地に住む方々に、この西宮砲台という史跡にもう一度新たな目を向けて欲しい。僕はそう願ってやみません。


     長々と書いてきました。
     西宮砲台は以前からどうしても気掛りな存在であり、歴史散策サイトを始める前から資料を読んだりして、人よりも多少の知識は持っていたつもりでしたが、徹底的に考察する、というまでは至っていなかったと思います。
     seitaroさんの4/12記事をきっかけに、歴史オタクの僕は、この際本気でとことん西宮砲台について考えてみよう、と思いこのシリーズを始めました。途中、唐澤靖彦氏の論文に出逢えたことは、誠に僥倖でした。
     役立たずの無用の長物と言われ続けた砲台の、少しは名誉回復への一助になったか、と言われれば、それはわかりません。ですが、こういった考え方もあるんだ、ということをネット上に置いておく事も多少の意味があるのではないかと自分を納得させつつ、筆をおくことにします。

     以下、参考文献です。

    「西宮市史」 「西宮町誌」 「新修神戸市史」 「兵庫県史」 「老の思ひ出」吉井良秀 「西宮物語」大村利一 「日本城郭大系」第12巻(大阪・兵庫) 「新版ひょうごの城」橘川真一・角田誠編著 「兵庫の城紀行(下)」朽木史郎・橘川真一編著 「岡方文書」神戸市教委編 「勝海舟」石井孝 「勝海舟」「坂本龍馬」松浦玲 「幕末海防史の研究」原剛 「神戸居留地史話」土居晴夫 「神戸〜尼崎 海辺の歴史」辻川敦・大国正美編著 「和田岬砲台の源流を探る」唐澤靖彦他

     他にも数多くの書籍を参照しましたが、スペースがないので、引用だけした書籍は本文に譲り割愛させていただきます。野坂先生ごめんなさい(汗)。
     リンクを張らせてもらった多くのサイトにも感謝いたします。
     そして、書くきっかけとなりその後も様々なサポートをいただいたseitaroさん、的確な助言を数多く下さったimamuraさんをはじめ、この長い話を読んでいただいた西宮流コミュニティの皆さんに、厚く御礼申し上げます。
     
     本当にありがとうございました。

     西宮砲台シリーズ 了


    【西宮流(nishinomiya-style)ブログより転載】


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    | 2012/05/26 | 西宮流 | 06:45 | comments(2) | trackbacks(0) |


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