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  • 2016.12.30 Friday
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    | 2016/12/30 | - | | - | - |

    椎間板ヘルニア再発に詠める

  • 2015.02.28 Saturday
  • 不覚なり我が椎間板ふたたびに押し潰れたり10年ぶりか

    突然に背骨ずれたる感覚が そのまま動けなくなりにけり

    何年もなだめすかして誤魔化して鎮めてきたのにここにきて…ああ

    診断は前よりマシとなされども加齢が治癒の障害となり

    これつまり背骨の間の軟骨が突然ぐしゃっと潰れたんです

    椎間板飛び出し坐骨神経を圧迫するから痛いのなんの

    恐ろしや尾骶骨からハリ入れる絶対慣れないブロック注射

    ヘルニアは横になるのが治療なりしかし無理することも幾度も

    寒き日に脂汗出る駅までのいつもと同じ短き道のり

    時間さえあれば寝転び垂直に圧される背骨休ませにけり

    PCから離れて幾日つくづくとスマホ不所持を後悔してる

    メールだけ無理して確認すると嗚呼(汗) 僕にも事情があったのですm(_ _;)mゴメン

    ひと月で失ったもの数知れず焦燥感に口唇を噛む

    焦ってもしかたがないと思えども失ったチャンス戻らぬ時間

    ぼんやりと聴くラジオから拓郎の歌声流れためいきひとつ

    僕はもう明日に向かって走れない 天井見つつ思い彷徨う

    発症の頃は粉雪窓の外 今は花粉と黄砂舞い飛ぶ

    梅の花咲いているよと妻は言う春の足音我知らぬ間に

    確実に季節は移りかわりゆく でも僕だけは未だ停滞か

    振り向いた窓から見える空高く流れる雲を追いかけてみたい

    あの空にかつて見た夢あったはず まだ終われない僕は生きてる

    治るにはまだまだ時間かかれども気持ちは少し癒えてきたかな

    ちょっと無理しているところもありますが元気ですよとあなたに向けて
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    | 2015/02/28 | 短文 | 18:27 | comments(6) | trackbacks(0) |

    伊賀上野紀行 2

  • 2015.01.23 Friday
  • 前回の続きです。僕は上野を歩いています。

    〔金谷〕の向うに、菅原神社が見えます。上野天満宮。上野の総鎮守社です。
    ここに、松尾芭蕉は処女作「貝おほい」を奉納しました。29歳のときです。そして、江戸に出てゆくわけです。
    しかし神社というのは、基本的に開放されていていいですね。無料で(笑)。
    そして、町を散策します。
    上野の町は、商店街もありますがやっぱりシャッターが下りている店舗が多い。郊外にいくつか大型店舗が出来ますと、車社会ですからどうしてもそうなりますね。町は戦災にあっていませんから、道がそんなに広くないことも影響してしまうかもしれません。しかし、そのため古い町並みが結構残っているわけで、観光客には有難いのです。城下町らしい。連子格子の木造建築が並んでいます。
    上野と書くと、東京の上野と勘違いされるために「伊賀上野」という呼称が定着していますが、正確に調べたわけではありませんが江戸幕府が開かれたときに、現在の上野あたりに藤堂高虎の屋敷がおかれたのは事実で、そこから「上野」という名称となったとも考えられます。伊賀のほうが「元祖・上野」とも言えるのです。
    その上野の二之町、三之町あたりは、本当に風情があります。僕は武家屋敷や古い商家、寺院を眺めつつ散策を楽しみました。

    町の南まで歩きますと、「蓑虫庵」があります。
    芭蕉の門人である服部土芳の草庵です。芭蕉門人が結んだ庵が上野にはいくつかあり、芭蕉も上野に戻ったときには立ち寄っていたらしいのですが、現存しているのはこの蓑虫庵だけだということで、県指定史跡となっています。
    芭蕉翁生家と違ってこちらは文化財として指定されているようです。江戸期より現存していると考えていいでしょう。入場料は300円。
    ここまで、城址にあった芭蕉翁記念館(300円)に入っています。残りは900円と少し。うーむ…入ります。

    蓑虫庵とは、芭蕉が貞享5年(1688)にここを訪れたときに、
    「みの虫の音を聞きに来よ草の庵」
    の句を贈ったことからその名が付いたとされています。ここで詠んだ句ではなかったようですが。
    もうお昼に近い時間となっています。朝は寒風に悩まされましたが、徐々に天候もよくなり、青空が見えてきています。
    蓑虫庵は、そのいおりだけではなく庭も美しく保たれ、様々な記念物、句碑などがあります。しかし、他に観光客の姿はなく、梢が風に揺れるだけの静寂な空間が広がります。僕は少し座り込んでしまいました。朝から歩き詰めでしたので。
    こういうときには、やはり俳句を詠むべきなのでしょう。
    僕の父親は80歳を過ぎてからも句会に出たりして、俳号まで持っているようなのですが、僕は本当に不調法で、駄目です。僕の文章というのは実にクドクドしていて、短文は苦手。twitterもアカウントだけでほったらかしていますしね。説明好きで、17文字では意を尽くせません。
    それに俳句というのは、約束事が多すぎるんです。まず季語をいれなくてはいけない。つまり季節を詠まねばならないわけです。季語を入れなければ川柳になりますが、川柳だってそこに諧謔の精神が必要になります。妙味を加えなければ成立しない。ただ五・七・五だけではいけないのです。
    子規は「写生」を唱えました。情景を描写せよ。そうか。
    まず僕には、朝、駅に降り立って町へ向かう、あの寒風吹きすさぶ風景が浮かびます。枯野を流れる柘植川。周りの山々は白く、風花が舞い、しかも懐まで寒い。そんな情景を、17文字で表現できるか。

     木枯らしや 旅にしあれば しんどいな

    これでは小学生の文章です。どうすればいいのか。
    だいたい、季語ってのも難しいんです。今はどう考えても冬。しかしながら、まだ1月10日ですから松の内です。つまり新年であり初春。これは、太陰暦と太陽暦の齟齬からそうなってしまったのでしょうが、つまるところ今は冬なのか初春なのかどっちだ。もうよくわかりません。

     北風や山白き里歩きたり

    これだと冬です。「初山河」とかそういう言葉を入れれば良いのでしょうか。さっぱりわからん。もちろんそんな勉強もしてきてませんし歳時記も読んでません。いきなり蓑虫庵に座ってるから俳句を作ろう、なんて思ってもトレーニング不足なんですわ(言い訳)。

     金も無き我に吹きつけん木枯らしか

    これは少しマシでしょうか。ですがこれは芭蕉の「笠もなき我を時雨るゝかこは何と」のパクリであることは明白です(汗)。ダメだこりゃ。
    蓑虫庵を出て、再び古い町並みを歩きます。晴れてきました。

     城下町見上げる冬の空高し

    なんか気取ってるわりに心にしみる言葉を紡げません。修行が必要かなあ(才能が無いとは思いたくない)。
    腹も減ってきました。
    今日は早く起きて出てきたわりには、しっかり朝食はとってきています。これは僕が前夜、急に酒を飲むことになり「メシいらん」と言ったので、そのぶんのごはんをカミさんがおにぎりにしてくれていたからです。早朝僕はブログをアップしながらそれを食べ、昨日食べるはずだった粕汁もすすってきました。なのでここまで保てていたのですが、そろそろ腹の虫も動き出しています。しかしあまり金はないしなあ。
    その前に僕はちょっとトイレに行きたくなり、大きなショッピングセンターがありましたのでそこに入りました。
    さすれば、入り口でマクドナルドのコーヒー無料券を配っています。
    ショッピングセンター(イオンですが)の中にマクドが併設されているようです。マクドもいろいろあって苦しいみたいですからねぇ。僕はありがたくそれをいただきまして、トイレを借りたのちそのマクドへ向かいました。
    マクドナルドに入るのは…もう何年ぶりかよくわかりません。人がテイクアウトしてきたものを食べる機会は幾度かあったと思うのですが。じゃ、ちょっと腹ごしらえをします。
    「ホットコーヒー下さい。それから、チキンクリスプひとつ」
    僕はマクドのハンバーガーは苦手な方なので、違うものを。会計は100円です。コーヒーはタダですから(笑)。
    座って、コーヒーを喫して一息つきます。ふぅ。
    そして、チキンクリスプにかぶりつきます。
    うまいですね(笑)。初めて食べたのですが、空腹というだけではなく、このちょっとジャンキーな感じが気に入りました。これで100円マックとは恐れ入ります。安いウイスキーに合いそうだな。今度そうしよう。
    まあ、こういうことでもないと、いい年こいたおっさんが独りでなかなかマクドナルドとかには入れないわけです。周りは子供連れの家族や、若い人のグループ。やっぱり完全に浮いています。
    ですがこれも、一種の旅情ではないかと思うのです。〔金谷〕で伊賀牛を食べるのも旅情なのでしょうが、こういう旅情もあっていい。僕は、何だか若い頃を思い出していました。切り詰めて切り詰めていたあの頃の旅。日記には細かく使った金額を書きこんでいた時代。愉しかった日々。
    こういうときに一句、なのでしょうけれども、難しい。その情感が表現できないのです。
    短歌なら、なんとかなりそうに思うわけです。もう少し文字数があれば、この感傷的な気持ちをなんとかあらわせる。

     初春や不如意の旅に過ぎし日見ゆ チキンクリスプひとつ頬張り

    しかし俳句だとどうでしょうか。

     はつはるや チキンクリスプ美味しいね

    これでは5歳児の感想ではないですか。もう諦めます(汗)。

    僕はこのあと寺町を歩き、大超寺に津田三蔵の墓を探し、そして江戸時代の藩校跡である崇廣堂や伊賀越の仇討ちで有名な鍵屋の辻などを訪れました。もちろん崇廣堂などは外から眺めただけ(入れば有料)。
    そうこうしているうちに、冬なので徐々に日が傾いてきました。上野散策もこのあたりで切り上げようと思います。
    しかしまた、JRの駅まで歩きますよー♪ (楽しそうなフリ)

    帰りは、このまま関西本線で西へ行き、奈良経由で大阪に出るルートをとります。行き帰り同じではつまらないですからね。そうしてのんびりと普通列車を乗り継いで、大阪は梅田まで出てきました。
    まだ懐には500円と少し残っていたわけです。なので上野の町からJRの駅まで伊賀鉄道に乗ったりしても良かったのですが、すっからかんになってしまうと何だか不安なので、使わずにきました。この用心深いあたりが年齢なのでしょうか。昔はもっと綱渡りの旅もしていたものですが、ああいうことはもうなかなか出来なくなったなあ。
    でも、ここまで来ればもう安心です。最寄り駅まであと4駅。さあ残った小銭で一杯やって帰るか。
    大阪には、驚くことにドリンクひとつとおでん2品、さらに〆鯖と小鉢が付いて500円なんていう立呑み屋があります。僕は暖簾をくぐりました。いつも混んでいますが、一人なのでカウンターに何とかもぐりこみます。椅子がない店ってのは詰めてもらえば入れるのですよ。
    僕は燗酒を一本、そしておでんはごぼう天と玉子をチョイス。全くもって安いですよねぇ。
    では一杯。

    うまい…。(´▽`)

    さすがに昼はチキンクリスプひとつというおやつのような量だったので、腹も空いています。こういうときに燗酒は沁みますなあ。そしておでんをハグハグ。
    ケータイに付いてる万歩計を見ますと、驚くことにこの時点で40000歩を超えています。水沢の旅より歩いてるよ。ということで、足はかなり疲れています。かかとやふくらはぎなどあちこちが痛い。それでも立呑みに入るとは、我ながら…ただ座る店に財力が追いつかなかっただけですけど。
    呑みながらケータイのメモ帳を開きますと、駄作の俳句がいくつも(汗)。もう少し推敲するかなあ。しかしそれも今は面倒で。
    本当はもう一本呑みたいのですが、あと30円くらいしかありませんので、ここまでとします。ちょうどいいよこれくらいが。帰ろう。

     侘しさを楽しみて熱燗一本
     冬ざれや足ほころびて伊賀の旅
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    | 2015/01/23 | 旅行 | 06:17 | comments(4) | trackbacks(0) |

    伊賀上野紀行 1

  • 2015.01.18 Sunday
  • 少し前の話なんですが、この話は書いておくことにします。

    1月9日のことです。ちょっと用事があって、僕は夜遅くに金券ショップに寄ったのですが、そこで思わぬものを見たのです。
    「青春18きっぷ 1回分 1000円」 w(゚o゚)w オオー!
    18きっぷの説明はもういらないと思いますけど(知らない人は検索してね)、5回ぶんで正価11850円です。つまり1回分は2370円。それが1000円ですよ。
    何故こういう値段になっているかと言いますと、18きっぷの期限が1月10日で切れるからです。10日以降は紙くずですから、投げ売り状態になっているのでしょう。
    僕は10日、いちにち空いています。これは、買いだ。カミさんに電話をしました。「ワシ明日出かけてもいい?」と。了承を得る前にもう買ってましたが(笑)。

    で、翌日。僕は早起きして、この前の水沢の記事をアップしてすぐ家を出ました。甲子園口駅発6:04分。
    18きっぷですからもちろんJR線普通快速列車1日乗り放題であるわけです。ここからですと、静岡や広島や金沢まで行って遊んで往復することだって出来ます(東京や博多だとさすがに帰って来れませんが)。それが1000円。例えば京都まで往復すれば十分モトがとれておつりが出ます。
    僕は、忍者で有名な三重県の伊賀上野へゆくことにしました。
    伊賀上野は今まで盲点になっていたところで、過去1度行った事がありますが、それは17歳のときに自転車で行ったのです。京都からえっちらおっちら走って行ったので、主眼はサイクリングであり、上野では確か忍者屋敷へ入ったくらいだったと記憶しています。ちゃんと町を歩いていませんので、いい機会だと思いましてね。
    ルートは、このあと東海道線で大阪京都を経由して滋賀県草津へ。そこから草津線に乗り換えます。草津線というローカル線は未乗なのでこの機会に、と思いまして。終点の柘植から関西本線でちょっと西へもどれば伊賀上野。帰りは、その関西本線で奈良、大阪を経由して戻るつもりです。
    さて、大阪に着きました。ここで快速に乗り換えて…というところで、僕は重大な失敗に気が付いたのです。

    財布を忘れた。w( ̄▽ ̄;)wワオッ!!

    日帰りですので、手ぶらです。ポケットにケータイとカメラを入れただけです。財布も入れたつもりだったのですが…無いっ!
    今なら引き返せる。そう思いましたが、幸いにして小銭入れはポケットに入っていました。中身を見ますと、500円玉が2枚、他に100円玉もある。結構あるやん。千何百円かあれば何とかなるでしょう。面倒なので、このまま強行することにしました。

    京都を過ぎたあたりで夜が明けました。初めて乗る路線の車窓を楽しみつつ、伊賀上野駅には9時前に到着。
    寒い。曇り空で、周りの山々は白く、風花が舞っています。
    ところで伊賀上野駅は、町から結構離れています。街中まで3〜4kmあるのかな。その間を、伊賀鉄道(昔の近鉄伊賀線)が結んでいます。伊賀鉄道は松本零士さんデザインのペイントがなされた「忍者列車」で、向うのホームには、そのメーテルみたいなくの一の顔をした列車が停っています。面白い。
    しかし、乗りません。260円しますので(笑)。写真だけ撮って、僕は町まで歩くことにしました。

    寒風吹きすさぶ中を歩くのもなかなか大変です。途中で柘植川を渡るときには吹き飛ばされそうになりました。しかしこういうのも、旅の妙です。貧乏旅行とは考えないようにします(笑)。
    小一時間歩き、途中明治建築の旧小田小学校などを見ながら、上野城跡に到着。
    上野城は、砦の時代から考えるとさらに歴史を遡りますが、近世城郭を築いたのは筒井順慶の後継者、定次です。そして関ヶ原後にあの藤堂高虎が移封、家康の命を受けて拡張、さらに堅固な城としました。豊臣家に対する抑えの意味です。
    豊臣滅亡の後は、意味を失い高虎は津に本拠を移し、城は藤堂藩の支城として代々城代が入ることとなりました。
    ここで見るべきものは、石垣です。約30m。日本一の高さともされ、堀から聳えています。確かに凄い。上に立つと、足がすくみます。
    ただ、ガイドブックその他であちこちに「日本一の高石垣」と書かれているのですが、城址に来ますと「日本一、二の高さで有名な高石垣」という表示が出ています。これは何と正直な(笑)。
    実は、見た目部分においては大阪城の石垣の方が高いのです。しかし、上野城には水を湛えた堀がめぐらされ、堀の水を抜いたことは無く、実際の石垣の高さはよくわからない、となっているのです(大阪城は空掘なので明確)。そんなの測る気になれば出来ると思うのですが、曖昧にしているのがなんとも味わいですねぇ。ちゃんと測れば一位かもしれない。でも負けてるかもしれない。なので「日本一、二の高さ」と。
    でも立派な石垣ですよ。見る価値は、あります。
    現在は、その上に三層の天守が上がっています。これは、模擬天守です。戦前に築かれました。
    藤堂時代は五層天守が築造されようとしたのですが、工事途中で嵐により倒壊、その後大坂夏の陣が終わったために再建されませんでした。江戸時代は天守は無かったのです。
    なので、僕は城には入りませんでした。500円もしますのでね。

    城址は公園となっていて、俳聖殿、芭蕉翁記念館、忍者屋敷などがあります。
    忍者屋敷はパス。以前入ってますし、おっさんが一人で入るのもどうなのかと。それに700円ですから予算オーバーです。外から見れば、子供達が手裏剣を投げています。
    僕は城跡を降り、伊賀鉄の上野市駅前までやってきました。本当はここまで電車に乗ってくるはずだったのですが、今回はずっと歩いています。
    駅前の観光案内所で散策地図をゲット。全く下調べをせずに来ていますので、ここで多少の情報を仕入れます。
    これまでの経験から言えば、だいたい観光案内所というのはあまり役に立たないのです。スペシャリストは少ない。聞いても「さあ…」とよく言われます。先だっても某市の立派な案内所で不快な思いをしたばかりです。そんなことを聞くのは変人だ、という意味のことを言われましてね(汗)。
    でもまあ、一応ここでも聞いてみます。
    「津田三蔵の墓があるらしいのですがどこでしょうか」
    津田三蔵というのは大津事件の主犯なのですが、多分答えてもらえないだろうと思ってました。しかし窓口のおばさんはそれを即座に答えたばかりか「生家は残ってませんけどこのあたりだったと聞いています」と地図に印までつけてくれます。これはさすが。僕はそのおばさんとしばらく話しこんでしまいました。こういう経験は、萩の案内所以来です。

    さて、町を散策。
    まず向かったのは、芭蕉生家です。
    伊賀は忍者の里として知られていますが、もうひとつの目玉は芭蕉です。駅前に銅像も立っています。
    芭蕉は、上野出身でありそこから「芭蕉忍者説」も出ています。僕はそれほど文学的に芭蕉のことをよく知っているわけではありませんが、芭蕉は漂泊の詩人であったことから、ここ何年か旅をすればよく芭蕉に当たります。一関、平泉、多賀城、松島、大垣…そのため奥の細道も幾度も通読しました。
    その芭蕉生家ですが…結構立派な家です。入場料300円か。今回金のことばかり書いてますが(汗)。
    観光案内所でもはっきりとしたことはおっしゃいませんでしたが、これが本当に芭蕉の生家なのかどうなのか。こう書いては怒られるとは思いますが、芭蕉は正保元年(1644)生まれ。つまり400年近く前です。それにしては、立派過ぎる。芭蕉は昨今の研究では、出自は農家。表から見ればこの家は町家です。場所的には正しいと思われますが、家自体はおそらく建て直されているでしょう。幕末に日本に起こった一連の「安政の大地震」の最初は伊賀で、阪神大震災並みの強い揺れがここを襲ったはずです。
    したがって、外見を一瞥して入場は見送り(笑)。この中には芭蕉が故郷に帰ったときに利用した離れ「釣月軒」が当時そのままに残っているとされますが、隙間から覗いて終り(汗)。この釣月軒も、本当に芭蕉が起居した庵なのでしょうか。考え出したならきりがありません。
    ともかく、芭蕉の人生の出発点に立てたことで、もう僕は満足です。
    近くに「愛染院」という寺があります。
    ここは松尾家の菩提寺なのですが、芭蕉はここには眠っていません。周知のように滋賀県大津の「義仲寺」に遺骨は鎮まっています。そのかわりにここには、芭蕉の遺髪を納めたという「故郷塚」があります。
    これも、参るのには香華料として200円をおさめるということです。迷いましたが、やはり見送りました。

    全くセコい旅をしていますが、何だか若いときに戻ったような気もしています。学生の頃は、こうして有料の施設に入るときはずいぶん逡巡したものです。
    生家から愛染院、そして上野天満宮に至る、伊賀街道のあたりは「芭蕉街」と書いてあります。その名はともかく、風情のある町並みです。
    そもそも、伊賀上野は戦災にあっていません。そのために、古い町並みがあちこちに残っています。散歩には実に気持ちの良い町です。
    その一角に、伊賀牛で有名な〔金谷〕というお肉屋さんがあります。
    店頭で肉を売ってますので肉屋と書きましたが、まあ料亭ですね。超有名店です。
    池波正太郎氏が〔金谷〕の肉についてこのように書かれています。
     赤い肉の色に、うすく靄がかかっている。
     鮮烈な松阪牛の赤い色とはちがう。
     松坂の牛肉が丹精をこめて飼育された処女なら、こちらの伊賀牛はこってりとあぶらが乗った年増女である。      「食卓の情景」より
    この表現に僕は昔、相当にやられました。池波先生はやはり違いますな。
    もちろん今の僕には、こちらの二階座敷にあがりこんで、すき焼きを注文するような財力はありません。またいつか、ということにしておこうと思います。しかし仮に財布を持っていたとしても、怖気づいて入れないような気がします(笑)。入ればやはり酒も注文してしまうでしょうし、そうなれば1万円を超えるだろうしなあ。
    店頭の様子を写真にだけ撮って、僕は再び歩き出しました。

    たいしたことのない話を書いているのですが、思わず長くなっています。次回に続く。
     
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    | 2015/01/18 | 旅行 | 14:26 | comments(4) | trackbacks(0) |

    旧阪神国道線の敷石

  • 2015.01.18 Sunday
  •  いろいろな考え方がありますが、1月15日までは松の内でありつまり正月気分で良い、との見方もあります。ということで(汗)、謹賀新年、凛太郎です。ヾ(- -;) イマゴロデスカ?
     新年発売の「大阪春秋・西宮特集号」につきましては、読んでいただいた方に厚く御礼申し上げます。
     m(_ _;)m
     僕が書きました砲台の話は、ここで連載した内容のダイジェストであり全く新鮮味はございませんが、他に偉い先生方が執筆された興味深いお話が多数載っていますのでご勘弁いただければと。

     さて、今日は小ネタなんですが…。
     こちらでも時々話題になっていますが、阪神甲子園駅の改修工事が進んでいます。

      

     派手な屋根がつきましたねぇ。
     もちろん甲子園駅だけではなく、駅以東は高架工事で鳴尾駅含め大きく変貌中なのですが、こちらの駅にはかつて甲子園筋を走っていた阪神甲子園線の痕跡が残っていましたので、工事の状況がやはり気になるわけでして。
     
     阪神甲子園線とは、戦前に開通し国道2号線上を走っていた路面電車「阪神国道線」の支線で、上甲子園から浜甲子園までを繋いでいました(戦前は中津浜まで走っていた)。昭和50年まで存続していましたので、ご存知の方も多いと思います。
     既に廃線となって40年ですが、43号線高架橋の下に架線支持金具の跡があったり、こちらで書きましたように球場東側に架線柱跡がいくつかあったりと、なんとなく往時の痕跡のようなものがあるので、昔を偲ぶことができます。
     そして、甲子園駅には、停留所の屋根の一部が残されていました。

      

     この画像は何年か前に撮ったものですが、この部分がかつての甲子園線の停留所覆屋根です。この前に路面電車が停まり、昇降客の雨除けになっていたのです。
     これは、ほぼなくなりましたねぇ…。

      

     わずかに一部分まだ残っていますが。しかし段階をおって撤去されていて、もはや風前の灯火と言っていいでしょう。時間の問題ですな。もうすぐ歴史遺産がひとつ完全に消えます。
     さて、駅にはもうひとつ、架線柱が完全な状態で一本存在していたのですが。

      

     これは、まだありますね。(^ー^* )
     東側駅舎は工事によって解体され、この架線柱に隣接していたタイ焼き屋さん(廉価で皮が分厚かったのが好みでした。僕はしっぽの先まであんこがはいってない方が好き)も無くなって寂しい思いをしていましたが、こいつはまだ残されています。
     これは、旧甲子園線の遺構として残される可能性もありますねー。期待したいと思います♪

     さて、僕はこういう話も含めまして、以前にサイト「ちょっと歴史っぽい西宮」で、西宮の路面電車の廃線跡の記事を書きました(→こちら)。
     その折に、甲子園線の痕跡はこのように在るものの、国道線の名残はバス停名を除いて一切ない、と書きました。
     確かに2号線上にはいくら探しても線路も架線柱も何もなかったわけですが、これを少し訂正したいと思います。実は敷石の一部が残っていました。知りませんでしたよ。
     昔の「宮っ子」を繰っていましたら、こういうことが書いてありまして(→1998年9月:まちかどスポット)。
     どうやら平木小学校に、阪神国道線の線路の敷石が移設されていたらしいのです。
     では、平木小へ。

       

     小学校は阪急神戸線の北側にあり、正門は御手洗川(東川)に面しています。
     平木小は昭和49年11月に開校。阪神国道線は昭和49年3月に上甲子園以西が廃線となりましたので、時期的には合致しています。
     僕はもちろんOBでもPTAでもありませんので中には入れません(汗)。門の外から校内を見ます。

      

     門からすぐ、御影石がずらりと敷き詰められているのが見えます。これが、国道線の敷石の一部を移設したものに間違いはないでしょう。
     大阪から神戸まで、もちろん西宮を横断して走っていたかつての路面電車、阪神国道線の痕跡で、市内に残るものはこれがおそらく唯一だと考えられます。「何も名残は無い」と書いてしまったサイトのほうには、このことを追記したいと思います。
     ただ、なぜこちらに敷石が運ばれたのかについては、あちこち資料を見てもその事情を知ることは出来ませんでした。おそらくは、歴史的遺物であるということから保存に尽力された方々がいらっしゃったのだろうと想像するのみです。
     ありがたいことですね。廃線となって40年を超え、若い人は2号線に路面電車が走っていたことなどもう知らないでしょう(鉄道マニア除く)。しかしおそらく平木小学校の卒業生は、みんなそのことを知っているはずです。そうして、語り継がれてゆくものがあるのだと思います。

     それでは、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。現在ブログはほぼ冬眠中ですが。(^▽^;)
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    | 2015/01/18 | 西宮流 | 13:43 | comments(0) | trackbacks(0) |

    水沢紀行

  • 2015.01.10 Saturday
  • 謹賀新年、凛太郎です。皆様いかがお過ごしでしょうか。
    しかしもう正月はすっかり終わってますね(汗)。なかなかネットに入り込めなくて…しかしこの期に及んでも年末の話をします。

    昨年末までは、比較的穏やかな天候でした。
    僕は例によって正月は東北のカミさんの実家へ行っていたわけですが、道中あちこち寄ってつかの間の旅気分を味わいました。歩いた街は静岡と横浜、そして水沢なのですが、長々と書いてもしょうがないので、ここでは水沢の話だけにします。
    しかし、水沢市という自治体は今は無いんですね(汗)。水沢市は、江刺市、前沢町、胆沢町、衣川村と合併して、今は岩手県奥州市ということになっています。
    僕は鬱陶しい人間で、再々申し上げていますとおり市町村合併による新市のネーミングについては「つまんねーな」とずっと思っているわけです。「北九州市」とか「東海市」はては「四国中央市」といった大掛かりな広域名を一地域につけたりね。また一地域が代表して旧国名を名乗ったりすることもどうなのかと思ってしまったりするのです。和泉市や下野市や加賀市などこれはもう枚挙に暇がないくらい多い。こういうのは逆に地域の個性を殺すのではないかと思うのです。許されるのは壱岐市や対馬市、佐渡市くらいじゃないかと(これらは市域と旧国領域が一致している)。摂津市や土佐市や美濃市が旧国を代表しているわけでもないでしょうに。
    奥州市もその類のひとつです。奥州というのはつまり陸奥国のことで、その範囲は現在の青森・岩手・宮城・福島県全域に及ぶ広大な範囲なのです。
    本当は「陸奥市」としたかったのかもしれませんが、既に青森下北半島に「むつ市」が存在していたため「奥州市」としたのでしょう。
    この命名も、やっぱりどうなのかなとは一応思います。陸奥国ってかように広範囲だったのですから。
    しかしながら、矛盾しているようではありますが、これは許してもいいのではないだろうか、という気もすることはするんです(上から目線でごめんなさい)。それは、この地が確かに奥州を代表していた時期というものがあったと思うからです。
    水沢には、胆沢城があったのですから。

    東京に一泊した僕は翌日北上し、仙台で求めた牛タンの駅弁を食べ(ウマヒ〜)、昼頃に水沢駅に降り立ちました。
    水沢でおりたのは初めてです。岩手県には東北本線沿いに一関、世界遺産を擁する平泉、宮沢賢治の花巻、城下町盛岡、また啄木の渋民などがあり、ちょっとそれれば遠野などの観光地がたくさんあって、見過ごしていたのが現状です。
    年末の天候は穏やかで、町には月半ばに大量に降った雪がかなり積もってはいたものの、散策に影響するほどではありません。僕は勇躍歩き出しました。

    水沢は、城下町です。城は、わずかな遺構を除いて残っていませんが。
    歴史的には、ややこしいんです。水沢に城砦が出来たのは源頼義の頃ともされ、さすれば平安期になります。その後変遷を経て、江戸時代には水沢は仙台藩の領域になります。伊達政宗ですね。初期は代官支配、のち留守氏が城主となり明治まで続きます。
    「留守」という姓は、珍しいのですが東北では伝統があります。頼朝が奥州を征服した後、奥州の留守職を務めた伊沢氏が「留守」を称したことから代々留守氏となったのです。その留守氏も戦国時代に伊達家に屈し、江戸期の留守氏は伊達家からの養子を迎えて続きました。
    その水沢の町の基礎を築いた留守(伊達)宗利の銅像が、町の外れにある日高神社にあります。宗利は政宗の従兄弟です。
    日高神社はこのあたりの総鎮守であり、9世紀初頭からの歴史があります。弘仁元年(810)に勅命によって勧請され鎮座しました。つまりこの時期に、朝廷支配がこの地にまで及んだ、ということなのですが、それはちょっと措きます。大変に立派な神社で、前九年の役のときには源義家も戦勝祈願をし、平安時代末にあの平泉の藤原秀衡が再興、のち伊達政宗が社殿を造築、留守宗利が改築しています。
    他に書くことはいっぱいあるのですが(汗)、長くなってますのでこのくらいで。

    神社のあたりから町中にかけて、武家屋敷が多く残っています。まちなみはたいへんに美しく。
    その中に、後藤新平の旧宅があります。
    後藤新平は有名人なので説明の必要はないかもしれませんが、そもそも水沢で留守氏の家臣の子として生まれました。医者として出世しのち内務省官僚、児玉源太郎に引っ張られ台湾民政長官、満鉄総裁、東京市長、内務、外務大臣などを歴任した大変な辣腕政治家です。
    また、斎藤実の生家もあります。この人も水沢だったか。戦前の総理大臣です。やはり留守氏の家臣の子として生まれ、二・二六事件で軍部に射殺されました。
    水沢は、あの蘭学者、高野長英も生んでいます。生誕地に碑があり、旧宅が残り、記念館もありました。
    他にも様々な遺構、遺跡があり、相当に見ごたえのある町です。端折りますが、最後に留守氏菩提寺の大安寺へ。
    ここに、高野長英の墓があります。合掌。

    さて、散策を終え駅に戻ります。
    僕が水沢に来た一番の目的は、胆沢城跡へ行くことでした。しかしここは、かなり町から離れています。バスの便も少なく不自由で、タクシーを使うほど大尽ではないため、歩くことにします。幸い晴れています。
    というわけで、ひと駅北の金ケ崎駅まで行って下車。
    金ケ崎という町にも、実は武家屋敷群があります。ここは仙台藩北限であり、留守氏は水沢に移るまではここに居ました。
    ひとわたり武家屋敷を歩きます。重要伝統的建造物群保存地区であり、確かに見応えがありますが、雪が多い(汗)。城跡もあるのですが、足元もおぼつかなくなってきましたので切り上げて、南下します。
    しばらく歩くと、胆沢川を渡ります。渡れば再び奥州市に入ります。
    旧国道4号線をかなり歩いてヘバってきた頃に、ようやく鎮守府八幡宮の参道が出てきました。
    あたりには広大な雪原が遥かに広がっています。この雪原が、胆沢城跡なのです。

    胆沢城とは、天守閣を持った城でも中世の城砦でもありません。古代の政庁跡です。築いたのは、坂上田村麻呂です。
    はるかいにしえの昔、ここは大和朝廷の力が及ぶ場所ではありませんでした。2年前、僕は多賀城に訪れた話を書きましたが(→記事)、奈良時代はこの多賀城あたりが前線基地だったと言っていいでしょう。その北には、北上川が作った広大で肥沃な土地が広がっていますが、それはヤマトのものではなく、蝦夷の人々の楽園でした。
    朝廷は、この北の楽園を征服しようと目論見ます。
    それには様々な要因があるのですが、ひとつには「金が産出した」ということも大きかったのかもしれません。金はそれまで輸入に頼っていたのですが、奈良の大仏を建立するときにどうしても不足しました。そのときに東北から金が出て、大仏を金色に染め上げることが出来たのです。天皇は喜んで改元までしました。
    時は奈良時代から平安時代へ。豪腕で知られる桓武天皇は、蝦夷を手中に収めんと征東軍を組織し、派遣します。「征夷大将軍」というのは、そのときに出来た官職です。
    ですが、朝廷軍は散々に打ち負かされます。当時この水沢あたりには、阿弖流為(アテルイ)という英雄がいました。
    朝廷はついに、軍人のエースである坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、アテルイと対峙させます。その記録は残念ながら散逸しているので細かな情勢はわからないのですが、結果としてアテルイは降伏し、京に護送され首を斬られます。田村麻呂は延暦21年(802)にこの地に胆沢城を築き、鎮守府を多賀城からここに前進させました。

    鎮守府八幡宮まで歩いてきました。ここは、胆沢城の北東方面(丑寅の方角。つまり鬼門)で、胆沢城の守護として祀られたわけです。
    参拝客は誰もいません。年が明ければ初詣客も訪れるのでしょうが。
    この神社から南西の雪原が全て、胆沢の政庁だったわけです。総面積約46万屐9い。
    夏であれば、回廊跡など多少の遺構が目に入るのでしょうが、今は真っ白です。もちろんそれは承知の上で来ました。強がりではありませんがむしろ僕には、この風景のほうが相応しいようにも思えます。1200年前のものなのですから。
    城址を縦断します。多少自動車の轍があり、それが道だと思われますので。
    もちろんこんなところを歩いている人はいません。人影はもちろん見えず、静寂そのものです。僕は雪原の真ん中に立ち、晴れて風がないのをいいことにしばし佇みました。風でも吹けばたちまち地吹雪となってホワイトアウトで遭難しそうな場所です。
    胆沢城の東には、北上川が流れているはずです。ここからは見えませんが。
    このあたり、つまり北上川の西側はこのように広い平野となっていますが、東側は山が迫り、狭隘な地形となっています。
    天才的軍事指導者だったと思われるアテルイは、わずか300人ほどの兵でその北上川東岸に朝廷軍4000を誘い込みました。山が迫る最も狭い場所まで敵軍をおびき寄せ、山から伏兵を出して前後を塞ぎ反撃に転じ、朝廷軍を川へ逃げさせ1000人を超える溺死者を出させました。
    その場所は「巣伏村」だったと伝えられますが、はっきりしたことはわかりません。ただ、川西岸から見ますとそういう狭隘な地形がなんとなくわかります。おそらく視界に入るどこかに、アテルイが朝廷軍を壊滅させた戦場があるのでしょう。

    だんだん日が傾いてきました。まずい。冬はこれだから困る。僕は胆沢城をあとにして旧国道に出て、さらに南下しました。
    道沿いに、薬師堂温泉という立寄り施設の看板が出ています。ありがたい。一も二もなく飛び込みました。
    東北の冬は温泉に限りますな。首まで湯につかると、もう蕩けそうです(笑)。
    と…一時間以上も風呂に入ってしまいました。外はもう薄暗くなっています。早く駅まで戻らないと。バスなどもないので、このまま歩きますよ(汗)。水沢駅に戻る頃にはすっかり日が暮れていました。いやーよく歩いた。何キロかはわかりませんが、万歩計は32000という数字を示しています。
    この日は盛岡泊まりということにして普通列車に乗り込みます。

    盛岡では、以前訪れたことがある安くてうまい居酒屋へ。もうビールなんぞ頼みませんよ。燗酒です燗酒。
    猪口にそそいでくぃーっとやると、何とも陳腐な表現である「五臓六腑に染み渡る」というのが本当に実感できますな。マグロ中落ち、焼牡蠣、海老鬼殻焼を頼み、大徳利を三本呑んで、酩酊。東北の冬はこれに限ります。勘定は安い♪ 
    さらにこれでは終わりません。盛岡ですから冷麺を食べなくては。
    名代の焼肉屋に入って…しかしついハラミとミノを注文してしまいました(汗)。冷麺だけにしようと思ったのに。ジョッキを2杯飲んで、それから冷麺を。やっぱり美味いねー盛岡冷麺はー。
    ホテルまでは千鳥足です。なんたることか。雪が降ってなくてよかった(汗)。

    翌日、カミさんの実家へ。昼前には着きました。既に宴会の準備が整っています。津軽の正月行事は、大晦日の昼から始まるのです。一升瓶がどーんと置いてあります。あとはしーらないっと(笑)。

    正月一日から、天候が荒れ始めました。2日に僕は出てきたのですが、列車があちこちで止まっていますよ(汗)。ホント予定どおり帰れたためしがない。でもまあ途中一泊で、3日には僕の実家へたどり着きました。帰省のハシゴもなかなか大変ですが、親が生きている間はこういう旅が続くのでしょうな。

    遅くなりましたが、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
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    | 2015/01/10 | 旅行 | 05:22 | comments(0) | trackbacks(0) |


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