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  • 2016.12.30 Friday
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    | 2016/12/30 | - | | - | - |

    生誕祭によせて

  • 2012.11.15 Thursday
  • 少し前の話なのですが(奈良に行くより前)、京都で幕末散歩をしました。旅行というほどではなく、当時バタついていたのでブログにも書かなかったのですが、思い出してちょっと振り返ってみます。
    これは、カミさんの「竜馬がゆく」「燃えよ剣」読了記念でした。なので歴史散策というより文学散歩ですね。

    その日の朝は比較的に早めに家を出まして、阪急電車に乗りました。京都は四条大宮で下車。今よりはずっと暖かかったですね。
    まずは駅近くの某喫茶店でモーニングを食べて(朝食も摂らずに出てきたんです)、壬生方面へ。壬生と言えば新撰組。山南敬介らの墓がある光縁寺、また芹沢鴨らの墓がある壬生寺へと行きます。壬生寺は、知らぬ間に墓所など新撰組関連の場所が整備され料金を取るようになっていました(汗)。屯所であった旧前川邸は基本的に公開していないので立ち寄るだけです。中には入れませんが、外からチラリと蔵があるのが見えますが、古高俊太郎を責めた蔵なのかなぁ、あそこが山南敬介切腹の間か、等々思いながら見物。
    あとは清河八郎が浪士を募り新撰組発祥の地となった新徳禅寺などへ。芹沢鴨を斬った時の刀傷跡が残る八木邸は料金も高く昔入ったことがあるので割愛し、壬生散策を終えます。
    壬生は四条通よりも南ですが、以後は四条と御池通の間で西から東へと推移しようと思っています。壬生から北上し、六角獄舎跡へと向かいます。

    六角獄舎(つまり刑務所です)は18世紀初頭から存在するのですが、幕末期に政治犯を多く収容したことで知られます。あくまで牢屋であって処刑場所ではなかったはずですが、長州藩が起した蛤御門の変で京都が焼けた際に、ここにも火災が及び囚人が逃げ出す恐れありとして、収監されていた囚人が未決なのに斬られた、と案内板に書かれています。代表として、生野の変の平野國臣、新撰組に拷問された古高俊太郎など。うーんと、それ以前にも天誅組の安岡嘉助とかはここで斬られていたのじゃなかったっけ。まあそれはあいまいですけど(汗)、忠霊塔が建立されています。
    坂本龍馬関係で言えば、近くに武信稲荷神社があります。これは伝説ですが、ここに一本の榎の大木があります。
    龍馬はんの奥さんであるおりょうさんの父、楢崎将作は勤皇家で、安政の大獄で捕らえられ六角獄舎に収監されます。龍馬はんとおりょうさんは親父さんの安否はどうなっているのかと、この榎の大木に登って獄舎を覗いたといいます。のち龍馬はんがお尋ね者となった折、無事を知らせるためにこの榎に「龍」と刻み、それをおりょうさんが見つけて再会叶った、という話が残されています。
    楢崎将作は龍馬おりょうの出会い以前に既に亡くなっていたとも言われますしあくまでこれは伝説なのですが、龍馬ファンはよくやってくる由(僕は初めて来ました^^;)。龍馬はんが刻んだ文字は、もしも話が本当だったとしても150年ほど経過した今ではもう見ることは出来ません。榎は生きていますので。

    東へ歩を進めます。京都は史跡だらけで、道すがらもあの「山槐記」の中山内府威蹟地、本能寺跡、南蛮寺跡などがありますが幕末散歩なので全て割愛し、藤堂藩邸跡(堀川高校)、薩摩藩邸跡(大丸百貨店)などへ。ここらへんはみんな蛤御門の変で焼けていますね。よく京都は戦災に遭わなかったので「前の戦争と言えば応仁の乱」などという戯言が言われますが、みんな蛤御門の変を忘れているなあ。
    少しづつ北に偏りながら歩き、俵屋旅館(長野主膳の定宿としても知られる日本一の宿)や藤本鉄石寓居址などを。さらに、柳馬場通三条に楢崎家跡の石碑が建っています。つまり、おりょうさんの実家跡ということですな。こんなの昔はなかったよなあ。多分にこの場所は推定でしょうけれど、龍馬ブームのすごさを知ることが出来ます。
    寺町御池の現本能寺を過ぎて、京都ホテルオークラへ。ここが、長州藩邸跡です。桂小五郎さんの像があります。
    その東側裏手、木屋町通りに桂小五郎寓居跡(旅館幾松)、兵部大輔大村益次郎公遺址、そして佐久間象山・大村益次郎遭難碑があります。

    さて、木屋町通りを南下しましょう。僕にとっては昔からなじみの場所で学生時代もここでよくクダをまいていたりしたものですが、一応歩きます。
    御池通を渡り加賀藩邸跡を過ぎると、佐久間象山、武市半平太、吉村寅太郎寓居跡が並びます。みーんなこのあたりに住んでいたのね。そして三条通まで来ると、池田屋跡があります。階段落ちで有名ですね。
    僕の知る池田屋跡というのはパチンコ屋だったのですが、今は「池田屋」という居酒屋に(笑)。ゆかりのメニューとかもあるんでしょうかね。「池田屋騒動之址」碑だけは変わらず建っています。
    こうやって歩くと、距離感が感じられるのがいいですね。新撰組に襲撃されたときに長州の吉田稔麿は囲みを突っ切り救援を求めに藩邸へと走るのですが、今歩いてきた木屋町通りを走ったのか。池田屋に取って返したとも言われますが、全くのところ惜しい。さらに、一部の人は知っている話ですが、池田屋からすぐの三条大橋の欄干の擬宝珠に刀創が残っています。これもこの騒動のときのものだと言われますが、池田屋の外でもチャンバラがあったのか。
    そんなウンチクをカミさんにたれながら、さらに南下。龍馬はん寓居跡の「酢屋」があります。
    もう一筋南には、かつて後藤象二郎寓居址の石碑が建っていました。それは現在失われているので、まあ「このへんだろう」的に通りかかったのですが、石碑はないものの新しく案内板が建っています。これは知らなかったので驚いたな。史跡散策をする人が多いのでしょう、京都市もがんばっているようです。

    次に土佐藩邸跡へ行こうとさらに木屋町通を南下していましたら、ひとつ石碑を見つけてしまいました。何と「此付近 坂本龍馬妻 お龍 独身時代寓居跡」と。びっくりしましたね。
    先だっての柳馬場の楢崎家跡碑は聞いて知っていたのですがこれは知りませんでした。同じく「京都龍馬会」によるもののようで。サイトを見つけました。→こちら
    他にもあちこちに石碑が建っているようです。いずれも推定でしょうから、なかなか評価は難しいと思うのですけれどもね。ますます「坂本龍馬」という人に世の中が偏っていくようです。全国に龍馬ファンは800万人いると言われ、僕もその一人ですからニーズはあるのだよなあ。

    お昼を過ぎてよく歩いたのでハラも減り、ラーメン屋で炒飯セットを食べ(京都駅横の新福菜館の河原町支店です。久しぶりなので食べたくなって)、土佐稲荷へ詣でてから、本間精一郎遭難碑(岡田以蔵が斬った)、古高俊太郎邸址、そして中岡慎太郎さん寓居跡へと。いつもの場所ですね。そして最後にあの近江屋跡へ。龍馬、慎太郎暗殺の場所ですが、ここも来るたびに様子がかわっていくような。前は旅行社だったのに今はコンビニとなっていますが、案内板は前からあったかなぁ。新しいと思うのですが。街は僕が住んでいた頃から、少しづつ更新されています。

    このあとカミさんが祇園都路里で抹茶パフェを食べたいというので向かいます。ここいつも行列なんだよなぁ。とりあえず付き合うことにして列の後ろにつきますが(おっさんなんて一人もおらんがな^^;)、比較的早く進んで20分くらいで席へ。
    ここのは、安定のうまさですね。出るときには行列がさらにぐっと伸びていました。来たのは2時半くらいだったのですが、案外いい時間帯だったのかもしれません。

    祇園四条通から八坂神社へ。ここには龍馬・慎太郎の銅像もあるのですがそれはただ建っているだけなので通り過ぎ、また西行庵などは全て割愛し、高台寺道へ。高台寺塔頭の月真院に、伊東甲子太郎らが新撰組を脱退して作った「御陵衛士屯所跡」の碑が建っています。
    さて、このあとキツい坂道をのぼります。「維新の道」という観光向けの大層な名前がついていますが、途中に翠紅館跡(現料亭京大和)があります。倒幕の会合がおこなわれたことで知られます。坂を上りきると、霊山歴史館があります。幕末維新専門の資料館ですが、知らない間に値上げしているなぁ(汗)。でもカミさんは入ったことがないので、入館します。JAF会員割引で(笑)。数々の興味深い史料が展示してあるのですが、新撰組のコスプレもできるようになっています。なんやこら(汗)。カミさんはそれを着て写真を撮れと言います。オマエ年齢を考えろ(笑)。

    最後に、霊山墓地へ。
    ここに来るのはこのとき以来ですから、もう4年が経ってしまいました。久しぶりです。
    石段を上がり、龍馬はん、慎太郎さん、籐吉さんの墓の前で、手をあわせます。
    霊山墓地にはいわゆる幕末勤王の志士のお墓が1000以上も建立されているわけですが、これらは正確には墓碑、慰霊碑と言えばいいのでしょうか。池田屋騒動の死者、蛤御門の変の戦死者、天誅組の面々ら志半ばで斃れた志士たちの名がずらりと並びます。梅田雲浜、頼三樹三郎、橋本左内、梁川星巌、宮部鼎蔵、横井小楠、藤本鉄石、平野國臣ら大物から、長州の来島又兵衛、高杉晋作、吉田稔麿、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎、大村益次郎ら、さらに土佐の吉村寅太郎、那須信吾、池内蔵太らおなじみの人たち。
    この中で、実際に埋葬されているのは龍馬はんら3人と、木戸孝允・幾松夫妻くらいなのでしょうか。小五郎さんのお墓は山の上のほうにあって行くのが大変なのですが、ここに眠っておられるのですから参ります。
    そうして、この日の幕末散歩を終えました。

     ………………………………………………………………………………………………

    以上は、週末に書いておいた予定稿です。今日は呑んでいるのでここまでは書けません。
    呑んでいる理由は、もちろん今日が11月15日、坂本龍馬生誕祭であるからに他なりません。なので、先日京都をぶらつき、龍馬はんゆかりの地を歩いたときの話をちょっと出そうかと思い、用意しておきました。
    11月15日は、龍馬はんの誕生日であると同時に命日でもあります。なので、供養のため我が家では鍋を食することにしました。あの日、龍馬はんと慎太郎さんは寒いので鍋でもつつこうと、軍鶏を買うために使いを出しました。その軍鶏を待つ間に、刺客に襲われたわけです(→昨年記事)。
    では軍鶏鍋を…といきたいところでしたが、実は鶏鍋です。シャモってあんまり売ってへんのですわ。しかし鶏ですが、一応地鶏です。それを、葱、シラタキ、ササガキゴボウ、豆腐とともに鍋にしています。ヨメへの洗脳が徐々に進み、ワシが言わずとも自発的に作ってくれました。ちゃんとガラでスープをとってくれているので、コクがあってうまいですなあ。どちらかといえば池波正太郎氏の「鬼平」に出てくる〔五鉄〕の軍鶏鍋に近いのですが、美味であればよしとしましょう。
    あわせるのは土佐鶴。高知の酒です。これも恒例のこと。
    龍馬はんの生誕を祝い、乾杯。そして軍鶏鍋に似せた鶏鍋をつつき、冷や酒に陶然としつつ、今PCの前にいるわけです。

    このあとは、毎年オンライン上でさらに乾杯を重ねることにしています。同好の士である皆さんと。これも、吉例のことです。しかし、今はみなさんお忙しいようで更新を停止なさっています。ヒマなワシだけがまだしぶとくネットに棲息し続けているわけですが、今年はどうかな。出てきてくれたはるかな。

    あ、いはるわ。よかったよかった(笑)。
    もうね、出てきはるかどうか心配やったから、ワシも一応こないして記事あげましたがな。
    ほんなら、乾杯といきましょか。
    龍馬はんの生誕と、皆様のご健勝とご多幸に (* ̄0 ̄*)ノ口 かんぱあい! 
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    | 2012/11/15 | 旅行 | 22:47 | comments(2) | trackbacks(0) |

    五條・賀名生・多武峰

  • 2012.11.09 Friday
  • 前回の続きです。吉野山から降りてきた我々は、吉野川に沿って西へ。五條市を目指します。

    五條には以前も来たことがありますが、どちらかといえば天誅組の史跡を中心に歩いたので、今回はそれ以外のところを。まずは、栄山寺へ。(HP)
    ここは、南奈きっての古刹です。南北朝時代に南朝3代の天皇が在たことから行宮跡として史跡指定されていますが、歴史はそんなもんじゃない。養老3(709)年、藤原武智麻呂の創建です。藤原武智麻呂って誰、とおっしゃる方もあるでしょうが、藤原不比等の長男(つまり藤原四兄弟の兄ちゃん)であり、藤原南家の始祖、そしてあの藤原仲麻呂の父ちゃんになります。古代史マニアはコーフンしますね(笑)。仲麻呂についてはこんな記事も。→もしもの記事
    今の季節、秘仏公開をやってくれています。なのに拝観料据え置き(エライ)。行かざるを得ません。
    入りますと、まず梵鐘があります。国宝です。銘文に「延喜十七年」と刻まれてあるのが見えます。

    「延喜っちゅうのは、平安時代や。延喜式ってワシよう言うやろ?あれやあれ」
    「神社のやつ? エンギって縁起だとばっかり思ってた」
    「うーむ伝わってへんのぉ…。それより、この銘文は菅原道真撰、小野道風書や。小野道風は知っとるやろ。三蹟の一人や。字がめちゃめちゃうまい」
    「ああ空海とか」
    「ちゃうちゃうあれは三筆。三蹟のほうが格が上かもしれんで。えーっとな、つまり花札でな、カエルが柳に飛びつこうとしとんのを見とるおっさんがおるやろ。あれが道風」
    「ああ知ってる知ってる(笑)」

    なんで花札やと知っとんねん(汗)。
    奈良時代の石塔婆や弘安七年(1284)の銘がある石灯篭があります。石灯籠に刻まれる年号マニア(→マニア記事)としては垂涎モノです。写真をバシャバシャ撮ります。そして本堂へ。秘仏薬師如来が、十二神将とともに公開されています。
    そして、国宝八角円堂。藤原仲麻呂の建立です。これも、中に入れます。
    この八角堂の中の柱には、壁画があるんですよね。天平時代の。しかし、よーく見てみたのですがほとんど剥落しています。惜しいなぁ。本堂裏手の資料室には、ふくよかな顔をした人物像(仏画か)の写真が残っているのですが。カラーだったから近年のものだと思うのですが、よく確認できなかったなー。鳥毛立女屏風にも似た画風の、いかにも天平という感じの画だったのですが。
    しかし、満足です。
    さて、この栄山寺の裏山には、藤原武智麻呂の墓があるのです。歩いても上れるのですが車でも可能らしいと聞いて、ここへ来る前に一度行ってみたのですが発見できませんでした。悔しいので、お寺で道をよく聞いてもう一度チャレンジして、ようやくたどり着きました。
    ※ちょっと行き方を書いておきます。国道24号線、今井町の交差点より北にゆきますと、東側に「しまむら」があります。その北側の細い道から山へ入ります。ひたすらまっすぐ。くねくねと上って、最初に右折できる道を曲がります。この先柿畑が広がっていますが、柿畑の中の道ではありません。柿畑と山の境目の道です。とにかく最初に右側に見えた道を右折。しかしこの道には「立ち入り禁止」と書いてあるのですよ。柿泥棒とかがいるからでしょうか(この措置はシーズン中だけかもしれません)。しかしそこを進まないと行けません。入れば、またすぐの道を右折、次も右折と「右、右、右」と進みます。そうすれば、たどり着けます。教育委員会の説明板が建っています。ただし、僕らは軽自動車でしたから大丈夫でしたが、かなり狭い道です。デカい車だと難しいかも。無理しないように。
    南家開祖、藤原武智麻呂の墓がひっそりとそこにありました。手を合わせ、山を降ります。

    24号線に沿って五條の町に入ってきました。すぐに、幕末に天誅組の本陣となった櫻井寺が見えます。しかしそういう場所は血なまぐさくもあり、また前に細かく歩いていますので割愛し、新町通りへとゆきます。ここは、江戸時代の町並みがよく保存された観光名所となっています。僕は以前一瞥しただけで終わってますので、車を停めてじっくりあるいてみることにします。
    日本最古の民家といわれる栗山邸をはじめ、宿場町の面影が色濃く、風情ある通りです。
    「まちや館」「まちなみ伝承館」などが設けられ市も観光に力を入れている様子がうかがえ、僕もそういう場所へ寄りながらぶらぶらと歩いていたのですが、ふと「松倉重政頌徳碑」という碑が建っているのが目に入りました。松倉重政ですと?この人が、顕彰されているのか…。
    僕が歴史オタクとなったきっかけのひとつに、子供の頃に読んだ学習歴史マンガがあります。その江戸時代前期の巻に「みのおどり」の様子が描かれていました。これは、小学生にはインパクトが強すぎ夢にも出ました。「みのおどり」とは、年貢を納められない農民に見せしめとして蓑を着せ、それに火を付けるという行為です。焼け死ぬまで転げまわらせる。その残酷な光景はトラウマとなりました。農民に苛斂誅求を尽くし、絞っても一滴も絞れないまで搾取し、結果あの島原の乱を引き起こした情け容赦ない領主が、松倉重政でした。前に歴史FANに100の質問をやったとき「もっとも愚鈍な君主・指導者は?」と聞かれ間髪入れず「松倉重政」と答えてしまったことがあります。
    その松倉重政が顕彰されているとは。重政は、島原へ封じられる前は五條の殿様でした。調べますと、ここでは善政をしき「豊後さま」として祭られるほどの名君であったと。
    人の評価は、難しいものです。世に悪役的に言われていても地元ではいい殿様だったとされている人物は多くいます。明智光秀や吉良上野介が代表でしょう。しかし、重政をプラスに評価することはさすがに難しいだろうと思ってきました。島原の人も気分が悪かろう、と、五條市を一瞬「不見識」であると思わず考えてしまったほどです。
    しかし、例えば伊達騒動の原田甲斐の例もあります。史料にあたらず孫引きばかりで判断する僕もいけません。しかし人の心の中までは神様でもないとわからんもんなぁ。五條市の考え方も知りたいように思いました。

    さて、観光らしい観光もしたので、五條の町を離れます。
    このあと詳しくは書きませんが御霊神社、井上内親王陵、他戸親王墓へ行った後、丹生川に沿って十津川街道を山に分け入り、賀名生(アノウ)へとやってきました。ここは梅林で有名です。そして、南朝が吉野をも追われたのちに皇居と定めた場所でもあります。まだ、ここには来たことがありませんでした。
    鄙びた山あいの里で、広くはなく、朝廷が置かれていたなどとはなかなか想像がつきにくい場所です。皇居と伝えられる室町時代創建の重厚な建物が村落にあり「皇居」の扁額が掲げられています。吉村虎太郎の筆だとされます。
    裏の丘陵を少し登りますと、北畠親房墓所がありました。
    北畠親房は、公卿として鎌倉幕府倒幕の頃にはあまり表には表れず後醍醐天皇の建武の新政には批判的見地も持っていましたが、足利尊氏が北朝を建てるや南朝の中心人物として、勢力拡大と京都奪還に最期まで尽力しました。著作「神皇正統記」の思想は、遠い後の尊王運動にも影響したとも言えます。南北朝時代の「巨人」は、ここにひっそりと眠っていました。

    さて、山深い西吉野はもう日が翳り始めました。もう少しあちこちを考えていましたがここで観光を終わります。
    丹生川に沿って山あいを分け入り、吉野に戻るように車を走らせます。途中、下市で温泉に。あー気持ちいい。思わず長湯です。
    いい気分で火照ったあと、とっぷりと日の暮れた夜の道を下市口へ。スーパーで夕食の調達をし(この時間だと何でも半額シールが貼られるので買いすぎるね)ビールも買って、大淀の道の駅へ。ここが、今日の宿となります。呑みすぎてよくわからぬまま就寝。

    翌朝。寒いですね。車の内と外の温度差がありすぎます。が、晴れています。この道の駅では、日曜早朝に市場が開かれるため早くから人が集まってきています。我々もゴソゴソと起き出しました。
    カミさんが朝市で目の色が変わってしまいました。もう必死になって買い物をしています。あんた確かに柿が12〜3個入って250円とかは安いけど、三袋も買ってどうするの(汗)。うちにはリンゴも山ほどあるやん。女房の暴走を止めるのに朝から大変です。
    いいかげん買い物もして、朝食もとり7時半頃に出発。
    まずは近くの世尊寺へゆきます。というより、聖徳太子が建立した比曾寺跡です。
    山門を入ると、塔の址が二つ並んでいます。東塔、西塔とならぶ伽藍配置は、薬師寺と同じですね。礎石しか残っていないわけですが、かつての隆盛を物語ります。

    その後、津風呂湖に向かうように山あいを走り、北上して多武峰へと至りました。
    談山神社です。(HP)
    9時前には到着したのですが、もう駐車場にはかなりの車が並んでいましたね。ここは、おそらく奈良いちばんの紅葉の名所でしょう。もちろん、盛りにはまだまだ早いのですが若干色づいています。期待していなかったぶんだけ有難い。
    それにもちろん、ここは紅葉だけの場所ではありません。僕も高校生以来何度も訪れています。
    さて入山しますが、その前にカミさんはもう土産物屋さんで栃餅なんぞを購入しています。なんで旅に出るとこの人はこんなに購買欲が増すのか。研究に値するテーマではあります。
    石段を登ると、談山神社のシンボルとも言うべき十三重塔が我々を出迎えます。この塔があることでもわかるとおり、ここはかつて「妙楽寺」という寺でした。明治の廃仏毀釈によって、神社へと衣替えをしたわけです。藤原鎌足を祀っています。鎌足の長男である定恵が開祖とされていますが、実際は不比等であるかもしれません。
    十三重塔の前のベンチに座り、栃餅を食べつつしばしぼんやりとします。
    そして、かつては講堂であった拝殿へ。ここには「多武峯縁起絵巻」が展示されています。これが、この神社の見所のひとつですね。この絵巻物の中にある蘇我入鹿誅戮図は、よく教科書にも載っています。(→こちら)
    他にも数多くの宝物があり、見ているだけで時間が過ぎてゆきます。
    裏の御破裂山に上るのは今回は割愛し(しんどいもん^^; 前に僕は上ってるし相方は興味ないようですし)、堪能して下山します。

    時計をみれば、もう11時前です。桜井方面に山を下り、道すがら大和三山の真ん中にある藤原京跡に寄り道をして(イベントをやっていたので面白そうだったので寄った)、これで帰ります。まだ昼ですが、僕は夜にちょっと約束があったのです。で、余裕をもって。
    途中大阪梅田でカミさんを降ろし(阪急百貨店新装オープンなので行きたいらしい)、僕は家路につきました。長々と書きましたが、秋の大和路旅行でした。


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    | 2012/11/09 | 旅行 | 22:58 | comments(2) | trackbacks(0) |

    吉野山へ

  • 2012.11.07 Wednesday
  • ちょっと旅行した話を書いてみようと思います。といって、行き先は奈良だったわけなのですけどね。
    今年は既に三度、奈良に出かけています。GWは一泊で山之辺の道&葛城古道。二度目は夏に郡山と平城京周辺。いずれもカミさんとで、とくにかわりばえのしないいつもの奈良行きであり、GWの時は書けばネタとして結構面白い話も書けたと思うのですが、僕に時間が無く(多忙のためではなく、このときネットでは西宮砲台について集中して書いていたために余裕がなかった)書くのを見送ってしまいました。まあ今回は書いてみようかと。

    今年はなんだか「奈良づいて」いまして、カミさんが紅葉もそろそろなので「また行こう」と言いだしました。じゃあ吉野へでも行こうか。吉野についてはこちら、五條はこちらなどで記事にしているとおり、時々は行っているのです。しかしいずれも単独でした。

    「しかしまだ紅葉には早いで。来週か再来週あたりが見ごろみたいや」
    「じゃ来週行こうよ。再来週は私がダメだから」
    「いや来週は外せんことがある。あかん(京都サンガの今期最終戦見に西京極へ行くから^^;)」
    「じゃ今週ね。ニュースでは多少色づいてるらしいから」

    僕は紅葉などどっちでもいいので(笑)、即座に決定して11月3、4日に奈良旅行を組みました。

    週末金曜、僕の帰宅を待ってカミさんが張り切って弁当をつくっています。風呂に入ってから、8時過ぎに車を走らせます。一路、東へ。なーに高速を使わなくても、夜なら奈良には2時間もかからずに到着するんです。先に乗り込んでおくと翌日の行程がラク。
    いつもの二上山ふもとの道の駅に車を停め、パーキングキャンプです。
    しかし、寒波がやってきていまして、結構寒い。車中で弁当を広げ夕食にしますが、僕はビールをやめ、焼酎のお湯割りを呑みます。ふぅ。もうそんな季節か。
    いいかげん酔っ払ったのち、毛布を重ねて暖かくして就寝。

    翌朝。奈良盆地の西側にあたる二上山のふもとにいますと、三輪山方面から朝日が昇ってくるのが正面に見えます。この日は快晴ではなく、雲の切れ間から太陽の射光線がいくつもの筋になって奈良盆地に注ぎます。神奈備山である三輪がシルエットとなってその幾筋もの光の中に浮かぶ。なんとも神寂びた風景で、奈良にいることを実感させてくれます。この二上山麓の朝の風景は本当に好き。だから何度もここで寝てしまうわけですが。
    バーナーに火をつけ、とりあえず朝のコーヒーを。至福ですね。

    さて、葛城の山々に沿って南下、吉野を目指します。この時間帯は爽やかでいいなぁ。ふと車窓を見ると、朝日を浴びた一言主神社の何と美しいことよ。つい立ち寄りたくなりますがここは我慢して、しばらく走って吉野川を渡り、山懐に入ります。早朝の吉野神宮に参拝したあと、無料大駐車場へ車を停めます。7時半を少しまわったところ。
    吉野は、カミさんは初めてです。
    僕はこれで4回目くらいなのですが、この桜で名高い吉野山に、一度も春に訪れたことはありません。大変な人らしいのでいつも気後れしてしまいます。「一目千本」と賛美される桜は確かに魅力的ではありますが、吉野はそれだけではあるまいといつも時期を外してきます。死ぬまでに一度は来ようかとも思っていますが、今はまだいいだろう。
    歩き出しますと、すぐに「時期はずれだ」ということに気がつきます。桜の木々の紅葉は既に盛りを過ぎ、茶色い葉がもうかなり散っています。しかし楓はまだ青い。若干色づいている木もありますが、盛りにはまだ早いようで。
    カミさんはがっかりしていますが、まあそう捨てたものでもないよ。吉野は時期を選ばず魅力的な場所だ。

    「あのな、吉野の史跡は大雑把に言うて3つの時期をおさえる。まずは天武天皇が、大海人皇子時代にここへ逃げ込みそして挙兵した壬申の乱の頃。7世紀やな。ほんでから、平家を滅ぼしたあとの義経が頼朝に追われてやっぱりここへ逃げ込んでる。次に南北朝や。足利尊氏に追われた後醍醐天皇がここに朝廷を置いた」
    「へー」
    「なんで皆吉野に逃げ込むかっちゅうことや。この天険もさることながら、やっぱりここはアジールやったんや。時の政府にとって聖域であり不可侵領域。なんでこの山がそないな場所になったんか?」
    「知らないよそんなこと」

    久々にカミさんの「死んだ魚のような目」を見ました。「女房歴女化計画」は20年かけても成功に至りません。
    しょうがないのでところどころで簡単な説明を挟みつつ、歩きます。
    大橋、黒門、銅鳥居を過ぎ、金峰山寺の仁王門に到着。蔵王堂が聳えます。巨大です。木造建築としては、東大寺大仏殿に次ぐ大きさとされます(大きさにはいろいろ解釈もあり、本願寺の御影堂なども相当に大きいわけですが)。
    いつもは望見するだけの蔵王堂へ、今回は入ります。ここのご本尊である金剛蔵王権現は普段は秘仏ですが、現在公開中なのです。これが、ひとつの目的でした。
    この蔵王権現様、金峰山寺HPで見ていただければわかりますが、真っ青です。天正年間につくられたとされ、ゆうに400年以上は経っているわけですが、秘仏であったために全く色落ちがありません。憤怒の表情ではあるのですが、御尊顔が異様に大きくどこか親しみがもてるお姿となっています。
    内陣の巨大な厨子が開かれ、三体の蔵王権現がその姿をみせています。参拝。見上げると、その大きさに圧倒されます。7mくらいらしいですね。
    その後、吉野朝宮址にゆき、金峰山寺を出ます。

    門前町を歩き、吉水神社へ。義経が潜居し、後醍醐天皇が行在所とし、秀吉が花見をした場所として高名です。ここからの桜が「一目千本」と謳われているわけですが、もちろん今は花どころか葉も全て落ちています。
    書院内部には、義経の座した部屋、後醍醐天皇の玉座などがあり、様々な宝物が展示されています。
    この門前町、今は土産物屋さんが並ぶ平和な道ですが、かつては僧坊が並び、屈強な僧兵たちが集まり、山伏が闊歩した場所なのでしょう。世界遺産に登録された今では、彼岸のことのような気がしますが。
    さらに歩き、勝手神社へ。
    ここはその名の通り戦勝の神として、大海人皇子も詣でた歴史ある神社であり、当然義経も参拝し静御前も舞ったと伝えられているのですが、先般火災により焼け落ちてしまいました。前まで行ってみますと、鳥居の向うは完全に囲われ中が見えなくなっています。以前は境内には入れたはずなのに。うーむ。誠に残念なことです。

    まだ朝の時間ですが、観光客が徐々に増えてきました。観光客というよりハイカーのいでたちの人が目立ちます。これから上千本、奥千本方面へと歩を進められるのでしょう。もちろんそれが正統な吉野山の歩き方ですが、僕らは竹林院まで歩いて、一旦引き返します(汗)。あとは車で回ろうかと。
    その前にカミさんが「本場吉野葛のくずきりを食べる」と言います。史跡的なことは何も下調べしない人ですが、甘味などはしっかりと調査しているようで。というわけで「八十吉」へ(食べログ)。創業嘉永4年の老舗です。ここで「吉野天人」というくずきりセットをいただきます。干菓子とお茶が付いて800円。
    くずきりは、確かに舌触り、歯応えともに上質でした。僕はくずきりと言えば京都祇園の鍵善良房のものしか知らないのですが、それよりも形状は幅が広く、透明度が高いような気がしました。うまい。つけて食べる黒蜜も香ばしくふくよかです。さすがは伝統の味。干菓子も口の中でほろりと溶けます。最後に残るのは、葛の香りなのでしょうか。
    しかしながら、氷水に放たれたくずきりは当然のことながら非常に冷たい。この時期食べるのはどうなのかなという気がしました。身体が冷えますわ(笑)。
    さらに歩いて下ります。仁王門の正面直ぐ前に、萬松堂という和菓子屋さんがあります(食べログ)。カミさんはここにもチェックを入れていたらしく、草餅を購入。
    行儀悪いのですが食べながら歩きます。うまいですなぁ。よもぎの香りもよく、また餡が非常に上品です。ひとつづつしか買わなかったので、あっというまになくなりました。あとをひきましたね。

    車に乗り込み、手抜きで観光を続けることにします。奥の院、金峰神社まで一気にゆきます。
    吉野山観光に車が推奨されないのは、道が狭く歩行者の邪魔になることがまず挙げられます。春のシーズンは乗り入れ禁止です。そんな中車を走らせるのは全く申し訳ないことですが、今はシーズンとは言えず奥の方は人もまばらです。なのでそれは許してもらうことにして、車がダメな最大の理由は、駐車場がないことです。
    僕らはまず、高城山展望台へ向かいました。ここに、若干の駐車スペース(と言っていいのかどうかはわかりませんが)があります。車を停め、展望台へと上ります。ここは実は城跡で、下界が一望です。
    結論として、ここの紅葉が今回は最もきれいでしたね。それでも盛りとは言えませんが。
    さて、ここに車を停めたまま、奥の院金峰神社へ向かいます。歩いてもさほどの距離ではありません。
    藤原道長ら多くの要人が訪れたという金峰神社ですが、祭神は金山毘古命です。金属の神。やはり吉野には鉱脈があり、それが吉野の隠然たる力のみなもとになっていたのかと想像することはできます。脇の小道を少し下ると、義経蹴抜の塔と呼ばれる簡素なお堂があります。義経が潜み、追っ手が来たので屋根を蹴破って逃げたとの伝承があります。ひっそりとして、まわりには誰もいませんね。
    さらに、奥へと進みます。山道を淡々と歩き、谷に降りればそこに苔清水と呼ばれる清水が湧いています。冷たく清冽な水。芭蕉の句碑があります。ふりかえれば、小さな草庵がぽつねんと建っています。西行庵です。
    漂泊の詩人西行は、この地で3年間も過ごしたといいます。冬は雪深いこの地で、どのように暮らしていたのでしょうか。日本一桜を愛した西行ですから、吉野奥千本に居を構えるのも頷ける話であり、要人も多く訪れるので退屈はしなかったのかもしれませんが、それにしても。
    西行は、吉野を監視する任務を負っていたのかもしれない。そんなこともふと想像したりするのです。しばらく佇んで、道を戻ります。

    高城山展望台に戻り、そのまま車で少し降りて上千本へ。吉野水分神社があります。ここにも、若干の駐車スペースがあります。
    それにしても、ここの社殿はすばらしい。荘厳ですね。式内社で7世紀の記録はあるそうですが、この社殿は豊臣秀頼の創建です。豊臣家に金を遣わせようとした家康の作戦の一環で、この時代あちこちに秀頼造営の建築物がありますが(西宮えびす神社の門もそうですな)、いずれも見事です。
    その後、花矢倉(佐藤忠信旧跡です。駐車場あり)、世尊寺跡、横川の覚範首塚などをめぐり、上千本を降りて竹林院まで戻りました。
    このあとはバイパスへ出て、如意輪寺へ。
    ここの宝物殿には、楠木正成の長男正行の辞世の歌を刻んだ扉などもあるのですが、相方はあまり興味がなさそうで僕は以前来たこともあるので割愛し、後醍醐天皇陵に参って、山を降ります。

    おっと、もう午後一時です。時間の経つのは早い。
    昼食にはいろいろ考えていたのですが(吉野宮滝近くの行列の出来るラーメン屋とか)、あまり時間がなくなってきました。まあね、くずきり食べたり草餅食べたりしてますから空腹ではありませんわな。なので、吉野ではそれと知られた平宗本店(食べログ)で「柿の葉寿司」と「鮎寿司」をテイクアウトしました。
    吉野川の河畔で、お茶を沸かし、寿司を食べます。しみじみうまいですなぁ。
    柿の葉寿司は、ひとにぎりのすし飯を魚とともに握り、柿の葉で包んで押し寿司にしたもので、鮭と鯖の八個入を選びました。葉の香りが寿司にうつりなんともいえない味わいです。ただ、あっという間になくなる(笑)。鮎寿司も、滋味あふれる味わいです。

    さて、秋はまたたくまに日が暮れます。ことに山あいは日が落ちるのが早い。先を急ぎましょう。五條方面へと車を走らせます。

    ダラダラ書くと長くなります(汗)。残りの行程は、次回に。


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    | 2012/11/07 | 旅行 | 22:57 | comments(0) | trackbacks(0) |

    天皇杯とみちのくの冬と

  • 2012.01.05 Thursday
  • 謹賀新年、凛太郎です。みなさまいかがお過ごしでしょうか。
    …と申しましてももう正月の雰囲気はありませんね。世の中は平常運転に戻っています。まだ松の内だからいいか。

    というわけで、いささか旧聞であることながら、年末年始の僕の動きについてちょっと。カミさんは先にもう実家へ帰っていまして、僕もそれを追わねばならないわけですが、とりあえず年末は一人旅です。
    昨年末のラスト記事で予告したとおり、29日には国立競技場へ行ってまいりました。天皇杯準決勝ですね。もう元日の決勝も終わっていて、我らが紫の勇者達は惜しくも準優勝に終わったわけですが、この天皇杯ファイナリストとなったチームのファンで本当に良かった、と思わせてくれた年末年始でした。
    29日の試合をもう振り返ってもしょうがないので止めますが(この試合だけで10000字は書けるな 笑)、今までに観戦した中では最高の試合でした。とにかく、行ってよかった。参加してよかった。あの若者達の限りない可能性を感じさせてくれるその躍動に、オジさんは目頭が熱くなってしまったのです。
    願わくば、彼らをずっと観ていたい。あのチームのメンバーとして。
    18歳の久保、19歳の宮吉、駒井、20歳になったばかりの福村や、20代前半のドゥトラやウヨン、充孝。この天皇杯で彼らは一気に全国区となりました。おそらく他のチームにもうリストアップされていることでしょう。プロサッカーの宿命ですが、とにかく長く彼らを応援していたい。Jの他チームへゆくくらいなら、松井大輔やパクチソンのように一足飛びに海外に出てくれ。

    ま、それはともかく。
    僕は、国立競技場へ足を踏み入れたのは初めてなんです。サッカーに限っても、今まで出入りしていたのは西京極とせいぜい万博、長居、最近では神戸ホムスタくらいのものです。野球その他でも関東では観戦経験がありません。そういう意味でも、今回は嬉しかったっすね。あの東京オリンピックのメインスタジアムとして建設されて以来、なんと言っても国内におけるスポーツの聖地ですから。
    いつものようにスタジアムへの入場はどんな慣れた場所であっても高揚感があるものですが、今回はそこに聖火台がありましたからね。ああ国立だ、いつもTVで観ていた国立だ…と思ったとたんに胸がぐっと熱くなりましたよ。専用スタジアムではもちろんありませんが、過去幾多のスポーツの歴史が刻まれてきた場所だと思うとね。そして、徐々に陽が翳りライトが点灯し…。スポーツ観戦は本当に楽しいな。
    延長戦を久保と駒井のゴールで勝ちきったあと、もう声がガラガラになった僕は、千駄ヶ谷から中央線で東京駅に向かいました。本当は信濃町駅のほうが近かったのね(汗)。こういうのがシロートですな。人の波に逆らわないように歩いているだけで。
    東京駅に着いたら、とりあえず目に付いた店でビールです。祝杯をあげずにはいられません。ジョッキ二杯をグググっと飲み、ほろ酔い加減で車中の人となりました。
    郡山で下車。駅前のホテルに投宿。うはーここまで来ると寒いな。駅前商店街の中の居酒屋で、今度は燗酒でひとり二次会です。生ウニが安かったので注文。さらにマグロと牡蠣を追加。今日のドラマティック過ぎるゲームを振り返りつつ、しみじみと徳利を何本か倒すこの幸せ。生きていてよかった。徐々に酩酊してきました。

    翌朝、まだ暗い時刻。雪が舞っています。寒いことおびただしいのですが、せっかく郡山に居るので始発の磐越西線に乗り込みます。7時過ぎには会津若松到着。
    この街に、この歴史の色が濃すぎるほど濃い街に来るのは、これでかれこれ4回目なのですけれども、冬に来るのは初めてです。一度、この季節も体感してみたかったわけで。
    なんでこんなに雪深い盆地に人々は住み続けたのか、とかやっぱり思うわけですが、この豪雪が水を保証し、肥沃な大地が誕生するわけです。いつから人々がこの土地で生活を営み始めたのかはよくわかりませんが、市内には4世紀に築かれた巨大な前方後円墳もあり、三角縁神獣鏡が出てきています。卑弥呼の時代に遡ることが出来るのです。
    もっぱら観光の中心は白虎隊、また最近では野口英世であるわけですが、この地の為政者は古くは蘆名氏であり、室町時代以降はみちのく最大の都市として君臨してきました。戦国時代に伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし拠点とし、その後秀吉によって伊達氏は移封、蒲生氏郷が入り、以後は上杉景勝、そしてしばらくして保科正之がやってきて、会津松平藩が成立しそのまま幕末まで、ということになります。歴史の色は、やはり近年である松平容保時代の戊辰戦争の色が最も濃く、史跡も充実しています。雪はまだ止む気配はありませんが、それも一興と思い、僕は町へと歩き出しました。
    雪が積もると、町並みがモノトーンとなり、その風情は古い町らしさを強めます。旅をしている実感がわきますね。会津若松の始祖とも言える蒲生氏郷(彼がこの町の名を「黒川」から「若松」とした)の墓も、新撰組で高名な齋藤一の墓も、みな雪に埋もれています。
    そういうところを少しづつめぐりつつ歩いていたわけですが、徐々に雪が強まってきまして。僕は旅先では歩くのを基本にしていますが、さすがにもう厳しくなってきました。若松城まで来てついにギブアップです(汗)。もうムリだ、前が見えない(笑)。バスに乗って駅まで戻りました。
    本当は、その先が目的だったのですけれどもね。この街には「会津武家屋敷」という入場料の高い施設がありまして、そこはかつての有名な家老である西郷頼母の屋敷を中心にした一種のテーマパークといってもいい場所なのですが、そういうところへ僕はあまり足を踏み入れる習性がなく、今まで行ったことがなかったんです。ところが最近、その中に京都見廻組の佐々木只三郎の墓があることを知りまして。これは一度行かねば…と思って会津に来たのですが、行きそびれました(笑)。
    まあいいか。また来ればいい。
    僕は冷え切った身体を温めるべく、駅前温泉へ。スーパー銭湯みたいな施設ですが、これが入れば意外にもいいお湯でして。やっぱり一年の〆は温泉かな、とひさびさにゆっくり堪能しました。
    さて、そうこうしているうちにもう午後もずいぶんと深い時間に。いかんいかん。一旦郡山まで戻り、そのあとは一路、妻の実家である津軽へと向かいました。

    あいもかわらず青森の正月は、酒です。まず31日にメインイベントの「年越し」の行事があり、お昼からごちそうを食べ、酒盛りをします。ふはぁ。
    翌日元日も、酒です。こんなことを繰り返してもう長くなったな。
    僕がはじめてこの津軽で、妻の実家で酒を呑んでからもう20年が経ちました。そんな長い時間を今年はしみじみと実感していました。あの時小学生だった妻の最も若い従兄弟が、もう30歳の偉丈夫となって僕に一升瓶ごと燗をつけた酒を注ぎにやってきます。こっちも年をとるわけです。月日は勝手に、誰の許可も無く流れてゆきます。

    東北の年末年始は、わりと穏やかな天候に恵まれました。僕と妻は津軽を辞した後、その足で今度は僕の両親の家へ年始にゆき、4日の夜遅くに西宮へ戻りました。いつもの正月が、また終わりました。本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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    | 2012/01/05 | 旅行 | 22:23 | comments(6) | trackbacks(0) |

    和歌山お出かけ

  • 2011.01.11 Tuesday
  • 連休の中日である1月9日。僕はこの日だけ全く用事がなく(野暮用ばかりでホント困る)、少し小旅行気分でも味わうかと和歌山へ行ってきました。和歌山で旅行と言えば南紀、という感じですが行ったのは和歌山市街地をただうろついただけです。旅行と言うのも大げさで、ちょっとお出かけ、くらいでしょうか。
    和歌山へは、よく旅行に行っています。昔そんな話も書きましたが、意外に県庁所在地である和歌山市はじっくりと歩いたことがありません。いつも通りすがりであったり、何かのついでであったりして(ラーメン食べるだけ、とか)さほど細かには知りません。いい機会だと思いましてね。
    朝、女房を伴いいったん大阪へ出て、JR阪和線で和歌山駅へ。

    まずは、紀伊国一宮である日前・國懸(ひのくま・くにかかす)神宮へ。駅からちょっと距離がありますし和歌山電鉄も出ているのですが、健康のため(カロリー消費のため 笑)歩こうと思います。20分くらいで着きますね。僕は以前、ここへ詣でようとしたことがあったのですが、夕刻であり神社の営業時間(?)が5時までであったために、残念ながら入り口で門前払いとなってしまったことがありました。今回は、リベンジです。
    初詣には相当の人が集まるこの神社も、今は比較的空いています。摂社に戎社があり十日えびすなのですが、それほど賑わっていない。これは、森閑な雰囲気を味わいたい僕にとっては好都合です。
    ここは実に興味深い社で、鳥居をくぐり参道を北へゆくと突き当たって道が左右に分かれます。そして左へ行くと日前神宮、右へ行くと國懸神宮があるんです。両社並列、という感じですか。あまりそういう形式の神社ってありませんよね。たいていの神社は、本殿はひとつ。御祭神が幾柱か存しても、普通合祀されていますので。
    別に神社ブログじゃないので細かな話は書きませんが、この神社の境内で気になるのは、二つの本殿の荘厳さに比して、摂末社のありようです。中言神社や天道根命神社などしっかりと祭祀がなされている摂社ももちろんあるのですが、大半は古び傷みがひどく、こういう言い方をしていいのかどうか迷いますが、朽ちているのです。屋根は傾き社は苔むし。既に社殿が失われているものも多数。かつて社がここにあった、という痕跡が空間として残っています。正確には数えていませんが、2〜30の社(もしくは社址)が境内にはあるような。一部を除いて、祭神がどなたであったのかもわかりません。
    これはいったいどういうことでしょうか。神はたいてい新しいものを好み、遷宮をくりかえす神社もあるのに、朽ちてゆく社をそのまま置いておく。何故だ、という話をしようとは思わないのですが、その失われた社殿跡が非常に神さびているのですね。その空間が。結界が張られているだけの聖域。森の中にぽかんと空いたそのいくつもの空間を見つつ、僕は沖縄のウタキを思い出していました。なんだか、とても不思議な気持ちにさせられた紀伊一宮でした。

    駅へ戻り、二駅列車に乗って和歌山市駅へ。ここからまた少し歩き出します。
    市駅から歩いてすぐ。「勝海舟寓居地」という石碑が建っています。勝のとっつぁんもあちこち出入りしてますね。
    碑文によりますと、
    「文久三年軍艦奉行勝安房守紀州藩海岸防衛工事監督のため
     幕府より和歌山に派遣せられし時此処に寓居す
     時に門下坂本龍馬も亦来りて事に従ふ」
    と、龍馬はんの名前まで出てきました。和歌山に来てたのか。
    文久三年、といえば、とっつぁんは幕府の命で大阪湾岸あちこちに砲台を造るために視察を繰り返した時期です。僕は郷土史ブログを書くために、砲台建設についていろいろ調べていましたのでそこは了解しています。幕府が建造した砲台は西宮他数箇所なのですが、各藩もそれにならい建設しました。大阪湾岸にはかなりの砲台が建設されたと推定されてます。今はほとんどその跡は残ってないんですけど。紀州藩も加太浦とかに造っていますから、その助言でしょうか。
    周辺をさらに歩きます。南方熊楠生誕地があり、銅像が建っています。藩校跡、水天宮などをめぐるうち、昼になりました。

    和歌山で昼、といえば当然和歌山ラーメンということになりますが、この日は日曜であまり店が開いていません。「山為食堂」なんて僕は大好きな店ですけど休み。もう「井出商店」にも数度行ってますし、街中でまだ行ったことのない店、ということで「○京」へ。
    えーっと、僕は一応まだハラ一杯食べない方針を続けてますので、大盛りは頼みません。和歌山ラーメンといえば、一緒に早寿司(鯖の押し寿司)を食べるのが定番なのですが、それも食べません(カミさんは食べとるがな 笑)。
    出てきた中華そばは、スープがうまい。これは僕の中では出色です。
    和歌山ラーメンのスープを余所者は「車庫前系」「井出系」とよく分類してまして、前者が醤油味を生かした味で後者は豚骨が強いドロリ濃厚系ですけど、「○京」はその店名からも車庫前系(これらの店はだいたいマルが付く)。でもそんなに醤油も強くなくマイルド。思わず懐かしさを感じ(子供の頃食べてた出前の中華そばに似ている)、これはまた再訪したいな、と思いました。もっとも味は好みですが。

    食べ終われば、和歌山城へ。
    そもそもは豊臣秀長が築城。普請は城造り名人の藤堂高虎。後に徳川御三家の城となるわけですが、ここにやってくるのはもう10年ぶりくらいになります。一応平城の範疇なんですけど岡をうまく活用して造られているので、結構登るのがキツい。でも、いい石垣ですね。
    天守は有料なので昇らず(笑)、あたりを散策して終了。

    その後、寺町方面へ。城の南側に出て三年坂通りを渡ると、岡の上に「岡山の時鐘堂」。徳川吉宗が藩主の頃から、大正時代まで時を刻んでいたそうですけど。
    そういえば、紀州藩は二人、将軍を出しています。八代吉宗と十四代家茂。御三家のうち、本命の尾張藩は結局将軍を出さず、水戸藩からは十五代慶喜が最後に出ましたが、あれは一橋家の養子という立場で将軍になりました。一橋家というのは御三卿の一家で、吉宗系の連枝ですから、吉宗以降は将軍家みな紀州、とも言えます。これは単に巡りあわせと言っていいのか。いろいろな事が想起されるのですが、措きます。
    その吉宗生誕の地が、時鐘堂から降りてしばらく行ったところにあります。吉宗は城で生まれていないのですな。
    この人が将軍になったのも、数奇な運命。なんせ四男で生母は側室でしたから。普通は紀州藩主にだってなれないのに。「暴れん坊将軍」ならカミさんも知っていますので、ようやく興味を覚えてくれたようです。
    「昔は、側室腹の男子は捨てられるならわしやったんや。んで、吉宗も形式上は捨てられて、神社の神官が拾って家老に預けた。で、そこで育ったんや。その家老というのが加納家。あの、暴れん坊将軍でご意見番として新さんに小言をいう有島一郎がやってたじいさんが居たやろ。あれが当主の加納久通で、だから新さんはあのじいさんにアタマが上がらんのや」
    時代劇で例えて話すとわかってくれる(笑)。

    すぐ近くが、報恩寺。紀州徳川家の菩提寺です。
    初代藩主頼宣の正室瑶林院の菩提所として開基された寺で、藩主の奥さん中心にデカい墓が並んでいます。もちろん、瑶林院の墓も。瑶林院って加藤清正の娘ですね。こういう入り組んだ血筋は、実に歴史っぽく感慨深いのですが、ちょっと雰囲気が重々しすぎてカミさんが写真を撮るのを許してくれません。「祟られるよ」とか言います(汗)。
    無量光寺の「首大仏(予算がなくて首しか鋳造されなかった仏さまですが、首だけでもデカい)」などを見学し、また刺田比古神社(式内社)や和歌山城築城の石切場跡である岡公園、そして陸奥宗光の銅像などを見て歩きます。陸奥宗光は龍馬はんとの関わりからカミさんも既知であり(コミックス「おーい竜馬」を読ませた)、紀州出身ということくらいは知っていたので話は早い。
    「陸奥宗光の奥さんが美人でなぁ…」
    こういう話をするとさらに乗ってくるので結構なことです(笑)。

    夕刻に近づいてきたのでこのへんで和歌山散歩は切り上げます。なかなか面白かったっすね。南海電車に乗って大阪ナンバまで帰ります。
    一杯やって帰ろうと思うのですが、どこに行くか。大阪へ行けば僕らはたいてい串カツ屋とか焼肉屋ばかりいってます。そんなのカロリー過多ですな(汗)。それに日曜ということもあり、どこに行けばいいのか迷います。
    しょうがない、秘密兵器の店に行くか。というわけで、逡巡したあげく相生橋筋の「正宗屋」へ。
    行くのに躊躇した理由があるんです。ここね、ヨメはん連れて行ってもいいのか、という店なんですよ。なんせオヤジ率100%(笑)。客は皆競馬新聞持ってるオッサン、てな感じで。でも異常に安くてうまい店。
    行けば4時半なのに満席。しかし運良く出る客がいて、待たずに座れました。
    「ビール大瓶1本と焼酎お湯割り。ああ麦で。それから、どて焼きときずしとおばけと…カステラある?」
    ビール(390円。安いっ)はカミさん用。僕は焼酎(200円)です。関西の人でないと、どて焼きとかきずしとかおばけって何のことやら…かもしれませんね。どて焼きは牛筋串ぷるぷる煮込み、きずしは〆鯖、おばけとは「さらし鯨」です。これ150円(笑)。カステラはこの店の名物で、鯛の子を凝らせたものに蟹味噌を乗せた…ああ面倒くさい食べログここ見てくれ(笑)。
    この時点で、店に居る客で女性は女房だけ。最初はその場違いさにビビっておりましたが、食べれば美味いので喜んでいます。さらにおでんやマグロのハンバーグ風やら何品か追加して、僕は焼酎おかわり。いいかげんほろ酔いになり、腹もくちてきたので、そろそろおいとまするか(長居するのも野暮)。
    勘定は二人で2400円。こういう店もあるんです。大阪の宝やな。
    店を出ればまだ明るい。普通ならこのあとラーメンなのですが、きっぱりとここまでで帰りましたよ。今日は結構歩きましたし、カロリーの収支計算はまあ合ってるかなー。


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    | 2011/01/11 | 旅行 | 23:32 | comments(2) | trackbacks(0) |


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