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  • 2016.12.30 Friday
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    | 2016/12/30 | - | | - | - |

    鳴尾の古い石造物をたずねて(三)

  • 2013.11.29 Friday
  •  前回からの続きです。まだやってます(汗)。
     鳴尾の古い石造物を追って、西方寺にある推定鎌倉時代の宝篋印塔を拝見したあと、上鳴尾墓地で推定鎌倉時代の伝佐々氏供養十三重石塔、そして南北朝期の五輪卒塔婆形板碑、室町初期の弥陀板碑を見てきました。鳴尾には15世紀以前の石造物は、9基あったはずです。しかし岡太神社の多層塔を含め、まだ5つしか確認できていません。
     残りは、消えたのか。
     釈然としないままネットを徘徊しましたら、郷土資料館ニュース第12号に興味深い論文がありました。1993年です。(→PDF)
     その中に、坂田磨耶子氏の「西宮市における石造遺品について一補遺一」という論文がありました。これは、市史七巻の田岡香逸氏による「金石文資料調査記録」のその後を追ったものでした。そうそう、こういうのが読みたかったのですよ。ヽ(´▽`)ノ
     それによりますと、上鳴尾墓地の無縁墓にあった五輪卒塔婆形板碑と大日種子板碑が、六湛寺町海清寺境内に移されている、と書かれてありました。
     そうだったのか!
     僕はすぐ立ち上がり、家を飛び出して自転車で海清寺に走りました。急がないと日が暮れる(笑)。

     

     必死のパッチでチャリンコを漕いで、海清寺へ到着〜。境内に入って、二つの推定南北朝時代の石造物を探します。
     しかし坂田磨耶子氏の調査から、既に20年経過しています。本当にまだあるだろうか。気懸りは、間に震災を挟んでいる、ということです。
     やはりパッと見、ないんですねぇ(汗)。どこだろう。僕は隅から隅へとウロウロ。かなり怪しかったことが予想されます。見咎められなくてよかったよ。

     
     
     本堂前の池です。向うに見えるのは市指定文化財の海清寺三門。紅葉が始まっていて、綺麗です。
     と…あれ?!
     その池の中に、何かあります。
     上鳴尾墓地にあった指定文化財の板碑に実に似ています。あれか? まさかあんなところに!
     しかし、池に柵があって近寄れません。アップ。

     

     五輪卒塔婆形板碑であることは間違いありません。
     高さは、94.5cm(田岡先生の計測)のはず。だいたいそのくらいかなぁ。ですが草が邪魔をして、彫刻部分が見えません。

     

     横から見てもダメか。鳴尾にあったものであれば、錫杖を持った地蔵さんが陽刻されているはずなのですが。
     うーん間違いない、とは言えません。しかし境内には他に類したものは無く、おそらくこれが推定南北朝時代(650年前)の五輪卒塔婆形板碑である、と思われます。

     さて、大日種子板碑はどこか。
     種子(シュジ)とは、密教における真言(呪文)で、梵字です。大日如来の種子は「ア」一文字で表します。あっもちろんカタカナじゃないですよ(汗)。梵字が彫りこまれている板碑です。

     

     境内にある傑僧、南天棒の碑です。南天棒さんについて書いていたら記事が終わりませんので割愛しますが、この大きな碑は、ノミ痕が残る大阪城築城の残念石です。

      

     後ろから。まわりを数多くの卵塔が囲んでいます。歴代住職の墓石でしょうか。
     その中に、少し毛色が違う板碑が混じっています。これか!
     
     

     本来の高さは116cmだったのですが、下部が埋め込まれていますのでわかりません。ですが、三角形の先端、溝の切り込み、そして大日如来を示す梵字が刻まれています。間違いないでしょう。推定南北朝時代の大日種子板碑です。

     かつて鳴尾に在った古石造物の2基は、海清寺に移され今も保存されていました。

     どうして海清寺に移されたのかはわかりません。ただ、上鳴尾墓地にそのままあったのでは、保存に不安を残すのは残念ながら確かです。
     推測ですが、上鳴尾墓地は共同墓地です。が、隣接している観音寺さんが気を配ってらっしゃったのだろうと思います。観音寺さんと海清寺さんは同じ臨済宗妙心寺派。そういった縁で、保存に不安な墓地から場所のある大寺の海清寺さんに託されたのではないでしょうか。
     鳴尾に多少肩入れしている僕としては「流出」という文字が浮かびますが、そんなことを言ってはバチがあたりますな(汗)。震災を越え、よくぞ保存して下さったと思います。海清寺さんは震災で大変な被害があったはずなのに。

     これで、鳴尾の15世紀以前の石造物9基のうち、7基まで確認しました。この7基は完全かほぼそれに近い保存状態でしたので、僕でも何とかなりましたが、残るのは基礎だけの五輪塔と塔身だけの宝篋印塔です。
     これは、難しい。
     僕に鑑定眼がないのが一番のネックですが、まだどこかに存在することを信じて今後の宿題にしたいと思います。

     さて、鳴尾の古石造物を追って海清寺に来ました。せっかくなのでもうひとつ見てみようと思います。実は、海清寺にも15世紀の石造物が伝えられているのです。市史に載る23基のうちのひとつです。

     

     寺院内墓地の北東隅。厳かな一画があります。台上2基のうち左側の卵塔が、海清寺の開祖である無因宗因禅師の墓塔とされています。
     無因宗因禅師が亡くなったのは応永十七年(1410)。その後すぐに造立されたものであると、構造様式からも考えてよいようです。これも、600年前か…。

     

     ただ、市史に昔の写真が載っているのですが、その写真と比べて中台を欠いています。下から八角形の基礎、竿があり、その上に装飾が施された中台があって卵塔が乗っていたのですが、今は竿の上に直接卵塔が乗せられている状態です。坂田磨耶子氏の調査時から既に中台は無かった様で、震災の影響ではないようです。惜しいなと思います。

     市史発行から、約半世紀が経ちます。その間、街の更新は目覚しく、なかなか当時のものを追うのは難しくなってきたことが実感されます。ただ、難しいからまた面白さもある、と素人(歴ヲタ)の僕は思ってみたりして。
     完全に強がりですな。(^▽^;)
     鳴尾本郷の六尺五寸の謎の石から始まった石造物めぐり、これにて一旦終了です〜。


    ※初出:西宮ブログ「凛太郎の自転車操業
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    | 2013/11/29 | 西宮流 | 06:06 | comments(0) | trackbacks(0) |

    鳴尾の古い石造物をたずねて(二)

  • 2013.11.28 Thursday
  •  前回の続きです。上鳴尾墓地にやってきました。

     

     六地蔵さんがお迎えしてくださってますが、実はこの墓地には六地蔵がもう一組おられます。それくらい広い墓地で、満池谷墓地など後世に造られたのを除けば、段上の貝之介墓地と並んで非常に大きな墓地です。歴史っぽいものが多く、僕も何度も訪れています。
     僕は金石文を見るのが好きで、高じてこんな記事を書いたこともありました。しかし銘のない古石造物については、僕の眼力が無いこともあり一部を除いて注目していませんでした。
     墓地の中央に、佐々家供養塔があります。 

     

     推定鎌倉末期の十三重塔です。これについて詳しく書いては紙面が足りませんが、もともと西方寺に在ったものです。別サイトでもふれています。(→秀吉と歯神さん最後部分)
     しかし、西方寺宝篋印塔や岡太神社多層塔と同様、指定文化財ではありません。かなりの歴史的秘話が残る石造物であるのに。

      

     墓地の北入口脇に、プレハブで覆屋が建てられています。これはいつから在ったものか。かつては、この場所は野天でした。
     この中には、阿弥陀座像(かな?)を中心に古い石仏が集められています。お地蔵さんもいらっしゃるのかな。
     その中にひときわ高い板碑があります。これが、推定南北朝期に造られたとされる五輪卒塔婆形板碑であると考えられます。

     

     高さ157cm。昭和60年に、市指定文化財となりました。
     板碑というのは、名の通り板状の石碑です。表面に仏像などを彫りますが、その両側を切り込んで、五輪塔(五輪卒塔婆)を平面化したような形にしているものです。

     指定文化財となっている古い石造物は、市内にはさほど多くありません。(市指定文化財一覧)
     先ほど一部挙げたものの中では、鷲林寺の七重塔。浄橋寺の推定鎌倉の五輪塔、応永銘が残る五輪卒塔婆含め5つの石造物。極楽寺の弥陀石仏。さらに上記には含めませんでしたが郷土資料館に保存されている永正十五年(1518)の刻銘が残る石造五輪塔。そしてこの上鳴尾墓地五輪卒塔婆形板碑の、全部で8つだけなのです。
     文化財に指定される基準というのは、よくわかりません。歴史学術的また美術工芸的価値、保存具合など様々でしょう。そうやって考えれば、銘もないのによくぞこの五輪卒塔婆形板碑が指定されたなとは思います。五輪卒塔婆形板碑という形式がさほど多いものではない、ということもありますが、やはり欠けたところが無い、というのは大きなポイントだったか。西方寺の宝篋印塔のほうが古いのですが、あちらはてっぺん部分が欠けています。

     さて、上鳴尾墓地のそれ以外の石造物ですが。
     市史は、推定鎌倉時代のものとして五輪塔の基礎が残っていると記述しています。「墓地の東南寄りにあり、いま残っているのは基礎、すなわち地輪だけで、個人の墓の台石に使われている」と、あります。
     これを探したのですが、とうとう特定出来ませんでした。
     広い墓地で、古い墓石の台石は東南寄りだけでも無数にあります。四面に梵字が刻まれているらしいのですが、確認もできません。
     まことに残念です。もう少し目を磨かないといけません。

     さらに、南北朝時代の宝篋印塔(塔身のみ)、五輪卒塔婆形板碑、大日種子板碑、室町時代の弥陀板碑が、墓地北西端の無縁墓周辺に存在するはずなのですが。
     その無縁墓ピラミッドです。無縁仏は、このように集められている墓地が多いように思います。

     

     市史七巻資料編は昭和42年の発行。田岡香逸先生が調査をされたのは、もう50年以上前かもしれません。西宮市は人口移動も激しく震災などもあったため、無縁仏は年々増え、上鳴尾墓地でも「お墓のご縁者は連絡を」と書かれた整理予備軍の墓石が目立ちます。そうした中で、この無縁仏群の様相も、変貌があったことが予想されます。
     市史には、石造物の写真や拓影、図版なども載せられていて、特定しやすいはずなのですが。
     無い。探しても見当たりません。
     失われた、ということでなくとも、積み重ねられてよくわからなくなってしまっていることも考えられます。僕は、しつこく探しました。
     さすれば、ピラミッドの如く積み重ねられている墓石・石塔群の東南角あたり。他の墓石の後ろに重なるように隠れていた板碑を見つけました。

     

     おそらく、これだ。
     大きさ、船の穂先のような先端部、上部の溝の幅、仏さんの様相。推定室町初期、花崗岩で造られた弥陀板碑に、ほぼ間違いないでしょう。ほぼ600年前のものです。よくぞ残っていてくれた。(T-T)ウルウル
     ただこれでは、いつ姿を消してしまってもおかしくはありません。
     こういうときに、旧甲東村は偉いとつくづく思います。甲東地区ならば、こういうものにもとっくに立て札が建っていただろうと。
     甲東文化財保存会は、道標から石仏から橋まで、あらゆる歴史っぽいものに説明板をつけて保存に勤しまれています。頭が下がります。鳴尾にも、鳴尾文化協会という団体が存在するようなのですが、とてもそこまでかまってはくれません。これは無理のないことではあるのですが、なんとかならないものでしょうかねぇ。
     だったらオマエがやれ、と言われそうなのでそういう話はすぐに引っ込めることにします(汗)。なお言い訳をしますと、僕は旧今津村の住人で、鳴尾に住んでいるわけではありません(近いけど)。

     さて結局、推定鎌倉の五輪塔基礎の他、南北朝時代の宝篋印塔塔身、五輪卒塔婆形板碑、大日種子板碑が見当たりません。ことに二つの板碑は、ほぼ完全な形で残っていたはずなのですが。しかし、無い。
     僕は、釈然としない思いで一度帰宅。画像を整理しようとPCに向かい、それでも諦めきれずに、最後の手段で少し検索をしてみました。
     さすれば、判明したことがあったのです。
     
     次回へ続く。

    ※初出:西宮ブログ「 "target="_blank">凛太郎の自転車操業
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    | 2013/11/28 | 西宮流 | 06:35 | comments(0) | trackbacks(0) |

    鳴尾の古い石造物をたずねて(一)

  • 2013.11.27 Wednesday
  •  いちおう前回の続きです。(;´▽`A``
     鳴尾西方寺の宝篋印塔を見てのち、僕はさらに自転車を走らせました。本郷学分筋から43号線を北へ渡り、焼屋敷踏切りで阪神電車をこえます。目指すは、上鳴尾墓地です。

     西宮市史七巻資料編(昭和42年刊行)に、田岡香逸氏による「金石文資料調査記録」が収録されています。以後は、これに拠ります。
     西宮市内に存在する石造物のうち、鎌倉時代のものだと推定されているものは、全部で9基あります。1基を除きいずれも14世紀のものと考えられていて、鎌倉中期以前のものは、西宮では確認されていないようです。
     

     最も古いとされているのは、鷲林寺にある石造七重塔です。

     
     
     伝武田信玄墓。そんなわけはありませんが、これだけが推定年代として1290年代(13世紀)。相輪が欠けていますがほぼ完全に残っています。僕も別サイトで一度ふれました。(→神呪寺・鷲林寺末尾)
     以下推定年代の古い順に、

      生瀬 浄橋寺 五輪塔  完全
      甲山 神呪寺 宝篋印塔 塔身のみ
      鳴尾 西方寺 宝篋印塔 相輪欠け(前記事参照)
      上鳴尾墓地  五輪塔  基礎のみ
      瓦林 極楽寺 弥陀石仏 完全
      生瀬 浄橋寺 露盤   完全
      小松 岡太社 多層塔  寄せ集め(伝平重盛供養塔)
      上鳴尾墓地  多層塔  ほぼ完全(伝佐々氏供養塔)

     さらに、市史編纂以後で見つかったものでは、僕が知る限り瓦林の熊野神社にある多層塔の残欠があります(→こちら記事冒頭)。他にもあるのかもしれませんが、これを加え10基とします。うち、鳴尾地区にあるものが4基です。
     いずれも銘はありません。したがって年代は推定であり、もしかしたら見直しも考えられるかもしれません。だんごさんは西方寺の宝篋印塔を平安期まで遡る可能性があるとおっしゃられています。そうであれば、西宮で最も古い石造物であるのかもしれません。
     銘が残っているもので最古のものは、浄橋寺の五輪卒塔婆です。

     

     応永十六年(1409)と刻まれています。これはすごい。
     この五輪卒塔婆、さらに前述した鎌倉時代のものを含めて、室町時代初期(15世紀初め)までに造られた石造物は、市内で23基です(西宮市史に拠る)。熊野神社の残欠を加えたなら24基。
     そのうち、鳴尾所在とされているものを挙げます。

     南北朝時代
      上鳴尾墓地 宝篋印塔     塔身のみ
      上鳴尾墓地 五輪卒塔婆形板碑 完全
      上鳴尾墓地 五輪卒塔婆形板碑 ほぼ完全
      上鳴尾墓地 大日種子板碑   完全
     室町時代
      上鳴尾墓地 弥陀板碑     下部欠失

     さらに鎌倉時代のもの(前述)が4基。つまり、鳴尾だけで9/24です。
     それ以外は生瀬浄橋寺の5基が目立つだけ。市内では鳴尾に古石造物が集中している、とも言えるでしょう。
     
     

     まずは、岡太神社の二基の石造九重塔です。
     これについては、別サイトでも書いたことがありますが(→岡太神社)、平重盛の供養塔と伝えられ、形式から鎌倉時代末と推定されています。重盛没時の時代とは合わないのですが、まあそれはいいとしましょう(汗)。
     さらに、もともと十三重塔であったものを三基ぶんを寄せ集めて、二基に二基に組み合わせた可能性が高いようです
     もと一基は小松墓地に、もう一基は洪水避けの堤のあたりに建っていたもので等覚寺に一旦はあったものだとされています。

     あとは、全て上鳴尾墓地にあるはずなのです。

     と、上鳴尾墓地に着く前に話が長くなってしまいました(汗)。次回に続きます。
     

    ※初出:西宮ブログ「 "target="_blank">凛太郎の自転車操業
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    | 2013/11/27 | 西宮流 | 21:25 | comments(0) | trackbacks(0) |

    鳴尾西方寺の宝篋印塔

  • 2013.11.24 Sunday
  •  もしもしさんの記事「聖地巡礼その86の2:鳴尾 お地蔵様のお引越し後編 西方寺」に、鳴尾西方寺に推定鎌倉時代の石塔が存在する、と書かれていました。それはどうも宝篋印塔であるらしく。
     鎌倉時代であれば、相当な古さですよね。鎌倉以前と推定される石造物って、西宮にはそんなに数多くはないはずです。僕はとりあえず図書館で下調べをして、それから西方寺へ行ってみることに。

     ところで、僕の印象ですと宝篋印塔ってあまり西宮では見かけないような気がします。もちろん墓石として新しく建てられたものはありますが、古いものは目に付かない。宝塚の中山寺とかで立派なのを見た記憶がありますが、西宮では多層石塔に目を奪われてしまって。
     西宮流では、過去ににゃんこさんがアップされています(→宝篋印塔 神呪寺八十八箇所)。助かります。こちらのは笠石に特徴がなく典型的なものとは言いがたいのですが、宝篋印塔とはだいたいこういう形をしたものです。
     具体的には、基礎も塔身も方形。その上に段形(ピラミッドのような)の笠石を置き、その四隅に飾りとして跳ね上がる突起があります。やはりこの笠石が特徴でしょう。その上に相輪が伸びます。wikipediaにいくつか画像がありますので、ご覧下さい。

     では、西方寺へ。

     

     「鳴尾に過ぎたるは寺と西瓜」という言葉が残っていますが、鳴尾はお寺さんが多いところです。ことに、このあたりは密集していると言ってもいいかもしれません。しかし、あまりそれらのお寺さんには入ったことはありません。
     神社というところは、入りやすい。多くは囲いが瑞垣で丸見えであり、お参りという目的もあります。しかし、神呪寺や門戸厄神さんならともかく、町のお寺さんは入りにくいのです。塀も高く門もある。勝手に入って「どちらさんでっか?」と言われても困ります。かと言って、ごめん下さいとわざわざ訪ねて「何か歴史っぽいものはないかと思いまして」などと言っても「はぁ?」と言われるのがオチ。で、お寺さんにはあまり縁なくきました。
     ですが、今日は入らせていただきます。無断で(だって声掛けるのって恐縮なんですもん^^;)。

     西方寺は、たいへんに由緒あるお寺です。一応、創立は正保元年(1644)とされていますが、これは再建の年月のようで、それ以前に慶長年間の記録があり、寺伝では元亀元年(1570)に創建されたと。戦国時代です。最初はもっと北、現在の鳴尾高校あたりにあり、天正年間に信長によって兵火にかかり焼失しています。再建されたものの、万治の大水害(戸崎切れ)によって流され(1659)、以後現在地に存しています。元禄の初めくらい。

     

     浄土宗のお寺でもちろん本尊は阿弥陀さまですが、大道歳男氏の「なるを」によれば、かつて本堂以外にお堂が四宇あったそうで。観音堂、庚申堂、行者堂、烏枢瑟摩堂と。烏枢瑟摩(ウスサマ)明王ってあまり見ませんね。不浄を清める力をお持ちで「トイレの神様」と言ってはどうなのかと思いますが、珍しい。
     しかし、これらお堂はちょっと今は見当たらないようです。震災があり、本堂も耐震構造に建替えられている様子で、もしもしさんが指摘されている地蔵堂しか別堂はありません。おそらくは本堂に移っておられるのか。

     

     もしもしさんご紹介の、地域のお世話できなくなり途絶えたお地蔵さんが集められているお堂。まずこちらでお参りして、本堂西の寺院内墓地へ。
     ところが、パッと見その宝篋印塔が見当たりません。どこだろう?

     

     てっきり隅のほうに特別に設置されているのだろうと思いましたら、他のお墓に並ぶようにして、いかにも古い宝篋印塔が存在しました。
     これか。
     こんなふうに普通にあるとは思いませんでした。花も手向けられています。文化財としてではなく、現在も供養塔として現役であるようです。 

     

     僕には全く知識がなくこれが鎌倉時代のものかどうなのかは判別など出来ませんが、他地域のものとの比較対照によって推定できるようです。僕にも、風化具合から相当に古いものであることくらいはわかります。
     最上部の相輪は欠けていて、他の五輪塔上部で補っているらしく、宝珠のような部分は後付です。しかしピラミッドのような笠石といい四隅の突起といい、典型的な宝篋印塔です。
     合掌して、写真を撮らせていただきました。推定約700年前の石造物です。

     いろいろなことが考えられるのですが。
     これが鎌倉時代のものであるとしたら。石造物というのは、理由がない限り動かないものです。つまりこの宝篋印塔は、推定鎌倉時代末期からここに存在していた可能性が高い。
     西宮市史は、中世の石造供養塔婆は墓地に建てられる場合が極めて多いことから、西方寺の現境内はもともと墓地だったと推定しています。その墓地に、本来小曽根村にあって、万治の水害で被害をうけた西方寺が江戸時代にあとからやってきたと。
     この宝篋印塔は、700年の時に耐え、今にその姿を留める、鳴尾本郷で最も古い遺物であると考えられます。そして、鳴尾という集落が鎌倉末期から存在し、宝篋印塔のような細密な石造物をつくる実力、経済力を持っていたことが知れます。鳴尾の記念碑的存在であるとも言えるでしょう。
     これが、指定文化財ではないのですな。そして、特筆すべき歴史物語が付随しているわけでもない。今も当たり前のように、西方寺さんが守られている。だから、もしもしさんが指摘されるまで僕もよく知らなかったわけです。

     これは、もう少し考えなくてはいけない。古い石造物を見直す必要があります。
     ちょっと長くなりましたので、今記事はここまで。m(_ _;)m

    ※初出:西宮ブログ「 "target="_blank">凛太郎の自転車操業
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    | 2013/11/24 | 西宮流 | 16:24 | comments(0) | trackbacks(0) |

    鳴尾本郷の「謎の石」

  • 2013.11.17 Sunday
  •  もしもしさんが西宮聖地巡礼という壮大な試みをなさっておられます。頭が下がります。なかなかスポットのあたらない小松の弁天さんや妙見さんが登場し、僕は今津鳴尾界隈がホームですので、次はあそこかなあと予想しては楽しんでいます。
     拝見していますと、細かな路地裏探訪が伴われている点もまた楽しく。ことに鳴尾という町には、なんとも感傷を呼び起こす不思議な一画がありますから。
     もしもしさんの、この鳴尾町四丁目のお地蔵さんの記事にはその雰囲気が出ています。こちらの善教寺の記事では、地元のZ探偵団さんが「鳴尾ミステリーゾーン」という言葉を遣われています。
     僕も、この一画ではいつも、軽いタイムスリップ感を味わいます。
     
     僕は今でこそ西宮という街が大好きで、西宮歴史ヲタクみたいになっていますが、初めて越してきた頃にはあまりなじめなかった印象があります。それは、街がある意味新しすぎたからだろうと思います。
     僕は京都で生まれ育ち、また西宮に来る以前は金沢に10年ほど暮らしていました。いずれも戦災の影響をほとんど受けていない街で、昔ながらの細かな路地などが残っていました。そんな風景が、なかなか西宮にはない。
     そんなとき、ふとこの「鳴尾ミステリーゾーン」に足を踏み入れ、僕が生まれた町の路地に似ているな、と思いました。子供の頃は、こんな路地でいつも遊んでいた。そんな記憶が、郷愁を誘うのでしょう。それは、僕が西宮に愛着を覚えるようになった第一歩だったかもしれません。
     なぜ、こんな一画が残っているのでしょうか。
     僕は何年か前この記事を書いたとき、鳴尾村の空襲被害を調べたことがあります。紫電改を製造していた川西航空機、そして鳴尾飛行場があったために、鳴尾村は8度も空襲を受け焦土と化しました。死者188人。住居全焼3611戸。被災地区総面積205.59ha。鳴尾村誌には、爆撃で焼かれた範囲は本郷中筋より少し西から南側の一帯」という証言も載っています。このあたりも、罹災しているはず。
     しかし、このあたりは頑固に昔の風情を残しています。

     閑話休題。
     僕は先日、所用でららぽーとへ。そのあと尼崎に行くため、歩いて阪神鳴尾駅へ向かいました。必然的に、このミステリーゾーンを通ります。
     このあたり、いろんなものがあるんです。

     

     これ、踏み臼の支点ですね。なかなか今では見られないものです。新湯の北側にも残っています。

     鳴尾支所に出る手前あたりが、最もディープスポットかもしれません。
     路傍に石が。角にしっかり埋め込まれています。

      

     この石は、既にZ探偵団さんが紹介されています。(→謎の石)
     僕はこの石に気を留めたことはありませんでした。気が付いていなかったのです。Z探偵団さんは「道しるべではないか」と推察されてます。
     僕は、まさか道標じゃなかろう、と記事を拝読したときは思っていて確認には行ってなかったのですが(ごめんなさい)、近づいてみますと…わわわ、何と文字が刻まれているじゃないですかっ!

     

     埋まっている部分もあるかもしれないのですが、出ている部分だけを見ますと
     「道巾 六尺五寸 明治六」
     と、読み取れます。明治六年か、これは古いぞ。
     この文言から、道路幅を示した標石であることが伺えます。道標ではないにせよ、明治初年の交通標識みたいなものであるかもしれません。Z探偵団さんホントごめんなさい。すぐに見に行くべきでした(汗)。

     ところで、この「道巾六尺五寸 明治六年」という文言に近いものを僕は知っています。以前別ブログでも採りあげました。同じ鳴尾ですが北上、線路向うの寿公園にあるこの石碑です。

     

     「道巾九尺」でいいのでしょうか。これも、明治六年です。これには世話人のお名前も刻まれ、道幅を示すと同時に記念碑的役割も兼ねていると言えます。
     これらの標石。確かに謎ですね。はっきりしたことはわからない。ただ道幅をこれだけはっきり示しているということは、道路新設の顕彰だけではないでしょう。やはり交通標識ではないでしょうか。
     以下推測ですが。
     ただ人が歩く道にこんな道幅表示など必要ない。道幅表示を必要とするのは、車です。当時だと大八車などでしょう。つまり、ここは荷車が通る道であったということではないでしょうか。
     考えられるのは、鳴尾における商品作物です。江戸時代中期から、鳴尾では綿や菜種などの栽培がさかんとなりました。ことに綿は盛んだったといいます。これらは、何より高額で取引されました。
     吉井良秀氏は「老の思ひ出」において「鳴尾村には特に全村従事した、夫れ故当地には綿の問屋が彼是有つた」と記しています。問屋まであったのです。さすれば、この鳴尾本郷には綿の集積場があったのかもしれません。そして、加工場や問屋があったのでしょう。そして全国へさらに流通させるためには、荷車、荷馬車は必須です。ために、明治に道路を新設もしくは整備したと。
     鳴尾村本郷の北に、中国街道が通っています。現在の旧国道。当時の交通の大動脈でした。集積された綿は、この道を通じて運ばれる。「道巾九尺」の道は、おそらくは中国街道へのアプローチルートを整備したものとも考えられます。

     九尺といえば2.7mくらいかな。それほど広い道とは思えませんね。しかし当時はこれで十分だったのでしょう。
     そして、六尺五寸といえば2m弱です。なんとも狭い道…と現在の感覚では思いますが、別に自動車が走るわけではなく、明治初期に荷車が通った道です。立派に役割を果たしたことと思います。
     そして、鳴尾本郷のこの一画がすばらしいと思うのは、この明治初期の道幅が現在も生きている、ということです。そりゃ郷愁も懐古の情も生じますよ。このミステリーゾーンの道も、ひとつの文化遺産と考えたい気がします。


     
    ※初出:西宮ブログ「凛太郎の自転車操業
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    | 2013/11/17 | 西宮流 | 09:26 | comments(0) | trackbacks(0) |


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