スポンサーサイト

  • 2016.12.30 Friday
  • 一定期間更新がないため広告を表示しています



    | 2016/12/30 | - | | - | - |

    「新堀川上流最大の謎」に迫る その3

  • 2011.11.14 Monday
  •  前回の続きです。in図書館〜。\(*^▽^*)/

     次に、古い地図にあたります。
     ところが、ここは素人です。なかなかいい地図を見つけられない。図書館で検索して「これかな?」と思っても見てみると甲武橋が切れていたりする(汗)。書庫を何回も往復していただいた図書館の方には大変お世話になりました。m(_ _;)m

     しかし、細密な地図は存在せず、決め手となるような収穫はありませんでした。ですが。
     「明治42年測図 大日本帝国陸地測量部地図 甲山 1/20000」を見ますと、既に甲武橋は完成して記載されています。その橋にアプローチする大きな道はまだ存在せず、予定路のようなものが書き込まれていますが、何ともよくわかりません。
     大正時代の図書館所蔵の地図にはなかなか甲東村がうまく現れず苦慮していました。ところが、昭和も戦前の地図「大日本帝国陸地測量部地図 昭和4年第二回修正測図 同7年要部修正測図 寳塚 1/25000」には、旧来の西国街道から分かれて、甲武橋にアプローチする道路が作られているのが見えます。
     このアプローチ道路、旧道を改修したものかどうかまではわかりませんが、上記「旧西国街道から中ほどで別れ、上大市から樋ノ口に通ずる旧道を利用していた(下大市今昔物語)」に該当することはほぼ間違いないでしょう。
     そして、そのアプローチ道路が「大日本帝国陸地測量部地図」上では何ともう「西國街道」と名付けられています。あら、戦前に「新西国街道」が出来てるわ(笑)。
     地図をトレースしたり加工したり、という技術はありませんので(こういうの今津っ子さんなら綺麗に提示されるんだろうな…)、とにかくここは僕流で、走り出してみることにします。

     中央図書館から自転車に乗って、いざ甲武橋を目指せ! ≡≡≡ヘ(*゚∇゚)ノ
     この道筋は、室町時代以前の西国街道とだいたい同じルートですね〜。広田からは本当に西国街道を走り、門戸厄神さんの駅を越え、中津浜線までやってきました。

      

     ここは、旧来の西国街道のルートです。以前、西国街道と中国街道という記事にしました。では、もう少し武庫川へ向かって進みます。

       

     しばらく行くと、道が二又に分かれます。「下大市今昔物語」の記述どおり、ここは上大市四丁目。画像の左側の道が旧西国街道ルートです。用水路が見えますが、これは百間樋用水2でたどった「上井」であり最終的に津門川になる水路です。
     で、右側の道が「新西国街道・旧甲武橋アプローチルート」です。そちらへ進みます。

      

     甲武橋めざしてまっすぐ進みます。途中、百間樋川(下井)を越え「極楽橋」のある旧道と分かれると、国道171号線に合流するポイントにやってきます。

       

     ここで、新西国街道は171号線に突き当たって飲み込まれてしまいます。正面の道が「消され」ているのがおわかりいただけると思います。171号線が出来る前は、まだこの道は向うへ続いていたのです。では、向う側へ回り込みます。


     というところで、投稿データ量いっぱいです。また次回(涙)


    【西宮流(nishinomiya-style)ブログより転載】


    このエントリーをはてなブックマークに追加 Check


    | 2011/11/14 | 西宮流 | 05:52 | comments(0) | trackbacks(0) |

    「新堀川上流最大の謎」に迫る その2

  • 2011.11.13 Sunday
  •  前回の続きです。えー、図書館行ってきましたー。(^-^*)/

      

     これか、「新堀川上流最大の謎」というやつは。w( ̄o ̄)w オオー!

     まず文献にあたります。
     西国街道から171号線への移行時期のことですが、西宮市史にごく短く載っています。
    幕末慶応三年に兵庫開港にともない西国街道付け替えが計画されたこともあったが実現せず、明治以来旧態のままでほとんど改良が加えられなかった(西宮市史第三巻)
     というわけで、明治大正時代にはほぼ171号線の計画は動いていません。
     で、甲東村や西宮市、武庫村や伊丹町が昭和10年に県に要望して、昭和15年くらいから動き出すのです。工事はある程度進んだのですが、戦争のために中断し、以後は戦後です。
     「幅員15〜17mの幹線道路として利用度を増すとともに市北部の発展を促進した」と市史は書きますが、どうも市史三巻が発行された昭和42年(執筆年はもっと以前)には全てが完成したわけではないのか、歯切れが悪くなっています。かと言って「西宮現代史」には171号線について言及がなく、最終的にはよくわかりません。でも、まあいいか。甲武橋マンボウ(仮)に覆いかぶさっていたのは、どうも171号線ではないらしいことがわかりました。

     次に甲武橋の歴史ですが、髭の渡しの説明板に「明治四十二年架橋」と書かれている以上の知識を僕は持っていないので調べます。ですが、市史にはほぼ言及がありません。これについて記載があるのは「下大市今昔物語(松岡孝彰編著)」です。
     以下、松岡先生からの受け売り。
     甲武橋は神戸の山本平三郎氏(建築請負業者でのち衆議院議員)によって明治40年10月完成です。これは鋼橋で上部が厚板、当時としては相当に頑丈なものだったようです。ここから原文引用。
    新西国街道が未だ出来てないために、西宮方面からの通路としては、旧西国街道から中ほどで別れ、上大市から樋ノ口に通ずる旧道を利用していた(下大市今昔物語)
     とあります。この旧道が整備されたものであるとすれば、甲武橋マンボウ(仮)に覆いかぶさっていた道である可能性もあります。ですが、確証はありません。
     以後、橋は昭和2年2月に大修理されています。
     その後、新橋が架橋されます。起工は昭和16年、しかし戦争のため約10年遅れ昭和26年完成。これが幅員6.3m、有効幅員5.8mであったため車が増えれば人が歩けなくなり、橋の南側に鉄ケタ製人道橋1.5mを継ぎ足すことになり着工、「将来は同橋北側に2m間隔をあけて同じ規模の橋を増設する」と。
     「下大市今昔物語」は昭和38年発行ですので、この人道橋及び北側の同規模橋は、もう出来ています。それらを併せて現在の甲武橋と考えていいと思われます。
     検索しましたら、データが出てきました。→歴史的鋼橋: G9-002 甲武橋
     一般図が添付されていて、上記述でほぼ間違いないことがわかります。
     問題は、旧橋がどこにあったか、ですよ。それがどこにも書かれていない。
     推測ですが、昭和16年に架橋が始まった新橋は、戦争を挟み工事に10年かかっています。この間、橋が無かったことは考えられず、旧橋は間違いなく昭和26年までは存在していたはずです。旧橋を落としてその跡に新橋、ということは絶対にない。
     新橋は旧橋の北側で工事着工した、とどこかに記述があれば、もう甲武橋マンボウ(仮)の問題はほぼ解決したと言ってもいいんです。しかし、それが出てこない。

     次に、地図にあたることにしました。

     と、ここまでで登録データの上限4000byte超えたとお叱りが。この先もまだまだ話は続くのですが、次回ということになりました。ぐすん。


    【西宮流(nishinomiya-style)ブログより転載】


    続きを読む >>
    このエントリーをはてなブックマークに追加 Check


    | 2011/11/13 | 西宮流 | 18:37 | comments(0) | trackbacks(0) |

    「新堀川上流最大の謎」に迫る その1

  • 2011.11.10 Thursday
  •  まずは、この記事から→樋之口の煉瓦遺跡

     にゃんこさんちで話題になっていた甲武橋たもとのレンガ積トンネルのようなものの話。フラモニさんの記事がきっかけらしいのですが、僕も以前に訪れていました。で、自サイト「ちょっと歴史っぽい西宮」でいつか採りあげようと思っていたのですが、うまくハマるテーマがなくボツネタになっていました。
     僕のPCの「西宮フォルダ」にまだ画像が残ってます。これです。

      

     明らかに歴史的建造物です。
     知らなかったのですが、これ、郷土資料館に「新堀川上流最大の謎」として掲示されてるんですってね。「樋ノ口町一丁目13にあるこの建造物は、何でしょうか?」と。
     どうも実見談などを求めておられるようなんですが、僕はまだ西宮歴十数年ですので、とてもとても昔のことは知りません。でも、面白そうなので推理だけ書いてみようかと。「新堀川上流最大の謎」に迫ってみます(笑)。

     流れているのは、新堀川です。江戸時代に築かれた用水路で、鯨池を水源としています。詳細は、「幕藩体制下の西宮」に書きました。後半部分を参照してください。
     で、その江戸時代以来の用水路をトンネルで覆っているわけです。
     このトンネル、ひと目見て何かはわかりますね。
     マンボウです。
     西宮市内には有名な細雪マンボウをはじめとしていくつかの同様のものがあります。現在ではJRをくぐる人道トンネルですが、かつては鉄道の盛土の下に用水路を通すために築かれたトンネルでした。それを、人道トンネルに改修したのです。
     ということは。
     この甲武橋マンボウ(仮)の上にも、何かが通っていたことになります。

     鉄道ではありません。そんな記録はない。おそらく、道路でしょう。
     僕は、もしかしたら旧国道171号線なのではないか、と推測します。

      
     
     この幅、現在の171から見れば少し狭く思いますが、明治大正であれば道幅は十分じゃなかったのでしょうか。
     甲武橋の歴史を考えてみます。
     甲武橋は、明治42年に架橋されました。「髭の渡し」の説明板にそう書かれています。
     しかし、現在の甲武橋はどう見ても明治のものではない。昭和でしょう。
     とすれば、今の甲武橋は少なくとも2代目です。つまり、架け替えているはず。以下、想像の物語となります。
     明治時代、初代甲武橋が架けられた。位置は、現在よりちょい南側。大動脈西国街道への初めての架橋となる。同時に、今までの西国街道は道幅が狭く不自由であるために、新たに道が建造されようとしていた。それが、171号線の前身となる新西国街道だった。
     この新西国街道と甲武橋を接続させなければならない。武庫川は、重なる水害のために堤防が高く上げられている。道は馬車も大八車も通れるよう、武庫川に向けて徐々に土を盛り、なだらかに勾配をとっていく必要がある。今まで石橋で渡っていた新堀川の上にも封土がなされ、水路として道路の重量に耐えるようにマンボウが造られた。
     時代を経て、昭和。モータリゼーションの波も訪れようとしていた。道幅そして橋の強度も要請され、新・甲武橋を建造することとなった。
     新橋は、旧橋の少し北に架橋。完成と同時に旧橋は安全性の面から撤去された。そして、「旧道」となったマンボウ上の道も盛土が剥がされ、道は住宅地に転売され、封土を失った裸の「マンボウ」だけが昔の名残として今に在る。
     こんなストーリーを考えました(笑)。でも、171号線と橋が築かれた年代の整合性がとれれば、正解の可能性もありますよー。あとは古地図との照合。正確な大正時代の地図があれば推し量れます。時間があれば僕も文献にあたって調べてみたいと思いますが、今日のところは叩き台となる推察だけを。


    【西宮流(nishinomiya-style)ブログより転載】


    続きを読む >>
    このエントリーをはてなブックマークに追加 Check


    | 2011/11/10 | 西宮流 | 04:38 | comments(0) | trackbacks(0) |


    CALENDER

    S M T W T F S
         12
    3456789
    10111213141516
    17181920212223
    24252627282930
    << September 2017 >>

    CATEGORY

    ANOTHER BLOG

    メインブログ
    酒・旅・フォーク・歴史・プロレスをテーマにときどき更新


    ちょっと歴史っぽい西宮
    別館・西宮歴史探訪サイト
    凛太郎の自転車操業
    西宮地域ブログ

    PROFILE&BBS&MAIL

    自己紹介です。
    BBS
    掲示板です。
    Mail
    メール送信フォームです。

    NEW ENTRIES

    SEARCH THIS SITE.

    ARCHIVES

    RECENT COMMENTS

    RECENT TRACKBACK

    BLOG PARTS


    RECOMMEND


    MOBILE

    qrcode

    SPONSORED LINKS


    OTHERS


  • フィードメーター - 凛太郎亭日乗


  • ついったー




  • 無料ブログ作成サービス JUGEM