ここまで、難読命名について書いてきました。
キラキラネーム1・
2・
3・
4
これについては、揶揄もおもねった賛同もしない、というスタンスで書いたつもりでしたが、ただ「読めない・読まれないのは困るはずだ」という考えは一貫して持っていました。名前は記号である、と極端なことは言わずとも、名前というものは自分以外の人に識別してもらうための役割が重要なことはいうまでもないこと、との認識を持っていました。
簡単に言えば、名前は読まれてナンボである、ということです。呼ばれるために存在しているのだから。
だから、僕も現在いわれるところの「キラキラネーム」を読みこなせる能力の必要性を感じますし、慣れていこうとは思います。社会生活の中で、相手の名前を間違えずに呼ぶ、ということは重要なことだからです。
それと同時に、今後親になる若い人には、できるだけ簡単に読める命名を望んでいます。
親の立場からしても、読めない名前では不便だし子供が困るということはわかっているでしょう。一度で読んでもらえない名前、聞き返される名前、電話で説明できない名前では、益はないという理解はあるはずです。だから「読みやすい名前を」と僕らが望んでも、的外れの要望ではないはず。そう僕は疑いませんでした。
それでも難読命名が行われ続けている理由を、僕はこんなふうに考えていました。
・難読かもしれないと思いつつ、それでも自分が拘る名をどうしても付けたい
・まわりも同様なので、トレンドだと信じて疑わない
・本当はもう少し読みやすい字を用いたかったが、字画占いで致し方なかった
・自分が付けた名前が、まさか難読であるとは思っていない。
つまり、難読にしたくて難読にしているわけではないのだろう。そう思っていました。そこへ漢字に対する意識の変化、頭文字切り読みなどの新訓、使用音韻の欧米化などが加わり、結果として読みにくくなってしまった。
ですが、あくまで結果としてそうなっているだけで。親はまさか「読まれないほうが良い」などとは微塵も思っていないはず。子供の幸せを願わぬ親はいない。
このことには確信を持っていました。
以下、このシリーズの前半記事についたコメントです。
うちの娘もキラキラじゃないですが、まず読んでもらえません
ある種それも狙いなので一発で読まれたら悔しいですが
これには、本気で驚いたわけです。一発で読まれたら悔しい?一発で読まれなければ悔しいの間違いではなくて?読まれないのが狙い?!
僕の大前提が崩れました。そして、頭を抱えてしまったわけです。
この方は、長いお付き合いでわかっていますが、決していいかげんな人ではありません。思慮深く真面目で娘さん思いの、ちゃんとしたお父さんです。
子供のことを思っているにもかかわらず、読みにくい名前を付ける、という心理が存在する。
驚愕でした。
その心理について考えていきたいと思うのですが、その前に、もしかしたら僕の前提は間違っていたのかもしれない、と思える点が他にもありました。
それは「読まれないのは困るはず」という部分においてですが、そんなに人は名前(いわゆるファーストネーム)を呼ばれる機会が多いのだろうか、ということです。それは、考え直さねばならないのかもしれません。
自分のことで考えてみます。
仮に僕の名を「西宮凛太郎」として、「凛太郎」「凛太郎ちゃん」と名前で恒常的に呼ぶのは、親兄弟、親戚、妻、義父母など。まとめれば「身内」ですね。それ以外には、存在しないのです。身内は名を読み間違えるなんてことはありません。
それ以外は、すべて姓でした。幼稚園のときですら「西宮クン」と呼ばれていたと思います。小中高においても、教師が最初に名前の確認をしますが、その時だけで以降は姓のみです。同級生らも「西宮ぁ」「西ちゃん」「ニッシー」などニックネームも含み全て姓です。凛太郎、などと名で呼ばれたことなどありません。
これは、地域差など事情によってかわるだろうとは思います。僕の妻は、幼少期通じてずっと名前だったようです。学年10人程度の小規模校だったこと、同じ姓が多かったことなど(言葉悪いですが田舎だったこと)が要因としてあります。僕は住宅地の一学年何百人のマンモス校でした。
また人間関係の親疎もあるかもしれません。女の子同士は名前で呼び合う例も多かったかも。しかし少なくとも僕は、学校生活において名前を呼ばれることはほとんどなかったのです。姓由来の渾名ばかりでした。
親疎、というのは、重要なことだと思います。後にまたふれたいと思います。
他では、例えば役所や病院で呼び出される場合。しかしこれも、書類にはふりがなを打つのが一般的ですし、今は個人情報ということもあって氏名呼び出しを避け番号などで対応する場合も多くなってきました。
電話で(口頭で)説明できない名前は大変、とはよく聞く話です。僕の本名は姓のほうが難しく、説明では苦労しました。ただ、最近はそういう説明の機会が減ったように思うのです。対面では名刺を出せばすむことですし、また電話で説明する機会も減りました。連絡手段としてメールの占有率が高まったせいではないか、と思っています。さまざまなものの予約なども、メール使用が増えました。
社会では、姓が一般的です。僕なら「西宮さん」でしょう。初対面で名刺交換していきなり「凛太郎さん」と呼びかける人は、変人です。
あるいは、役職。また組織にいるひとは外では組織名(○○会社さん)など。
名前というものは、考えるほど用いられていないのです。名前が読めない、なんてことは、実社会においてはさほど重要なことではないのかもしれません。著名人でなければ。
だから「読まれない名前のほうがよい」ということにはなりませんが、昔より難読名のリスクは減ったような気もしています。難読で困るのは、本当は姓のほうです。名は、社会では呼ばれなければ呼ばれないで済んでしまいます。
今の親御さんたちは、そういった「リスクの軽減傾向」も踏まえて、読みにくい名を付けているのでしょうか。そうであれば、これは僕などよりも一枚上です。
では、なぜ読まれにくい命名をするのか、ですが。
前述したように、拘りの名を付けたい、流行に乗る、或いは姓名判断・画数占いの結果などで難読になってしまっている場合も、やはり多く存在するとは思います。
しかし、一度で読まれないことを狙いとしている方がいることがわかりました。そして、これは特殊例とはいえない、と今では考えています。そう考えないと、この難読命名の氾濫の説明がつきにくいのです。
他にしっかりとしたサンプルがあるわけではありませんが、少しネットをさまよって散見していますと、同様の意見がいくつも見えます。
その中には「これなんて読むの?と聞かれることによって印象付けられる」という考えの方もいらっしゃいました。これは最終的には他人に多くその名を知ってもらいたい、という願いから逆に読めない命名をするという離れワザですね。
他に、難読が個性なのだ、と考えられているふしもあります。オンリーワンを目指せば「すっと読まれるような名前じゃだめ」ということです。
しかし、ただ単純に「簡単には他人に名前を読まれたくない」という意見も、いくつか見たのです。
いろいろ考えられるのですが、ひとつにはこの考えは、実は日本古来よりの伝統的思考ではあるのです。何度も書いてきましたが、これは諱(いみな)の考え方と同じものとも言えます。
僕だって、そんなに簡単に名前を呼ばれたくありません。親しくもないのに。
大学で、はじめて同じ講義で隣り合わせた人に「姓じゃなく名前を教えてくれ、それで呼ぶから」といわれて実に気持ち悪かったことを思い出します。彼は、おそらく一気に親しくなろうと思ったのでしょうが、順序が逆です。親しくなってから「凛太郎」と呼んでくれ。
だから、名前で呼び合っている人たちは、本当に親しい関係に見えます。
昔レーガン大統領が来日した際に中曽根首相と「ロン・ヤス会談」を実施しましたが、あれは親しさアピールです。ですが、多少の違和感はありました。作られた親しさが丸見えだったのと共に、ファーストネームを呼び合うということに日本人は慣れていない、ということがあります。昔YMCAに少し顔を出していた時、あちらの人はすぐに「ジョンと呼んでくれ、凛太郎!」と簡単に言うので、閉口したおぼえがあります。
名前というのは、僕だけのものなのです。その名を共有できる人は、限られた人なのです。この心理、わかってもらえる人もいると思います。ぜんぜん親しくない人に名前で呼びかけられれば、戸惑うでしょう。
諱(いみな)的ものの考え方というものは、僕の中にもまだ伝統的に息づいているように思います。
日本人は、直接的に名を言うことを、避ける傾向にあります。名を呼べるのは、親疎に関わります。基本的には身内、そして親友等に限られます。
そしてさらに、どれだけ近くても、両親や祖父母など目上の身内を名前では呼びません。「兄ちゃん」という言い方はあり「弟ちゃん」という言葉はありません。
日本では伝統的に、目上の人を名前では呼べないのです。
それは、名前を呼ぶという行為が、相手との親密度合いを示すと同時に、相手を取り込んでしまうことだからです。支配下に置く、とも言えます。
諱。かつて、実名には何か神秘的な力が宿っていると信じられていました。他人に実名を知られると呪われる危険性もあるともされていました。そして、実名を声に出して呼ばれると、実名に宿る神秘の力が消滅するとも思われていました。
この言霊信仰の強い日本のことです。咒詛的意味合いは当然のごとく存在し、人々は、実名を知られることを恐れました。他人には知られたくない。呼ばれたくない。知られることを忌む名。「いみな」です。
こういう話で必ず引き合いに出される歌があります。「万葉集」の巻頭第一番。雄略天皇の歌。
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます兒 家聞かな 告らさね
そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそ座せ
我こそば 告らめ 家をも名をも
雄略天皇は菜を摘む女性に「家はどこだ、名を告げよ」と言います。自分は大和の国を統べる王である。私も、家も名も言う。だから…と。
これは単に自己紹介をしあう歌ではありません。求愛の歌なのです。そして当時、女性が名を名乗る、名を知られるということは、その人に征服される、つまり愛を受け入れるという意味だったのです。
名前というのは、その人そのものでした。
なので古代(古代に限らずですが)、女性の名前というものはなかなかあらわれてきません。紫式部も清少納言も小野小町も、本名はわからないのです。例外的に高貴な身分の女性、后妃などは記録に名が残りますが、それも大半は何と読んだかはわからず、便宜的に「彰子(ショウシ)」「定子(テイシ)」などと音読みしています。
おそらくこの時代は、名は確実に訓読みであったはずです。じゃあ「あきこ」「さだこ」だろうと思ってしまいますが、そうではない可能性もあります。
読みのわかっている人もいて、伊勢物語に登場する藤原高子は「たかこ」ではなく「たかいこ」です。難しい。藤原明子(染殿后)や慧子内親王は「あきらけいこ」であったとされます。和歌の詞書などに仮名で書かれたものがあったため判明しているのですが、女性名の読みは一筋縄ではいかないのです。
言い方をかえれば、これは「難読命名」です。当時の状況をよく知らずに言っては間違いの元ですが「あきらけいこ」なんて知っていないと読むのは難しいかと。
彰子や定子も、実際はどう読んだかはわかりません。儀子も式子も、ちょっと難しい読みだったのかもしれません。そう思うから「ギシ」「ショクシ」などと仮に読んでいるのです。
このように、名前を仮読み(音読)せざるをえない状況。諱(いみな)の役割を、千年以上経っても見事に果たしている、といえます。諱は忌み名。読まれないためのものなのです。
女性に限りません。男性名も、それは言霊的意味合いを持っていました。
名簿捧呈という儀式があります。貴族の家人となるとき、自分の姓名を記した名簿(ミョウブ)と呼ぶ札を、主人に奉げます。これは、その名を奉げることにより相手に従属したというあかしになるのです。名前は、自分の全てだったのです。平将門も、藤原忠平に名簿を奉げました。
武士が名を名乗るときは、命のやりとりをするときです。「やあやあ我こそは」と名乗り、一騎討ちをします。鎌倉武士は「名こそ惜しけれ」の精神です。名前は、それだけ重要なものであり、呪術性を帯びていると思われていました。
このように普段は実名を諱とし、声に出すのを避ける傾向は、のちに「通称」を生んだことは以前にも書いたとおりです。太郎や次郎などの生まれ順命名から、官職名が名前に入り込んでくる過程は前述しました。
そして、実名である諱は、ほとんど読まれることは無くなったのです。護良親王は「もりなが」か「もりよし」か、また織田信雄は「のぶかつ」か「のぶお」か、なんてよく論じられますが、そもそも伝わっていないのでわからないのです。
江戸時代になると、この傾向はさらに顕著となります。僕は
その3で「大名や公家が悪い」と書きましたが、そもそもこの時代の実名は読まれることがないので、読みはあまり重視されないのです。いや、むしろ読まれることを恐れてわざと「難読命名」にしていた可能性もあります。それほど、この時代の諱の読みは難しいのです。もしも相手が呪詛的意味合いで名を呼ぼうとしても、読めないのではどうにもしようがないわけですから。
それでも殿様であれば、諱は公式文書には現れますが、一般的な武士であれば実名は使用することは大抵ありません。家老クラスでも大石良雄は内蔵助で通っていて、良雄も「よしお」か「よしたか」か説が分かれています。幕末においても西郷さんは吉之助、大久保さんは一蔵です。明治になって戸籍が出来て、諱採用で大久保利通となったのです。
戸籍以前に死んだ人は、村田蔵六(大村益次郎)であり河井継之助であり小松帯刀であり、坂本龍馬であり中岡慎太郎です。みんな通称です。龍馬はんの諱が「直柔(ナオナリ)」であり、慎太郎さんが「道正」であるというのは、マニアしか知らないことかもしれませんね。
高杉晋作の諱は何と「春風」だとされています。すげーな。この人詩人だから、誰かから一字貰うだの何だの関係なしに自分で名づけたのでしょうね。これこそ今で言うキラキラネームかと(笑)。
そして、明治以後。僕も時として迷うのですが、海軍軍人で総理までつとめた山本権兵衛は「ごんべい」なのか「ごんのひょうえ」なのか。
これは、本称は「ごんべい」、武官となって「ごんのひょうえ」と格式をもって読ませるようになったとの話がありますが、つまるところ「どっちでもいい」のだと思います。結局、戸籍には読みがないわけですから。首相経験者で言えば、近衛文麿(フミマロ)も「あやまろ」と読まれたりします。
日本は、伝統的にそういうことがあるのだと思います。正式なものは、書面上が重要で訓ずることはさほど重視しないのです。「有職読み」というのがありまして、音読みOKの伝統があります。藤原定家(テイカ)や二宮尊徳(ソントク)などは、そっちの読みが一般的になっています。木戸孝允(コウイン)や伊藤博文(ハクブン)なんてのも言いますね。これは現代でも大野伴睦(バンボク)なんて人がいました。麻原ショウコウなんてのもそれにあたるかもしれません。
だいたい、日本では中国から輸入した漢字をつかっているわけで、読みなんてあまりこだわらないのです。そもそも「日本」もニホンかニッポンかよくわからない。国名ですらこれでは、あとは何をかいわんや、です。固有名詞の漢字の読みなんて、実はどうでもいいのかもしれません。
だったら、もう怖れることはないのかもしれません。今の子供たちの名前が読めなくても、いいんだ。諱はそもそも、読まれないものなのです。
社会も、そうなっていけばいいのだと思います。名前を読まなくても、そして呼ばなくてもいい社会へ。時々ニュースなどで「名前の読み方が間違っておりました。お詫びして訂正致します」などと謝罪したりしますが、そんなのいらない。読めないのが普通。それが常識の社会であればいいんです。どうしても読まれなければならない場合には、書類には振り仮名必須。あとは、有職読みでよし。
しかし、大翔ならダイショウでいいけど、琉絆空はどうすんだよ。リュウハンクウ?(笑)
そのあたりで僕もつまづいてしまうのですが(汗)、少なくともこういう名前の人は読めなくてもしょうがないと思うべきです。実際に読めないのですから。そして、それが当たり前なのだから、読めなくても寂しがらなくていい社会になればいい。うんうん。
ただ、この時代は本当に変わり目だということは、自覚しないといけませんね。
これまでは、まず名前で国籍がわかりました。そう書くといろいろ問題が生じそうなので、民族性としましょうか。国籍が違うとしても、この人は日本に関係があるな、と名前でわかったのです(ヨーコ・ゼッターランドさんなど)。
しかし、愛莉穂(アリス)や星愛(セイラ)では、これは難しそうです。
今は、パスポートすら非ヘボン式の表記がOKになったようで。譲二さんはJojiではなくGeorgeと綴っていいようです。Aliceもいいんだな。こうなると、何か海外で事故などの際(縁起でもない話で申し訳ありませんが)に、日本人が居たのかどうかというのが判別しづらくなりますね。
名前の無国籍性が、どんどん進んできています。いや、琉絆空(ルキア)や楽心(ラウ)はそれ以上だな。名前の無帰属性とでも言いますか。
それはそれでかまわないわけですが、時代の変わり目であることは間違いないでしょう。
そして、以下は諱にも難読命名にも関わることですが。
その4で名前を解読してつくづく思ったのは、名前の重層化が進んでいることです。
従来の名は、漢字と読みが一体化していました。なので、まず漢字から考えるわけです。健やかに育ってほしいと願い、健太と名づける。さすれば、もう読みは通常ケンタしかないのですね。健治でも、まずケンジか、たけはる。
そして、漢字の持つ意味と読みは、連動しています。健康のケン。
しかし今は、その連動性がなくなってきています。音先行で漢字を当てはめるという手法が、読みと漢字の持つ意味とを乖離させる現象がおこっています。
大きく羽ばたけと願い、大翔くん。しかし読みは「やまと」。上昇していく漢字と、日本の国土を象徴するかのような音。まさに「天と地」ほど違います。宇宙戦艦ヤマトくらいしか共通項を見出せません。
こういう字面と音が乖離した例は、多く見出せると思います。音和(トワ)くん。音楽が好きな親御さんなんでしょう。そして読みは「永遠」。ひとつの名前に、ふたつの意味をこめています。やりますねー。考え抜いた結果でしょう。
穏空くん。おだやかな空。雨や風のない空の下で、すくすくと生きろ。人生に荒れた空はゴメンだ。そんな両親の思いが伝わるようですが、読みは「しずく」。漢字は晴れていて読みは雨が降っています。これはすごい。
これは、何でしょう。ここには乖離どころか、相反した名前がふたつ存在しています。穏空という字が持つ意味にひきずられると、絶対に「しずく」にはたどり着けない。読まれたくないとすれば、これほどの名はなかなかありません。これはつまり、穏空が通称でしずくが諱なのでしょうか。
現在の命名というやつは、相当に奥深いと考えなければならないようです。
「読まれたくない名前」から結論をひっぱり出そうと思って蛇足の記事を書き始めたのですが、結局、答えは出せずに終わりました。
ただ「名前は、人に呼ばれるために存在しているもの」という考え方は、改まりました。
名前が識別のためだけに存在しているのであれば、名前記号論とでもいうべき考え方に到達し、最終的に「番号にしておけばいい」までいってしまいます。それでいいのか。
古来より、人の名前はそんな単純なものではなく、もっと奥深い大切なものでした。それに気づかせてくれたのは、このキラキラネームの存在と、名づける親の心であったことだけは、間違いないと思います。
好きか嫌いか、でいえば、まだ好きじゃないんですけどね(笑)。でも、もう少し見方は、かえてみよう。
キラキラネームの話、終わります。長いのをここまで読んで下さった方々に感謝いたします。