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  • 2016.12.30 Friday
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    | 2016/12/30 | - | | - | - |

    堺まちあるき

  • 2013.10.16 Wednesday
  • 土曜、一日空いていましたのでちょっと堺に行ってきました。カミさんがTVで仁徳天皇陵を見て「行ってみたい」と言ったのがきっかけですが、僕もそういえばこの街はいつも通りすがりで見物する程度で、じっくり歩いたことがありません。旅行というほどではありませんが、書いておこうと思います。

    僕の住む街から、堺は近い。自動車ですと阪神高速湾岸線であっという間です。ですが今回は電車でゆきました。街を歩くのに車は邪魔になりますし、酒ものめませんのでねー。
    阪神電車が大阪難波まで延伸したので便利になりました。僕らは、朝6時を回ったくらいの時間に出発。難波で南海電車に乗り換えると、すぐに堺に着きます。1時間はかかんなかったか。7時には南海堺駅のホームに立っていました。
    なんでこんな早い時間にやってきたのかにはわけがあります。堺魚市場にある天ぷら屋さんが目当て。「大吉」です。→(食べログ)
    超有名店といっていいですね。しかし市場の店なので、営業は日付が変わる真夜中から朝まで。実にハードルが高い店なのです。何年か前にナンバに支店を出して、そちらには伺ったことがありますが、本店にも一度行ってみたいと思っていました。
    魚市場は、駅から歩いてすぐです。その一角に店があります。夜中には大行列が出来ることで知られますが、この時間帯はその喧騒も終わっています。それでもまだ満席状態だったのですが、うまく2席が空いたのでそこに座り込みます。
    支店に行ったことがあるのでシステムはわかります。好みを用意された紙に書いて渡すと揚げてくれます。野菜は一品100円、魚介は150〜200円というところ。穴子、鱚、鯵、烏賊、太刀魚、ガッチョと書き込んで渡します。ガッチョというのはつまりメゴチですね。カミさんが野菜も、というのでレンコンとアスパラも。さらにここの名物であるアサリ汁も注文。
    大根おろしがたっぷり入った天つゆが目前に置かれます。屋台の雰囲気を残したカウンター席で、目の前で次々とジュージュー揚がっているのが見えます。お、自分達の頼んだネタがジュワッと油に入ったのを確認。さすれば、朝7時過ぎなのですがもう頼まざるを得ないでしょう。
    「ビール一本くださいな♪」
    そうしているうちに、目の前に供されました。揚げたてアツアツ。天ぷらはこうでなくっちゃね。いろんなネタを頼んで半分づつしようという計画でしたので、穴子に箸を入れますとサクっと割れます。半分にした穴子を天つゆにくぐらせおろしをたっぷりのせて。口に入れるとホクッと。この感じがたまりまへん。うまいのぉ(涙)。ビールをくいっ。もう矢でも鉄砲でも持って来い、という気になりますね。至福。
    「こちらは塩で召し上がって下さい」なーんて店とは一線を画した、庶民の味です。天つゆにジャボッとつけて喰うのが旨し。やはり揚げたて最強。間髪入れずにザクっと喰らうべし。
    市場食堂なので刺身もあります。しからばシャコを(好物なのです)。そして僕は清酒を冷やで頼みます。コップ酒で天ぷらってのはまたたまりませんね。朝だぞ朝(笑)。
    さらに、貝柱、鱧、白子、鰯と追加してゆきます。ガッチョうまかったのでもう一回。アサリ汁は椀に貝が山盛りになっています。すすると濃い旨味が口中に。むふ〜ん♪ 食べた貝殻は床に直に投げ捨てるのがこの店の流儀。もうこの時間ですと床が貝殻だらけで歩くとザクザクと鳴ります。
    あー食った食った。朝酒はききますねー(笑)。ふつうなら〆にごはんを頼むところですが、これで切り上げます(魂胆アリ)。ごちそうさまー。

    時刻は朝8時。既に酔眼ですが、フラフラと観光へ。
    市場をひとまわりしたあと、天誅組上陸地、佛人撃攘之処の碑(つまり堺事件現場)、ザビエル公園、菅原神社、開口神社、与謝野晶子生家跡、千利休屋敷跡など、観光スポットを見て歩きます。僕は歴史散策の話をしだすと終わらないのでもう書きませんが、堺は神代の昔の天皇陵から、中世南蛮貿易時代そして幕末まで様々に歴史の痕跡が濃い街です。そしてその歴史を大切にし、また押し出している様子が伺えます。こうして休日に訪れますとボランティアガイドの人々がスポットにたくさんおられ「説明しましょうか?」と声をかけてこられます。そして街に、実に石碑や道標が目立ちます。
    そうした場所をあちこち見て歩き、武野紹鴎屋敷跡を過ぎて紀州街道へ。ここには、路面電車が走ります。阪堺電軌ですね。チンチン電車が走る風景はいいもんです。
    さて時間は10時。めしにします(笑)。
    先ほど大吉でごはんを食べませんでした。続きはこちらで。「銀シャリ屋 ゲコ亭」ののれんをくぐります。→(食べログ)
    ここも超有名店です。とにかく飯がうまいことで評判。そのごはんを創業以来50年炊き続けていた仙人のようなオヤジさんは先日80歳で引退されたそうで残念でしたが、店が閉じられたわけではありません。
    様々なおかずがいっぱい並び、好きなものをチョイスして炊き立てのごはんと共に、というシステムです。ここは看板のごはんは一杯200円(結構な量あり)、おかわり100円と良心的です。ところが案外おかずが…なのであれもこれも取ってしまうと簡単に1000円超えします。僕らはとにかくごはんを食べに来たので(さっき天ぷらで一杯やってるしね)、細かなごはんのお供系のものや玉子焼きを選び、安くあげました(笑)。
    ごはんは、美味いですね。僕は固め好きなので多少やわらかい感じもしましたが、これは好み。といって結局おかわりをしてしまいましたがな。

    時間をおいたとはいえ、酒呑んで天ぷら食ってさらに飯二杯、食べすぎです。しかしもう一軒。カミさんリクエストで、デザートです。ゲコ亭から紀州街道を挟んで向かい側にある「かん袋」へ。→(食べログ)
    こちらは創業が鎌倉末期の1329年という大変な老舗であり、聞きますと「かん袋」という商号は秀吉が名付けたという由来も残っているといいます(驚)。
    名物は「くるみ餅」。僕は知識がなくてっきり胡桃餅だと思っていました。餡で餅をくるんでいるから「くるみ餅」だったのですな(汗)。甘味は別腹ですね。おいしくいただきました。
    しかしさすがに、満腹です。ここまでは朝食で、そのあと昼食に熱盛りの蒸籠そば「ちくま」へ行こうと思っていましたが、無理です。我が胃袋衰えたり。大吉・ゲコ亭・かん袋・ちくまという堺ベタ観光グルメは達成なりませんでした。また今度だなー。

    さて観光。少林寺から南宗寺へと寺めぐり。南宗寺と三好長慶のことについて書いていてはまた無限にのびますので割愛しますが、この寺は大徳寺に趣が似ているなという気がしました。ただソテツがあるので、そこだけは異質です。
    とにかく、堺にはソテツが目立ちます。どこに行ってもある。それが堺の呂宋貿易以来の南蛮テイストを醸し出しています。
    おそらくは、これは堺の古刹である妙国寺に大蘇鉄があることから広まったと考えてもいいのでしょうか。妙国寺の大蘇鉄はかつて信長が所望し安土城に移植、しかしそのソテツさんが夜な夜な「帰りたい」と泣き、成敗しようとしたところ赤い血が流れ出、不気味なので返した、という伝説があります。
    そんなことから、堺の象徴的な木としてあちこちでソテツが植えられるようになったのかもしれません。市木は柳らしいのですが(汗)。

    大安寺を経て、東方向へと歩きます。さすれば、大仙古墳が見えてきます。もちろん、伝仁徳天皇陵です。墓として世界一。さすがに観光客が多い。世界遺産登録計画があることから、賑わっているのでしょうか。
    この事柄については、昔記事を書いたことがあります(これ)。このときは、まずリスト入りすることはないだろうと書きましたが、既に国内暫定リストには追加されています。
    本格的に動き出せば、面白いなと思います。果たして調査が許されるのか注目です。
    さて、この日本最大の古墳。大きすぎて濠をめぐらせた山にしか見えません。僕は飛行機に乗ったときにこれを偶然上空から見ることが出来たので、その前方後円墳の雄姿を確認したことがあります。すごかったっすよ。しかし空から見ないとわかんないところは、ナスカの地上絵を彷彿とさせますな。
    カミさんはせっかく来たのによくわかんないとブツブツ言ってますがそれはしょうがない。とにかく半周でも歩いてみることに。でも半周でも結構あるんですよ。その広大さがある程度実感できます。

    最北の後円部まで来たら、もういいかなということで北へ向かいます。旧天王池貯水池や反正天皇陵、方違神社へ。
    方違神社というのは、陰陽道のこともあるのですが、摂津、河内、和泉の三国の境にあり三国いずれにも属さない、方位がない地として信仰を集めたことによります。そういえば、途中進学校として有名な三国ヶ丘高校もあり、そもそも堺とは三国の境であるところから由来しています。
    南海電車堺東駅がすぐ近くです。都会ですねー。政令指定都市堺の現在の中心はこのあたりか。繁華街が広がり、堺市役所があります。その堺市役所の最上階は展望台として開放されていますので、上りました。
    しかしこの21階から見ても、仁徳天皇陵は緑地としか見えませんね(汗)。やっぱり空からでないとその全貌はわからないのです。
    展望室にはガイドの方が何人もおられたので、ちょっと雑談をしました。「臨江寺は閉まってましたよ残念です」「そうですか観光客が増えますと有料拝観寺院以外はいろんな方が入り込んでしまうので閉めるところも多いようですね」等々。
    その「いろんな方」である当方は冷や汗を(笑)。
    ただ、閉まっていても角度的に史跡や有名な墓などを覗き込める隙間の場所など、さまざまに有益な情報を聞くことが出来ました。いいのかな(笑)。

    堺東駅前の繁華街を通り抜け、堺奉行所跡などを経由して妙国寺へ。こちらは、先ほど泣いて血を流した大蘇鉄の話で触れました。
    それは伝説と言ってもいいのですが、歴史的に重要なのはこの妙国寺は本能寺の変の際に家康が滞在していた場所であったということです。さらに、堺事件で十一人切腹の場でもあるということ。
    堺事件については、説明はもうwikipediaで。その現場には今朝、天ぷら食べた後に訪れました。
    その切腹した11人の墓は向かいの宝珠院にあるのですが(妙国寺は勅願寺であり埋葬できず)、ここは幼稚園も兼ねていて入れません。実は以前来たことがあるのですが、隙間から覗き込んだ程度に終わっています。ところが今日は偶然にもこのときだけ門が開いていて、ことわって入ることができました。
    僕は写真をバシャバシャ撮ったのですが、カミさんは怖がって入ってきません。自害の際に腹を切って臓物を投げつけた、なんて話をしてしまったからなぁ(汗)。

    ここから北は、寺町です。寺院がずっと並んでいます。たいていは閉まっているのですが、先ほど示唆されたようにあちこちこっそりと覗き込み。月蔵寺では大野道犬の墓も見えました。
    ここでの白眉は本願寺堺別院です。遠くからその威容は見えていました。堺最大の木造建築です。
    「堺縣廳址」の碑が建っています。ここは、明治4年から4年間は堺県の政庁でした。
    慶応4年(明治元年)、天領であった堺に「堺県」が成立します。その後紆余曲折を経て廃藩置県、和泉、河内国は堺県に統合。さらに明治9年には現在の奈良県全ても堺県に統合されます。「大」堺県の成立です。大阪府は、西摂を除いた摂津部分のみでした。明治14年に大阪府と合併させられるまでは、広大な面積を誇っていたのです。
    もともと堺は、中世は商人による自治都市でした。そういう独立自尊の精神は今も生きていると言えるでしょうか。先日の首長選で大阪都を目指す一派を一蹴したのも、そんなところに源を見出せるかもしれません。

    そんなことを考えながら町を歩きます。重文の山口家住宅より北は「北の庄」と呼ばれ、戦災を経てはいるものの伝統的な町並みがまだ残っているようです。戦国時代の命運を握った堺の鉄砲は、このあたりで生産されました。今も鉄砲鍛冶屋敷が残ります。日も傾いてきました。そんな古い町をあちこち見つつ、堺歩きを終えます。
    阪堺電車高須神社駅から、チンチン電車に乗って大阪ミナミへ。
    余談ですが、高須神社は堺鉄砲鍛冶の繁栄を願って創建された神社ですが、駅名は「TAKASU JINSHA」となっています。なぜ"じんじゃ"ではなく"じんしゃ"なのでしょうか。

    歩数は約35000歩。疲れましたが多分消費カロリーは摂取カロリーを上回ってはいないでしょうね。このあとまた千日前で呑んでしまいましたし(笑)。
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    | 2013/10/16 | 旅行 | 05:12 | comments(0) | trackbacks(0) |

    大垣・犬山・岐阜2

  • 2013.09.14 Saturday
  • 前回の続きです。高山本線で犬山から岐阜市に戻ってきました。

    岐阜という街も、僕は本当によく知りません。
    むかし、長良川温泉に一泊したことがあります。それは個人的な旅行ではなく、夜も遅くなってから旅館についてすぐさま船に乗り鵜飼を見学、そして宴会。朝はロープウェイで金華山に。そしてすぐに移動して終わりました。全く何も見ていません。夜中に旅館を抜け出してベトコンラーメンを食べたくらいでしょうか。
    だいたい、岐阜県の中でも岐阜市や大垣は観光対象としてはあまり目立っていないような。岐阜のガイドブックは主に飛騨地方が中心。高山、白川郷、郡上八幡。どうも県庁所在地がないがしろに。そんなんで、歩いてみることに。

    駅の北側に出ます。さすれば、すぐに黄金の信長像がお出迎えです。なんじゃこりゃ(笑)。びっくりしましたね。調べましたら(→47NEWS)、2009年に建てられたと。
    織田信長が岐阜に居たのは、永禄10年(1567)から天正7年(1579)に安土城が完成し移るまでの十余年間。その間が、信長の天下人としての躍進期間です。尾張と美濃の大名から明確に天下統一を狙い、「天下布武」の印章を用い、上洛し足利義昭を将軍として擁立、のちに幕府はつぶします。姉川合戦、比叡山焼討ち、長篠合戦。みな岐阜時代です。この地が岐阜と名づけられたのも、信長時代からです。
    信長は人気がありますからね。岐阜観光は、信長中心に設定されていると思われます。

    さて、お昼も過ぎています。観光にゆく前にまず腹ごしらえ。僕はラーメン好きなので、老舗の「丸デブ本店」へ(→食べログ)。
    大正6年の創業といいますから、もうすぐ100年になりますね。
    僕はラーメン屋さんの歴史については詳しくはありませんが、一応日本初の中華そば専門店は浅草の「来々軒」であるというのが定説です。明治43年のこと。こういうのは諸説あって難しいのですが(函館発祥説もあります)、来々軒はもう無く、現在最も古いラーメン店は尼崎の大貫本店であるとされ、大正元年に神戸で開業しています。東京では茅場町の大勝軒が大正3年。直久は大正3年に甲府で開業。札幌の元祖「竹家食堂」は大正12年(現存せず)、喜多方の源来軒、久留米の南京千両なども昭和であり、さすれば丸デブは、国内指折りの老舗ではありますまいか。
    そんなことを考えながら入店。中華そばは400円です。安い。器は小さいのですが、なみなみと入っています。
    こういうのは、うまいまずいを超越して「経験したい」という意識が先立っていましたが、いやいやうまかったっす。僕はこってりしたラーメンが好きであり、対してこちらの中華そばは和風でとてもあっさりしています。しかし昨今の、鯛頭やサンマ焼干でダシとりましたこだわってます850円ですスープから味わってくださいなんてしゃらくさいのと比べれば、はるかに美味であると思いました。

    さて観光。ただ半日しかないのである程度絞らざるをえません。まずは、伊奈波神社へ向かいます。
    古社ですね。式内社とも言われます。様々ないわれがあり興味深いのですが、もうそこまで記事に出来ないので割愛します。立派な神社でした。
    さらに、金華山のふもとを目指して歩きます。しばらく行けば、かつて「井ノ口」と呼ばれた城下の町へ。この井ノ口を「岐阜」と信長が改称したとされます。
    斎藤道三の菩提寺である常在寺。道三の国盗りの拠点となったとも言われます。さらに芭蕉も滞在した妙照寺。ここは竹中半兵衛の屋敷跡とも言われます。
    そして正法寺。やたら背の高い本堂です。これはつまり大仏殿でありまして、この中に「岐阜大仏」がおわします。日本三大仏のひとつとされます。
    まあね、これについては記事にしたことがありますが、いろいろ難しく。
    拝しますと、もちろんご立派ですね。乾漆仏としては日本一です。
    と申しますか、実際見るとかなり大きい。鎌倉の大仏より大きいのです(座高が高い)。ライバルである高岡大仏、兵庫大仏よりも当然大きく、奈良の大仏に迫っています。
    しかし大きさで決めるわけにもいきません(そうなれば越前大仏とかが勝ってしまいますし巨大な立像の牛久仏もカテゴリに入ってしまう)。歴史や伝統も加味されるわけで。

    金華山の麓まで来ました。ここにはロープウェイの発着駅があり、山頂の岐阜城へ通じていますが、二人とも訪問したことがあり、時間もなく今回はパスします。
    しかしこうして標高329mの頂にある城を見上げますと、いかにも難攻不落に思います。しかしこの城は、今数えただけでも少なくとも4回は陥落しています。山がいかに峻険であっても武者返しがあるわけではなく、平野部の山で四方から攻撃の兵は登れます。対して頂上の面積は狭く、戦力を何万と用意できない。実は守りにくい城であったのかもしれません。鎌倉時代以来の城ですが、美濃守護代斉藤氏の時代に斉藤道三(あるいはその父)に陥とされ、次に信長に攻められ落城、本能寺の変後に三男信孝が城主となるも賤ヶ岳合戦に敗れ包囲され降伏開城、最後の城主は信長の孫である秀信(三法師)でしたが関ヶ原前哨戦で東軍に攻められ陥落しています。竹中半兵衛がわずか17人で奪取した話など細かいのを数えればもっと多いでしょう。案外脆かったのか。織田秀信以後、廃城となりました。江戸時代にはここに城はなく、今の天守は再建です。

    麓は岐阜公園として整備されています。
    板垣退助の銅像が建ちます。明治15年に演説中に刺された現場がここだからです。「板垣死すとも自由は死せず」の事件ですね。
    他に山内一豊の婚礼の碑などいろいろなものがあるのですが、やはりここで見るべきものは信長の居館跡です。
    平時も山頂の城に住むのは大変です。なので麓にも屋敷を築きました。斉藤道三もそうでしたが、信長はその屋敷を華美に演出しました。舘を目撃したルイス・フロイスは「宮殿」と表現。巨石を用いた回廊、庭園、そして四層の壮麗な居舘。
    現在も調査中でありそれは発掘ブログに詳しいのですが、僕らが行ったときに作業されていたのは庭園部分だったのでしょうか。素人が見ても、明らかに様相が現れてきていました。調査が完了しても出来れば、観光用に上モノなど建造せずに、発掘したままを提示していただきたいと願います。

    あちこち見て、そのあと水路沿いの道(この道は良かった♪)を辿り、川原町筋へ。戦災などから免れ、昔の町並みが残る地域です。いいですね。人通りも少なく。そして、長良川に架かる橋のたもとへと来ました。少しづつ日も傾き、鵜飼の準備の気配がします。
    橋の上に立ち、長良川を見ます。大きな川です。今日は犬山で木曽川も渡りましたが、いずれも大河です。静かに滔々と流れます。
    この川を挟んで、斉藤道三は岐阜城に拠る嫡子義龍と激突しました。弘治2年(1556)のこと。道三は敗れ、この梟雄の生涯は終わりました。夜が更ければ鵜飼いの篝火が焚かれる美しい川面に、血が流れた時代があったのです。橋の上から、西方を遠望します。岐阜都ホテルの向こう側に見える小山が、道三の隠居後の居城だった鷺山城(址)なのでしょうか。川を挟んで岐阜城と対峙した位置です。

    川を渡り、長良川の北岸を歩いていますと、不思議なことが。どうも堤防の外側にも堤防があるんです。外と内の堤防の中に家が建っている。なんの意味があるのかい?
    こう書いてもうまく理解していただけないとは思いますが、とりあえず帰宅後、検索。こちらのサイトを見て合点がいきました。あれは、ここで枝分かれしていた長良古川を締め切り廃川にしたのちに残った旧堤防跡だったのだ、と。岐阜の人なら小学生でも知っていることだとは思いますが(汗)。
    このことは事前に知っておいたほうが良かったですね。見方が変わりましたから。

    歩いてゆくと、FC岐阜のホームである長良川スタジアムが見えてきます。立派ですなぁ。ここでサッカー観戦の経験はありませんが、我がサンガとFC岐阜が来年以降も同じカテゴリに居るならば、いつか来る可能性だってあります(頼むからJ1復帰してくれ)。
    それはさておき、長良川スタジアムがそびえるこの広い運動公園は、長良古川廃川の跡に建造されたものです。そのスタジアムの北側に、崇福寺があります。岐阜における、織田家の菩提寺です。
    つまり崇福寺は、河原岸に在ったということでしょう。長良古川は常時ほぼ水は枯れていたと思われます。よってこの水無し川の広い砂地は長良川合戦の主戦場となり、崇福寺の門前で、斉藤道三が討たれたとも言われています。

    崇福寺をあとにした僕らは、そのまま西へ進みました。さすれば町名に「道三町」の表示が。ここに道三を祀った道三塚があります。
    ごくささやかな墓が、住宅地の中にぽつりとありました。花や供え物が墓前に多く見られます。道三は長良川合戦に敗れ63歳の生涯を閉じます。埋葬場所はここではなかったようですが、長良川の氾濫で塚も流され、現在地に移されたと言われます。道三の激動の人生を思い手を合わせます。
    本当はこのあと、鷺山城までゆこうかと思っていましたが、もう疲れました。今日は、18切符を活用した以外は全て歩きで旅をしています。日も傾き、カミさんも無理だというので、そのまま金華橋を渡り市街へと戻りました。

    街中の金神社に参ります。伊奈波神社と深いかかわりを持つこの神社で、ずうずうしくも金運アップを祈願します(笑)。
    このあたりはすなわち、岐阜きっての歓楽街である「柳ヶ瀬」です。一杯やりたい店が沢山並んでいまして本当に心惹かれましたが、僕らは青春18きっぷで来ているのです。普通列車でこれから兵庫県まで帰らねばなりません。ここで呑んでしまえばもう帰れない。次回を期して、駅へ戻りました。
    駅の隣に、43階建てのタワービルがそびえています。展望室を開放してくれているということなので、旅の最後にそちらに。
    黄昏時の岐阜の街が眼下です。もちろん繁華な街ですが、金華山、長良川を遥かに見ていますと、中世近世の岐阜の町に思いを馳せることができます。しかし徐々に夜の帳が下り、街がキラキラした夜景に移行し、そうなれば昔の町の面影はどこかへ消えてゆきます。
    万歩計を見れば45000歩を超えています。充実した旅でしたね。僕らはこのあと、新快速列車で岐阜をあとにしました。帰りの車内は、爆睡。
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    | 2013/09/14 | 旅行 | 06:41 | comments(0) | trackbacks(0) |

    大垣・犬山・岐阜1

  • 2013.09.08 Sunday
  • 先月末の話です。備忘録代わりにすぐ記事を書こうと思っていたのですが、バタバタしていてほったらかしていました。

    青春18きっぷが2枚手に入りました。僕は夏にどこへも行けなかったので鬱屈していまして、田舎から帰ってきたカミさんとちょっと日帰りでお出かけ。
    例によって出発は早暁。夜明け前に始発の東海道線新快速列車をつかまえ、東へ。午前8時過ぎには岐阜の大垣駅に到着。
    大垣という岐阜第二の街には、あまり馴染みがありません。かつて東海道線に走っていた通称「大垣夜行」という東京〜大垣間の夜行鈍行にはずいぶんお世話になりましたが(夜行自体は現在も臨時列車「ムーンライトながら」として存在)、乗り換えで駅に滞在したに過ぎず、それ以外では車で通りすがりに大垣城をチラリのぞいた程度でした。
    まだ朝も早いので駅前商店街はほとんどシャッターが下りていますが、老舗の和菓子屋「餅惣」が開いています。カミさんはこれが目当てでした(→食べログ)。
    ここには、夏限定の水饅頭があります。こしあんを葛で包み饅頭とし、水に浮かせたなんとも涼やかな一品。さらにその上からカキ氷をかけた「水まん氷」もあります。早速それを注文。一時期より暑さは和らいだとはいえまだまだ朝でも汗ばむ季節にこれはうれしい。冷え冷えの葛饅頭がちゅるんと口に入ります。うまいー。しかし一人前しか頼まなかったので、大半はカミさんが食べてしまいました。

    店のすぐ横が、大垣城の大手門です。
    かつて石田三成が家康との決戦に臨み、大垣城を本拠としました。歴史的に一大転機の場所となるところでしたが、攻城戦より野戦を得意とする家康におびき出され、決戦の場は関ヶ原となりました。そんな城です。戦災で焼け再建ですが、感慨はあります。いい城です。
    周囲は公園として整備され、馬に乗った戸田氏鉄の銅像が建ちます。戸田氏鉄は大垣藩主となる前は初期の尼崎藩主であり、僕も郷土史のブログを書いていた頃にその事績を勉強した馴染みのある武将です。尼崎で培った治水事業を大垣でも成功させました。事績が現在も評価されているからこその銅像ですね。

    街を歩きます。城から南下すると、水門川沿いに住吉燈台が建っています(wikipedia)。ここは、かつての港であり物資の一大集散地でした。そして、松尾芭蕉が奥の細道の旅を終えたところでもあります。
    僕はここのところ、よく奥の細道に沿って旅行をしています。平泉一関、そして多賀城塩釜松島と。そのたびに細道を読み返しているわけですが、その最終到達地です。
    やはり、芭蕉像があります。そして「蛤のふたみに別行秋ぞ」の句碑。細道最後の句です。「行春や鳥啼魚の目は泪」で始まる細道はここで終わる。行く春から行く秋へ。よく練られていますね奥の細道は本当に。

    満足して、また駅へプラプラと戻ります。
    街を歩いていますと、城下町らしく古い町並みもあります。そんな道を縫いながら散策していましたら、また相当に老舗の和菓子屋が目に付きました。多くの城下町は茶事などで和菓子が発達していますが、大垣も結構なものですね。
    しかしこの店は、その正面の看板の意匠が素晴らしい。たわわに実る秋の柿の枝を繊細に彫りこんでいます。おそらくは江戸時代のものではないでしょうか。文字は「柿羊羹」そして「槌谷」と。
    「えっ、ここ"つちや"の本店なの?!」
    カミさんが声を上げました。
    僕は菓子には疎く全然知りませんでしたが、実は大変な老舗です(→食べログ)。その看板はこちら
    義父はむかし、雪国の在であるために冬は出稼ぎに出ていました。それは西濃方面が多く、春になってくにへ帰るたび、よく娘にこの店の柿羊羹をお土産として持ち帰っていたそうです。つまりカミさんにとっては思い出の味であるわけですが、まさかここでその本店に出会えるとは思ってもいなかったようで。言うやいなやもう店に飛び込んでいました。そして柿羊羹を所望して、即食べています。
    気持ちはわかります。しかし、あんたさっき水饅頭を食べたばかりではないのか(汗)。
    どれどれ、ワシもお相伴させてくれ。…うまいっ!

    大垣駅に戻り、やってきた名古屋方面行きに乗り込みます。岐阜で下車。さらに、高山本線に乗り換え、鵜沼駅で降ります。
    鵜沼は岐阜県各務原市なのですが、木曽川を挟んで対岸は愛知県犬山市です。橋を渡れば、犬山城がすぐそこにあります。
    犬山城には、過去一度来たことがあります。しかしそれは個人的に来たわけではなく、若い時に偉いさんのお供でほぼ運転手として来ました。自由もきかず、是非再訪したいと思っていましたがなかなか機会が得られませんでした。
    ふと地図を見ていますと、実は犬山城はJR鵜沼駅から至近距離にあることに気が付きました。駅から歩いてゆくことも可能です。これは迂闊でした。愛知県なので、てっきり名古屋から名鉄に乗って行くしか手段がないと思い込んでいたのです。なんだ18きっぷで行けるじゃないですか。というわけで、この機会に橋を渡って犬山にやってきました。

    橋上からもう丘の上の犬山城が望見できます。
    犬山城は、もちろん要害に建つ城ですが、それほど歴史の表舞台に出てくるわけではありません。目立つのは、あの天下の行方を決めた秀吉・家康決戦の小牧・長久手の戦いにおいて、池田恒興が奇襲によって犬山城を占拠したことがあります。この犬山城合戦が天下分目の小牧長久手の戦いの火蓋を切ったことになり重要ですが、それくらいでしょうか。
    それより、この犬山城が高名なのは、この天守閣が現存最古であると言われていることによります。
    現在、明治以前からある天守は、日本に12しかありません。
    北から列記しますと、弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、(伊予)松山城、宇和島城、高知城です。他は全て近代以降に、復元や勝手に想像して造った城です。
    その中で最も古いとされているのが犬山城です。当然ながら国宝指定されています。

    天守に登ります。
    もちろん大きな城ですが、名古屋城や大阪城とは比較になりません。昔のままですから当然ですが、木造建築で階段は梯子のように急です。現存天守はだいたいそうですね。
    最上階からの眺めは、さすがです。眼下には木曽川。望楼の回廊は狭く、木枠が低いので風が吹くと飛ばされそうな恐怖心を感じたほどでしたが。ただ危険ではありますが無粋な金網など張られたら台無しですから、怖いくらいが丁度良いのかもしれません。
    望楼内部には歴代城主の肖像が。戦国期には城はとったとられたが繰り返されますので城主も代わりますが、江戸時代には代々成瀬氏が務め、明治まで続きます。
    ただこれは正確なようで正確ではない。明治維新で犬山城は廃城となり、天守は国家に差し出されます。しかし濃尾地震で天守の一部が壊れ、修復が必要となったのですが明治政府はこれに対応できず、もとの城主の成瀬氏に修理を条件に無償譲渡しました。見方によれば成瀬氏が城主に返り咲いたわけです。以後平成まで、日本唯一の個人所有の城でした(数年前に財団法人に移管)。
    面白いですね。この間まで犬山城には殿様がいたわけです。

    城から下り、城下町を歩きます。本町通には古い町並みを生かした土産物屋や飲食店が並び、散策しやすく整備されています。
    カミさんはこういうところが大好きであちこち物色していましたが、やがて「守口漬アイスクリーム」なる立看板をみつけました。
    「これ食べてみたいっ!」
    僕はそういう折衷食品は苦手なほうですが、別に僕の意向など関係なく既に店に入って注文しています(→食べログ)。
    僕もひとくち食べてみましたが、さほど漬物の味は感じませんね。みじん切りで練りこまれているのではと危惧したのですが、姿はみえずなんとなしに塩分と香りがする感じでしょうか。店のお姉さんも言われていましたが、塩キャラメルソフトに近い味がします。
    大部分はカミさんが食べたわけですが、しかしこの人は朝から饅頭に羊羹と甘味を食べ続けています。大丈夫か。別に朝食抜きだったわけではないのに。
    そんな感じで城下町散策も終え、犬山をあとにしました。

    ここまでで、まだお昼を過ぎたところです。旅はまだ終わりません。続きは次回。
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    | 2013/09/08 | 旅行 | 08:24 | comments(0) | trackbacks(0) |

    多賀城・塩釜・松島2

  • 2013.01.09 Wednesday
  • 前回の続きです。僕は国府多賀城駅から東北本線に乗り、ひと駅で降りました。塩釜駅です。
    実はこの東北線塩釜駅は町外れにあるのですが(中心は仙石線本塩釜駅)、多賀城遺跡から来たのでそういう都合となりました。
    塩釜といえばまず塩釜神社です。正確には「鹽竈神社」と表記すべきですが。塩釜神社へゆくなら、こっちの駅からでも歩く距離はそうかわりません。なので良しとします。

    駅を降りてしばらく北上しますと、丘が見えてきます。陸奥国一宮、塩釜神社が鎮座する山です。
    塩釜神社には、かれこれ26年ぶりなのです。懐かしい。
    そして四半世紀以上も経てば情景もかなり変貌しているはずなのですが、目の前に見える神社の正面の石段「表坂」の風景は、記憶の中にある姿とあまりかわりません。あのことがあってから、塩釜は別の町になってしまってはいないだろうかと思いつつ来たのですが、神社表坂の急な石段は、もちろんそのままでした。
    逆に僕は、26年前の僕とは違っています。
    あの頃より多少は本を読んでいます。なので、この表坂正面にある鳥居が寛文年間のものであり、あの「樅の木は残った」で知られる原田甲斐が造立したものだということも、知っています。なので鳥居ひとつくぐるにも感慨を持つことができます。
    しかし、この表坂は実に石段が急です。この202段の緩やかとは正反対のきざはしを上るのに、僕は途中で一休みせざるをえませんでした。26年前のワシであれば駆け上がれたものを(涙)。

    えっちらおっちら登りつめて、参拝。ただし、建造物は修復中のものが多いんです。それは承知していましたけどね。
    それはともかく、この神社境内には、灯篭マニアと化した僕が見るべきものが、3組あります。
    ひとつは、美術品としてすばらしい文化4(1807)年の飾り灯篭。そして享和3(1803)年に大阪の山片蟠桃が手配した石灯籠です。そしてもうひとつは、文治燈籠です。拝殿脇に存しています。これについては芭蕉が書いています。奥の細道から引用します。
    神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。五百年来の俤今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠は勇義忠孝の士也。
    文治3年とは1187年です。平家が滅び、源頼朝が鎌倉で勃興し覇権を握らんとしていた頃。和泉三郎とは、奥州の雄藤原秀衡の三男、忠衡のことです。こんなものが今に至って残されているとは。
    鉄製であり、むろん赤錆びています。その扉に「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」とあります。
    ただ、この扉は錆びていません。後世に付け替えられたものか。おそらく朽ちてしまったのでしょう。なので、本当にこの鉄の燈籠が1187年のものなのかを疑うことは、できます。
    しかし、芭蕉は元禄時代にこれを見ています。ここは、僕もこれを忠衡寄進のものであると信じたいと思います。
    そう思えば、文治3年7月といえば、平泉で奥州の巨人、秀衡が病床に臥していた頃。義経も平泉に居ます。まもなく彼は亡くなり頼朝が攻めてくるわけですが、それを察知して忠衡は前進していたのでしょうか。多賀城で鎌倉軍を迎え撃つために。
    いろんなことが想起されます。僕は、志波彦神社なども参拝し境内で見るべきものは見て、山を下りることにしました。

    下りは、少し緩やかな裏坂をゆきます。
    この年は、紅葉が遅れたのでしょうか。この年末に至って、もちろん参道のもみじは全て葉を落としていますが、その落葉がまだ紅色を保っており、赤い絨毯化しています。美しい。下りきれば、そこは塩釜の街中です。
    境外末社の御釜神社に参拝します。道は商店街で、見れば銘酒「浦霞」の蔵元もあります。昨夜は浦霞をたっぷりいただいて酔いました。いい酒です。ここから港へは、まだまだ距離があります。
    しかし、このあたりまで津波は襲ってきました。塩釜神社の山麓まで波が押し寄せたと。
    商店街を歩きます。平和な町並みに見えよくぞここまで復興したと思いますが、よく見ますとやはり更地やプレハブの建物、そして工事中の場所がそこかしこにあります。被害は凄かったわけですから。亡くなられた方も多数。

    もうお昼も過ぎたので何か食べようと歩いていたのですが、あてがあるわけでもなく本塩釜駅方面まできてしまいました。ふと見ると「塩竃まぐろ直売食堂」の看板が。そういえば塩釜は生マグロの水揚げ日本一です。吸い込まれるようにその店へ。
    店には鮪の刺身サクがパックされて積まれ、それを買いに来る人たちが列を成しています。正月間近だからでしょうか。その奥にカウンターがあり、僕はごく普通に「鮪丼・並」を注文しました。
    しばらくして供された鮪丼。めしの上にマグロの剥き身と中落ちが山とのっけられています。僕にはその量は、ごはんとのバランスを欠いているほどに見えます(笑)。そしてさらに、マグロの腹身と葱の吸い物(つまりねぎま汁か)がつきます。これ、旨かったすね。で、680円(笑)。特製醤油をぶっかけワシワシとかっこまさせていただきました。ご飯を大盛りにすりゃ良かったなぁ♪

    塩釜港まで来ました。みなもは、静かです。1年と10ヶ月前、この水面がせりあがり、町を襲ったのです。信じられない思いがします。
    駅裏に、海にほぼ隣接したショッピングモールがあります。当時は壊滅状態であったと聞いていましたが、まるで何事もなかったかのように歳末の売出しをしています。何事もなかったはずはないんだ。復興に邁進された方々に本当に頭の下がる思いがしました。

    そのまま、仙石線で移動します。3駅乗って、松島海岸駅へ。
    多賀城では霞か靄だったのが塩釜で霧雨となり、松島ではとうとう本格的な降りとなりました。僕は折り畳み傘を取り出し、瑞巌寺へと歩き出しました。松島も、ずいぶん久しぶりです。記憶に残るのは、夏のよく晴れた松島。今は、冬の雨に煙る松島です。
    瑞巌寺の総門をくぐります。杉の古木が参道に並び、荘厳な雰囲気を演出しています。
    地震被害はもちろんありました。国宝・瑞巌寺にも亀裂が走り一部損壊もし、現在修復中です。
    そして、ここにも当然の如く津波は押し寄せました。総門は海岸に面しています。つまり、参道は津波の通り道となったはずです。その被害は甚大であった…海前の参道を歩いている僕などはやはり想像してしまいます。
    しかし松島町はこの海に接した立地条件であるにも関わらず、被害は他市町村と比べ軽微であったと聞きます。もちろん亡くなられた方も何名もいらっしゃるわけですが、隣の東松島市の千名を遥かに超える犠牲者に対し松島町は一桁であると。数で推し量るわけにはいきませんが、それにしても、と思います。後背は山でありほぼ海岸線に町が連なる松島町であるのに。
    こちらのデータ図録を見ますと、松島町への津波の高さが他と比べかなり低いのがわかります。
    これは、松島湾に点在する島に津波の緩衝効果があったためとみられています。島々が、津波の勢いを削いだのです。波は島によって跳ね返り、反射した波は次波の勢いを止め。
    そうやって、名勝松島は町の人々を守ったのです。

    海岸線に立ち、島々を望見します。
    僕ははじめて松島にやってきたときに、それほど感動を覚えませんでした。芭蕉が「扶桑第一の好風」と言った事に異を唱えるつもりもありませんが、日本三景として、既に観たことがあった天橋立、宮島と比べてもさほど心を動かされず、まして松島を訪れた当時21歳の僕はもう北海道の湖沼群も沖縄の珊瑚礁も信州の山塊も知っていました。小さな島に松の木が生えて湾に点在しているだけの風景は、多少退屈なものに見えてしまったことは否めません。
    しかし、今こうして松島海岸に立つと、なんともいえない美しさを感じます。
    それは、以前見た夏空の鮮やか過ぎる風景ではなく、冬の曇天で雨が島の輪郭をぼんやりとにじませた、海や空の青も松の緑もとびでてこない、言わば水墨画のような風景だったことが、僕にはじんわりと沁みたのです。
    それは、僕がもう若者ではなくなったことに起因しているのかもしれませんし、さらにはあの島々が人々を救ったということも贔屓目に繋がったのかもしれません。
    もっとも芭蕉は、梅雨の合間の晴れた日に松島を見ています。さすれば、芭蕉とは感性において僕などはやはり歴然と差があるのでしょう(笑)。
    しかし、よく「芭蕉翁」などと言いますが、奥の細道の芭蕉は、実はもう今の僕より少し年下なんだよねぇ(汗)。

    仙石線は、いまだ全て復旧していません。松島海岸駅では、先へゆく代行バスの案内をしていました。僕は、仙石線の駅には戻らず、約一キロ歩いて東北本線の松島駅へゆきます。
    冬の陽は短く天候もすぐれないために、もう黄昏の気配がしています。このあとどこかで温泉に入ろうと思っていたのですがどうするか。今日中には妻の実家へ行かねばなりません。そんなことを思いながら、駅へと向かいました。

    このときは比較的暖かな年の瀬でしたが、その後東北にはやはり寒波がやってきました。空は荒れ、列車の運行にも支障をきたしあわてさせられたりもしましたが、心情的には穏やかな正月でした。
    本年もどうぞよろしく。
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    | 2013/01/09 | 旅行 | 05:42 | comments(2) | trackbacks(0) |

    多賀城・塩釜・松島1

  • 2013.01.06 Sunday
  • 謹賀新年、凛太郎です。みなさまいかがお過ごしでしょうか。

    僕はいつもの年とかわらず、まず北の妻の実家へ帰省し、のちに僕の両親のところへ年賀にいくというパターンで動いていたのですが、今年も随所で観光的なものを取り入れつつ旅行しています。道すがらに立ち寄る程度なのですが、そのなかでちょっと年末の話をします。

    29日は朝から東へ向かいまして、半日ほど東京におりました。所用もあったのですが、新装なった東京駅も見てきましたよ。あちこち出歩いて、その日は夜になって仙台まで移動。
    やっぱり年末は仙台の光のページェントですね。学生の頃以来何度も訪れていますが、このきらきらと輝くケヤキ並木を歩いていると、年の暮れという感じがするんです。刷り込みですな。
    まず、牛タン屋へ入ってビールを飲みます。牛タンを食べようとは思っていなかったのですが、飲み屋街を歩いていると牛タンを炙る香ばしい匂いがぷうんとただよってきたのです。うわぁ、あの肉を焼く香りにあらがえる人はそうそういないのではないですか(汗)。なので一人前半頼んで麦酒を。そのあとは魚の美味い居酒屋へ。やはりこの季節、牡蠣ですねぇ。生も美味いのですが、前に来たときに頬が落ちた牡蠣の松前焼き(昆布の上に味噌と牡蠣を乗せて下から炙ったやつ)もどうしても頼みたい。熱でプリッと膨らんだ牡蠣は、冬の王者ですなあ。はふはふと食べつつ燗酒をぐびり。これを繰り返したので酔っ払いました。

    翌日、仙台近郊を少し散歩します。まずは、多賀城跡へ。
    僕は本当に何度も仙台へは旅しているのですが、多賀城へ行ったことがなかったんです。迂闊と申しますか。
    東北本線で15分ほど、国府多賀城駅で下車。この駅、最近出来た駅ですよね。史跡の目の前に駅が出来たおかげで便利になりました。もっとも、駅には東北歴史博物館が隣接して建っているのですが、年末年始は閉まっています。まあしょうがないか。こんな時期に、駅に降り立ったのは僕だけでした。
    クリスマス寒波がひと段落したときで、なんだかあまり寒くないのです。12℃くらいあったのかな。そして少し雨模様となっています。東北でこの時期雪は降っても雨などあまり経験がないのですが、しかし傘を差すほどでもありません。ごく細かい雨で、どちらかといえば、靄の中を歩いている感じですね。時間が経つとメガネに水滴が付着して視界が悪くなってしまうことだけが不自由でしたが、それ以外はむしろ幻想的な風景を演出しているようでした。
    特別史跡多賀城。奈良時代に朝廷が東北支配の拠点として築いた政庁跡です。九州の大宰府と並んで「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれました。発掘調査が進み、徐々に復元もなされてきています。
    政庁跡は、丘陵にあります。そこを整地して大規模な宮殿が建造されていたのです。今は礎石が並ぶ遺構でしかありませんが、想像することは出来ます。おそらく、あおによし奈良と同じ色鮮やかな正殿がそびえていたのでしょう。
    正殿の基台は、南面しています。見晴らしがいい。その広大さにあらためて驚きます。

    そのほか、多賀城廃寺や浮島神社、舘跡などを歩いたのですが、僕がここでもっとも見たかった史跡は「多賀城碑」です。日本でもっとも古い石碑のひとつと言っていいでしょう。政庁遺跡の南に立っています。覆堂におさめられてますので、僕はその隙間から必死になって覗きました。
    その碑文には、まず場所が示されています。

     多賀城/去京一千五百里/去蝦夷国界一百二十里/去常陸国界四百十二里/去下野国界二百七十四里/去靺鞨国界三千里

    なんとも雄大です。多賀城は都から、夷の国から、陸奥国に接する常陸国(茨城)・下野国(栃木)から、そして靺鞨国境からこれだけ離れている、といいます。靺鞨国界去ること三千里ですよ。靺鞨と言えばツングースの国、今で言えばロシア沿岸までを含むでしょう。その当時の国際色というものがよくわかります。
    そして、碑の由緒です。

     此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府将軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置也 
     天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守府将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也
     天平宝字六年十二月一日
     
    漢字ばかりで鬱陶しいでしょうが、つまり神亀元(724)年に多賀城が大野東人によって設置され、天平宝字6(762)年に恵美朝狩によって建て直されたと書かれています。
    恵美朝狩というのは、藤原仲麻呂(恵美押勝)の息子ですよ。僕は仲麻呂についてはこの記事などで言及していますが、史上もっとも興味をもつ人物のひとりです。したがって、恵美朝狩という名を見るだけで興奮してしまうのです。

    多賀城碑は、江戸初期に発見されました。地中にあったため刻まれた文字の損傷がなかったといわれます。
    この碑は、芭蕉の「奥の細道」に「壷の碑(つぼのいしぶみ)」として登場します。壷の碑とは坂上田村麻呂が矢尻で文字を刻んだという碑で、かつてはみちのくの象徴のように言われてきました。歌枕であり、芭蕉は「疑ひなき千歳の記念(せんざいのかたみ)、今目前に古人の心を閲す」と大変に感動し、「涙も落つるばかりなり」とまで言います。
    そのために高名となりましたが、僕が所持している奥の細道の注釈本を見ますと、実は壷の碑ではなく、多賀城碑としても後世の偽作であり、二重の意味で偽物だ、とさんざんです。うーん。
    確かに偽物説はあったのですが、その後反証もたくさん出ています。田村麻呂の壷の碑ではないにせよ、恵美朝狩が762年に建立したものであることは信用してもいいと思うのですがね。現在はホンモノ説が勝ったのか、平成になって国の重要文化財に指定されました。

    碑から、霧にむせぶ多賀城跡を振り返ります。ここには初代鎮守府将軍であった大野東人をはじめ、朝狩や田村麻呂など歴々の将軍がやってきました。不比等の四男である麻呂も来ています。徐々に衰退はしたものの、前九年・後三年の役を経て、南北朝時代にはあの北畠顕家も拠点としています。歴史の色濃いこの史跡にこれて、満足しています。莞爾として僕は駅に戻りました。

    うわぁ、多賀城碑についてクドクド書いてしまったら長くなりすぎた。続きは次回に。

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    | 2013/01/06 | 旅行 | 17:57 | comments(2) | trackbacks(0) |


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