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  • 2016.12.30 Friday
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    | 2016/12/30 | - | | - | - |

    越木岩鉱泉 再び

  • 2014.01.23 Thursday
  •  寒いですねぇ。寒ィョォ((((・´_`・)))寒ィョォ
     大寒ですから当然なのかもしれませんが、昨今はなかなかに厳しい。
     土日も雪がパラついていました。自転車に乗ると冷たい風が頬にしみます。でもまあ、頑張って満池谷墓地くらいは行ってきました。なかなかに面白い発見もあり、それはまたおいおい書いていきたいと思います。
     そのあとは、西方向へ。夙川学院方面を覗き(マンション工事で話題になっていますが、僕の興味は神園1号墳です。なんと復活していました。これから整備されるかもしれません)、そして夙川へ。≡≡≡ヘ(*--)ノ

     昨年初夏、越木岩鉱泉を探しに行った話を書きました。→こちら
     このときは、しっかりと湧き出ていたのです。
     しかし、その夏に西宮は記録的豪雨にみまわれました。今は治水がしっかりしていますので街は何とか持ちこたえたものの、昔だったら大水害となっていたところです。しかしタダではすまず、あちこちで被害がでました。夙川もえらいことになったようです。
     そして、越木岩鉱泉が埋まったとふくさんがリポートして下さいました。→越木岩鉱泉を探して夙川を遡る:犬と歩く夙川
     かつて隆盛していた越木岩鉱泉は、阪神大水害で埋まりました。そして、最近になってささやかに復活していたのに、また水害で…。(-_-;ウーン

     さて、久々の再訪です。どうなっているでしょうか。( ̄∇ ̄)

     

     夙川は、冬枯れの景色です。夏は草が繁茂して緑あふれていましたが、薄茶色と言いますか何と言いますか、冬の色です。
     石垣の下の樋からチョロチョロ出ていたところは…?

     

     冬枯れの川原で、ここだけちょっと緑っぽい♪ 鉱泉のパワーかな? 

     

     ああ、出てるな。(*´∇`*) なんか埋もれてますけど、流れ出しています。

     さて、問題は川床の真ん中から噴出していたところです。あれは、さすがに埋まっちゃってるでしょう。場所はだいたい記憶していましたので、どうせ砂で覆われてるんでしょうから何だったらちょっと掘り返してやろうか、くらいのことを思っていたのですが…

     

      えっ

     

     ぉお!!(゚ロ゚屮)屮 復活しています!
     どういう奇特な方がいらっしゃるのでしょうか。しかも、以前より堅牢につくられています。前みたいにそのへんの石を並べた程度じゃないんです。石材でしっかり枠を作って…。これは一人じゃできないぞ。
     ご近所の方が直されたのでしょうか。ちょっと感動モノですよ。頭が下がります。m(_ _;)m

     底からは、以前と同じようにきれいな鉱泉が噴出し、あふれています。
     では、夏にはわからなかったことをやってみましょう。

     

     おお、あたたかいっ! ( v ̄▽ ̄) イエーイ♪

     温かいは言い過ぎで、冷たくない、という表現のほうが的確だと思いますが、まわりの川の水は手を切るような冷たさなのですよ。比較すれば、まぎれもなく鉱泉だということがわかります。
     今の季節ならではですね。もしも行かれるなら、今ですよ。夏じゃこの感覚はあじわえませんから。( ̄▽ ̄)

    ※初出:西宮ブログ「凛太郎の自転車操業
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    | 2014/01/23 | 西宮流 | 05:58 | comments(0) | trackbacks(0) |

    JR線脇の阪神電鉄境界標杭

  • 2014.01.08 Wednesday
  •  こんにちは。( ̄∇ ̄)

     年が明けたら、市内の村落墓地について書こうと思っていたのですが、どうも時間がとれません(汗)。また墓地のことはボチボチやります。( ̄△ ̄;)エッ・・オヤヂギャグ?
     今日は小ネタを。

     昨年の話なんですけど、あるものを見つけまして。

     

     これは、甲子園口五丁目から天道町に抜けるJR神戸線のアンダーパスです。新しくなって使いやすいですね。僕の住む甲子園界隈から自転車でJRを北に越える場合はここが最寄です。
     ここが工事中のときは、僕のような自転車乗りは中津浜線の跨線橋を通れないので、甲子園口のマンボウか津門川沿いの道まで回らなくてはいけなかったので面倒でした。助かります。
     その近くなのですが。

     
     
     アンダーパスの西側。百間樋用水の末流である蓮花寺川(新川)も線路を潜っていて、ここは暗渠になっています。その西側のたもと。コンクリート杭があります。通常、こういうのは境界標です。ここからはJRの敷地ですよ、とかいうしるし。よくありますね。ではアップ。

     
     
     えっ、阪神? 阪神ですと?! w( ̄▽ ̄;)wワオッ!! ここはJR神戸線の脇ですよ!

     これは面白いものを見つけたぞー。僕は一人で興奮してしまいました(笑)。
     これはもしかしたら、旧阪神武庫川線の痕跡ではないのですか。

     旧阪神武庫川線についてはご存知の方も多いと思いますが、話は戦時中のことになります。
     鳴尾の高須町、現在武庫川団地がある場所に、川西航空機という飛行機メーカーがあり、そこで「紫電改」という軍用戦闘機が生産されていました。その軍需工場へ物資を輸送するため、JR(当時は省線)西ノ宮駅から高須町へ、国策として阪神電鉄が突貫工事で線路を敷きました。西ノ宮駅から甲子園口駅を経由して、武庫川の西岸を南下して現在の武庫川団地まで。昭和19年のことです。
     戦後はもちろん廃線となり、現在残るのは阪神武庫川駅以南、つまり現武庫川線だけです。しかしその廃線跡はあちこちに残っていまして、往時をしのぶことが出来ます。
     詳細は「廃線跡ウォッチ2〔旧武庫川線〕:ちょっと歴史っぽい西宮」をご覧いただければ幸いです。長いけど(汗)。

     この「阪神」と刻まれたコンクリート杭も、その名残りである可能性もあると思うのです。だって、こんなところに「阪神」の杭があるなんて。繰り返しますがここはJR神戸線ですよ。
     
     

     標柱から東側を見ています。
     アンダーパスの向う、線路の築堤とラインが一致しています。
     そして、JRが走る線路との間に、空き地があります。この部分に、かつてはもう一本線路が敷設されていたのです。

     
     
     この空間は「廃線跡」と考えていいのですが、この部分の土地は現在も阪神電鉄が所有しているということなのでしょうか? JR線との境にも柵があります。しかし、武庫川沿いならともかくこんなところ所有していても活用できないのでは? あるいはこの標柱は撤去忘れ? いやそんなことも考えにくいな。よくわかりません。
     真面目に調査すればわかるのでしょうけれども、僕にはそんな器量もないのでぼんやりと眺めるにとどめます。

     ここから少し西に行くと「SL公園」があります。中津浜線の跨線橋すぐ東です。

     

     この路線は阪神電車によって敷設されましたが、阪神の電車が走っていたのは、国道2号線以南だけでした。西ノ宮駅〜甲子園口駅〜武庫川沿南下〜国道2号線までは、貨物列車だけの運行でした。
     この部分は電化されず、蒸気機関車が走っていました。
     そのために現在の中津浜線の高架のすぐ東に、給水塔が設けられていました。
     この骨組みのモニュメントは、その給水塔跡です。
     
     もう少し西へ。

     
     
     名神高速の高架下です。旧アサヒビール工場の北東端にあたる場所。そこに、路線からこんなふうに築堤がでっぱっています。
     この旧武庫川線は、戦後も西ノ宮駅〜アサヒビール間は貨物線として運行していました。昭和61年まで現役でした。このでっぱりの部分は、その貨物駅跡だろうと推測されます。
     
     

     アサヒビールはすっかり更地に。この古い貨物駅跡も消え行く運命なのでしょうか。あるいはこの駅跡、今も阪神電鉄所有なんでしょうか(まさかね ^^;)。


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    | 2014/01/08 | 西宮流 | 06:15 | comments(0) | trackbacks(0) |

    鳴尾の古い石造物をたずねて(六)

  • 2013.12.11 Wednesday
  •  もうその六になってしまいました。m(_ _;)m
     もはや上鳴尾墓地の観光案内とはとても言えないような細かな話になっていますが、ちょっと解せないものを見ましたので、Webに載せることにします。
     
     

     無縁墓に近い西北方面。石造七重塔や五輪卒塔婆があり、何やら由緒がありそうな一画です。そこに、卵塔がいくつか並んでいます。卵塔(無縫塔)とは、見ての通りタマゴみたいな形をした墓塔です。多くはお坊さんのお墓で、特に禅僧の墓塔として用いられることが多い形態です。

     
     
     この手前の卵塔が最も立派ですが、それにはこんなふうに刻まれているのです。

     

     「開山霊峰道悟和尚禅師之塔」
     開山ということは、霊峰道悟和尚禅師が寺をお建てになられたのでしょう。で、禅師というからには当然禅宗ですね。
     これを見たときに僕は?となったんです。果たして、どこのお寺の開山禅師でらっしゃるのでしょうか。

     禅宗のお寺の系譜というのは、鳴尾ではまず江月山長蘆寺が挙げられます。
     14世紀に建立されたとされ、南北朝建武年間の記録が残っています(鳴尾村誌に拠る)。西宮では海清寺と同じ頃に建立されたと考えていいでしょうか。
     この長蘆寺は、文明7年(1475)の水害で流され、荒廃したと考えられています。
     その法統を継いだのは、観音寺であるとされます。観音寺は寺の多い鳴尾の中で、唯一の禅宗寺院です。

     

     現在は幼稚園を経営されていて、そのHPを見ますと観音寺の歴史についても記されています。(→慈応山観音寺の詳細)
     観音寺は長蘆寺の流れをくみ、文政年間に春芳和尚が改号し再興したと伝えられているようです。
     長蘆寺は臨済宗大徳寺派で、大徳寺の塔頭如意庵の末寺であったとされますが、観音寺は妙心寺派です。これは春芳和尚からということになります。
     なお、観音寺は戦災で焼失します。これを再興されたのは、西宮芦屋研究所員さんが連載された夢の里シリーズでもおなじみの海清寺住職(後に妙心寺管長)春見文勝禅師の弟さんの春見正道禅師です。昭和26年のこと。
     こういうことを調べていて、僕はようやく上鳴尾墓地の古石造物が海清寺に移されたことに得心がいきました。なるほど。

     さて、中世に隆盛した長蘆寺は文明7年に途絶え、文政年間に再興されるまで「盛衰は不祥」と観音寺さんが書かれています。つまり1475年から1820年頃まで約350年間、どうなっていたかは不明なのです。
     前述の霊峰道悟和尚禅師の卵塔を見ます。

     

     見難くて申し訳ありませんが、側面に「寶永六」の文言が確認できます。没年のようです。宝永6年は1709年であり、霊峰道悟禅師はどうも1600年代に活動された方のようです。
     霊峰道悟禅師について、僕は図書館で調べきれませんでした。事績がわかればもう少しはっきりしたことも推測できるのですが、ちょっと宿題とします。なおネット検索では黄檗宗のお坊さんであったことくらいしかわかりませんでした。
     この卵塔が霊峰道悟禅師の墓であるならば。
     墓というものはそんなに理由も無く移転するものではありません。1709年以来300年間、ずっとこのあたりに存在したと考えたほうが自然です。この卵塔のすぐ北西側に、禅宗の観音寺さんが隣接しています。どう解釈すれば良いのでしょうか。
     1475年から1820年頃まで「盛衰は不祥」である長蘆寺から観音寺への鳴尾禅宗寺院の法統ですが、その空白期間である1600年代末から、もしかしたら黄檗宗霊峰道悟禅師に始まる時代があったのかもしれない。そんなふうにちょっと考えたりもします。
     霊峰道悟禅師の卵塔台石にはもう一面、文字が刻まれているんです。そこには「○○○建之」と。建之はわかるんですが肝心の部分が剥落も多く読めない(汗)。これが解読できれば一気に謎も解けそうなのですけれども…拓本でもとらないと無理か。

     霊峰道悟禅師さんの横にも卵塔がいくつか並びます。

     

     隣のお墓には當山二代、その隣は當山六世とあります。その当山とはどこなのかが気になるところですが、二代目さんの墓石に元号は確認できなかったものの、その隣の六世さんの墓石には「明和三年」の年号が見えます。1766年。観音寺再興の文政年間にはまだ間があります。

     いろいろと考えます。
     例えば、すぐ隣の浄願寺さんには広い寺院内墓地がありますが、観音寺さんには、見たところ墓地はありません。せいさんに納骨堂が存在することを教えていただきましたが、江戸時代からそういう形式だったわけでもないでしょう。
     観音寺さんは戦後幼稚園を併設したために、寺院内墓地のスペースがなくなったのかもしれません。で、この卵塔がある一画は、観音寺さんの真裏です。もしかしたら墓石を移されたのではないでしょうか。
     また「開山」といっても、名前貸しであることもよくあります。現に観音寺の前身とされる長蘆寺の創建は大徳寺七世言外宗忠禅師ですが、開山は言外宗忠禅師の師である二世徹翁義亨国師となっています。霊峰道悟禅師さんも同様で、あれは後世の供養塔であるかもしれません。
     しかし、霊峰道悟禅師さんは、ちゃんと文献で確認はしていませんが同じ禅宗でも黄檗宗らしい。臨済宗の現観音寺さんに直接関わりがあるとは考えにくいわけで。また没年を考えると、時代が違いすぎます。しかし1700年代は、長蘆寺と観音寺の流れからすれば、ちょうど空白期間にあたります。うーむ。
     この墓石群がもしかして観音寺さん管理のものであるならば…。

     こういうことは、花園幼稚園で伺えば簡単にわかるのかもしれないのですけれどもね(汗)。これら卵塔には花も手向けられていますし、お世話なさっている方がおられるわけです。さすれば事情をご存知のはず。しかし僕の立場は、西宮歴史調査団のようにしっかりと学術的調査をやっているわけでもなくタダの野次馬ですから、恐縮ですし気後れもしますので聞けません。またぼつぼつ趣味の範囲で調べてみたいと思います。石造物班も出来れば次回は上鳴尾墓地を対象にしてください(笑)。

     それにしても、墓地はなかなかに奥深い。今回ちょっと集中的に見てまわりまして、歴史の残り香をずいぶんと感じました。西宮には、段上の貝之介墓地などまだまだ深そうな墓地があります。眠られている方々に失礼さえなければ、近隣の墓地を散策するのもまた趣がかわって良いかもしれません。
     しかしながら。明治以降、ことに戦後飛躍的に人口が増えた日本で、墓地に空きスペースが無くなっているのも事実です。上鳴尾墓地でも、無縁墓のタグを付けられた墓石を多く見ました。

     

     こういうことはわかっているつもりですが、またこうして墓地の様相も変わっていくのだろうと思います。
     鳴尾の古石造物をたずねる話、今度こそ終了です。ありがとうございました。
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    | 2013/12/11 | 西宮流 | 06:18 | comments(5) | trackbacks(0) |

    鳴尾の古い石造物をたずねて(五)

  • 2013.12.10 Tuesday
  •  上鳴尾墓地観光案内(?)の続きです。

     墓地ですから、当然墓石を中心として様々な石造物があります。お地蔵さんなどの仏像もあります。
     しかしよくわからないものもあるんです。例えばこういうもの。

     

     立派な石碑です。そんなに古いものではなく手前は大正、奥は昭和(戦前)です。両方とも「高野山」とありまして「講中」の文言もありますから、高野山講(?)の記念碑であるのかも。伊勢講や大峰講など、信仰団体は昔は数多くあったと聞いていますし、高野山にも講が組まれて鳴尾から参拝に行かれていたときのものだとも考えられますが、真ん中には個人名が刻まれています。墓石かもしれない。
     こういうものは、墓地内に他にもあります。

     

     しかし、崩れ落ちてしまっているものも。震災の影響でしょうか。直してあげたいのですがそんな超人的パワーは持ち合わせていません。\(||_ _)/ オテアゲ

     前回書きました佐々氏供養塔の西側、高野山講碑の裏側に、忠魂碑が建っています。供養塔と同様、隙間もなく墓が並ぶ中で広い場所を確保しています。

     

     忠魂碑は戦没者慰霊碑ですが、これは太平洋戦争ではなく日露戦争のものです。「明治三十七八年」と刻まれています。側面に各々の戦死者の様子が記されています。「明治三十七年八月三十日於清國遼陽付近戦死陸軍歩兵一等卒勲八等…」などと。左二つの墓標も日露戦争のものと思われます。
     左のお墓のように、戦没者の墓は先が尖った神道系の墓としてまつられるのが一般的です。ところが、右側の三基の墓は、普通の形状です。

     

     このお墓は、何と西南の役の戦没者です。裏面に、そのように墓標が刻まれています。

     

     日本の徴兵制は明治6年に始まりました。しかし各地に鎮台がおかれたものの当初はやはり元武士が中心であり、台湾出兵などはまだまだ士族で編成されていました。本格的に「国民皆兵」として出発したのは、明治10年の西南戦争が最初と言えます。
     この「血税」とも言われた徴兵制は鳴尾村にも及び、そして戦死者が生まれてしまったということです。
     戦没者の墓がいつからオベリスクのような形状になっていったのか、ということも、また考えてみたいですね。

     あちこちのお墓を見てゆきます。
     僕は金石文好きで、ことに昔の元号を見て喜ぶというヘンな趣味を有しています。で、先ほどから元禄とか正徳とか万延とかわいわい言っているわけです。それが高じて元号コレクションなんて記事をアップしたこともありましたが、ここ上鳴尾墓地にも江戸時代の元号がわんさかあります。
     やっぱり後期の年号が多く、文化文政天保嘉永なんてのはたくさんあります。
     
      

     享和というのは200年前の元号ですが、ここまではっきり残っているのは珍しいなと。思わず莞爾として、手を合わせ、パシャ。

     さて、墓地なのでそんなふうにお墓を見てゆきます。こういうものをブログにアップしていいのかどうかは迷いますが、見ごたえもありますので。

     西宮では姓に馬が付く名家が多いことは良く知られ、その代表として白鹿や白鷹の辰馬家が存在しますが、鳴尾にも辰馬さんがいらっしゃいます。西宮の辰馬氏とは別の家です。区別して鳴尾辰馬家とも言われます。
     やはり蔵元で、酒造業は貞享年間、それに付随した廻船業は文化・文政あたりから始め、新酒番船で一位をとり、幕末にはその銘柄「東自慢」は灘五郷のトップクラスへと躍り出ます。
     その辰馬氏のお墓が、墓地東北隅あたりにずらりと並んでいます。

     

     こちらは、十四代当主辰馬烈叟氏のお墓です。天保九年に生まれ、明治の辰馬家の隆盛を担い、また鳴尾村の発展に尽力された鳴尾の名士です。寿公園にある銅像の台座の上には、戦争で供出される前は烈叟氏が居たのです。明治34年没。
     なんで烈叟さんのお墓とわかるのかは、裏面に墓標が刻まれているからです。

     
     
     こんなふうに、晩称烈叟、通称半右衛門と。
     余談ですが、このように多くの墓には墓標として履歴が刻まれていますのでわかりやすいんです。だいたい漢文ですが、日本人がつづったものですからさほど難しくなく僕でも何とか読めます。しかしこの烈叟さんの「晩稱」の晩は、日と免がひっくりかえってますな(汗)。思わず漢和辞典を引いてしまいましたよ。
     この裏面の墓標も、古いものは風化また崩落があります。崩落は震災の影響もあるのかもしれません。

     さて、十五代当主の辰馬半右衛門氏(名は代々襲われています)の時代に、辰馬家は傾いてしまいます。家業の海運と酒造業は手放され、「東自慢」は白雪の小西酒造が買収します。
     しかしこれは「時運」というものでしょう。十五代半右衛門氏は、ずいぶんと鳴尾の発展に尽くされました。例えば鳴尾百花園を開いたのも、阪神電車の線路を南にぐっと引き寄せたのも(そのために土地を提供したのも)半右衛門さんです。経営から退かれた後は、鳴尾村長を務められました。昭和38年没。

     

     辰馬家の墓石がずらり並ぶ中、十五代半右衛門さんは単独のお墓を作られませんでした。鳴尾村長を2度務めたこの名士の、いろいろな思いがまた伝わってくるようでもあります。

     辰馬家墓域の隣には、高須家のお墓が並びます。高須家も名家として知られ、武庫川団地のある高須町も、高須氏に由来していると言われます。庄屋さんも務められ、綿問屋としても隆盛されたと。前回、佐々氏供養塔の石碑銘文を紹介しましたが、その中の「高濱ニ氏」というのは、高須氏と濱氏を指すようです。
     鳴尾は、明治22年に小松、小曽根、上田新田と合併して、戦後まで続く鳴尾村を形成します。その初代村長が、高須和一郎氏です。
     
      

     やはり裏面には墓標が刻まれています。これを読むと、高須家そして和一郎氏の歴史からもまた様々なことが伝わってきます。

     他にも、鳴尾の発展にかかわる様々な人のお墓がここにはあります。そういった人たちの墓標を読むこともまた、郷土を知り思いを馳せることに繋がると思うのです。

     さて、上鳴尾墓地で最も目立つお墓は、こちらかもしれません。西南隅にあって、通りからもすぐ目に付きます。何といっても大きい。お相撲さんのお墓です。

     

     小野川という四股名のお相撲さんは、伝説の横綱谷風の63連勝という大記録を止めた名力士として知られ、谷風、雷電と並ぶ江戸時代の大名跡です。もちろんそれは江戸時代の話でこちらの小野川調五郎さんのことではありませんが。
     こちらは、現役時代の四股名は八陣調五郎で、小野川は引退後、部屋を継いで襲名したようです。大阪相撲で横綱格であったと。
     そもそもは西宮の生まれで、鳴尾村に養子に来たのですが、その養父が元力士で「鳴尾潟」という四股名であったと。その薫陶かどうなのか相撲に秀で、辰馬烈叟さんも応援して力士の道へ進まれたそうです。
     
     今回は、古石造物とは言えず近代のものばかりになってしまいました。
     こんなふうに各々のお墓を見ていてはキリもなく、そろそろ終えようと思います。ですが、もうひとつだけアップさせていただきたい。これは謎の部分を含みますので、Webに書き記しておけば、何かわかるかもしれないと思いまして。
     ただ、また長くなってしまいました。文章が長くなるのは性分なんです(汗)。その話は、次回に続く。


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    | 2013/12/10 | 西宮流 | 06:47 | comments(0) | trackbacks(0) |

    鳴尾の古い石造物をたずねて(四)

  • 2013.12.08 Sunday
  •  師走はバタバタしますね。僕のように普段(´▽`)ホケッと暮らしている人間でも鬱屈が溜まったりして。
     忙中閑あり。ストレス解消のために、上鳴尾墓地へ行くぞ。(゚∇゚ ;)エッ!?

     この間、果たせずに終わった鳴尾古石造物探しの続きをやろうかと思いまして。こういうことをしていますと、世俗を忘れますのでね。(^^)
     さて前回までに、西方寺で推定鎌倉の宝篋印塔、上鳴尾墓地で推定鎌倉の十三重塔(伝佐々氏供養塔)、推定南北朝の五輪卒塔婆形板碑、推定室町の弥陀板碑、海清寺で推定南北朝の五輪卒塔婆形板碑、大日種子板碑を確認してきました。これに岡太神社にある平重盛の墓と伝えられる有名な多層塔を加え、7基。
     西宮市史で田岡香逸氏が確認された、鳴尾の室町前期より古い石造物は全部で9基。残るは、推定鎌倉時代の五輪塔の基礎、そして南北朝期の宝篋印塔の塔身です。いずれも上鳴尾墓地にあるはずですが、前回は見つけられなかったのです。

     田岡先生は、鎌倉の五輪塔基礎について、このように記されます。
    「墓地の東南寄りにあり、いま残っているのは基礎、すなわち地輪だけで、個人の墓の台石に使われている」
     さらに、花崗岩製で、高さ27.7cm、幅上端35.5cm、四面に梵字が刻まれているとされます。
     
     

     墓地の東南寄りというのは、あの木が立っているあたりです。ではさっそく再チャレンジ。
     前回は、その四面の梵字を頼りに探したんです。しかしそんなの肉眼では見えないほど風化しているかもしれません。今回は、これで。

     

     メジャー持ってきましたよ。( ̄∇ ̄)
     これ僕が小学生のときに、作文で市に表彰されてもらったもんです(笑)。物持ちいいでしょ? しかし何書いたのかさっぱり覚えてませんが(汗)。
     で、古そうなお墓の台石をかたっぱしから測ったんです。

     しかし…該当するものがない。_| ̄|○

     これを持って、失われたとするのは早計です。見落しの可能性もあります。また、どこかに移動しているかもしれない。しかし眼力のない僕にはもうお手上げかもしれません。ぐすん…。

     気を取り直して。もうひとつの南北朝期の宝篋印塔の塔身を探します。
     田岡先生が書かれるには、
    「墓地の東北隅の無縁墓にあり、いま残っているのは塔身だけで、花崗岩製であるが、角の損傷がひどい」
     そして、高さ23.4cm幅22.5cmで、四面に梵字が刻まれているとされます。
     先日無縁墓のあたりはかなりくまなく探したのですが、見つけられませんでした。では、再チャレンジ。
     これは、墓の台石ではなく単独で存在しているはずで、縦横高さほぼ同じ長さであり、つまりサイコロ型の石ですよ。ひとつひとつじっくりと…。
     と…最後に見上げた無縁墓ピラミッドの最上段。何やらあります。あれか?!

     

     角が損傷しているサイコロ型の石が、ぽつんと置かれています! あれなのか? まさかあんな上にあるとは全く思わなかったよ(汗)。アップ。

     

     よく見ると、側面に何か刻まれているような気がします。梵字かも。
     休日で墓参の人もちらほらいらっしゃいまして、人目があります。もしも誰の姿もなかったら、僕は寸法を測りに不敬にもピラミッドをよじ登っていたかもしれません(笑)。ですが昼間にそんなバチあたりなことは出来ず、ただよだれを垂らして見るだけです。
     しかし…たぶんこれは推定南北朝時代、約650年前の宝篋印塔の一部でしょう。確認はとれませんが。

     これを加えたとして、鳴尾の古石造物を8/9まで追えた、ということにします。うーんコンプリートとはなかなかいかないなぁ…(涙)。

     さて、こんなサイコロ石を見て喜んだり悲しんだりしているのは僕だけで、そうとうにつまんない話を書いているであろうことは承知していますよ。なのでおまけで、少し上鳴尾墓地の観光案内をしてみたいと。

     まず六地蔵さんから。この墓地には、六地蔵が3組おられます。
      
     

     南正面入り口に並んでおられますが、これは古いですよ。元禄三年(1690)の銘が入っています。300年以上前。芭蕉の奥の細道の頃であり、赤穂浪士の討ち入りはこれより12年後です。歴史を感じますねぇ。隣の南無阿弥陀仏の名号碑も同時期。

     

     墓地北側、無縁墓の参道に立たれています。後ろのプレハブは仏堂で、前に紹介した市指定文化財の五輪卒塔婆形板碑があります。この六地蔵さんはいつのものかはわかりませんが、風化具合が均一ではないようにも見えます。

     

     この六地蔵さんに気づかない人もおられるかもしれません。墓地の西南隅にひっそりとおられます。
     よだれかけを数えると七体で、七地蔵かと思ってしまいますが、いちばん左のはお地蔵さんではありません。坐像が刻まれていますが印相が明瞭でなくよくわかりません。阿弥陀さまかなぁ。享保(元禄の次の次の次)の文字が読み取れ、隣の名号碑には正徳と。正徳(元禄の次の次)はなかなかありませんよ。元号マニアとしては嬉しい。八松村(鳴尾の枝村)と刻まれていてこれも嬉しい。お地蔵さんに元号はありませんが、同時期なら相当昔です。

     

     仏堂と言っていいのか、あずまやに近いのですが、仏さんがまつられてます。五輪卒塔婆形板碑がある壇上のプレハブといい、こういうのはもしもしさんの聖地に入るのかなー?

     

     仏さんが2体おられますが、左の仏さんは顔がありません(汗)。どうしたことでしょうか。
     着ておられる衣といい頭部といい如来かと思うのですが「観音講」の文字が前に刻まれてますので観音さまかな。鎌倉の大仏も観音ですから、そう考えておきます。右の仏さんもはっきりしませんが、「万延」の元号があります。幕末ですが、万延は一年なかったのでなかなかありませんよー。

     上鳴尾墓地の目玉といえば何といっても佐々氏供養塔。推定鎌倉時代のもので、墓地の中心にそびえています。
     これの歴史的いわれについては長くなりますので端折りますが、佐々氏とはあの佐々成政の佐々で、鳴尾佐々氏は成政の従兄弟の佐々政治が鳴尾領主となり始まります。5代目の殿中刃傷事件でお家取り潰しとなり以後鳴尾村は天領になります。そのときこの供養塔は西方寺に埋め隠され、ほとぼりが冷めた天保15年に九層だけ掘り出されここに建て直されます。明治30年に西方寺から残された四層ぶんが発掘され、昭和56年にそれを合せ現在の形になっています。

     

     前に3つの石碑が建ちます。いちばん左のは、震災で崩れたのを直した復興碑です。右側のは、昭和56年に四層を合せた記念碑として鳴尾文化協会が建立したものです。
     そして、最も古いのは天保時代に九層だけを建てたときの碑です。

     

     資料的に、文言を写し記しておきます。

     攝津武庫郡鳴尾邑自元龜以前至元祿中佐々
     氏食之故其歴代之墳墓存矣雖後嗣時加脩理
     年代久遠墓碑或不免湮壊吾師詳譽嘗慨之欲
     脩復之而不果焉余繼其志謀之村長矍斉鷸
     拾集頽石整爲九層塔勒石記其事原塔盖十三
     層重脩之功俟後人繼吾志也銘曰
     人身歸空 色即在墳 墳亦欲没 脩傳後昆
       時天保十五年歳次甲辰夏四月建之
             西方精舎現住徹譽

     長くなりました(汗)。まだ紹介したいものも多いので、さらに次回に続く。


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    | 2013/12/08 | 西宮流 | 17:50 | comments(0) | trackbacks(0) |


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