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  • 2016.12.30 Friday
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    | 2016/12/30 | - | | - | - |

    花に嵐のたとえも

  • 2012.04.06 Friday
  • 毎年、この時期は気候が安定しない気がしますね。そりゃそういう季節だ、と言えばそれっきりなのですが、それにしても先日の前線通過の嵐はすごかったと思います。各地にまた被害が出ているようです。
    「春の嵐」って言い回しはよくありますけど、ここまでそのものズバリってのもね。関西では午後過ぎから大変なことになって、僕は車に乗って移動中だったのですがワイパーも利かずいっとき停車しました。視界の悪い車窓から外を眺めていますと、停めてあった自転車が軒並み倒れ、木が折れんばかりにしなり、何か立て看板みたいなものがガランガランと飛ばされていました。台風でもここまでは吹かないな。
    ただ、例年ですともう咲き出している桜が、寒い冬だったせいで大幅に開花が遅れたのが幸いしましたね。あの風雨でも何とか保てたようで、今日あたり、ぼちぼち咲きはじめました。
    なごみますね。咲きそめし桜は。
    しかし、油断はできません。月に叢雲、花に風ですから。今年の桜はどうでしょうか。このまま何事もなく咲き誇ってくれれば良いのですが。

    つきにむらくもはなにかぜ、と言えば、井伏鱒二の「ハナニアラシノタトヘモアルゾ」をどうしても連想します。
    唐代の詩人である于武陵の五言絶句「勧酒」。

      勧君金屈巵  君に勧める 金屈巵(キンクッシ)
      満酌不須辞  満酌(マンシャク)辞するを須(モチ)いず
      花発多風雨  花発(ヒラ)けば風雨多く
      人生足別離  人生 別離足る

    五言絶句は一句が五字で四句。20文字から成ります。そして起承転結で構成し韻を踏む。この制約の中で思いを語ります。いかに中国語が表音文字であるとしても、この簡潔さにはほとほと感心します。詩人というのはすごいな。
    僕がこの思いを書くならば、以下のようになってしまいます。

    ここに金屈指という黄金の杯がある。君のために用意した。今日は特別の日だから、ぜひこれで呑んでもらいたいんだ。さあ、あふれんばかりに美酒を注ごうじゃないか。断らずともよいだろう。君とこんなふうに呑めるのも、もうこれで最後なんだ。だから…。
    好事は永劫には続かない。花が咲けば、なぜか風が吹き雨が降りそれを散らしてゆく。全くどうしてなんだろうな。こうして君とも別離のときが迫る。この寂寥感はいったいなんだ。いかに人生に別れはつきものだとしても。

    長げぇな(汗)。ここまで書かないと僕には同じ気持ちが語れません。于武陵は20文字だというのに、全くダサいことおびただしい。
    この漢詩は、文豪井伏鱒二の訳が有名です。

      コノサカヅキヲ受ケテクレ
      ドウゾナミナミツガシテオクレ
      ハナニアラシノタトヘモアルゾ
      「サヨナラ」ダケガ人生ダ

    感動的ですよね。漢詩に対し、日本の詩らしく七五調でつづる。文士というのは、こういう芸当をこなせる人のことを言うんだ。
    この名訳は、日本においては于武陵の詩を超えて一人歩きしている感があります。「花に嵐のたとえもあるぞ/さよならだけが人生だ」といえば、もう知らない人がいないと言っても過言ではないでしょう。于武陵も井伏鱒二も知らないとしても。

    さて、今年はスガシカオの「Happy Birthday」を。2ndアルバム「FAMILY」所収。

      
       FAMILY スガシカオ ニコ動

      うまく話ができなくて本当はすまないと思ってる
      しばらく悩んでもみたけどそのうち疲れて眠ってる

    この曲は僕にとっては福耳の「星のかけらを探しに行こう」のカップリング曲のイメージが強く(→tudou)、僕は杏子サンの声が大好きなのでもちろんこのバージョンも好き。検索してみると、アニメーションの挿入歌などにもなっていたようですから、知っている人も多い曲だと思います。

    スガシカオは、昨年事務所オフィスオーガスタを辞めたんですってね。あの事務所に集うミュージシャンはみな仲がよさそうに見えていたので、喧嘩別れではないと思いますが、いったい何があったのでしょうか。
    それよりも何も、彼は同時にレーベルからも離れてしまいました。まあここは事務所とレーベルが表裏一体みたいな感じでしたからそうなるのも然りなのかもしれませんが、つまりインディーズになったという解釈でいいのでしょうかね。
    この人と僕とはほぼ同年輩なわけですが、ある意味さすがだな、と。なんせ30歳で脱サラしてミュージシャンになった人ですから。僕はTV「sakusaku」でスガさんの人となりを見て、実に面白い人だと知って以来気になっているのですが、意志が強いといいますかね。もうこの歳になれば、安定を志向する人が多いと思うのですよ。しかし、イバラの道をまだ行くのか。
    自分に自信があればこそ、なのでしょうけれどもね。そんな姿を見ていて、僕もまたいろんなことを思うのです。

    昨年の今日、僕はこんなことを書いています。「今年は、おそらく僕にとっても何かが変わるかもしれない年になると思います。それが吉凶どちらかは、まだ分からない」と。
    その、僕にとっての動の年は過ぎました。残念ながら、吉とはいかなかったようです。いいことばかりは続かない。月に叢雲、花に風。花発多風雨。ハナニアラシノタトヘモアルゾ。
    ただ、人生 別離足らずともいい。まだ少し、もう少し、さよならに猶予をくれないか。

      賑やかなこの街の空に思い切り張り上げた声は
      何処か遠くの街にいるあの人への Happy birthday…
     
     
     
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    | 2012/04/06 | 随感 | 06:07 | comments(9) | trackbacks(0) |

    追悼 北杜夫

  • 2011.10.26 Wednesday
  • 北杜夫さんが、亡くなられました。
    ちょっと寂寥感が大きすぎて、満足がいく記事にはならないと思いますが、今日書いておかなくちゃいけないと思うので書きます。

    知ったときにはかなり驚きました。それは、まず僕は先週、北杜夫さんの「マンボウ家族航海記」という文庫本を買ったところだったからです。
    この本は実はいわゆる「マンボウ酔族館」シリーズの中から家族に関するエッセイを抽出して再構成したものです。北さんのモノなら何も考えずにそのほとんどを手に入れてきた僕も、書棚の本と内容が被る再編集ものはさすがに避けていました。しかし、今回は何となしに買ってしまいました。ちょっと移動距離のある電車に乗る機会があって、という理由でしたが、そんなこんなでまだお元気なのだろうと思っていました。
    再編集の本ですが、「あとがき」は書かれています。その最後には「平成二十三年八月十九日 軽井沢にて」と。活字では何もわかりませんが、既にどこか悪いところがあったのか。
    狐狸庵先生の遠藤周作氏や、北さんと交友関係のあった辻邦生、奥野健男、宮脇俊三といった方々が次々と亡くなり、北さんは雑誌などでお見かけする際には非常に老け込んだ姿を見せておられて、不謹慎な話「もしかしたら長くないかも」といらぬ心配をし、しかしあの80歳で南極、エベレストへ足を踏み入れた斉藤輝子女史を母に持ち、兄の茂太氏も90歳まで生きられたことから、案外長命を保たれるかも、と思ったりもして。この84歳でのご逝去は、どう判断したら良いのでしょうか。

    呑まずにいられなくて呑んでいます。ウイスキーを。
    十五分ほども歩いてから、道端にザックをおろし、そのわきに腰を下ろした。極めて生理的な空腹を覚え、ベーコンの塊を取りだし、ナイフで切りとった薄い脂身を口にほうりこんだ。最後に残った脂肪の繊維が胸をむかつかせたので、指でつまんで捨て、アルミニウムの蓋についだウイスキーを飲みくだした。私は二三日の山旅ならベーコンとウイスキーで過す習慣である。
    「岩尾根にて」
    随筆内では、コロンボのカレーを食べ「口中がヨウコウロのごとくな」ったり、苦心の末梅干の種を割って中の胚珠を食べたりしてますけれども、あまり小説内では食べ物の描写が目立たない北さんだと思っていました。けれども案外そんなこともない。「木霊」の、留学先のドイツにおいて孤独の感情の中、米を鍋で炊き、生卵をかけてイカを醤油だけで煮たものとともにむさぼり喰う場面も思い出されます。「木霊」は不倫をテーマにした小説ですが、この小説を僕が読んだのは中学3年の時であり、さすがに不倫の感情は完全には理解できなかったのか、異国の生活の中で、からく煮たイカとともに卵かけごはんを喰らう主人公の描写が僕の中に強く残っています。

    初めて北杜夫さんの本を読んだのは、小学校だったと思います。それは「船乗りクプクプ」等の童話ではなく、「どくとるマンボウ小辞典」でした。4年生ぐらいだったか。家にあったのです。父の本だったのでしょう。
    近ごろ、私はあまりマンガを読まぬことにした。私の母が、おまえももう大きいのだから、絵よりも字の書いてある本をよめ、と遺言したからだ。もっとも、この母は何年も前から遺言だけはするのだが、未だに死ぬ気配をみせぬ。
    10歳くらいの子供は、こういう文章で大笑いするのです。そして、書いてある随筆の内容はかなり学術的なことであるのに、それが10歳の子供に読めてしまうのも、また北杜夫の本というものなのです。
    その後すぐに、「どくとるマンボウ航海記」を読みました。面白かった。この書籍は、おそらく10歳から初老の現在に至るまで、僕が生涯で最も多く読み返した本でしょう。何回かということはもうわかりませんが、そのかなりの部分を今もそらんじることができる、ということでわかっていただければと思います。

    うーん。どうもショックが大きくて。
    光瀬龍氏のときも、吉行淳之介氏のときも、池波正太郎氏のときも、星新一氏のときも、司馬遼太郎氏のときも、山口瞳氏のときも、最近では小松左京氏のときも、2、3日は空虚感にさいなまれたものでした。けれども、どうも今回のこの感じは違う。もっと近しい人が亡くなった感があります。たとえば、子供の頃によく遊んでくれた親戚のおじさんが亡くなったのであるかのような。そういう悲しみに、近い。
    司馬さんや池波先生なんかは「ああもっと長生きして作品を多く書いて欲しかった」です。しかし北杜夫さんには、そういうことまで思わない。ただただ残念なのです。作品を書かなくてもいいから長く生きて欲しかった。これは、僕がその文学的位置を低く見ているわけではないことはわかっていただいていると思います。違うんだ。北杜夫がこの世にもういないことが、悲しいんです。

    こうしてネット上などに、ときおり僕はブログ記事など書いたりしますが、そういう文章の、僕の文体の根底には、やはり北杜夫氏が居るような気がします。今でも、僕はその影響下にいると思います。僕に文章というものを教えてくれたのは、国語教科書ではなく北杜夫だった、と言い換えられるかもしれません。
    北杜夫の作品を読んで、僕は小説家になりたい、と思いました。しかし、北杜夫の作品を読んで、僕は小説家になりたい、という夢を諦めざるをえませんでした。こういうの、わかっていただけるでしょうか。
    以前にも引用したことがありますが、「幽霊」の冒頭の一節。
     人はなぜ追憶を語るのだろうか。
     どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みの中に姿を失うようにも見える。― だが、あのおぼろな昔に人の心に忍び込み、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻し続けているものらしい。
    以前僕はこの一節を引いて、「文学の極みではありませんか」と書いたことがあります。今も、その評価はかわりません。日本語で編み出される文章というものの、ひとつの到達点であると思います。

    酒のせいか齢のせいか、涙もろくて。ディスプレイが滲んでしょうがないのです。
    ご冥福を心よりお祈り申し上げます。どうか安らかに。

    さよなら。バイバイよ。北杜夫さん。


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    | 2011/10/26 | 随感 | 22:57 | comments(6) | trackbacks(0) |

    少し暖かくなってきたこの季節に

  • 2011.04.06 Wednesday
  • 例年の如く、今年の雑感なのですが。

    さすがに四月になると、僕の住む街でも風が和らいできます。花粉という大敵がまだ猛威を振るうにせよ、暖かくなってくるのがありがたい。僕は寒いのが本当に嫌いです。どんなに暑くてもやっぱり夏がいい。そして、明らかに昔と比べて「寒さに対する耐久力」が減じているように思えます。
    とにかく、今年の冬は寒かった。

    僕はね、いわゆる「パッチ」というやつが大嫌いなんですよ。前にも書いたことがあると思うのですけれども。名称は「股引」「ズボン下」「タイツ」「ステテコ」何でもいいのですが。つまり、ズボンと素肌の間に何か介在させるのが嫌なんです(パンツはもちろん別)。
    これにはいろいろ理由がありましてね。
    まずひとつは、書くとひかれる(気持ち悪がられる)可能性がありますが、「足が毛深い」というのがありまして。脛だけでなく腿まで。僕ってつくづく大陸系ではなく南方系、もしくは縄文系だなと思いますよ。で、足の肌に密着した衣類を着けますと、なんだかチクチクするわけですね(笑)。まとわりつく感じがウザったい。
    じゃステテコならいいじゃん、密着しないから、との意見もあるんですが、これもね。
    僕の姿勢や動きに問題があるのだとは思いますが、こういう幅広のやつは、どうもずり上がってくる。座っていてしばらくすれば脛のあたりには無くなっていて膝の上にまとまってくる。おわかりいただけますでしょうか。こうなると鬱陶しいんですよ。直してはまたずり上がり、降ろしてはまた…。なんで僕だけこうなるのか。
    もちろん「ズボン下」というものの効用はよくわかっているわけです。防寒のみならず、汗などの汚れをブロックしてズボンを痛めない。それは理解していますが、嫌いなものは嫌い。
    ステテコなんておっさんの履くもの、とうそぶいていた若い頃と違って、現在自分は間違いなくおっさんであるわけですから、むしろこういうものを履いてないとおかしい、とまで言われます。若者だって履いているのに(もっとも、「レギンス」とかいうヤツはさらに窮屈そうに見えるのですけれどもね)。

    けれども、今年は「パッチ」を履いた。宗旨替えというやつです。どうにもこうにも寒くて。
    これは、原因のひとつには「痩せた」というのもあると思います。痩せると寒いもんですね。今まで着ていた脂肪という名の肉襦袢を脱いだわけですから、それはやはり防寒にはマイナスかと。
    しかしどうもそれだけではない。やはり歳もあるのでしょうよ。身体を温める能力が低下してるように思えるのです。
    前は、燗酒の一杯でも呑めば、ふわっと身体が温かくなったものです。アルコールはエンプティカロリーですからすぐに発散する。つまり身体が温かくなるはず。しかしどうも、なかなか温かくならない。時間がかかります。
    代謝能力が落ちたのですよ。ショックだったのは、先月久しぶりに「スーパー銭湯」へ行って、サウナに入ったのです。サウナでドバっと汗をかいて、身体の老廃物と申しますか、余計なものを一切合財出してしまう感じが好きでしてね。けれどもなんやかんやで久しぶりだったわけです。
    ところが、なかなか汗が出てこない。前は、入ったらものの30秒ほどで吹き出るように汗が出たものです。ところが、じっとしていて1分、2分。ようやく浮き出てくる感じで。ウソだろ、と自分でも思いました。これでは滝のような汗をかく前にぶっ倒れてしまいます。
    うーむ。何としたことかな。

    ま、そんなネガティブなことばかり書かなくてもいいんですけれどもね。春が来たんだから。花も咲いているよ。やわらかな風も吹いているよ。だから、だから…。

    今年は、ドリカムの「Happy Happy Birthday」を聴こうかなと思います。アルバム「magic」所収。ベストにも入ってるのかな。

      
      magic  youtube

    短い曲ですけれども、元気出ますよね。
    吉田美和という人は同い年なんですが、最近とみに「力強さ」を感じます。この人もつらいことを乗り越えてきた人だからかな。今この人が言う「10001回目は何か変わるかもしれない」という言葉を日本中の人が今、信じています。
    今年は、おそらく僕にとっても「何かが変わるかもしれない」年になると思います。それが吉凶どちらかは、まだ分からない。でも、ベストを尽くそう。「出逢えてよかった一年」にするために。
    ようし、張り切っていくか! BA-BA-BA-BA-BANG!
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    | 2011/04/06 | 随感 | 00:04 | comments(6) | trackbacks(0) |

    春の空 桜満開 風の中

  • 2010.04.06 Tuesday
  • 今年も、本日の雑感なのですが。
    僕は、外見はともかくとして、あんまり自分が歳をくったって思ってないんですよ。いつもその実感がない。
    これは、いろんな要因があると思うのですけどね。無責任な性格であるとか。ハラくくらずに逃げる習性がありますし、思考回路が若い頃とあんまり変わってない。その日その日をなんとか凌いで生きようとしてますので、長期的展望にもほとんど立つことがありません。ありていに言って、ダメ人間と言えるでしょう(汗)。あんまり大人じゃないんですねぇ。
    子供でもいれば「規範とならねば」なんて思うのかもしれませんが、あいにく親にはなってませんので。そう考えれば、僕くらいの歳であれば、もう子供が成人していてもおかしくない頃なのだなあ。
    てな感じで、どうも大人になりきれていないような気がどこかでしています。

    しかしそういった気分的なことはいざしらず、肉体的には間違いなく歳はとっているわけで。
    身体的なことについては、もう何年も前からさすがに気がついています。数年前に腰を痛めてからは特に顕著で、下り坂を実感してます。すぐに息切れがする。「どっこいしょ」「よっこらせ」の頻度が高くなった。新陳代謝が悪くなった。腹に余分な脂肪がたまる。酒が残る。深酒すると翌日使いモノにならなくなる。等々。
    それに加えて、脳が老化してるな、と近ごろはよく実感するのですよ。
    やたら言葉に代名詞が増えました。「あれをこうしてナニをすればいいんだよ」なんて言ったりします。阿呆かいな。そんなんで人に伝達できませんがな。言葉が出てこないというのは致命的ですね。人の名前も出てこなくなりました。
    もっとヒドいのは、人の顔が判別できなくなったのではないか、ということなんですね。あーあ。
    最近よくこんなことを思うようになりました。「あの人の顔はインパラに似てるな」「あの顔を見るとチャウチャウ犬を思い出す」「あのおっさん柳家金語楼そっくりだ」
    これ、最初はものの例えが巧くなった、人の顔の分類に長けた、と思いちょっと悦に入ってたのです。そのうちに口に出すようになってしまいました。
    「あの人、モアイみたいな顔しとるな」
    しかし、賛同をあまり得られないこともあるんですね。そればかりか、いや、あの人はモアイというよりモーガン・フリーマンでしょう、とか異を唱えられることも多い。
    とうとうこの間失敗をしまして。東方神起って知ってますか、と問われ、

    「ああ、知っとる。韓流のグループやろ?真ん中の人が千原ジュニアに似てる…」

    もう大ブーイングでした。どこが似てるんですか! ジェジュに謝って!

    どうもすみません。陳謝いたします。(ジュニアの悪口を誘発したのでジュニアにも謝ります)

    思い出すのは、自分の父親のことです。
    親父は昔、よくTVを見ていて「あの人とあの人似ているな」とポツリということがよくありました。それを聞いて僕も見てみますと、全然似ていない。

    「今のコマーシャル、出てるの本物の親子か?」
    「え、あれは三田佳子と後藤久美子やがな。親子の役やってるだけや」
    「そうなのか。いやあよく似てるなと思ってな。本物の親子だと思った」
    「?」

    親父ボケたな、とその時は思いました。が、今の僕は明らかにあのときの親父と同じじゃないですか。
    これは、識別能力が後退しているということなのかもしれません。
    よく考えれば、人の顔ばかりではない。音楽だってそうです。この間TVで過去何年かのベスト10曲一挙紹介、なんて企画の番組観ていたんですが、どうも僕には浜崎あゆみさんの曲がみんな同じに聴こえる(汗)。出せば大ヒットの彼女の曲、当然それぞれ個性があるはずなんです。しかし、「あれ、この曲さっきも聴いたな」なんてすぐに思ってしまう。宇多田ヒカルや安室ちゃんはわかるんですけど、あゆはよくわからん(汗)。僕の脳内のどこかが麻痺しているのか。うーん。こういう現象は若い人から見れば間違いなく「老化」でしょう。


    そんなことをつらつら思いながら、今年の曲。
    この間から(と言ってもこのときからですからもう2年経ってますが^^;)、自分の音源を少しづつ整理してます。レコード、テープ、CD。そんな作業の中で思うのは、実に僕の音源は男性偏重だったなと。フォークとロックが多いんですが、ハードロックなんて当然おっさんばっかり(しかも洋楽)ですし。フォーク系もそうですね。そうしたおっさんミュージシャンの中で、中島みゆきと谷山浩子が健闘していますが、でもそれも、みんな初期の頃のものばかりです。イルカさんもそう。他にユーミンとかは全て揃っていますが、これはカミさんの持ち物です。
    僕は男ですし、今は枯れていますが(汗)若い頃は当然興味が女性に向かっていたはず。ことに、僕の青春時代はアイドル全盛期でした。なのでもっとそっち系があってもいいと思うのですが、整理すると小泉今日子女史ばかり。別に他の人に興味がなかったわけではないのですが、レコードまで買おうとはしていなかったのですね。KYON2を除いては(この人はちょっと特別)、生意気ながら音楽性重視だったと。それに無限に財源もありませんし。
    そうした中で、沢田聖子、石川優子、飯島真理のものがいくつもあります。この人たちは、クロスオーバーした存在でした。ルックスもその音楽も好き。
    中でも沢田聖子さんは、好きでしたね。以前書いたことがあるのですが、その声に惚れてました。もちろん、声だけでなくとても素敵な女性です。

    こういう若いときに好きだった(もちろん今でも好きですけど)人の曲を聴くと、その頃の自分に引き戻されるようでもあり、多少はアンチエイジングに役立つのではないかと勝手に考え、今年は沢田聖子さんの「あなたへのバースディ・カード」を聴こうかと思います。
    この曲はシングルで、アルバムとしては初期のベスト版である「少女期」に入っています。「卒業」などと同じく加藤和彦の作曲。

      少女期
      「少女期」沢田聖子 youtube もひとつLive Ver.

    音楽のことを書く時いつもですとAmazonの画像貼り付けるんですけど、今回は無かった(汗)。なので、手持ちのものを撮りました。普段自分で撮った画像は貼らない主義なんですが、ちょっと寂しいので。(Amazonのジャケ写を貼るのは合法ですが、今回のはちょっと問題あるかもですので、わざと歪めて撮ってます)

     書いては消しては書き直したの 三度目の正直なバースディ・カード
     宛名にくちづけ 胸がざわめく あなたの顔が浮かぶポストの前で

    はなやかな曲です。アイドル路線ですね。試行錯誤していた頃だったのでしょうか。当時はあまりこういう感じの曲は受け入れにくかったはずなのですが、今聴くと妙に懐かしくて。
    この少女のような歌声が奇跡だと思っています。そして今も、このボイスは健在。これも奇跡。この人が僕より年上なのだから、年を重ねるのも恐れることではないな。
    そんなふうに自己暗示をかけ、今年もなんとかやっていくか。

    ただ、四捨五入は嫌い(笑)。
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    | 2010/04/06 | 随感 | 00:26 | comments(10) | trackbacks(0) |

    能古島で思う

  • 2010.01.20 Wednesday
  • 年明けからなんだか旅づいています。東北から帰ってきたと思えば、翌週の土曜は18切符が2枚あったので、カミさんと讃岐へうどんを食べに。
    この日は坂出市を中心に、彦江、日の出製麺所、がもう、山下とハシゴ。いずれも名店でありつい2玉づつ食べてしまい、合計8玉。天ぷらなども相応に食べたので腹がはちきれんばかりになりました。4軒回るのに要した時間は2時間半。実に濃密な2時間半となりました。そのあと倉敷とかに遊びに行こうかと思っていたのですが、二人とも歩くことも大儀になり(カミさんは5玉食べた)、そのまま帰ってきてしまいました。厳密に言えばこれは旅ではないな(笑)。

    さらにその翌週。これも厳密には旅とは言えないかもしれませんが。
    月曜に僕は、所用があり博多へ行かなくてはならなくなったのです。所用の中身は実に鬱陶しいことではあるものの時間はさほどかかることではなく、社命は当然、日帰り。しかしこういう場合、僕は当然、勝手に前日から乗り込むのですね。日曜の昼前には、もう博多に居りました(笑)。公的には内緒ですが。
    しかし、余談ですが最近のホテルのダンピング度合いはすごいですね。もちろん日曜の夜は僕が勝手にホテルをとったのですが、ネット予約をするとそこそこちゃんとしたビジネスが4000円せずに泊まれるとは。ビジネスホテルは日曜夜の利用が少なく割引をするところが多いとはよく聞く話ですが、半額以下でっせ(汗)。

    博多はこのとき以来ですから一年も経ちませんね。でも、久々という感じはします。
    まずはラーメンですな。天神の名店でバリカタ(麺を非常に固くゆでる)で注文。ズズっと啜ってすぐさま替え玉。うまいうまい。完麺完汁して、ごちそうさま。博多のラーメンはスピード感も大事なような気がします(本当か?)。

    さて、このあとどうしようか。今回は急にやってきたので、完全にノープランです。
    僕は博多の繁華街である天神にいたので、ここからならどこへだって行けます。あれもこれも考えつつ、最終的には姪浜港行きのバスに乗ってしまいました。つまり、能古島へ行こうと思い立ったのです。衝動的ですね。能古島には、過去3度も行っているのに。
    その時は、漠然と船に乗りたかったのですね。最近、どこへ行くにしても旅先で船に乗る機会が少ない。沖縄には飛行機で行き、那覇に入り浸って離島に渡りませんし、本土ではどこへだって橋がかかったりして。いつ以来かな。久高島か、宮島か。もう忘れてしまいました。
    姪浜港からは、一時間に一本の割で渡船が出ています。片道220円。船旅と言っても10分くらいで着いてしまうのですけれどもね。でも、デッキに出て海風に吹かれると実に気分がいい。1月なのにさほど寒くはありませんね。むしろ、心地いい。

    能古島は、博多湾に浮かぶ小島です。一般的には、花の島として知られます。「のこのしまアイランドパーク」という施設があり、菜の花やコスモスで有名です。しかし、僕はそこには入ったことがありません。
    また、井上陽水先生に能古島の片思いという名曲があり、それによってこの島の名を知る人も多いでしょう。僕の声が君に届いたら…。
    歴史的に言えば、万葉集に能古島を歌った防人の歌も残されていますし、刀伊の入寇や元寇では被害も受けています。歴史散策マニアの僕としてはそういうところにも惹かれるのですが、この島に過去3回も来ている理由は、この島が壇一雄終焉の地であるということに尽きると思います。
    昔、こんな小文を書いたことがありましたが、どうも僕はこの人に思い入れが強い。なので、しばしば再訪してしまうのです。
    船の到着に合わせ、島内バスが接続しています。「アイランドパーク」行きですね。今はコスモスや菜の花のシーズンでもなくわずかに水仙が咲くのみで、入場料が半額ということになっています。そのせいか、シーズンオフなのに来訪者は多く、船もそして島内バスも満員でした。僕もそのバスに乗ります。
    渡船場は島の南端。そこからくねくねした細い道を辿り、島の北端にあるアイランドパーク入り口に着きました。乗客はもちろん全員がそこへそのまま入場するのですが、僕だけはきびすを返して、島を南下する遊歩道へと向かいました。バスの運転手さんがヘンな顔をしています。
    遊歩道、というより生活道路ですかね。尾根道なのですが、海が見えて気持ちがいい。周りはあまなつの畑がずっと広がっています。最盛期なのでしょうか、みかんの黄色が緑に美しく映えます。しばらく行くと、「思索の森」と名付けられた自然遊歩道に入ります。舗装もなくなり、足に優しい道となります。
    そのままブラブラ歩くと、壇一雄の文学碑が森の中にぽつねんと建っています。

     モガリ笛 いく夜もがらせ 花ニ逢はん

    そう碑には刻まれています。この絶筆が書かれたのは、死の5日前。ここ能古島ではなく、入院していた九大病院でした。この辞世の「花ニ逢はん」の花はどういう意味だったのでしょうか。いつも、それを思います。現実的に能古島の花か、それとも波乱万丈だった人生を「花」に託しているのか、それとも、彼岸に咲く花か。どう読んでも「絶唱」には間違いはないのですが。

    その時になって、僕は思いつきました。なんでここに来ようという衝動が起こったのかを。
    話がそれますがごめんなさい。
    正月、僕は妻の実家に行って後、3日にその足で滋賀にいる僕の両親のところへ年賀にやってきました。ここしばらくこの形が定着しています。それに合わせて、兄と妹の家族も集まってきます。
    ところが、今年は人数が少ない。うちには孫世代が3人いるのですが、そのうち高三の姪と小六の甥がいません。
    これは、受験を控えているからです。姪はもちろんのこと、甥もこの年で受験です。いわゆる「お受験」というやつですが、この甥はとてつもなく優秀で、なんと全国模試で何番、というレベルにいるらしいのです。相当の進学校に入ることが可能なので、正月返上で勉強とか。妹の子ですが妹は僕と同じくボンクラですから、こういう突然変異はまぎれもなく妹の配偶者の血であるわけで義弟には本当に感謝なのですが、そんなわけで人が少ない。しかも、兄、妹夫婦も泊まることなく顔を出した程度ですぐに帰ってしまいます。
    孫たちの勝負の時だとは分かってはいるものの、じいさんばあさんはやはり寂しそうです。
    その日は正月寒波の余波で、風の強い日でした。窓の外では、びゅうびゅうと木枯らしの音が響いています。時として「ピューー」と鋭い音もします
    じいさん(つまり僕の父)はふとつぶやきました。「もがり笛だな」と。
    もがり笛とはつまり、冬の激しい風が音を立てて吹くその様の形容です。その意味を、その場にいた誰も分からなかったということがこの家族の偏差値を示していて(甥がいかに突然変異かということが分かる訳ですが^^;)じいさんはがっかりしたわけです。僕は、壇一雄のおかげで一応この言葉を知っていましたのでなんとか話を繋げられて良かったのですが。
    そんな会話があったことを、ここに来るまですっかり忘れていました。そう書くと創作めいてしまいますが、これは本当のことで、言わば「もがり笛」という言葉が僕の深層意識に刷り込まれ無意識下の行動へ繋がったのかと。不思議なものです。

    遊歩道を抜け、島の小道を辿り、島のもっとも高所へとやって来ました。ここに、新しく展望台が出来ています。以前に来たときには古い老朽化した展望台があり確か立ち入り禁止で登れませんでした。なので眺望は全く望めなかったのですが、今日は登ることが出来ます。
    登れば、360度すべて見渡せます。玄界灘に目をやれば、志賀島から遠くに相ノ島、そして玄海島。振り返れば博多の街。福岡タワーや福岡ドームが眼下。遠くには脊振山。そして糸島半島。糸島半島には、壇一雄とリツ子の思い出の地、小田の浜があります。よく晴れたおかげで、絶景です。
    僕は、長くそこに佇んでしまいました。いろんなことが浮かんでは消えます。
    僕が子供の頃、我が家は5人家族でした。長じて子供にそれぞれ配偶者ができ、孫が生まれ、僕の目から見れば「家族が増えた」と単純に考えていました。けれども、今年の正月の様子を見ると、これは大家族ではなく、いくつもの家族が集まった集合体なのです。孫(つまり僕の甥姪)の目から見れば例えば僕の家は「おじさんち」であり別家族でしよう。
    こんなことは、自明のことだったはずです。しかし親になっていない僕はいつまで経っても両親の子供という位置づけから離れなかったので、あまりそういうことに実感が湧かなかったのです。家族というものは、増殖しそして分裂し、そして世代が移る。甥や姪は、もう受験する歳。最近は時間の経つのが早いので、瞬く間に自立する歳になるでしょう。そしてまた家族が分裂していく。歴史とはそういうものです。
    僕も、それ相応の子供でもいれば、そういうことに実感が伴ったでしょう。しかし、友達みたいな妻と二人だけでずっと暮らしてますので、そんなふうには思い至らなかったのです。
    壇一雄は、早世してしまった次郎さんも含めて、5人の親でした。だからこそ「火宅の人」になりました。もしも僕が今、壇一雄と同じように「事を起こした」ならば、二人きりの我が家はどうなるのでしょうか。果たして「火宅」となるのか。偶然にも今の僕の歳は、壇一雄が「事を起こした」、つまり愛人と同棲を始めた歳と同じなのです。
    おそらく「火宅」となる前に宅そのものが消滅してしまうでしょう。僕はいつも「二人でも家族だ」と言い張りますが、最小単位であるこの家庭には、火宅となるほどの強い家の絆は、存在しない。片方がコケれば、即消滅。
    もちろん、僕は当然火宅など望んでいませんし、僕が能動者として火宅にしようなどとはこれっぽっちも思っていません。だいいち、そんな甲斐性も無い(笑)。

    博多湾に浮かぶ小島である能古島には、今日は、繰り返しますが冬なのにうららかな日が注いでいます。風も無く、もがり笛など全く聞こえません。壇一雄が亡くなったのも同じ一月だったはずですが。
    玄界灘を眺めながらずいぶんと長く展望台に佇んでしまいました。もう黄昏が近い時間です。僕は山を下り、港方面へ向かいました。
    最後に、壇一雄の旧宅へと向かいます。この終の棲家にはいつも必ず訪れています。
    能古うどん直売所の角を曲がり、ちょっと坂を上って…来馴れた道です。ここを曲がれば見えてくるはず…

    あれ、ない?!

    そこにあるはずの白い古ぼけた小さな家がなく、オレンジ色の豪奢な家が建っています。まだ作庭中のようで工事の人もいます。どういうことなんだいったい。
    そういえば、ここに至る道でいつもあった「→壇一雄旧宅」の案内標識が取り外されていました。おかしいなとは思っていたのですが。しかしあの家を取り壊してしまうとはひどい。あれも一種の文化財だったはずです。どこの業者がそんなことをしたんでしょう。もうバブルの時代じゃないというのに。
    僕は腹を立てつつ港へと戻ってきました。港には、島の物産即売場に併設して小さな観光案内所が設けられています。そこの人に、いきさつを少し聞いてみようとおもいました。さすれば、

    「ああ、あそこは息子さんが引っ越してこられたんです」
    「え、太郎さんが、ですか?(驚)」

    太郎さんとはもちろん、壇一雄の長男で壇ふみさんの兄、壇太郎氏。しかも別荘ではなく、奥さんの晴子さんとあの家に完全に住んでおられるとか。へー。
    これでは、文句をつけることは出来ません。後から調べますと、太郎さんも還暦をとうに過ぎ、壇一雄が亡くなった年齢を既に超えておられるようです。父の終の棲家となったこの能古島を自らも最後の家とすべく、火宅の家のあった石神井を引き払いこちらに居を構えたとか。あの古い家にはさすがに住むことは出来ないでしょうから、新築となったのでしょう。
    ここでも、世代交代か。
    時代は、ゆっくりとではありますが確実に移り変わっているのですね。どの世界でも、どこの家庭でもそれは同じなのです。
    僕は壇太郎氏の著作も持っていますが、さすがにそこまで氏に思い入れはありません。あの家も無くなり、僕が能古島を訪れるのもこれが多分最後でしょう。名残を惜しみながら、姪浜行きの船に乗り込みました。

    すっかり日も暮れた頃、博多天神に戻ってきました。酒でも呑もう。
    まずは、博多名物鉄鍋餃子。小さな鉄鍋に所狭しと密着し並べられた小ぶりの餃子は、もちろんのことながら熱々。切り取って一口。パリッ 〜 あつつつっ! 〜 じゅわっっ 〜うまぁぁぁ! そこでカンバツ入れずにジョッキを傾けます。ぐびっ 〜 ぷはぁ〜 うまぁぁぁ!
    以後これの繰り返しです。たまりまへんなぁ(笑)。
    そのあと僕は天ぷらの店に行って焼酎。博多には豚肉の天ぷらとか鶏の天ぷらとかありますけど、これがまた美味いのですなぁ。最後に、うどん屋に行ってゴボウ天うどん。満腹です(当然だ)。

    そして翌日遅くに帰ってきました。一人だけ博多で遊んだ僕にお怒りの様子の奥様には、もちろん明太子を土産に差し出しましたよ。こんなささいな事でも火宅に発展してはたまらない。食い物の恨みは恐ろしいですからねぇ。
    ここで普通なら「帰宅の人」というオヤヂギャグを入れるところですが、これも使い古されてましてオチには使えませんね。うーむ。
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    | 2010/01/20 | 随感 | 23:25 | comments(4) | trackbacks(0) |


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