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  • 2016.12.30 Friday
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    | 2016/12/30 | - | | - | - |

    OHに混乱する話

  • 2016.03.13 Sunday
  • ご時世で、最近はもう何でも企業統合です。倒れる前に合併、または他を圧倒するために手を組む。要因はいろいろですが、消費者側からすれば「選択肢が少なくなる」ということで、憂うべき側面もあったりするわけで。
    スーパーマーケットは、近所の最寄店がみんなイオン化してきました。マックスバリュや山陽マルナカは以前からイオンブランドでしたが、先日ついにダイエー甲子園店の看板が消滅して店の名称がイオンに。
    イオンって名前、どうしても慣れないのですわ(汗)。せめてジャスコのままであったならもう少し親しみが持てたと思うんですけど。
     
    この元ダイエーのイオンもうちから徒歩圏内ですが、他に近くにあったピーコックストアもイオンブランドの店舗となりました。
    カミさんは言います。品揃えに個性がなくなっちゃった、と。
    ピーコックストアって、つい最近までは「大丸ピーコック」で、大丸百貨店系列のスーパーだったんです。関西では阪急オアシス等とイメージが近く、どちらかといえば高級スーパー。イカリスーパーのように富裕層しか利用しない、てな程ではないにせよ(笑)、まあいいものを売っている感じ。
    それが、他スーパーと均質化してきたということです。

    「ちょっと広告見てみてよ。雰囲気がわかるから」

    そう言ってカミさんは、チラシを広げました。
    なるほど。広告には「ピーコックストアから[KOHYO]へ KOHYO甲子園店開店のご案内」とあります。正直品揃えに関してはよくわかんないのですが(汗)、オープン特価ということを差し引いても、あんまり高級感は打ち出してないかな。キャベツひと玉58円(税別)ですからねー。こちらHPです。
    ところで。
    この新店舗名である「KOHYO」なんですが。

    「なんやおもろい名前になったなあ。コヒョウて、スーパーらしくないと思わへんか?」
    「コヒョーて何よそれ馬鹿じゃないの。コーヨーよ!」

    馬鹿呼ばわりされてしまいましたがな(汗)。漢字で書くと「光洋」であるようです。
    しかしながら。
    何の知識も先入観もなく「KOHYO」と見せられたら、コヒョウ(コヒョー)と読んでしまいませんかね?
    HPをご覧になればおわかりのとおり、KOH YOと分かち書きであるわけでもなくKOHYOですから。
    そもそも株式会社「光洋」という漢字名があり、これは日本語なのです。アルファベットにした場合は、ローマ字のルールにのっとって表記されていると考えるのが自然でしょう。
    僕はPCにおいてはマイノリティであるカナ打ちなのですが、ローマ字はPCの普及によって、かつてないほど人々に馴染んでいる時代だと思います。みんなローマ字アタマになってるはず。
    ちなみにローマ字変換にして「KOHYO」を打ってみますと「こひょ」ですよ(笑)。コヒョウですらない。
    つくづく、ローマ字というものは日本語と馴染がないものだと思いましたね。日本語の発音をアルファベットで表現するのは、最初から無理があるんです。

    アルファベットが日本語の表記に最初に使用されたのは、おそらく戦国末期に編纂された「日葡辞書」でしょう。それ以前にも書簡や何かであったかもしれませんが、公式にはこれのはず。
    このときは、ポルトガル発音を日本語に対応させたものですから、今のローマ字とは結構異なる部分もありました。「セ」は「xe」だったり「ワ」は「va」だったり。
    のちポルトガルとの国交がなくなり、日本はオランダとだけ付き合うようになったのですが、そうするとオランダ語に対応させた表記も現れました。「つ」が「toe」だったりね。
    鎖国時代が終わって、英語発音で表記がなされる動きが出てきます。
    ここで、ややこしいことになります。規則的に50音に対応させた訓令式と、英語発音に出来るだけ近づけたいと考えたヘボン式が出てきます。これはもうよく知られた事柄でしょう。「ち」が「ti」か「chi」か、てな話です。両者とも、現在生き残ってます。PCではどっちも「ち」と変換してくれます。
    まったくもって、ややこしい。

    じゃ「オー」を「oh」と表記するやり方はいったい何でしょうか。これは、訓令式でもヘボン式でもありませんやな。
    僕にはよくわかんないのです。手持ちの書籍では詳細をたどれません。しかしこれだけのために図書館にいくのも面倒くさいし、行ってもわかんないかも。
    記憶だけで考えてみますと、僕が最初に「oh」を見たのは、王貞治さんの背中です。70年代かしらん。ユニフォームに「OH」と記されていました。当時子供だった僕は、「オホって何だよ(笑)」と思った記憶があるなー。まだ英語を習う前で、「Oh! yes!」なんて書き方を知らない時でしたので。
    しかし、王さんが「oh」表記を日本で初めて始めたわけではありますまい。そこらへんの歴史を探りたい気がするのですが、これは宿題ですな。

    日本語の表記というものが、そもそも曖昧であるわけです。考えてみれば。
    「王」をひらがな書きすれば、「おう」であるわけですが、実際の発音は「オー」という長音ですわね。「オウ」じゃない。「追う」や「負う」なら「オウ」ですが。「オオ」でもない。
    これを詳しく考えていくと大変なので、長い歴史のうえでそうなった、ということにしておきます。しかしながら、だいたいは「オー」ですが「オウ・オオ」と発音しても間違いとは言われないでしょう。そもそも近しい音ですので、聞き分けることも難しいかと。見方によればかなり曖昧ですよねぇ。

    それに対し、英語には長音の概念がない、とされます。
    日本語だとオジサンとオジーサンじゃ言葉が変わってしまいます。靴と苦痛も意味が違う。ところが、英語だと「strike」はストライクでもストライーク!でも意味は変わりません。
    -erとかは長音みたいですけど、母音の拍を単純に倍に伸ばしたもんじゃないですね。この話もキリがないわけですが、長音を表記する術がないと言えます。考えてみればohもオーではないし…オゥが近いのかな。よくわからんのですが、oをオと読んでもオウと読んでも個性みたいなもんで。
    で、長音はローマ字においては、、記号を使って表記します。
    訓令式だとオーは「ô」、ヘボン式だと「ō」とします。
    「^」はフランス語とかにもありますね。「¯」は何語にあるのかな? 長音の意味だと聞いてます。とくに日本で開発された記号だというわけではない。
    アルファベット使用言語において、こういう文字記号っていくつもあります。ドイツ語のウムラウトとか。だからそれを援用した、ということでしょうが、こういう記号は英語の表記にはないんです。だから、ややこしくなる。

    ここまで書いて、思い出しました。そうそう、パスポートの表記が規制緩和されたんだっけ。あれはいつだったかな? ちょっと検索してみましたがググり方がヘタなのでよくわかりませんでしたが、譲二さんはJojiでなくGeorgeでもいい、というやつ。
    固有名詞は、いいのか。
    確かにね、jojiならジョジと発音されるでしょうし。最近はきらきらネーム流行りですから、亜莉澄ちゃんもArisuよりAliceと表記したほうが実態に合うんでしょうよ。
    こんなのは僕は、しょうがない誤差だと思ってしまうのですけどね。外人だって日本に来たらGeorgeもジョージさんとしか言われないでしょうし。でも当人にとってみれば、より近い発音で呼んでもらいたい、というのは人情かも。英語圏でしか通用しませんけど(汗)。
    それで、ohか…。
    小野さんと大野さんはどっちもOnoですんでね。そこで「Ohno」としたい気持ちは、わからなくもありません。

    でもこれは、パスポートの話。外向けの話ですよ。日本国内じゃそんなこと考えなくていいのでは。
    だいたい、何でもかんでもアルファベットで表したがりすぎるんですよ。まったくもう。カッコいいと思ってしまうのでしょうか。
    来日外国人のための表示とかは、そりゃ必要でしょうよ。「KOBAN」と表示してあれば、確かに助かるかも。「Police box」のほうが英語圏の人にはいいかもしれませんが、日本人にわかりにくい。外国人にとっては、日本語の音は分かっても読みにくいでしょうからね。折衷案として理解できます。
    駅名とかは両方表記する。そういうこともこの国際化の時代必要なことでしょう。
    じゃ「KOHYO甲子園店」というのはどうなのか。
    これは、特に来日外国人のための表記ではないでしょう。それなら「光洋」に併記すればいいだけのこと。だいたい、僕は英語に全く堪能でないのでわかんないんですが、英語圏の人に「コーヨー」と読ませるためにはKOHYOって表記が最もふさわしいんでしょうか。Ohがオーならば、KOHYOだと「コーヨ」では? うーむ。どうせ僕は馬鹿ですけどね(涙)。
    そもそもイオンだってAEONという表記。それも気取って「ÆON」て特殊文字をつかってる。由来は知りませんよ。何か意味があるのかもしれません。でもねぇ…岡田屋でいいじゃんと思うんですが、それじゃカッコ悪いと岡田さんは思ったんでしょうか。国外進出のためかな。松下電器がPanasonicになったように。

    収拾がつかなくなったのでこのへんで止めますが、何でもかんでもアルファベットにする風潮に、カナ打ちでさほどローマ字に馴染のない馬鹿な僕などは、アタマを抱えてしまうことがあるんです。この話は、そういう事例のひとつです…。
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    | 2016/03/13 | 言葉 | 17:48 | comments(0) | trackbacks(0) |

    百度石・千度石・万度石

  • 2016.01.18 Monday
  •  どーもー凛太郎です。たまには出てきますよ。v( ̄∇ ̄)v

     1月は、初詣でや十日えびすなどで、神社にゆく機会が結構あります。
     僕は石造物を見るのが好きで、それがために一昨年はお墓のブログを連載したりしてしまったのですが、もちろん神社でも一生懸命に見てます。
     日本は木造建築物が多いため、なかなか古いものが残りにくい。そこへいきますと石は、燃えませんし地震や水害にも強いため、歴史の生き証人になってくれることが多いんですね。
     今日は、百度石をちょっと見てみたいと思うのですが。

      
     
     これは、鳴尾八幡神社の百度石です。嘉永三年(1850)と側面に刻まれています。立派ですね。
     「百度石」とは何かということについては、あまり説明が必要ない事柄だとは思いますが、むろんお百度詣りのためのものです。
     お百度詣りを知らない人もいるかな…。
     お百度詣りというのは、そもそも百日間連続参詣という祈願「百日詣」が起源とされます。
     ところが危急の願い事があって、百日もかけていられないという場合が生じたときに、これを簡略化する方法がいつ頃か編み出されたと言われます。すなわち参拝したら、また神社の入口まで戻って再び参道を歩き参拝、これを百回繰り返すというやり方です。これが、百度詣り。
     「お百度を踏む」なんて言葉が既に慣用句になってます。営業の基本だ、とか言われたり(汗)。
     願掛けの一種であることは間違いないのですが、こういうのは民間信仰であって、神道の作法というわけではなく文献的にもルーツを調べるのは難しいようです。神道関係の書籍を読んでも全然出てきませんね。これは、民俗学の分野でしょう。そもそも昔は神仏習合ですから、別にお百度詣りが神社とは限らないわけです。寺院でも仏頼みがあります。
     文献的初出は、吾妻鏡とされます。探してみますと文治五年己酉(1189)の8月10日の項に、
     「今日鎌倉に於いて、御台所御所中の女房数輩を以て、鶴岡百度詣で有り。これ奥州追討の御祈請なり。」
     と、あります。このときは、源頼朝が奥州に出兵し、平泉の藤原氏と戦争をしています。既に義経は討たれたあとで、鎌倉軍が一気に藤原泰衡率いる奥州軍を壊滅させようとしていたとき。しかし奥州軍は強いですから、鶴岡八幡宮に祈願をしたのでしょう。御台所というのは北条政子のことでしょうかね。
     これは、100日もかけていませんからお百度詣りだろうと推測されます。ということは、平安時代末にはもうこういう信仰が成立していたとみていいでしょう。

      

     これは、瓦木の熊野神社の百度石です。
     百度石というものは、そのお百度詣りの一種の目印になるものです。ここまで戻って、また参拝を繰り返します。
     お百度詣りが百日詣から派生したものであるとすれば、本来は参拝ののち一度境内を出て、再び鳥居なり山門なりをくぐって参道を歩きなおすのが正統であるとは思うのですが、そこまで形式を考えずとも百回参拝すればいいわけですから、このように参道途中に置かれていても適うのではないかとは思いますね。鳴尾八幡さんや熊野さんは、そういう感じ。
     
     ところで、今もおそらくお百度詣りというものは為されている、とは思うのですが、僕個人は信心深くないのでやったことはありません(汗)。また、お百度詣りをされている方を見たこともない。
     一応wikipediaも見てみましたら、「百度参りは人に見られないように行うとか、裸足で行った方がより効果があるなどとも言われる。」なんて記述がありました。
     「言われる」ですから断言ではないものの、これホントかなあ(汗)。丑の刻詣りとかと間違えてるんじゃないでしょうね。昨今wikipediaは事典辞書よりも影響力がありますからねぇ。みんなすぐコピーしてブログとかに載せたりしますので拡散しやすい。
     マナーとして参拝者が多い時間帯は迷惑でしょうが…。
     
     閑話休題。甲子園素盞嗚神社の百度石です。

      

     なんだかモダンですね。(^-^) 見た目からして新しいものです。昔の遺物ではない。ということは、おそらく今もお百度は踏まれているとみていいでしょう。こちらですと、優勝祈願とかで参られる方もいるのかな?
     素盞嗚さんの百度石は、参道途中の脇に位置しています。
     百度石は参道入り口、もしくは参道途中に置かれるのが通常です。しかしながら、例えば参拝者の多い神社ですと場合によっては、参道の真ん中に置くと危ない場合があります。なので脇に寄せられているのかもしれません。
     実際は、参道の中に置かれることは今は少ないんじゃないでしょうか。

      

     こちらは西宮港の鎮守である住吉神社の百度石です。いちおう参道脇で本殿正面に位置しています。
     そして、拝殿と百度石の距離がかなり近い。祈願者にやさしいとも言えます。
     住吉さんはもともと港の築堤の上にまつられてますから、そもそも長い参道はありません。ですが築堤上ですから段差があります。階段上り下りはキツいですから、それを避けてくださるのはありがたい。
     
     これは、今津の福應神社なんですが。

      

     さすがにこれは参道脇などではありませんね。拝殿の前に置いてあります。
     福應神社さんは、国道43号線建設による遷座があって、これに限らず全てが旧来の位置ではないと思われます。石造物は、固められたり寄せられたり。このようによく見える場所にあるだけでも良しとせざるを得ないか。ただ本来の目的に使われているかどうかは…わかんないですね。拝殿近くにあることで、お百度を踏みやすくして下さっている、という見方も出来ますが。

     僕が知る中で、参拝場所と百度石が最も近いのは、鳴尾の妙見さんだと思いますけど。

      

     しっかりと百度石が存在しますが、妙見さんに参道は…

      

     鳥居脇の石標が百度石です。近い。\(*^▽^*)/

     ところで、神社には百度石だけではありません。千度石、万度石というものも存在します。
     これは、松原天神さんの千度石です。

      

     かなり大きい。さすが千回の目標となるだけのことはあります。となりに小さな百度石があるのがおわかりいただけるでしょうか。
     さらに、こちらは万度石ですが。津門神社です。

      

     「萬度石」と刻まれています。
     この千度石・万度石については、前にも別の場所で書いたことがあります。そのときは「スパルタ式やな」と評したんです。軽い気持ちで。
     ですが、その後少し考え方は変わりました。
     江戸時代の村の鎮守については、一昨年に結構細かく調べたのですが、神社は基本的には「みんなのもの」です。村人が氏子として、みんなで維持している。「宮座」と言って、神主さんも持ち回りでやっているところが多い。
     だから、神様が(神社側が)百回参らないと願いを叶えないよ、なんて上から目線で言うことはないのです。石造物は、全て寄進です。祈念することがあって、或いは叶った御礼として、様々なものを奉納します。百度石もそのひとつ。押しつけなんてありません。
     歴史的には、村の鎮守さんが一時的に「上から目線」になったことはありますけれどもね。明治初年から昭和20年までの、国家神道の時代は。しかしそれも80年足らずで、戦後は、元に戻ったはずです。

     そういう意味においては、松原天神さんの千度石は明治41年ですから、まあキビしい時代だったかもしれません(笑)。しかし津門神社の万度石は、見た感じは新しい。
     少し失礼して裏面を拝見させていただきました。

      

     「沖縄復帰記念 昭和四十七年」と刻まれています。そうか。
     つまりは、思いがこもる万度石だったわけです。スパルタとか書いてしまったことを陳謝いたします。
     
     津門神社には、百度石もありました。

      


     後方に、歌碑があるんですけど…「朝の○ 忘れられたる百度石」ああ読めない。(T_T)教養がありません。

     というわけで、西宮市内の百度石を少し紹介しましたが、他にもありますので、お立ち寄りのときは探してみられるのも一興ではないでしょうか。

     さて、こちらは僕が市内で最もお気に入りの百度石です。山口の丸山稲荷神社の奥宮にあります。

      

     素朴な自然石なのですが、寄進者のお名前が「髪結保次郎」と刻まれているのがな
    んとも味があると申しますか、カッコいいのですよ。(^ー^* )

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    | 2016/01/18 | 西宮流 | 05:47 | comments(0) | trackbacks(0) |

    石巻・女川

  • 2016.01.14 Thursday
  • まだ松の内かな…昨年調べたけど確か関東は七草までが正月だが関西は小正月、つまり15日までが通常だから…一応、謹賀新年、凛太郎です(汗)。

    今年も年末年始の旅の話から始めようと思います。
    なんとなく細かくいろいろ歩きました。ダラダラ書くとひたすら長くなりそうなので、表題に絞って書きます。
    まず仙台に一泊。欠かせないイベントである光のページェントを見たのち、うまい魚と浦霞を堪能し、さらに牛タンと麦飯で腹いっぱいになって熟睡した僕は、夜明け前の仙石線に乗り込みました。
    三年前、僕は塩釜、松島へ出かけました(→記事)。そのとき仙石線は、松島より向こうはまだ線路が完全復旧していませんでした。
    石巻へは、小牛田経由でゆくことは出来ましたが、石巻から先は一部開通のみ。終着である女川までの線路は、昨年3月にようやく通じたのです。

    本塩釜、松島海岸駅と3年前に訪れた駅を過ぎる頃から、空が白んできました。
    車窓風景には、更地が広がっています。報道で何年か前に見た光景とあまり変わっていません。このあたりはみな5年前に、波にさらわれた地域です。朝7時頃、石巻到着。
    寒いな…。((+_+))
    まだ店など開いている時間ではなく、とりあえずコンビニのイートインで熱いコーヒーを喫します。
    石巻へは、2度目です。最初に来たのは、もう20年以上前です。結婚前だったから…もう正確なところは当時の何やかやを引っ張り出さないとわかんない。しかも、その時僕は用事があって来たので、観光も何もしていません。
    とりあえず、歩いてみるか。
    まずは駅からほど近い「鋳銭場跡」へ。
    ここは仙台藩の通貨鋳造跡なんですが、特に何が残っているわけでもなく地蔵を祀った祠があるだけです。
    藩政時代の銭座とはあまり関係ないのですが、祠の周りには江戸期の庚申塔残欠が多く集められています。さては明治の宗教政策の名残か。こういう「ちょっと歴史っぽい石巻」を調べたら実に面白そうなのですが、旅の者なので詳細はわかりません。
    さらに東へ向かって歩き、ハリストス教会を過ぎると旧北上川に近づいてきます。
    ここには「石巻総鎮守」の扁額が掛かる大島神社があります。
    なんとも神寂びた風情です。18世紀半ばの造営で、位置的におそらくは津波に襲われたはずですが、今も敢然と建っています。
    河畔には、義経伝説に彩られた旧跡「袖の渡し」と、石巻という地名の由来という説のある「巻石」があったはずなのですが…(参考HP→宮城県ナビ)、地震の地盤沈下で姿が見えません。小島も津波にやられてしまっていました。

    僕は、石巻随一の観光地であり景勝地であるところの、日和山公園へと向かいました。
    町の南に位置する丘陵地で、式内社である鹿島御児神社が鎮座し、鎌倉期以来の有力国人であった葛西氏が拠点として「石巻城」を築き、旧北上川が港として栄えた時代は名の如く天候を読む日和山だったところであり、当然ながら眺望が素晴らしい。芭蕉も来ています。
    そんな歴史的興味から、えっちらおっちらと僕は急な坂道を上ったわけです。
    僕の石巻についての知識は、司馬遼太郎氏の「街道をゆく 仙台・石巻」を読んだ程度で、薄っぺらいものです。そこで、伊達政宗にスカウトされて北上川の治水工事を遂げた土木家、川村孫兵衛のことを知ったわけですが、日和山公園には川村孫兵衛の銅像も建っています。
    もちろん、市域は一望でした。孫兵衛が尽力して水源確保そして水運を仙台藩にもたらした北上川の威容も眼下に広がっています。
    僕は、海側に視野を移しました。
    さすれば、海岸から山までの間に広がっていたはずの市街地が、全く消えています。息をのみました。
    道すらもありません。現在新しく造営中でした。建物と言えば、寺院がひとつと、付随する墓地だけ。
    この日和山には、多くの人々が避難し、津波に呑まれてゆく町を見つめていたとされています。あまりにも凄まじい爪痕でした。あとで町の人から聞いたのですが、もう日和山より南の平野部には、町を復興する予定はないそうです。「ここより下に家を建てるな」ということでしょうか。

    僕は山を降り、北上川の中州に建つ「石ノ森萬画館」へと向かいました。そろそろ開館の時間です。今世紀にはいってから石巻の町は、石ノ森章太郎さんで町おこしをしていますが、僕が前に行ったときにはまだそんな話は出ていない頃でしたね。
    川の中州に立地してますので、当然ながら津波被害に遭いました。ただこういう流線型の建物であったため(→wikipedia画像)、中州にあった他の建造物が壊滅した中、強烈な圧を受けつつも何とか生き残ったということのようです。
    展示は、非常に面白かったっす(書いてたらキリがないので割愛)。
    再び、町を歩きます。
    駅まで波は押し寄せたらしいので、中心部はほぼ被災地であるわけです。あれから5年、もちろん復興は進んでいますが、まだまだ更地も多い市街地です。歪んだガードレールや曲がったアーケード。祠だけ残されたお稲荷さん。
    僕は阪神大震災の後に西宮市に越してきたのですが、その頃のことを思い出しますね。5年では、まだまだ全て旧には復しません。
    萬画館から駅への道は「石巻マンガロード」と称され、サイボーグ009や仮面ライダー、キカイダー、ゴレンジャーらのヒーローたちがモニュメントとしてあちこちに立っていました(→案内)。彼らは、押し寄せる津波にさらされ、流れ来る瓦礫と戦いそして、今も敢然と立っている。こういうの、ちょっと思いが揺れますね。

    朝はパンとコーヒーだったのでそろそろ腹が減ってきました。
    せっかく石巻にいるのですから魚を食べようと思い、町のお寿司屋さんに入って、寿司を食べるのは怖いので(笑)、値段が分かっている海鮮丼を注文。しばし待ちます。
    出てきた丼には、マグロはもちろんのこと、ホタテや白身やイカなどがどっちゃり乗ってます。すごいな。石巻らしくクジラまで。うひゃあ。
    僕は、海鮮丼あるいは東京風のちらしというものは外では滅多に食べません。それは、僕にとっては刺身と飯のバランスが悪いから。いい店であればあるほど、刺身がたっぷり乗ってます。小さな丼の飯ならマグロの刺身ふたきれで食べられてしまうご飯食いの僕にとっては、困ってしまうわけです。
    この店の海鮮丼は、まさにそれ。さあどうしようか。解決する手段は、もう一つしかありません。
    「燗酒を一本お願いできますか」
    乗ってる刺身の半分くらいは酒とともにいただくことにします(笑)。
    さすが石巻。魚介は新鮮でうまい。ねっとりと脂がのった魚を噛みしめ嚥下し、さらに酒を含むと、なんといいますか豊かで幸せな気持ちになりますね。まあ昼からホント申し訳ないですが、結構なもんです。半分ほど刺身を食べて酒が尽きれば、めしに移行します。これだと魚と飯のバランスを考えずにワシワシと食べられる。うまいねぇ。やっぱり丼は頬張って勢いよく食べないと。ふぅ…ごちそうさま。
    夏に来れば金華サバも乗るよ、と聞かされて、ちょっとだけ後ろ髪ですな(笑)。

    さて、石巻をあとにして女川行の列車に乗り込みます。
    女川は、初めてです。
    2015年3月21日に、ついに石巻線が全線開通し、女川まで線路が繋がりました。
    震災がなければ女川には行かなかったか、と問われれば、肯定せざるを得ません。これは、物見遊山です。しかし行かないより行ったほうがいいだろう。そう考えて、訪れました。
    石巻からは約30分。車窓風景は、今は穏やかです。
    昼過ぎに終着、女川。真新しい立派な駅舎が出来ています。
    降りてみて…町はまだまだ更地です。一応駅前商店街だけが出来ているのですが、まだまだ殺風景な様相です。道すらまだ作りかけです。
    三陸特有のリアス式海岸。山が海に迫り、そのまま海へと落ちている地形。だから良港だったと言えるのですが、山に囲まれた狭隘な谷間の、そのわずかな平地部分にあった女川の町は、完全に津波に飲み込まれました。襲った波が逃げる場所がなかったのです。波は山にぶつかり斜面を駆け上がり、上がりきった波は再び戻って町を襲う。
    そして、震災屈指の被害を記録しました。

    湾を見下ろす高台に、町立病院が建っています。僕はそこまで上ってみました。結構な急坂です。
    この病院は海を見下ろす標高16mの丘陵にあるのですが、何とこの丘の上まで波はやってきました。一階部分には津波が襲ってきたのだと。
    報道でそのことは知っていましたが、実際その地に立つと、驚愕します。海水面はあんなに低い場所にあるのに…。
    病院の柱に、津波到達点が刻まれていました。一階床より1.95m。なんだこれは。信じがたい。つまりこの地点では、津波の高さは17mを超えたのです。
    慰霊モニュメントがありました。死者・行方不明者827人と刻まれています。
    人口は約1万人でしたが、この湾に面した町域にはどれだけの人が居たのでしょうか。様々な計算がありますが…死者率は最も高い地域であったとも言われています。この丘の上に逃げてさえ、波に呑まれた方が何人もいるのです。
    当時「想定外」という言葉が世を席巻しましたが、これは確かに想像を絶しています。

    僕は町をうろつき様々見たのち、駅舎に戻りました。
    駅舎の二階には、温泉施設があります(→女川温泉ゆぽっぽ)。震災前から駅前に温泉はあったのですが、もちろん被災し、リニューアルオープンということになります。当然、入ります。
    いいお湯ですね〜。(^▽^) 今日は結構歩いたのですが、足の疲れも消えてゆくようです。
    ゆっくりと入って、併設されてる休憩室でしばし憩います。もちろん、湯上りにはビール。
    ここから海が見えます。とても穏やかです。その穏やかさに、さまざまな思いがわきおこります。
    そうこうしているうち、小牛田行の列車が来たようです。駅が温泉なので、ギリギリまで憩っていられるのがいいですね。ポカポカのまま、車中の人に。

    そのあとも僕はあちこち寄って、31日には津軽の妻の実家で年越し。大酒のあと、僕の両親が住む実家にも行って、正月の休みが過ぎてゆきました。
    今年は、もう少しブログで遊びたいとは思っていますが…どうでしょうかね(汗)。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
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    | 2016/01/14 | 旅行 | 22:02 | comments(0) | trackbacks(0) |

    冷たい風が吹いている

  • 2015.12.28 Monday
  • さて、年末です。
    いつもの年なら、僕のWebでの一年を振り返る内容を書くのですが、今年は冬眠してましたので、書くことがありません。何で冬眠していたかは、前に書きました。
    11月にいちおうWeb復帰したのですが、それ以降も記事はほとんど書いてません。このブログに2記事と、西宮エリアブログに何本か、ですね。

    ま、いろんな言い訳もあります(笑)。
    もちろん、日々の生活に追われて…というのが一義的なことですが、これは毎年そうであって、理由にはなりませんな。ただブランクをつくっちゃった、というのはやっぱり大きいんです。アタマがブログ脳に切り替わらないんですよ。なので、思い付きはあってもなかなか記事に結実しない。
    年くっちゃったのかなぁと思います(汗)。頭脳に柔軟性がなくなってきたと申しますか。
    あとは、体調が完璧でない、ということもまああるかな。おかげさまで今年前半戦を悩ませた腰は、よくなりました。しかしながら、12月過ぎからいわゆる「五十肩」になりまして。なんでもう今年はいろんなことが次々に襲ってくるのか、と愚痴りたくなるのですが、まあそういう年代なのでしょうか。

    しかしながら最大の原因は「PCを買い替えた」ことにあるんでしょうねー。
    僕が入院中にPCが壊れてしまい、13年ぶりに個人PCを新しくした、ということは以前書きました。それにしたがい、OSもWindowsXPからWindows10に一気にステップアップし、浦島太郎状態になってしまってアタフタしている、と前に書きましたが、今でもマスターはしていないものの何とかダマシダマシ使っています。PCなんてのは、そもそも取扱説明書を読んで使う、なんてものじゃありませんから、そういうもんだと思ってます。これはしょうがない。
    ただ、僕にとって致命傷だったのは、PCが横広になってしまった、ということです。
    何の話かわかりませんよね?
    僕もどう書いていいかわかんないのですが、僕が以前使ってたのはPCのディスプレイが4:3だったのです。古いですな(汗)。それが、当然ながら画面は16:9になっています。
    さすれば、それにあわせてキーボードも横長になるわけです。別にそんなの合わせなくてもいいだろうと思うのですが、メーカーも余白が嫌いなのでしょう。なので右側にテンキーを付けています。
    これが、困るんですね。視線はディスプレイ中央に合ってしまうのですが、キーボードは左寄りに揃ってます。このため一応ブラインドで打つと、運指を間違えてしまう。バックスペースキーを打ったつもりがナムロックキーだったり、エンターキーのつもりが数字の4だったり。みんなずれてしまうのです。
    理解していただけないかもしれませんが、僕が少数派のカナ打ちであることが影響しているのかもしれません。とにかく、やたらタイプミスをするんです。
    家じゃないところで使用するPCは、だいたいデスクトップなんです。これだと、ほぼタイプミスはしない。不思議なものですが、デスクトップとキーボードの位置が自由であるためかもしれません。ラップトップはそれが固定なので、感覚のズレを修正できないでいるのかもしれません。
    今も、四苦八苦してます(汗)。イラっとして、ホントに文章打つのが億劫になるんですよ。しかしこれも慣れなければしょうがないので、どんどん記事を書いていくしかしょうがないんでしょうけどねー。

    てなわけで、まだまだ本調子ではありません。
    本当は…この「凛太郎亭日乗」というブログは、10周年だったんですけれどもね。すっかり忘れてました。
    アーカイブ的には、このブログは表向き2004年6月から始まったことになってます。しかし、それはここを開設する前にやっていた日記サイト「lintaro's bar」の過去ログ1年半ぶんをコピぺしたもので、実際に使用し始めたのは2005年12月1日からです。(記事→新規オープンです。)
    したがって、つい先日が10周年だったんです(汗)。
    何年か前までは、10年経ったらちゃんと記念記事をアップしよう、と思っていたのですけれどもね。内容も考えてたのですが、実際の10年目がきたら何も書かなかった。あちゃー(汗)。
    しかしながら、そんなのはちゃんと定期的にブログ書いてる人が書くものなんでしょうけれどもね。

    リンク張るために、その2005年12月1日の挨拶記事を引っ張り出してきたのですが、その記事のコメント欄を見ますと、jasminteaさんとアラレさんが足跡を残してくださっています。
    本当に有難い。
    先日僕が冬眠から覚めて反省の弁を書いた時にも、おふたりはコメントを書き込んで下さいました。
    こっちが不精しているにもかかわらず、長くお付き合いをさせていただいています。つまり10年以上だ。ひたすらに、ありがたいと思ってます。
    僕は、誰かに向かって(読者を想定して)書いているわけではありません。そういうのが出来ないんです。なので、一般的には興味をひかない話も、七面倒くさい理屈っぽい話も書きます。それでも、定期的に読んでくださる方がいてくださるのは、嬉しいことです。

    そういう、鬱陶しい僕の記事を読んで下さる方のおひとりに、よぴちさんという方がおられました。
    この方が、最初に僕を見つけてくださったのは、もうひとつのブログ「凛太郎の徒然草」の「ウイスキーの小瓶」という記事でした。コメントの日付は、2008年の2月6日。以来、僕の書くものを本当に細かく読んで下さっていました。同じ歳ということもあり、同世代話をよくさせていただきました。
    ネット環境が復帰してから、僕は自分のブログこそ少ししか書きませんでしたが、人のブログは読んでいました。一応RSSリーダーがありますので、お知り合いの方が更新されればすぐに分かり、とりあえず読もうと飛んでいきます。
    12月16日。そのよぴちさんのブログ「As Time Goes By」の更新通知がありました。僕はすぐに、彼女のブログを開けました。
    記事は、よぴちさんのご主人が更新されたものでした。「よぴちは亡くなりました。」と。
    僕は言葉を失いました。
    彼女は白血病でした。20歳代で発症し、以来ずっと闘病を続けてこられました。何度も危ない時期を乗り越え、彼女自身が医学的知識のある研究者だったことから、様々な厳しい治療、対処を試し重ね、それでも好きな音楽を聴き、奏で、ブログを綴ってこられました。
    生きることを諦めなかった人でした。

    こうして、年末の記事を書いていて、思います。
    そうか。もう彼女にはこの記事を読んでもらえないのだ、と。
    どんなしょうもない記事でも、年の暮れの記事には必ず書き込んでくれて、「今年もどうぞよろしく」とか言いあったのになー。
    「読者を想定していない」とさっき書きましたけれども、実はそうじゃなかったことを今思い知らされています。
    いったいこの寂寥感をどう昇華させればいいんだろうか。

    僕は前に、ブログは「身内バレしたら消去」と書きました。カミさんや親兄弟には恥ずかしすぎる内容だからです。
    しかし、もう何があっても消しません。それをすれば、今まで出会った人たちとの会話も同時に消してしまうことになる。それは、絶対にできない。もしもブログサービス会社側が止めると言うなら、必死でコピペしてどこかWeb上に置いておく。もう、そう決めました。
    人が生きてきた証しが、このブログにだって残っているのですから。

    この一年、何もしなかったブログですが、いちおう今年の更新はこれで終わります。もうひとつのブログにも、久々に記事をあげました。
    明日から、無理は出来ませんが久しぶりに旅に出ます。カミさんの実家への帰省ですが、例年のごとくあちこち寄り道しながら行こうと思います。冷たい風が吹く冬の旅ですが、少なくともその旅行記は来年書ければいいな。

    それでは、来年もどうぞよろしく。みなさまよいお年をお迎えください。
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    | 2015/12/28 | 雑感 | 23:22 | comments(2) | trackbacks(0) |

    鳴尾駅にて 2

  • 2015.12.19 Saturday
  •  鳴尾駅は、高架駅であるために竣工の暁には南北に抜ける自由空間ができるようです。現在はまだ上り線に行くための地下道がありますが、これが取っ払われるわけですね。

      

     しかしこの地下道、現在のところ旧駅の唯一の名残です。

      

     ところで、僕が西宮に越してきたころ、まだ郷土史などはかじっておりませんでしたから、てっきり「鳴尾」という町の中心は駅の北側だと思っていました。旧国のあたりは寿市場があり飲食店も多く、人出が多い感じもしていましたので。

      
     
     里中町あたりは、繁華街とまでは言いませんがやっぱり栄えているように思います。ことぶき市場はもう残念ながら空洞化してますが、飲食店やスーパー、銀行などが軒を並べてますので。
     鳴尾という町、言い方を変えれば「リアル鳴尾」は駅より南側であるということを知るのは、もう少し後になります。
     「駅裏」という言葉を遣っていいかどうかわかりませんが、やはり本来の鳴尾の成り立ちから言えば北側はそうであり、南側が駅の正面であったのです。
     その南側の、駅前広場です。北側にはそういうものはありません。

      

     しかし、ロータリーがあるわけではなく、多少寂しい感じもします。駅前円形広場は一種の小公園ですが、ここは昨今には珍しく喫煙が可能なため、時間帯によっては非常に空気が悪い(笑)。
     他には、とくに何もありません。パチンコ店と不動産屋さん学習塾と、小さな飲食店が何軒か。そして正面にはコンビニ。このコンビニは、かつて本屋さんだったと思うのですが…。

      

     おっと、本屋さんだった名残がありますねー。(^▽^)/
     詳細がわかりませんので痕跡とまでは書けません。看板がある以上は、もしかしたらファミマの経営はまだ本屋さんなのか、配達販売くらいはまだやっておられるのか。よくわかんないですけど。

     しかしこの駅前という場所は、発展しようがなかったと言えます。
     盛り場はもちろん、バスターミナルやタクシーの溜り場も作りようがない。場所がないんです。
     駅を出たらそこには壁があるんですから。

      

     言わずと知れた国道43号線の防音壁。
     明治時代、鳴尾の有力者たちが村の中心と駅を直に結び、鳴尾村を発展させようと路線をカーブさせたことは前述しました。その村の中心と駅を、この広い道路が断ち切ったわけです。
     国道43号線。かつて第二阪神国道と呼ばれたこの広い道路は、戦後すぐに計画がなされ、昭和32年に工事が始まり、38年に神戸〜尼崎間が開通しました。
     その鳴尾の有力者の代表であり、村のために路線の土地を提供した元村長の辰馬半右衛門氏は、38年に亡くなっています。せっかく直結された駅とまちを分断するこの43号線の工事を、氏はどのような思いで見つめておられたのでしょうか。

      

     甲子園付近では、43号線が高架しています。これはかつて甲子園筋に走っていた路面電車を跨ぐためにそうなったのですが、その高架下スペースに43号線を紹介するパネルがいくつか掲示されています。見れば、その歴史を知ることができます。

      

     古い写真も資料として示されています。かつてこの道は、10車線ありました。
     この広い道路が、様々なものを押しつぶしてゆきました。
     例えば今津も、鳴尾と同じ運命をたどっています。今津村の鎮守社(福應神社)と檀那寺(常源寺)は43号線の下敷きとなり移転。そして「リアル今津」と言えば六角堂や大関のある辺りだったはずです。旧阪神今津駅(現久寿川駅)は、そのリアル今津と直結していました。
     今は今津と言えば、阪神阪急今津駅あたりがすぐ連想されるでしょう。あのあたりは本来、村外れの場所で、墓地があったところです。
     あえて短絡的に言えば、道路がまちを変えたわけです。

     鳴尾に話を戻します。
     かつては、駅から鳴尾の中心である本郷エリアへは、もちろんちゃんと道が繋がっていました。ですがその道は43号線によって無くなり、かわりに地下道が設けられました。

      

     これは、43号線開通と同時に竣工しています。

      

     一応自転車用のスロープもあり、側面はやはり武庫女プロデュースのかわいい絵画で飾られてますが…地下道ってちょっと面倒くさいんですね(汗)。横断歩道よりはいいかもしれませんが。せめて信号があれば良かったのですが、都市計画として鳴尾地区を南北に結ぶ道路は小曽根線と本郷学文筋が指定され、ここには信号はできませんでした。

      

     しょうがないので地下道をくぐって南に。こっちからやと駅が見えませんがな。
     駅の南側に、かつての鳴尾本郷の中心道路が延びます。今は、駅と直結していません。

      

     道路名は「本郷中筋」。そのものズバリなんですけれどもね。
     視界に、かつて西宮ブログの聖地のひとつであった「Jダーツ倶楽部」跡地が…。(:_;)
     この道の先に、西方寺や乗誓寺などの村のお寺さん、村役場(現鳴尾支所)、小学校(西に移転)などの村中枢部。そしてその南に「鳴尾ミステリーゾーン」が広がっているわけです。
     昔のほうがよかった、とか、そういうことは流入民の僕にはわかりませんし、それについてとやかく言う気もありません。ただ鳴尾は、以前のほうが華やかだったのだろうという想像はつきます。
     「なるおぎんざ」という名称が、この間まで残っていました。道のあちこちに表示が出てたのですが、今歩いてみますとちょっと見当たりません。あれ、撤去されたかな? こんな感じでした。→tyuさんの記事
     それほど商業施設が多いわけでもなく、最初来たときはなんだろうと思ってしまいました。しかしながら鳴尾村誌などをひもときますと、かつてはずらりと商業施設が建ち並ぶ繁華な場所だったのです。これは、震災の影響もおそらく大きいとは思うのですが…。

      

     かつては市場もあったのですが、電柱の表示にしか名残はないようです。

     いろんなことを考えてしまうわけですよ。
     国道43号線は「戦後復興」の一環として計画されました。大阪〜神戸間を結ぶ大動脈として。
     そのときは、それが必要だという判断で造られたものです。後世の人間がとやかく言うことではありません。しかしながら、まちを完全に分断したことは事実です。なんせ10車線ですから、幅員は、場所にもよりますが50mあります。
     のち、43号線は騒音と排ガス問題で交通量を減らすべく8車線となり、さらに阪神高速の開通で交通量が減り6車線となりました。それならば最初から…繰り言ですが。

     ぼんやりと考えます。
     鳴尾がもしも、工事が始まる前に市制を施行して「鳴尾市」となっていたならば、ここまで無残な分断のされかたは無かったのではないかと。
     西宮町は大正末に市制を施行し、その新生西宮市に昭和前期、今津町、芝村、大社村、甲東村が次々と合併してゆきました。ただ、共に広域協力体制をとっていた精道村と鳴尾村は西宮市に合併せず、精道村は昭和15年に単独で「芦屋市」となりました。
     同規模の鳴尾村も、単独市制を目指していました。
     戦前の鳴尾村は、繁栄していました。村域南部には豊年製油や昭和電極などの工業団地があり、そこへ川西航空機がやってきたことで一気に人口が増えます。また鳴尾競馬場を擁し、甲子園球場や浜甲子園阪神パークなどの人を集められる施設をいくつも持っていました。単独で市となれる要件は整っていたと思われます。
     しかし、ご存知のとおり戦争の空襲で鳴尾は焼け野原となってしまいます。
     もしも川西航空機が、鳴尾に移転してこなかったならば。
     鳴尾競馬場は飛行場になることもなく、空襲はあったとしてもあそこまで徹底して破壊されることはなかったでしょう。空襲は計8回におよびました。米軍は、紫電改を生み出した川西航空機と軍用飛行場を狙ったのです。→ちょ歴西宮
     しかし、それでも戦後、鳴尾村は復興を目指しました。
     村は昭和23年に市制研究特別委員会を発足させます。文書には、昭和26年4月1日より鳴尾市設置の予定、と記されていました。
     昭和22年には占領されていた甲子園球場も復活。24年には鳴尾競輪場も出来ました。甲子園大プールを含め、多大な入場税収入が見込まれていました。
     しかしここに「シャウプ勧告」というものが出てきます。これは占領下における日本の税制改革ですが、この中に入場税および遊興飲食税は府県税とする、という改革案が盛り込まれたのです。これは、大きな痛手でした。
     しかし、何とかしようと村は模索をしました。そこへ昭和25年9月「ジェーン台風」がやってくるのです。
     再び、鳴尾村は壊滅的被害を受けました。
     そもそも村は戦後復興により多額の臨時経費を支出しています。その財政危機のさなか、徴税できないほどの被害でした。鳴尾村は、経済的基盤を失ったのです。
     昭和26年に鳴尾村は単独市制を諦め、西宮市の一部となりました。
     もしもジェーン台風が来なかったならば。
     阪神パークも再開をしようとしていました。そして、人口増の足音はもうすぐ近くまできていました。30年代には浜甲子園団地。その後には大規模な武庫川団地が出来ます。未来は、明るかったはずです。戦前から埋め立て計画はあり、一部実現していました。それは、のちに鳴尾浜工業団地として結実します。

     ifばかりを連ねましたが、僕は別に鳴尾が単独市になっていたほうがよかった、とか言うつもりもありません。そんなことはわからない。ただ、43号線が造られた昭和30年代に鳴尾がひとつの自治体であったならば、鳴尾地域はあんなぶった切られ方はせず、もう少しマシだったのではないかと。
     さすれば、鳴尾駅にも急行くらいは止まったのではなかったかと(笑)。
     おかげで僕は、神戸で人との待ち合わせに遅れたのです(汗)。そのため僕はあの日、阪神電車の車中でそんなことばかりを考え、こうして愚痴を理屈で捏ね上げた記事を書くに至ったのです。( ̄ー ̄;

     本郷学文筋方面から再び駅を眺めます。

      

     ・・・( ̄  ̄;) うーん
     駅だと思えば、慣れていないせいか僕には若干の違和感があるのですが、逆に風景に溶け込んでいるという見方もできます。43号線と妙にマッチしてると言いますか…。
     来年は、上り線も高架に切り替わる予定だそうです。楽しみですね。
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    | 2015/12/19 | 西宮流 | 19:29 | comments(0) | trackbacks(0) |


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