メールアドレスを複数持ってる人は多いと思います。僕もそうですが、あんまりたくさん持ってるとついつい開けなくなるメールボックスも出てきます(ヒドい)。用途別ですと緊急性が薄いやつはついつい…スパムばっかりで放置したりね。その開かずのメールボックスのひとつに、Web人格専用アドレス、つまりHN凛太郎のアドレスがあります。
しばらく開けてなかったんですよ。何年も…ですね。ブログの更新もストップしてましたし、忘れていたということです。
8月末のこと。たまたま何となしに開けてみました。
さすれば、未読がどっちゃり(汗)。各方面に陳謝致します。
その中に、gooblog公式からのメールが混じってました。
2022/08/04 (木) 19:01
いつもgoo blogをご利用いただきありがとうございます。
今後のより快適なサービス利用や運用上の安全性向上のため、長期間ご利用のないブログの編集機能停止を実施させていただきます。
引き続きブログをご利用いただける場合には下記にある編集機能が停止となる期日の前までに新規ブログ投稿をお願いいたします。■対象となるブログ
以下条件に全て合致しているブログが対象となります。
- 3年以上、新規投稿・記事編集のないブログ
- 無料プランのお客さま
■編集機能停止となる時期
- ご案内のメール受信、もしくは編集画面の告知から1カ月後に編集機能停止の対応を順次進めさせていただきます。(後略)
ほえー。
いたずらメールかもしれんとgoo公式ブログへと飛びました。さすれば、6月21日付で同様の内容がアップされてます。本当だ。こりゃまいったな。→goo blogスタッフブログ
もちろん「消しちゃうぞ」という話ではなくて、閲覧は可能ということですし、再開も手続きを踏めば可能ということらしいので、問題はないのですけどね。
しかしながら、どういう手続きをすれば復活できるのかはまだ明示されてはおらず(方法は後日公開)、最も良い方法は更新することですので、記事をひとつアップすることにしました。
知ったのが 8月末。メールは8月4日に届いているため、9月の3〜4日には停止してしまいます。「あいうえお」だけ書いてアップしたって大丈夫でしょうが、そういうのはイヤです。あたしの内心が許さない。しかし時間がない。なので、頑張って書きました。
で、9月4日ギリギリにアップしました。→コロナ禍の旅
何も頑張らなくともよかろう、と我ながら思うのですが、筆力というものがあるとするならば、衰えてしまったなと。やっぱりこういうのは、加齢で頭の回転スピードや集中力や根気などが失われるからなんでしょうかね。だから頑張らないと書けないんだなー。
ここまでは僕のもうひとつのブログであるgooブログの話ですが、こっちのブログもついでに何か書こう。というわけで、前に調べていてメモを作成していたのですが、面倒でブログにはしなかった話をひとつ頑張って書きました。それが一つ前の記事です。書くのってパワーいるな。
まず、gooもJUGEMも、編集投稿ページがしばらくみぬまにめちゃめちゃ変わってるんですよ。これは日々改善に努めておられるということで偉いと思うのですが、浦島太郎にとっては、慣れたやり方で打てない。説明は難しいのですが、戸惑う場面がやたら。初めて開設したときの第一投稿と同じような探り探り状況。別のエディタで打って貼り付ける、というやり方も出来ないわけじゃないですが、手間がめっちゃかかる(特にJUGEM)。パワーを要するのもしょうがないのかもしれませんがね。
しかしそれにしても、前みたいにカチャカチャと書くのはもう無理だわ。これが衰えというヤツか。この二つのブログ、最初に始めたのはもう18年前なんですよ。そりゃ老います。
6年くらい更新してなかったのかな。まあ止めたときにはそれなりの理由がありましたけど…今はやろうと思えばやれるんですよ。しかしねぇ(汗)。
gooが「編集機能を停止しますよ」と言ってくるのには、いろんな理由があると思うんです。確かにマイナスの意味もあるかもしれませんが、僕は、これを脅しとは受け取らず、実際には良心的な対応だと思っています。
それは後述するとして、まずもうブログって世間的にはオワコンじゃないですか。かつてブームだった時と比して、アフィリエイト関係なしの趣味で書いているアクティブユーザーがいまどれくらい残っているのか。
実際に生きているのは、サービス的に考えますとアメブロ、さらに後発のLINEブログ。これらは芸能関係とか有名人が利用してます。一般人だと…はてなブログくらいかな。これも後発ですけどね。はてなダイヤリーはなくなったし。noteはブログとは違うか。
あとは…ライブドア、FC2、Seesaa、ココログ、エキサイト、So-net、楽天、goo、そしてJUGEM。どのくらい稼働してるのかな。経営母体は代わったところも多いです。ライブドアもLINEですしね。JUGEMも知らん間に譲渡されてた。大丈夫かな。
僕は、登録しただけのものも含めるなら、全部で14のブログを持っていたんです。そのうち、消えてもらっては絶対に困るのがJUGEM、gooの他、ライブドア、エリアブログ、裏ブログのseesaaです。これらは記事数も多く中身も結構精魂込めてます。もしもサービス終了するなら移管してもWeb上には置いておきたい。あとはまあ…消えるならしょうがないかなというところです。既にヤブログとYahoo!ブログ消えてます。もうじきウェブリブログも消えるらしいです。残ってるのは上記5ブログの他、ココログ、エキサイト、忍者、Blogger、アメーバ、てぃーだ(沖縄)。ちょっと惜しいのも少しだけあるのでテキストだけはとっておくか。
僕がブログを始めたのは2004年。HPを作ろうとしていたのですが挫折、当時利用者が急速に拡大していたブログサービスに飛びついたわけです。その時はあまり意識してませんでしたが、ちょうどWeb2.0という言葉が流行(?)し、ブログは双方向メディアの旗頭としてとりあげられていました。僕はHP崩れでしたので「双方向」なんてなんのこっちゃ、でしたし、時代遅れのWeb1.0的意識でテキストをただ書き散らして閲覧してもらう、いや閲覧は多分されないだろうから、自分の生きてきて考えてきた軌跡みたいなものをWeb上に置いておきたい、という年寄り考えでスタートさせたんです。
始めた頃は固定閲覧者も出来て、僕も双方向性に寄った時代もありました。しかし、その双方向性というコミュニケーション重視のユーザーは、あっという間に台頭してきたsnsに流れ、mixiを経てインスタやTwitter、Facebookがネットを席巻しました。ブログは有名人系とアフィリエイト系を除き、市井の人々からは忘れられてしまった感があります。
いろんな要因があると思うんですけど、ブログはユーザーが飽きた、ということ以外に、衰退した訳が他にもあると思います。Webで発信する理由として情報発信欲求と承認欲求があると思いますが、発信してもなかなか見つけてもらえなくなりました。言及機能としてのTBの廃止。Googleがブログ検索機能を外したのも僕には大きかったな。そして見つけたとしても、RSSリーダーが壊滅したことで登録閲覧アクセスが面倒になって。Google検索はまとめブログやいかがでしたブログなど儲けブログは上位に出しますが、SEO対策してない個人ブログなど拾ってくれなくなりました。いくらいい情報を出しても見られなければ承認欲求は得られません。
例えばTwitterは面倒なトラックバックよりリプライで手軽に言及し、リツイートという丸ごと転載システムで拡散。ボタンひとつでいいねいいねいいね。相互リンクなどと面倒なことをやってたブログと異なり簡単にフォロー出来てフォロワーも獲得しやすい。繋がりたい人にはうってつけ。さらにフォロワーが増えれば「バズる」という現象も起きる。情報発信欲求、承認欲求が得られやすい。双方向メディアとしてはブログに比して圧倒的に強い。それはもう、ブログがオワコンとなるはずです。
結局、いわゆる巨大プラットフォームであるGoogleらは、個人ブログを切り捨てたんですね。旗頭だと思ったブログは、どうやら1.0の残骸だったらしい。それに気づいたから、ユーザーもGAFAもブログを過去のものにしたのですな。
15年くらい前に僕は「今は空前の、人が文章を書く時代」と書いたことがあります。僕たちが若かった時代は、コミュニケーションは直接話したり電話をしたり。手紙なんて滅多に書きませんでした。それがメールの普及で、電話より文章で意思を伝えるのが普通に。Web上では、掲示板やmixiで喧々諤々。ブログを書きコメントをして繋がり輪が広がる。文字で気持ちを分かちあっている。Web2.0万歳。
しかし多くの人々は特に文章を書きたいわけでも読みたいわけでもなかったのかもしれません。繋がりたい欲求そして発信&承認欲求を満たしたい手段として文字を打ち込んでいただけだったのかも。
しばらくしてすぐ時代はPCからスマホへ。文章を書くのも読むのも不向きなデバイスだと思います。ここからが2.0の本領発揮だったわけです。LINEの登場。画像を前面に出したインスタ。映える写真が撮りたくてスマホのカメラ機能がぐんぐん上昇。儲けたい人はブログでは埒があかなくなり、Youtuberが台頭。アプリというものがブラウザの意味を無くし、Google検索よりTwitter検索。Youtubeすら長くて、ショート動画かTiktok。インスタライブで思いを語る。サブスクでイントロやギターソロは飛ばして音楽を聴く。こんな時代が来るとは思いませんでした。いま僕が書いてるテキストをここまで読んでる人はいないでしょう。自虐ではなく、時代です。映画だって2倍速で見る時代。みんなアクセスしなくてはならないものが多すぎて忙しい。長文なんか読んでられるか。
そりゃ、個人ブログは廃れるわけです。
話を戻しまして、gooブログの今回の措置なんですけど。
gooは削除するぞなんて全然言ってないのです。これはつまり、残すための措置を進めますよ、ということだと思うわけで。
僕は一応「期日の前までに新規ブログ投稿をお願いします」と書かれていたので新記事をアップしましたけど、よく読めば編集作業でもいいわけですね。以前の記事の文章を改行して修正更新するだけでも良い、と読み取れます。何かアクションを起こしさえすればいいんです。
これは即ち、生存確認ですね。それに気づいたときにはちょっと声が漏れてしまいました。
編集機能停止後も記事はWeb上で閲覧できるとしています。編集機能停止なので、世に出ている記事群はもう改変されることなく残る。さらにコメントも不可となり、スパムが群がってくるのを防止。
すごいや。
未来のことはわかりませんよ。でも、現在時点でgooは、今まで織り紡がれた幾千万もの記事群を、インターネット資産として残す決断をしたものと解釈できます。
あなたが死んでもあなたの書いたブログは我々がブロックして残しますよ、とは書けなかったのでしょうけれども、意図はそういうことではないですか。ありがたいことです。
インターネットに積み重なった過去のテキスト群は、サーバーを圧迫し閲覧されなければ広告収入もサービス提供者には入らず、負の遺産でしかない。オワコンは一刻も早く切り捨てたいでしょう。
Yahoo!ジオシティーズが2019年にサービス終了したときは本当に残念でした。これからもインターネットで閲覧されるべき資産として残ってほしいHPとテキストたちが一瞬にして消えてしまった。リンク切れも多数。紙と違ってWebには永続性はないのか。もったいない。口惜しい思いが今もあります。
ブログには、もちろん有益性の高いものも数多くありますが、日々の日記も多い。他人にはあまり関係のないものも確かにあります。けれども、それはその人の人生の一部です。まぎれもなく。ブログが普及して20年。もう体力的に書けなくなった場合もあるでしょう。しかし、自分の軌跡を残しておいてほしい人は多いはずです。消したい人は、自ら消せばいい。
そして、物故者もいることでしょう。20年も経てば。それはもう、生前書き連ねたブログは墓標です。
未来のことは、わからない。でも今は、この決断に感謝しています。
JUGEMはどうなんでしょうね。経営母体がかわって一年半。paperboy&co.であれば、無責任なことせずにしっかり継続してくれ!と叫べますが(家入出てこい!も今は昔か)、譲渡されてますので、もうひたすら継続を祈るしかありません。頼みますJUGEMさん。
そんなこと言いながら、僕は記事を書くのを昔のように復活できるわけではありません。疲れる(汗)。でもたまには書くかも。
]]>こういうのは、活字を見ていてもわからない。「塩味」と書かれていて「えんみ」とルビがふられていることってかなり珍しいことでしょうから。音声ですね。ラジオやテレビや講演やYoutubeなど、耳で聞いてわかる。
昔はよくグルメ系番組とかも見ていたんですけど、最近は観たい番組がなくご無沙汰してしまってます。なので情報に疎かったのかもしれません。ただひとつ見続けているのが北海道HTBのローカルグルメ系番組でして、そこで戸次重幸氏が「ちょうどいいえんみ」「またこのえんみが利いてるのがいい」とかおっしゃる。しおあじを指しているのはわかります。そして彼だけかと思っていたら、うつったのか大泉洋氏も言う。
最初は北海道弁かと思ったんですよ。北海道ローカルで北海道出身の二人がそう言うわけですから。
北海道の方言は、青森にルーツがあることが多い。んで、津軽弁ネイティブの奥さんに尋ねてみたのですが「言わないよ」と。
僕が「えんみ」を最初に認識したのは上記の「おにぎりあたためますか」という番組だったのですが、そうしているうちに、他のテレビ番組でも頻発するようになりました。頻発かどうかは、もしかしたら僕が気になってしまっているために多く聞こえるだけかもしれませんが、少なくとも方言じゃないことはよくわかりました。こないだは元V6の長野くんも言ってた。
なんかあったのかな。塩味は「えんみ」と読むべし、という放送上のガイドラインができたとか。
もちろん間違いではありません。当然です。ただ、僕個人は、話し言葉では使用したことのない読み方です。なんで音読みに傾いてきたのか。それは知りたいなと。しかしどう調べていいのかわからない。うーん。
なんとなく学術系の感じはするわけです。卵(たまご)をランと読むが如く。例えば味覚生理学とかではそう読むのかも。また「合成塩味料」なんてものがあれば僕もエンミリョウと読むでしょう。
音読みにすると、確かになんだか知的な感じがする。個人的な感じ方ですけどね。僕が、塩基とか塩化物という教科書的用語に引っ張られてるのかもしれませんが。
しかしまあ、シゲや大泉洋が知的さを出すために気取って言ってるわけでもないでしょうから。キザで耳障りなほど強い言葉でもなし。ただ、違和感はあるんです。個人的には。塩加減とか言ったほうがわかりやすいのになあと。
今は、まだ過渡期だなと思うわけです。僕などは古い人間ですから「えんみ」と聞いてすぐ「塩味」と脳内変換にしくい。だから強烈な違和感をもってしまうのですが、若い人にとっては当たり前の表現になるのでしょうか。
ひとつの記事の長さは、このくらいが適正であるのは承知していますが、まだ延々と続けます。
僕の違和感についてですが、確かに「気取って聞こえる」というのも少しはあります。でもさほどでもない。そもそも馴染みがない、なので音で聞くとわかりにくい、というのが、まずは最大でしょう。しかし、それだけではない。これはもしかしたら「えん」ではなく「み」のほうにあるのではないか、とまでは気づいたのですが、それが論理的に説明できない。
しょうがないのでいろいろ調べてゆきます。
「えんみ」という読みは大きな辞書にはまず載ってますから、それほど新しい言葉ではない。用例を探すために小学館の日本国語大辞典を引きます。以降もこの辞典を主軸にします。
それによりますと、江戸時代の国語辞典の一種である「和漢音釈書言字考節用集(享保2 1717)」に「鹽味 エンミ」と出ています。僕も確認しました。→国立公文書館デジタルアーカイブ
少なくとも江戸時代からある読みだという証明で、もっと以前からそう読まれていたのかもしれません。鹽は塩の旧字です。
ただね。
どれくらいの頻度で「えんみ」と言われていたのかはこれではわかりません。もちろん「しおあじ」もありますし、塩気(しおけ)・塩加減という言葉もあります。「塩梅(あんばい)」というのも料理における味加減ではよくつかわれてました。昨今は死語かもしれないんですけど、僕世代ですと親やばあちゃんが普通につかってましたので知ってます。塩梅は、梅も入ってますから酸っぱい感じも加味されてますけどね。
語感から言えば、音読みというのは、一種「堅苦しい」わけです。さっきは知的、学術的とか言いましたけど、そもそも中国の発音を取り入れているわけですから、論文には良いのですがしゃべり言葉では一般的ではないのが通常です。
その、塩味を示す中国由来言語として、昔の日本には「鹽味」と異なる用語がありました。鹹味(かんみ)です。
僕は「からい」と「しょっぱい」という記事を書いて以降、結構しおの表現については勉強したつもりですが、古来「鹹」は味の表現として堅苦しい場面ではよく使用されています。意味的には「鹹」がしおあじ、しおからい味を示し、鹽は塩そのものです。 中国では「五味」を味覚の根本としてきました。それが「甘・鹹・辛・酸・苦」です。そして味を表わす漢字として、これはこのまま日本に入ってきます。
鎌倉時代の辞書「伊呂波字類抄」には「五味 鹹シハハユシ 酸スシ 苦ニガシ 甘アマシ 辛カラシ」と記載されています。「しおからい」は「鹹」なんです。で、塩そのものが「鹽」。
「鹹味(かんみ)」は日国辞典によれば、鎌倉時代(1305)に既に用例が見られます(雑談集)。だから鹽味(えんみ)の方が新しい、とは言えませんし、意味が微妙に違うのでどっちが…とは言えないことではあります。
なお余談ですが、中国では五味ですが、西洋では味覚の要素としては4つの基本味が言われています。塩味と、甘味・酸味・苦味。辛味はつまり痛覚であって、味覚には入れていません。これは科学的にも証明されてしまってます。なので、現在辛味を外して「うま味」を五味に入れてます。世界的にも「うま味」が味の基本要素であることは現在認められていますが、これはまた別の話。
さて話を非科学的時代に戻しますが、中国的に「五味」を表現すれば「鹹味(カンミ)・酸味(サンミ)・苦味(にがみ)・甘味(あまみ)・辛味(からみ)」です。ひらがなとカタカナが混じってますが、いつもの記事のように音読み訓読みでわけているのではありません。ごめんなさい。
サンミは通常であまみはあまミで湯桶読みである。これは一応そうなんですが、もうちょっとややこしい感じもしまして。
全て中国風の音読みすなわち鹹味(カンミ)・酸味(サンミ)・苦味(クミ)・甘味(カンミ)・辛味(シンミ)として、鹹と甘がどっちもカンだから、鹽味(エンミ)をかわりに採用したんだ、と考えれば全て一件落着なのですが、クミとかシンミとかはまあ馴染みがなく。統一性の問題ではないようです。
鹹味は前半を訓とするならば「からミ」であり、辛味とカブるから塩の音読みで「エンミ」なのだ、としても一件落着ですが、しおミでもいいではないですか。
現に「塩味(しおみ)」も読みとしてはあります。辞書に載ってます。意味は、やっぱりしおあじです。一部「塩と味噌」を指して「しおみ」とする用例もあるようですが、だいたいはしおあじ。
「しおみがちょうどいい」「このしおみが少し利いているのがいい」と言ったほうが、話し言葉とすれば、僕にはえんみよりわかりやすいですね。塩気でも塩加減でもいいのですが、「しおみ」の「み」が効いているような感じもします。
この「み」なんですが、「味」で、「あじ」。音読みで味覚の「ミ」。
僕は、違和感が「み」のほうにある、と前に書きましたし、音読みなのにひらがなで読みを記述したりして統一性のない記事になってますが、どうもこの「み」が接尾語の「み」に聞こえて、それが「えんみ」への違和感のかなりの部分を占めているのではないか、と僕個人は思っているわけです。ややこしい書き方ですんません。
「甘味」は学術的な味覚のひとつとして、「カンミ」ですね。人工甘味料とかで使用します。ややこしいのは和の菓子類を特に「甘味(カンミ)」と言うことがありますが、それはちょっと措きますね。甘味処とかね。
で、実際に味覚として甘く感じたときは、「あまみがある」と言いますね。「カンミがある」とはあまり(まだ)言わないと思います。
さて。
この「あまみがある」の「み」は、「味」ではない場合があります。つーか音を聞いただけでは、接尾語の「み」か「味」かわかんない。「あま味」か「甘み」か。
接尾語、あるいは接尾辞。辞書的には、 形容詞などの語幹、名詞などに加えて、程度や状態を示します。あたたかみ、高み、深み、重みなど。この接尾語の「み」というのは流行ってると申しますか、新語も生み出してます。「わかりみが深い」とか最近できた言葉じゃないですか。
この味の「み」と接尾語の「み」は、聞いただけではどっちかわかりにくい。なんつーか、ほぼ同じ意味で通用してしまいますので。
苦味(にがみ)・辛味(からみ)も同様です。味か接尾語の「み」かわかりにくい。また口語の、話の途中に出てきた場合は、どっちでもいいのではないでしょうか。「苦味」でも「苦み」でも。
学問的にはどう定義づけられているかは勉強不足でわからず申し訳ないのですが、少なくともあまみ、にがみ、からみ(うまみもだろうか)は、味と接尾語のダブルミーニング的な感じがしてしまいます。どっちかが、どっちかに引っ張られている。多分「味」が接尾語に引きずられているように僕には思えますが、どうなんでしょう。
「えんみ」にはその「味」と接尾語の「み」の意識の交じり合った感じが全くない。唐突すぎて。例えば「にがみ」は、「にがい」の語幹「にが(訓読み)」+味or接尾語名詞で、にがみor苦味。「えんみ」の「えん」は、形容詞の語幹ではなく名詞(音読み)で、しかも読みが単独で「えん」と読むのはおそらく化学の教科書くらいだと思われる「塩」(ちょっとそこのえん取って、とは言わない)。この「えん」に+接尾語「み」は成り立たない。「わかりみ」「やばみ」「うれしみ」とは同じにならないんです。
さて、「酸味(サンミ)」の登場としますか。えんみの強力な味方になる言葉じゃないかと思います。
「えんみ」の台頭には、塩味をあらわす言葉の不足があったのではないかと僕は思ってます。上リンク記事他でも書きましたが、塩味をあらわす「からい」が様々な条件でピリ辛他にとってかわられ、しおからいと注釈付きの複合語になり、塩はゆい→しょっぱいが関東方言として生まれ、根幹語なのに言葉として長いという不幸。鹹味(かんみorからみ)とも最早言いにくいし、しおからみ・しょっぱみ何れも長い。鹹がダメなら鹽でいけ。もう音読みだ、からの「えんみ」。
酸味も、昔から口語、話し言葉で「さんみ」と口に出していたのかはわかりません。
酸味もしくは酢味。「すみ」と読んでいたこともあるようです。日国辞典に用例があります。
江戸時代のものもあるようですが(「艶道通鑑」1716)、わかりやすいところで森鴎外の振り仮名つき掌編があります。
「…少し酸(す)みの耗つた所で…」 不思議な鏡
サンミも、江戸末期の用例はいくつあります。幕末の「和英語林集成」にも「Sanmi」と。
「すみ」というのは、短いし言いにくい気がしますね。「酸い」という言葉からはそれしか言いようがない。強調語「酸っぱい」が今は広がり共通語になってますが、「すっぱみ」というのはどうなのか。あまみにがみのようなひらがな接尾語なら成立すると思います。しかし名詞としての「酸っぱ味」はねぇ。しょっぱみが不採用であった如く、これもなんかヘンな感じがする。漢字で成立しない。そこらへんから、酸味(さんみ)が頭角をあらわしそして席巻した。
酸味は、「えんみ」の兄貴分的存在かもしれないなと。
僕も、酸味(サンミ)なら、生まれた時から聞いていた言葉ですし、違和感ゼロです。勝手なものですね。
ただ、理屈を言えば酸味の「み」は接尾語ではないですね。
えーっとまだ終わらない。他にも、いくつか書いておきたいことがあります。
「大言海」という辞書があります。この前身の「言海」という辞書は、明治前期、最初は国策として企画され、大槻文彦先生が精魂込めて編纂した日本初の近代的辞書です。現在の「新編 大言海」は、この言海を改訂したもので、もう明治の香りがぷんぷんする辞書なんですが。
「大言海」にも「えんみ」は載ってます。それがですね。
解釈を引用します。
えん−み(名) 鹽味 [鹽梅(アンバイ)ヨリ移レル語]
事ノ心ヲ斟ミワケ、加減スルコト。斟酌(シンシャク)。酌量(シャクリョウ)。
しおあじの意味の事は書かれていません。
用例として、「〜能能鹽味有テ〜」(伊達家記録・天正19年)や、「上様忝ク御鹽味ヲ以テ〜」など、斟酌の意味で使用された文が載ります。
実は、日本一大部の日国辞典や、広辞苑その他分厚い辞書にも、?もしくは?の項でそういう意味は載せてあります。「事情を考慮して、物事をほどよく処理する。手加減」(日国辞典)。しかしながら、字の意味から考えて第一義的には「しおあじ」を載せています。
でも昔は「えんみ」はしおあじ・塩気・塩加減の意味ではほぼ使用してないかもな。最初に載せた節用集からの引用も、辞典ですからね。江戸時代を知る大槻先生が、斟酌の意味しか書いてないわけで。
大言海は「塩梅」からの転と記してますが、塩梅は今も斟酌の意味でつかいますね。「席順どないしまひょか?」「ああそらええあんばいでやっといて。文句でーへんようにな」てな感じ。今なら忖度のほうが分かりやすいか。「首相がどのようにお考えかよくよく御塩味をもって、ご答弁下さいよ?」とか。
この塩梅や斟酌や忖度の意味をもつ「えんみ」は、少なくとも戦後日本では廃れていたと思います。聞いたことなかった。そして平成を経て令和の世になって、そのプリミティブな意味である「しおあじ」の意味で、復活したのでしょうか。どういう理由かははっきりしませんが。酸味に引っ張られたというのが僕の推測ですけど。気取って言ってるんじゃあないとは信じたいところ。
こうなると将来、辛味は「しんみ」、苦味は「くみ」になる可能性も出てきます。マジで。
苦味(クミ)だっで用例があります。→国木田独歩「彼の性情は酸味苦味(サンミクミ)がない」(夫婦)。
これだって、ストレートな味覚表現じゃありません。心のうちを味に例えて言ってるんです。しかし、そのうちに「やっぱりサンマのはらわたのこのクミがわかるのが大人というもんだねぇ」なんてつかわれ方をしないとも限らない。予言ということにしときましょうか。うま味だって旨味(シミ)とか。シミも辞書にあるぞ。渋味や蘞味(エグミ)は…音読みがわからん(笑)。
さて、現在のところ「えんみ」は、しおあじの意味として完全に世間に認知されたと言えるのでしょうか。
今のところは、僕はテレビでしか知りません。実際に、直に聞いたことはない。まあ最近はコロナ禍で会食もしてませんしね。食べ物の感想が話題にのぼらない。
検索してみますと、いくつかヒットします。このmacaroniさんというサイトが書かれているのは、2018年ですね。あと、いくつか「いかがでしたかブログ」もあります。こちらのすぎるーむさんは、詳しく書かれています。僕は検索が苦手なのでありがたい。「おにぎりあたためますか」のシゲと大泉洋のことも調べられてる(笑)。
検索窓に「えんみ 塩味」とか入れると、予測変換で「気持ち悪い」とか出てきます。僕はそこまでは思いませんが、ベクトルが同じ人が多いのでしょう。で、Yahoo知恵袋とかがヒット。
面白いのは「私は昔から使い分けていた」という人たちが続々登場。すげーな。僕なんか塩味、塩気、塩加減みんな意識して使い分けてませんよ。「えんみとしおあじとしおみは意味が違うので同時にはつかわない」「料理関係の人はえんみが一般的」さまざまな人がマウントをとろうとしています。ふーん。
でも、多くはここ1〜2年の投稿ですね(2022現在)。やっぱり最近頻度が増したのか。内容も、最近テレビで〜がほとんどです。友人がそう言う、マクドで女子高生が言ってた、とかは見つけられてません。
気になったのは、小学校家庭科の教科書が「えんみ」であるという指摘で、これ僕は確認できていません(調べるのが面倒なんで)が重要ですね。ならば指導要領も「えんみ」かな。そうするともう国策ですな。
類語辞典、というものもありまして。
講談社の類語大辞典(2002)には、「味わう」の項目→塩辛いことに収められている言葉は、塩気(シオケ)、鹹味(カンミ)しかありません。
もう少し新しい、三省堂の新明解類語辞典(2015)にも、塩関係は塩味(シオアジ)、塩気(シオケ)、塩分、塩加減しかありません。まだこの時点で「えんみ」は用語として辞書には認められてない。
と申しますか、デカい辞書には昔から載っているわけです。しかしながら普段使いの辞書に載ってないということは、人々はあまりつかってない言葉だということかなと。
僕の机の前にある岩波国語辞典にはもちろんありません。つーかこの辞書はワシが高校生の時から持ってるヤツだから古すぎて話になりません。
図書館に新明解国語辞典があったので引いてみます。新解さんですね。日本で一番売れている、が謳い文句。2020年11月発行の第八版。最新版です。
…ない。円満(エンマン)の次は煙霧(エンム)です。
他の辞書もいくつか見ましたが、だいたい円満〜煙霧ですね。
ところで、図書館には三省堂国語辞典がありませんでした。新解さんも三省堂なんですが、三国はそれとはちょっと違う辞書です。ローマ字の「w」に、「インターネットで(あざ)笑うことをあらわす文字」と記した辞書。新語大好きwww
三国には、飯間浩明先生がいらっしゃるんです。新聞の新語を探す連載は読んでました。アンテナがすごい。新語を見つけては、何年先まで残るか、一過性か、流行語か定着するか、そんなことをいつも吟味されてる印象があります。
三国は2021年12月に第八版発行。出来立て。しかし図書館にない。
えー、本当はいけないことですよ。こういうことは…ちょっと立ち読み。
おーっと「えんみ」載ってるwwwww 円満→塩味(エンミ)→煙霧www
もっとも、第七版はどうだったかは確認してないんですけど(汗)。しかしながら、載ってるのは三国だろうなとは思ってましたよ。やっぱりな。
なんだか三国に載ってるのを確認して、ニヤリとしてしまった自分がいます。不思議な感覚。自分ではちょっと違和感があって、おそらく一生つかうことはない言葉でしょうけど、「変化してゆく日本語」に向き合ったような、いま体感しているような、そんな気分で話を終わります。
]]>
原曲は、当時アメリカではどこでも見られるごく平凡な歌であった。旋律、韻律、リズム、音楽形式に関してはこの歌は決して特別の歌ではなく、大きな家族から出てきた一つのありふれた歌にすぎない。どれもこれもよく似た歌の集団の一員である。「仰げば尊し」の原曲が本国アメリカで記憶から完全に忘れ去られた原因をここに見ることができる。と、あります。「大きな家族」とは、歌の系譜の概念のようなものです。