僕がSFで好きな題材に「タイムマシン」があります。過去に遡ったり未来へ訪れたりする題材は実に様々なバリエーションを生み、パラドックスも生み、愛憎劇も生みます。海外に名作が多いわけですが、日本での第一人者は、やはり「時に憑かれた作家」広瀬正でしょう。
広瀬正。さほど現在では知名度が高いとは言えません。昭和30年代に作家としてデビューしファンの間では評価が高かったものの、世間にはその後約10年間、ほとんど認められぬまま長い不遇の年月が続きました。小説を書かなくなってしばらく経ち、ひょんなことから編集者の目にとまった処女長編「マイナス・ゼロ」が刊行されるに及びやっと認知され、3回連続で直木賞候補となりようやく人気作家となった矢先に、新作の取材の途中、まだ40代の若さで心臓発作を起こし亡くなってしまうのです。その短い作家活動の間に書き上げた作品は、わずかに長編が5作、短編が29作。死後刊行された全集は6冊にすぎません。
筒井康隆氏は、「報いられることなき期間があまりにも長かった作家であり、それに比して報いられることがあまりに短期間だった作家」としてその死を悼みました。
広瀬正は、時間の旅人でした。そのほとんどの作品が時間テーマの佳作であり、タイムマシンもののSFを徹底して書き続けた作家です。細かに論理を操り緻密に考証し構成を組み立て、読者を時間旅行へと誘います。また、過去に旅したときに書き込む懐かしい風景はノスタルジーに溢れ詩情豊かな場面を描き出します。
ことにその処女長編「マイナス・ゼロ」は、おそらく日本最高の時間SFでしょう。
内容を要約することなど僕には出来ません。それほど複雑に絡み合った時間が作品に流れているのです。しかし難解さはカケラもなく、「あーここで繋がるのか!」「ああこういうふうに出会ったのか…」実に分りやすく描かれて驚きの連続です。最後までドンデン返しもあり濃密な構成に感嘆します。作者が考えに考えた末の執念が伝わるような鮮やかさです。
そして、過去への旅における昭和初期の日本の風景が郷愁とともに細やかに再現され、登場人物もあくまで優しく、読み終えた後にこれほど心が温まるSF小説もそうはありません。
3作目の長編「エロス」も実にいい。タイトルで多少損をしていますが、もし、あのときああしていれば…というif小説であって、ふたつの全く違う展開の、ありえたはずの「もう一つの過去」パラレルワールドを描きます。やはり昭和初期の日本が描写され、作品に厚みを増しているのです。
もっと広瀬氏の作品を読みたい。そのようにかつえてしまいます。しかし氏は6冊しか著作を残してくれなかったのです。実に惜しんでも余りあります。もう少し、もう少し生きていてくれたなら…。タイムマシンがあれば、体調不全を忠告し休息を与え執筆活動の期間をもうすこし与えてあげることが出来たのに…。まさしく作品と同じifでしか過ぎないのですが…。