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    鳴尾駅にて 2

  • 2015.12.19 Saturday
  •  鳴尾駅は、高架駅であるために竣工の暁には南北に抜ける自由空間ができるようです。現在はまだ上り線に行くための地下道がありますが、これが取っ払われるわけですね。

      

     しかしこの地下道、現在のところ旧駅の唯一の名残です。

      

     ところで、僕が西宮に越してきたころ、まだ郷土史などはかじっておりませんでしたから、てっきり「鳴尾」という町の中心は駅の北側だと思っていました。旧国のあたりは寿市場があり飲食店も多く、人出が多い感じもしていましたので。

      
     
     里中町あたりは、繁華街とまでは言いませんがやっぱり栄えているように思います。ことぶき市場はもう残念ながら空洞化してますが、飲食店やスーパー、銀行などが軒を並べてますので。
     鳴尾という町、言い方を変えれば「リアル鳴尾」は駅より南側であるということを知るのは、もう少し後になります。
     「駅裏」という言葉を遣っていいかどうかわかりませんが、やはり本来の鳴尾の成り立ちから言えば北側はそうであり、南側が駅の正面であったのです。
     その南側の、駅前広場です。北側にはそういうものはありません。

      

     しかし、ロータリーがあるわけではなく、多少寂しい感じもします。駅前円形広場は一種の小公園ですが、ここは昨今には珍しく喫煙が可能なため、時間帯によっては非常に空気が悪い(笑)。
     他には、とくに何もありません。パチンコ店と不動産屋さん学習塾と、小さな飲食店が何軒か。そして正面にはコンビニ。このコンビニは、かつて本屋さんだったと思うのですが…。

      

     おっと、本屋さんだった名残がありますねー。(^▽^)/
     詳細がわかりませんので痕跡とまでは書けません。看板がある以上は、もしかしたらファミマの経営はまだ本屋さんなのか、配達販売くらいはまだやっておられるのか。よくわかんないですけど。

     しかしこの駅前という場所は、発展しようがなかったと言えます。
     盛り場はもちろん、バスターミナルやタクシーの溜り場も作りようがない。場所がないんです。
     駅を出たらそこには壁があるんですから。

      

     言わずと知れた国道43号線の防音壁。
     明治時代、鳴尾の有力者たちが村の中心と駅を直に結び、鳴尾村を発展させようと路線をカーブさせたことは前述しました。その村の中心と駅を、この広い道路が断ち切ったわけです。
     国道43号線。かつて第二阪神国道と呼ばれたこの広い道路は、戦後すぐに計画がなされ、昭和32年に工事が始まり、38年に神戸〜尼崎間が開通しました。
     その鳴尾の有力者の代表であり、村のために路線の土地を提供した元村長の辰馬半右衛門氏は、38年に亡くなっています。せっかく直結された駅とまちを分断するこの43号線の工事を、氏はどのような思いで見つめておられたのでしょうか。

      

     甲子園付近では、43号線が高架しています。これはかつて甲子園筋に走っていた路面電車を跨ぐためにそうなったのですが、その高架下スペースに43号線を紹介するパネルがいくつか掲示されています。見れば、その歴史を知ることができます。

      

     古い写真も資料として示されています。かつてこの道は、10車線ありました。
     この広い道路が、様々なものを押しつぶしてゆきました。
     例えば今津も、鳴尾と同じ運命をたどっています。今津村の鎮守社(福應神社)と檀那寺(常源寺)は43号線の下敷きとなり移転。そして「リアル今津」と言えば六角堂や大関のある辺りだったはずです。旧阪神今津駅(現久寿川駅)は、そのリアル今津と直結していました。
     今は今津と言えば、阪神阪急今津駅あたりがすぐ連想されるでしょう。あのあたりは本来、村外れの場所で、墓地があったところです。
     あえて短絡的に言えば、道路がまちを変えたわけです。

     鳴尾に話を戻します。
     かつては、駅から鳴尾の中心である本郷エリアへは、もちろんちゃんと道が繋がっていました。ですがその道は43号線によって無くなり、かわりに地下道が設けられました。

      

     これは、43号線開通と同時に竣工しています。

      

     一応自転車用のスロープもあり、側面はやはり武庫女プロデュースのかわいい絵画で飾られてますが…地下道ってちょっと面倒くさいんですね(汗)。横断歩道よりはいいかもしれませんが。せめて信号があれば良かったのですが、都市計画として鳴尾地区を南北に結ぶ道路は小曽根線と本郷学文筋が指定され、ここには信号はできませんでした。

      

     しょうがないので地下道をくぐって南に。こっちからやと駅が見えませんがな。
     駅の南側に、かつての鳴尾本郷の中心道路が延びます。今は、駅と直結していません。

      

     道路名は「本郷中筋」。そのものズバリなんですけれどもね。
     視界に、かつて西宮ブログの聖地のひとつであった「Jダーツ倶楽部」跡地が…。(:_;)
     この道の先に、西方寺や乗誓寺などの村のお寺さん、村役場(現鳴尾支所)、小学校(西に移転)などの村中枢部。そしてその南に「鳴尾ミステリーゾーン」が広がっているわけです。
     昔のほうがよかった、とか、そういうことは流入民の僕にはわかりませんし、それについてとやかく言う気もありません。ただ鳴尾は、以前のほうが華やかだったのだろうという想像はつきます。
     「なるおぎんざ」という名称が、この間まで残っていました。道のあちこちに表示が出てたのですが、今歩いてみますとちょっと見当たりません。あれ、撤去されたかな? こんな感じでした。→tyuさんの記事
     それほど商業施設が多いわけでもなく、最初来たときはなんだろうと思ってしまいました。しかしながら鳴尾村誌などをひもときますと、かつてはずらりと商業施設が建ち並ぶ繁華な場所だったのです。これは、震災の影響もおそらく大きいとは思うのですが…。

      

     かつては市場もあったのですが、電柱の表示にしか名残はないようです。

     いろんなことを考えてしまうわけですよ。
     国道43号線は「戦後復興」の一環として計画されました。大阪〜神戸間を結ぶ大動脈として。
     そのときは、それが必要だという判断で造られたものです。後世の人間がとやかく言うことではありません。しかしながら、まちを完全に分断したことは事実です。なんせ10車線ですから、幅員は、場所にもよりますが50mあります。
     のち、43号線は騒音と排ガス問題で交通量を減らすべく8車線となり、さらに阪神高速の開通で交通量が減り6車線となりました。それならば最初から…繰り言ですが。

     ぼんやりと考えます。
     鳴尾がもしも、工事が始まる前に市制を施行して「鳴尾市」となっていたならば、ここまで無残な分断のされかたは無かったのではないかと。
     西宮町は大正末に市制を施行し、その新生西宮市に昭和前期、今津町、芝村、大社村、甲東村が次々と合併してゆきました。ただ、共に広域協力体制をとっていた精道村と鳴尾村は西宮市に合併せず、精道村は昭和15年に単独で「芦屋市」となりました。
     同規模の鳴尾村も、単独市制を目指していました。
     戦前の鳴尾村は、繁栄していました。村域南部には豊年製油や昭和電極などの工業団地があり、そこへ川西航空機がやってきたことで一気に人口が増えます。また鳴尾競馬場を擁し、甲子園球場や浜甲子園阪神パークなどの人を集められる施設をいくつも持っていました。単独で市となれる要件は整っていたと思われます。
     しかし、ご存知のとおり戦争の空襲で鳴尾は焼け野原となってしまいます。
     もしも川西航空機が、鳴尾に移転してこなかったならば。
     鳴尾競馬場は飛行場になることもなく、空襲はあったとしてもあそこまで徹底して破壊されることはなかったでしょう。空襲は計8回におよびました。米軍は、紫電改を生み出した川西航空機と軍用飛行場を狙ったのです。→ちょ歴西宮
     しかし、それでも戦後、鳴尾村は復興を目指しました。
     村は昭和23年に市制研究特別委員会を発足させます。文書には、昭和26年4月1日より鳴尾市設置の予定、と記されていました。
     昭和22年には占領されていた甲子園球場も復活。24年には鳴尾競輪場も出来ました。甲子園大プールを含め、多大な入場税収入が見込まれていました。
     しかしここに「シャウプ勧告」というものが出てきます。これは占領下における日本の税制改革ですが、この中に入場税および遊興飲食税は府県税とする、という改革案が盛り込まれたのです。これは、大きな痛手でした。
     しかし、何とかしようと村は模索をしました。そこへ昭和25年9月「ジェーン台風」がやってくるのです。
     再び、鳴尾村は壊滅的被害を受けました。
     そもそも村は戦後復興により多額の臨時経費を支出しています。その財政危機のさなか、徴税できないほどの被害でした。鳴尾村は、経済的基盤を失ったのです。
     昭和26年に鳴尾村は単独市制を諦め、西宮市の一部となりました。
     もしもジェーン台風が来なかったならば。
     阪神パークも再開をしようとしていました。そして、人口増の足音はもうすぐ近くまできていました。30年代には浜甲子園団地。その後には大規模な武庫川団地が出来ます。未来は、明るかったはずです。戦前から埋め立て計画はあり、一部実現していました。それは、のちに鳴尾浜工業団地として結実します。

     ifばかりを連ねましたが、僕は別に鳴尾が単独市になっていたほうがよかった、とか言うつもりもありません。そんなことはわからない。ただ、43号線が造られた昭和30年代に鳴尾がひとつの自治体であったならば、鳴尾地域はあんなぶった切られ方はせず、もう少しマシだったのではないかと。
     さすれば、鳴尾駅にも急行くらいは止まったのではなかったかと(笑)。
     おかげで僕は、神戸で人との待ち合わせに遅れたのです(汗)。そのため僕はあの日、阪神電車の車中でそんなことばかりを考え、こうして愚痴を理屈で捏ね上げた記事を書くに至ったのです。( ̄ー ̄;

     本郷学文筋方面から再び駅を眺めます。

      

     ・・・( ̄  ̄;) うーん
     駅だと思えば、慣れていないせいか僕には若干の違和感があるのですが、逆に風景に溶け込んでいるという見方もできます。43号線と妙にマッチしてると言いますか…。
     来年は、上り線も高架に切り替わる予定だそうです。楽しみですね。
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    | 2015/12/19 | 西宮流 | 19:29 | comments(0) | trackbacks(0) |

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    | 2016/12/30 | - | 19:29 | - | - |

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