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    水沢紀行

  • 2015.01.10 Saturday
  • 謹賀新年、凛太郎です。皆様いかがお過ごしでしょうか。
    しかしもう正月はすっかり終わってますね(汗)。なかなかネットに入り込めなくて…しかしこの期に及んでも年末の話をします。

    昨年末までは、比較的穏やかな天候でした。
    僕は例によって正月は東北のカミさんの実家へ行っていたわけですが、道中あちこち寄ってつかの間の旅気分を味わいました。歩いた街は静岡と横浜、そして水沢なのですが、長々と書いてもしょうがないので、ここでは水沢の話だけにします。
    しかし、水沢市という自治体は今は無いんですね(汗)。水沢市は、江刺市、前沢町、胆沢町、衣川村と合併して、今は岩手県奥州市ということになっています。
    僕は鬱陶しい人間で、再々申し上げていますとおり市町村合併による新市のネーミングについては「つまんねーな」とずっと思っているわけです。「北九州市」とか「東海市」はては「四国中央市」といった大掛かりな広域名を一地域につけたりね。また一地域が代表して旧国名を名乗ったりすることもどうなのかと思ってしまったりするのです。和泉市や下野市や加賀市などこれはもう枚挙に暇がないくらい多い。こういうのは逆に地域の個性を殺すのではないかと思うのです。許されるのは壱岐市や対馬市、佐渡市くらいじゃないかと(これらは市域と旧国領域が一致している)。摂津市や土佐市や美濃市が旧国を代表しているわけでもないでしょうに。
    奥州市もその類のひとつです。奥州というのはつまり陸奥国のことで、その範囲は現在の青森・岩手・宮城・福島県全域に及ぶ広大な範囲なのです。
    本当は「陸奥市」としたかったのかもしれませんが、既に青森下北半島に「むつ市」が存在していたため「奥州市」としたのでしょう。
    この命名も、やっぱりどうなのかなとは一応思います。陸奥国ってかように広範囲だったのですから。
    しかしながら、矛盾しているようではありますが、これは許してもいいのではないだろうか、という気もすることはするんです(上から目線でごめんなさい)。それは、この地が確かに奥州を代表していた時期というものがあったと思うからです。
    水沢には、胆沢城があったのですから。

    東京に一泊した僕は翌日北上し、仙台で求めた牛タンの駅弁を食べ(ウマヒ〜)、昼頃に水沢駅に降り立ちました。
    水沢でおりたのは初めてです。岩手県には東北本線沿いに一関、世界遺産を擁する平泉、宮沢賢治の花巻、城下町盛岡、また啄木の渋民などがあり、ちょっとそれれば遠野などの観光地がたくさんあって、見過ごしていたのが現状です。
    年末の天候は穏やかで、町には月半ばに大量に降った雪がかなり積もってはいたものの、散策に影響するほどではありません。僕は勇躍歩き出しました。

    水沢は、城下町です。城は、わずかな遺構を除いて残っていませんが。
    歴史的には、ややこしいんです。水沢に城砦が出来たのは源頼義の頃ともされ、さすれば平安期になります。その後変遷を経て、江戸時代には水沢は仙台藩の領域になります。伊達政宗ですね。初期は代官支配、のち留守氏が城主となり明治まで続きます。
    「留守」という姓は、珍しいのですが東北では伝統があります。頼朝が奥州を征服した後、奥州の留守職を務めた伊沢氏が「留守」を称したことから代々留守氏となったのです。その留守氏も戦国時代に伊達家に屈し、江戸期の留守氏は伊達家からの養子を迎えて続きました。
    その水沢の町の基礎を築いた留守(伊達)宗利の銅像が、町の外れにある日高神社にあります。宗利は政宗の従兄弟です。
    日高神社はこのあたりの総鎮守であり、9世紀初頭からの歴史があります。弘仁元年(810)に勅命によって勧請され鎮座しました。つまりこの時期に、朝廷支配がこの地にまで及んだ、ということなのですが、それはちょっと措きます。大変に立派な神社で、前九年の役のときには源義家も戦勝祈願をし、平安時代末にあの平泉の藤原秀衡が再興、のち伊達政宗が社殿を造築、留守宗利が改築しています。
    他に書くことはいっぱいあるのですが(汗)、長くなってますのでこのくらいで。

    神社のあたりから町中にかけて、武家屋敷が多く残っています。まちなみはたいへんに美しく。
    その中に、後藤新平の旧宅があります。
    後藤新平は有名人なので説明の必要はないかもしれませんが、そもそも水沢で留守氏の家臣の子として生まれました。医者として出世しのち内務省官僚、児玉源太郎に引っ張られ台湾民政長官、満鉄総裁、東京市長、内務、外務大臣などを歴任した大変な辣腕政治家です。
    また、斎藤実の生家もあります。この人も水沢だったか。戦前の総理大臣です。やはり留守氏の家臣の子として生まれ、二・二六事件で軍部に射殺されました。
    水沢は、あの蘭学者、高野長英も生んでいます。生誕地に碑があり、旧宅が残り、記念館もありました。
    他にも様々な遺構、遺跡があり、相当に見ごたえのある町です。端折りますが、最後に留守氏菩提寺の大安寺へ。
    ここに、高野長英の墓があります。合掌。

    さて、散策を終え駅に戻ります。
    僕が水沢に来た一番の目的は、胆沢城跡へ行くことでした。しかしここは、かなり町から離れています。バスの便も少なく不自由で、タクシーを使うほど大尽ではないため、歩くことにします。幸い晴れています。
    というわけで、ひと駅北の金ケ崎駅まで行って下車。
    金ケ崎という町にも、実は武家屋敷群があります。ここは仙台藩北限であり、留守氏は水沢に移るまではここに居ました。
    ひとわたり武家屋敷を歩きます。重要伝統的建造物群保存地区であり、確かに見応えがありますが、雪が多い(汗)。城跡もあるのですが、足元もおぼつかなくなってきましたので切り上げて、南下します。
    しばらく歩くと、胆沢川を渡ります。渡れば再び奥州市に入ります。
    旧国道4号線をかなり歩いてヘバってきた頃に、ようやく鎮守府八幡宮の参道が出てきました。
    あたりには広大な雪原が遥かに広がっています。この雪原が、胆沢城跡なのです。

    胆沢城とは、天守閣を持った城でも中世の城砦でもありません。古代の政庁跡です。築いたのは、坂上田村麻呂です。
    はるかいにしえの昔、ここは大和朝廷の力が及ぶ場所ではありませんでした。2年前、僕は多賀城に訪れた話を書きましたが(→記事)、奈良時代はこの多賀城あたりが前線基地だったと言っていいでしょう。その北には、北上川が作った広大で肥沃な土地が広がっていますが、それはヤマトのものではなく、蝦夷の人々の楽園でした。
    朝廷は、この北の楽園を征服しようと目論見ます。
    それには様々な要因があるのですが、ひとつには「金が産出した」ということも大きかったのかもしれません。金はそれまで輸入に頼っていたのですが、奈良の大仏を建立するときにどうしても不足しました。そのときに東北から金が出て、大仏を金色に染め上げることが出来たのです。天皇は喜んで改元までしました。
    時は奈良時代から平安時代へ。豪腕で知られる桓武天皇は、蝦夷を手中に収めんと征東軍を組織し、派遣します。「征夷大将軍」というのは、そのときに出来た官職です。
    ですが、朝廷軍は散々に打ち負かされます。当時この水沢あたりには、阿弖流為(アテルイ)という英雄がいました。
    朝廷はついに、軍人のエースである坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、アテルイと対峙させます。その記録は残念ながら散逸しているので細かな情勢はわからないのですが、結果としてアテルイは降伏し、京に護送され首を斬られます。田村麻呂は延暦21年(802)にこの地に胆沢城を築き、鎮守府を多賀城からここに前進させました。

    鎮守府八幡宮まで歩いてきました。ここは、胆沢城の北東方面(丑寅の方角。つまり鬼門)で、胆沢城の守護として祀られたわけです。
    参拝客は誰もいません。年が明ければ初詣客も訪れるのでしょうが。
    この神社から南西の雪原が全て、胆沢の政庁だったわけです。総面積約46万屐9い。
    夏であれば、回廊跡など多少の遺構が目に入るのでしょうが、今は真っ白です。もちろんそれは承知の上で来ました。強がりではありませんがむしろ僕には、この風景のほうが相応しいようにも思えます。1200年前のものなのですから。
    城址を縦断します。多少自動車の轍があり、それが道だと思われますので。
    もちろんこんなところを歩いている人はいません。人影はもちろん見えず、静寂そのものです。僕は雪原の真ん中に立ち、晴れて風がないのをいいことにしばし佇みました。風でも吹けばたちまち地吹雪となってホワイトアウトで遭難しそうな場所です。
    胆沢城の東には、北上川が流れているはずです。ここからは見えませんが。
    このあたり、つまり北上川の西側はこのように広い平野となっていますが、東側は山が迫り、狭隘な地形となっています。
    天才的軍事指導者だったと思われるアテルイは、わずか300人ほどの兵でその北上川東岸に朝廷軍4000を誘い込みました。山が迫る最も狭い場所まで敵軍をおびき寄せ、山から伏兵を出して前後を塞ぎ反撃に転じ、朝廷軍を川へ逃げさせ1000人を超える溺死者を出させました。
    その場所は「巣伏村」だったと伝えられますが、はっきりしたことはわかりません。ただ、川西岸から見ますとそういう狭隘な地形がなんとなくわかります。おそらく視界に入るどこかに、アテルイが朝廷軍を壊滅させた戦場があるのでしょう。

    だんだん日が傾いてきました。まずい。冬はこれだから困る。僕は胆沢城をあとにして旧国道に出て、さらに南下しました。
    道沿いに、薬師堂温泉という立寄り施設の看板が出ています。ありがたい。一も二もなく飛び込みました。
    東北の冬は温泉に限りますな。首まで湯につかると、もう蕩けそうです(笑)。
    と…一時間以上も風呂に入ってしまいました。外はもう薄暗くなっています。早く駅まで戻らないと。バスなどもないので、このまま歩きますよ(汗)。水沢駅に戻る頃にはすっかり日が暮れていました。いやーよく歩いた。何キロかはわかりませんが、万歩計は32000という数字を示しています。
    この日は盛岡泊まりということにして普通列車に乗り込みます。

    盛岡では、以前訪れたことがある安くてうまい居酒屋へ。もうビールなんぞ頼みませんよ。燗酒です燗酒。
    猪口にそそいでくぃーっとやると、何とも陳腐な表現である「五臓六腑に染み渡る」というのが本当に実感できますな。マグロ中落ち、焼牡蠣、海老鬼殻焼を頼み、大徳利を三本呑んで、酩酊。東北の冬はこれに限ります。勘定は安い♪ 
    さらにこれでは終わりません。盛岡ですから冷麺を食べなくては。
    名代の焼肉屋に入って…しかしついハラミとミノを注文してしまいました(汗)。冷麺だけにしようと思ったのに。ジョッキを2杯飲んで、それから冷麺を。やっぱり美味いねー盛岡冷麺はー。
    ホテルまでは千鳥足です。なんたることか。雪が降ってなくてよかった(汗)。

    翌日、カミさんの実家へ。昼前には着きました。既に宴会の準備が整っています。津軽の正月行事は、大晦日の昼から始まるのです。一升瓶がどーんと置いてあります。あとはしーらないっと(笑)。

    正月一日から、天候が荒れ始めました。2日に僕は出てきたのですが、列車があちこちで止まっていますよ(汗)。ホント予定どおり帰れたためしがない。でもまあ途中一泊で、3日には僕の実家へたどり着きました。帰省のハシゴもなかなか大変ですが、親が生きている間はこういう旅が続くのでしょうな。

    遅くなりましたが、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
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    | 2015/01/10 | 旅行 | 05:22 | comments(0) | trackbacks(0) |

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