もうその六になってしまいました。m(_ _;)m
もはや上鳴尾墓地の観光案内とはとても言えないような細かな話になっていますが、ちょっと解せないものを見ましたので、Webに載せることにします。
無縁墓に近い西北方面。石造七重塔や五輪卒塔婆があり、何やら由緒がありそうな一画です。そこに、卵塔がいくつか並んでいます。卵塔(無縫塔)とは、見ての通りタマゴみたいな形をした墓塔です。多くはお坊さんのお墓で、特に禅僧の墓塔として用いられることが多い形態です。
この手前の卵塔が最も立派ですが、それにはこんなふうに刻まれているのです。
「開山霊峰道悟和尚禅師之塔」
開山ということは、霊峰道悟和尚禅師が寺をお建てになられたのでしょう。で、禅師というからには当然禅宗ですね。
これを見たときに僕は?となったんです。果たして、どこのお寺の開山禅師でらっしゃるのでしょうか。
禅宗のお寺の系譜というのは、鳴尾ではまず江月山長蘆寺が挙げられます。
14世紀に建立されたとされ、南北朝建武年間の記録が残っています(鳴尾村誌に拠る)。西宮では海清寺と同じ頃に建立されたと考えていいでしょうか。
この長蘆寺は、文明7年(1475)の水害で流され、荒廃したと考えられています。
その法統を継いだのは、観音寺であるとされます。観音寺は寺の多い鳴尾の中で、唯一の禅宗寺院です。
現在は幼稚園を経営されていて、その
HPを見ますと観音寺の歴史についても記されています。(→
慈応山観音寺の詳細)
観音寺は長蘆寺の流れをくみ、文政年間に春芳和尚が改号し再興したと伝えられているようです。
長蘆寺は臨済宗大徳寺派で、大徳寺の塔頭如意庵の末寺であったとされますが、観音寺は妙心寺派です。これは春芳和尚からということになります。
なお、観音寺は戦災で焼失します。これを再興されたのは、西宮芦屋研究所員さんが連載された
夢の里シリーズでもおなじみの海清寺住職(後に妙心寺管長)春見文勝禅師の弟さんの春見正道禅師です。昭和26年のこと。
こういうことを調べていて、僕はようやく上鳴尾墓地の古石造物が海清寺に移されたことに得心がいきました。なるほど。
さて、中世に隆盛した長蘆寺は文明7年に途絶え、文政年間に再興されるまで「盛衰は不祥」と観音寺さんが書かれています。つまり1475年から1820年頃まで約350年間、どうなっていたかは不明なのです。
前述の霊峰道悟和尚禅師の卵塔を見ます。
見難くて申し訳ありませんが、側面に「寶永六」の文言が確認できます。没年のようです。宝永6年は1709年であり、霊峰道悟禅師はどうも1600年代に活動された方のようです。
霊峰道悟禅師について、僕は図書館で調べきれませんでした。事績がわかればもう少しはっきりしたことも推測できるのですが、ちょっと宿題とします。なおネット検索では黄檗宗のお坊さんであったことくらいしかわかりませんでした。
この卵塔が霊峰道悟禅師の墓であるならば。
墓というものはそんなに理由も無く移転するものではありません。1709年以来300年間、ずっとこのあたりに存在したと考えたほうが自然です。この卵塔のすぐ北西側に、禅宗の観音寺さんが隣接しています。どう解釈すれば良いのでしょうか。
1475年から1820年頃まで「盛衰は不祥」である長蘆寺から観音寺への鳴尾禅宗寺院の法統ですが、その空白期間である1600年代末から、もしかしたら黄檗宗霊峰道悟禅師に始まる時代があったのかもしれない。そんなふうにちょっと考えたりもします。
霊峰道悟禅師の卵塔台石にはもう一面、文字が刻まれているんです。そこには「○○○建之」と。建之はわかるんですが肝心の部分が剥落も多く読めない(汗)。これが解読できれば一気に謎も解けそうなのですけれども…拓本でもとらないと無理か。
霊峰道悟禅師さんの横にも卵塔がいくつか並びます。
隣のお墓には當山二代、その隣は當山六世とあります。その当山とはどこなのかが気になるところですが、二代目さんの墓石に元号は確認できなかったものの、その隣の六世さんの墓石には「明和三年」の年号が見えます。1766年。観音寺再興の文政年間にはまだ間があります。
いろいろと考えます。
例えば、すぐ隣の浄願寺さんには広い寺院内墓地がありますが、観音寺さんには、見たところ墓地はありません。せいさんに納骨堂が存在することを教えていただきましたが、江戸時代からそういう形式だったわけでもないでしょう。
観音寺さんは戦後幼稚園を併設したために、寺院内墓地のスペースがなくなったのかもしれません。で、この卵塔がある一画は、観音寺さんの真裏です。もしかしたら墓石を移されたのではないでしょうか。
また「開山」といっても、名前貸しであることもよくあります。現に観音寺の前身とされる長蘆寺の創建は大徳寺七世言外宗忠禅師ですが、開山は言外宗忠禅師の師である二世徹翁義亨国師となっています。霊峰道悟禅師さんも同様で、あれは後世の供養塔であるかもしれません。
しかし、霊峰道悟禅師さんは、ちゃんと文献で確認はしていませんが同じ禅宗でも黄檗宗らしい。臨済宗の現観音寺さんに直接関わりがあるとは考えにくいわけで。また没年を考えると、時代が違いすぎます。しかし1700年代は、長蘆寺と観音寺の流れからすれば、ちょうど空白期間にあたります。うーむ。
この墓石群がもしかして観音寺さん管理のものであるならば…。
こういうことは、花園幼稚園で伺えば簡単にわかるのかもしれないのですけれどもね(汗)。これら卵塔には花も手向けられていますし、お世話なさっている方がおられるわけです。さすれば事情をご存知のはず。しかし僕の立場は、西宮歴史調査団のようにしっかりと学術的調査をやっているわけでもなくタダの野次馬ですから、恐縮ですし気後れもしますので聞けません。またぼつぼつ趣味の範囲で調べてみたいと思います。石造物班も出来れば次回は上鳴尾墓地を対象にしてください(笑)。
それにしても、墓地はなかなかに奥深い。今回ちょっと集中的に見てまわりまして、歴史の残り香をずいぶんと感じました。西宮には、段上の貝之介墓地などまだまだ深そうな墓地があります。眠られている方々に失礼さえなければ、近隣の墓地を散策するのもまた趣がかわって良いかもしれません。
しかしながら。明治以降、ことに戦後飛躍的に人口が増えた日本で、墓地に空きスペースが無くなっているのも事実です。上鳴尾墓地でも、無縁墓のタグを付けられた墓石を多く見ました。
こういうことはわかっているつもりですが、またこうして墓地の様相も変わっていくのだろうと思います。
鳴尾の古石造物をたずねる話、今度こそ終了です。ありがとうございました。
霊峰道悟について、手元にあった辞書類で調べてみましたところ、鷲尾順敬編『日本仏家人名辞書』(増訂版、東京美術、1991年。初版は明治三十六年、近代デジタルライブラリーでも閲覧可能なようです)に下記のようにあります。
以下引用。原文は旧字体
ドーゴ 道悟(二二九六〜二三六九)
〔黄檗宗〕摂津慈応寺の開山なり、道悟字は霊峯、美濃多芸群の人なり。
(中略)
四十四歳黄檗山に登り、木菴より戒を受く、増島村に春日寺を開き、西の宮鳴尾に慈応寺を開く、黄檗山の悦山慈応の二大字を書し贈る、一住二十年なり、
後中島〔摂津中島か−引用者補記〕に遊び、病に罹りて寂す、宝永六年四月廿四日なり、寿七十四、臘五十八。(続日本高僧伝)
引用終わり。
とあります。上記辞書の生没年は皇紀ですので、660年を引くと、寛永十三年(1636)から宝永六年(1709)が霊峰道悟の生没年となります。
霊峰道悟が開山となる、鳴尾の慈応寺については、西宮市史などを確認していないので詳細は不明なので何とも言えないのですが、ブログで取り挙げられている
墓地近くの観音寺の山号が「慈応山」である事と何らかの関連があるような気もするのですが・・・・・・
また、上記辞書記事の典拠となった『続日本高僧伝』ですが近代デジタルライブラリーにて確認してみたのですが、霊峰道悟の項は見出せなかった点も気がかりだったりします(見落としているだけかも)。