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    鳴尾本郷の「謎の石」

  • 2013.11.17 Sunday
  •  もしもしさんが西宮聖地巡礼という壮大な試みをなさっておられます。頭が下がります。なかなかスポットのあたらない小松の弁天さんや妙見さんが登場し、僕は今津鳴尾界隈がホームですので、次はあそこかなあと予想しては楽しんでいます。
     拝見していますと、細かな路地裏探訪が伴われている点もまた楽しく。ことに鳴尾という町には、なんとも感傷を呼び起こす不思議な一画がありますから。
     もしもしさんの、この鳴尾町四丁目のお地蔵さんの記事にはその雰囲気が出ています。こちらの善教寺の記事では、地元のZ探偵団さんが「鳴尾ミステリーゾーン」という言葉を遣われています。
     僕も、この一画ではいつも、軽いタイムスリップ感を味わいます。
     
     僕は今でこそ西宮という街が大好きで、西宮歴史ヲタクみたいになっていますが、初めて越してきた頃にはあまりなじめなかった印象があります。それは、街がある意味新しすぎたからだろうと思います。
     僕は京都で生まれ育ち、また西宮に来る以前は金沢に10年ほど暮らしていました。いずれも戦災の影響をほとんど受けていない街で、昔ながらの細かな路地などが残っていました。そんな風景が、なかなか西宮にはない。
     そんなとき、ふとこの「鳴尾ミステリーゾーン」に足を踏み入れ、僕が生まれた町の路地に似ているな、と思いました。子供の頃は、こんな路地でいつも遊んでいた。そんな記憶が、郷愁を誘うのでしょう。それは、僕が西宮に愛着を覚えるようになった第一歩だったかもしれません。
     なぜ、こんな一画が残っているのでしょうか。
     僕は何年か前この記事を書いたとき、鳴尾村の空襲被害を調べたことがあります。紫電改を製造していた川西航空機、そして鳴尾飛行場があったために、鳴尾村は8度も空襲を受け焦土と化しました。死者188人。住居全焼3611戸。被災地区総面積205.59ha。鳴尾村誌には、爆撃で焼かれた範囲は本郷中筋より少し西から南側の一帯」という証言も載っています。このあたりも、罹災しているはず。
     しかし、このあたりは頑固に昔の風情を残しています。

     閑話休題。
     僕は先日、所用でららぽーとへ。そのあと尼崎に行くため、歩いて阪神鳴尾駅へ向かいました。必然的に、このミステリーゾーンを通ります。
     このあたり、いろんなものがあるんです。

     

     これ、踏み臼の支点ですね。なかなか今では見られないものです。新湯の北側にも残っています。

     鳴尾支所に出る手前あたりが、最もディープスポットかもしれません。
     路傍に石が。角にしっかり埋め込まれています。

      

     この石は、既にZ探偵団さんが紹介されています。(→謎の石)
     僕はこの石に気を留めたことはありませんでした。気が付いていなかったのです。Z探偵団さんは「道しるべではないか」と推察されてます。
     僕は、まさか道標じゃなかろう、と記事を拝読したときは思っていて確認には行ってなかったのですが(ごめんなさい)、近づいてみますと…わわわ、何と文字が刻まれているじゃないですかっ!

     

     埋まっている部分もあるかもしれないのですが、出ている部分だけを見ますと
     「道巾 六尺五寸 明治六」
     と、読み取れます。明治六年か、これは古いぞ。
     この文言から、道路幅を示した標石であることが伺えます。道標ではないにせよ、明治初年の交通標識みたいなものであるかもしれません。Z探偵団さんホントごめんなさい。すぐに見に行くべきでした(汗)。

     ところで、この「道巾六尺五寸 明治六年」という文言に近いものを僕は知っています。以前別ブログでも採りあげました。同じ鳴尾ですが北上、線路向うの寿公園にあるこの石碑です。

     

     「道巾九尺」でいいのでしょうか。これも、明治六年です。これには世話人のお名前も刻まれ、道幅を示すと同時に記念碑的役割も兼ねていると言えます。
     これらの標石。確かに謎ですね。はっきりしたことはわからない。ただ道幅をこれだけはっきり示しているということは、道路新設の顕彰だけではないでしょう。やはり交通標識ではないでしょうか。
     以下推測ですが。
     ただ人が歩く道にこんな道幅表示など必要ない。道幅表示を必要とするのは、車です。当時だと大八車などでしょう。つまり、ここは荷車が通る道であったということではないでしょうか。
     考えられるのは、鳴尾における商品作物です。江戸時代中期から、鳴尾では綿や菜種などの栽培がさかんとなりました。ことに綿は盛んだったといいます。これらは、何より高額で取引されました。
     吉井良秀氏は「老の思ひ出」において「鳴尾村には特に全村従事した、夫れ故当地には綿の問屋が彼是有つた」と記しています。問屋まであったのです。さすれば、この鳴尾本郷には綿の集積場があったのかもしれません。そして、加工場や問屋があったのでしょう。そして全国へさらに流通させるためには、荷車、荷馬車は必須です。ために、明治に道路を新設もしくは整備したと。
     鳴尾村本郷の北に、中国街道が通っています。現在の旧国道。当時の交通の大動脈でした。集積された綿は、この道を通じて運ばれる。「道巾九尺」の道は、おそらくは中国街道へのアプローチルートを整備したものとも考えられます。

     九尺といえば2.7mくらいかな。それほど広い道とは思えませんね。しかし当時はこれで十分だったのでしょう。
     そして、六尺五寸といえば2m弱です。なんとも狭い道…と現在の感覚では思いますが、別に自動車が走るわけではなく、明治初期に荷車が通った道です。立派に役割を果たしたことと思います。
     そして、鳴尾本郷のこの一画がすばらしいと思うのは、この明治初期の道幅が現在も生きている、ということです。そりゃ郷愁も懐古の情も生じますよ。このミステリーゾーンの道も、ひとつの文化遺産と考えたい気がします。


     
    ※初出:西宮ブログ「凛太郎の自転車操業
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    | 2013/11/17 | 西宮流 | 09:26 | comments(0) | trackbacks(0) |

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