前回の続きです。
「からい」という言葉は、本来塩味を示す言葉で、ピリ辛という舌への刺激をも表すようになったのはかなり後世のことだ。本来の日本語は塩味=からい、であって、しょっぱいという言葉は後発である。そう信じて主張してきたのですが、日本では上代からどうやらアルコールの刺激も「からい」と表現してきたらしい。唐辛子や胡椒ではないにせよ、刺激の「からい」も結構古い言葉だったんです。
僕は、もう少し調べてみようと思いました。
ただ、もうこれ以上は僕に知識がありませんので、辞書を引きます。しかし家には広辞苑以上のものがなく、もっと詳しいものが必要なので図書館にGo!です。
「日本国語大辞典(小学館)」など、とにかく何分冊にもなってて用例がいっぱい載ってるヤツを見よう。で、用例からまた深化させよう。というわけで僕はとある休日、図書館に半日籠りました。
以下、引用が多くさらに面白くなくなりますがご容赦の程を。
まず「からい」を塩味の意味で用いた例ですが、万葉集に山上憶良の長歌があります。
玉きはる 現の限りは 平らけく 安くもあらむを 事もなく 喪なくもあらむを 世の中の 憂けく辛けく いとのきて 痛き瘡には 鹹塩を 灌くちふがごとく ますますも(以下略)
これには天平五年六月三日の日付があります。733年ですので日本書紀より後ですが辛酒の古文書よりは古い。
「生きる限りは、平安で事も喪もなくありたいのに、世の中の憂いや辛いことには、痛い傷にからい塩をそそぐというように…」という山上憶良のいつものつらいつらい歌です(汗)。傷に塩をすり込むという例えはこのころからあったのですな。それはともかく、問題はこの「いたききずには からしおを」という部分です。
当然万葉集ですから原文は万葉仮名で書かれているわけですが、その部分は
「痛伎瘡尓波 鹹塩遠」
なんです。もうこの時代には漢字の訓読みが出てきていますので「鹹塩」とそのまま記されているのですよ。
まず間違いなく「からしお」と読むと思いますよ。これに疑問を挟む人などいませんがね。しかしもう少し見てみます。
辞書には、「はやかわに あらひすすぎ
からしおに こごともみ(万葉集巻十六)」や「おしてるや なにわのをえの はつたりを
からくたれきて すゑひとの(万葉集巻十六)」などがさらに用例として挙げられているのですが、この原文を繰りますと前者は「辛塩尓」であり後者は「辛久垂来弖」です。ここでの使用漢字は「辛」です。読み方がバシッと示されているわけじゃないですね。からいで間違いないとは思うのですが。もちろんいずれも塩味の「からい」です。
大伴家持が越中国守として赴任するとき、女性(たぶん奥さんか恋人)が家持に贈った歌があるんですが、そのひとつ。
須磨人の 海辺常去らず 焼く塩の からき恋をも 我はするかも
家持が富山に行ったのは天平18(746)年です。そのときのうたですね。
この「やくしおの からきこひをも」の部分を原文で見ますと、
「夜久之保能
可良吉恋乎母」
おおっ、可良吉ですよ。\( ^o^ )/ やっぱり女性は、仮名で書くんですね。塩も之保だ。塩味を「からい」と確実に表現している事例がありました。
では「からい」の他の用例ですが。
「ピリ辛」はいずれの辞書も古今和歌六帖、そして曾丹集から引いています。
みな月の 河原におもふ やほ蓼の からしや人に 逢はぬ心は (古今六帖)
八穂蓼も 河原を見れば 老いにけり からしや我も 年をつみつつ (曾丹集)
古今和歌六帖は辞書には976〜987年頃の成立と出ていますが、これは私撰和歌集なので選ばれたうたが10世紀のものとは限らないわけです。でも平安時代かな、というところでしょうか。曾丹集は曾禰好忠の家集なので11世紀でしょう。
このうた、似てますね。本歌取りまではいかないでしょうけど。いずれも「つらい思い」と「蓼のからさ」を掛けている感じで。両歌とも八穂蓼を詠んでますが、当時辛いものの代表だったのでしょうか。後に西行も「くれなゐの色なりながら蓼の穂のからしや人の目にもたてぬは」と詠んでます。タデって鮎塩焼きの蓼酢でしか食べたことないや。確かに辛みがあります。蓼くう虫も好き好きという諺はよく知られてますな。
山葵とか山椒とか生姜はどうなんだろうと思って、古語辞典で椒や薑の用例も探したのですが「辛い」はあまり古いものが見つからず。ただ芥子は本草和名(918年、日本最古の薬物辞典)に記載があるようです。孫引きですが「芥又有
レ莨、白芥子(略)和名
加良之」とあります。
これはカラシナのネーミングですから形容詞ではありません。しかし意味はカラいからカラシナであるわけで、同じことです。そうなれば古今六帖よりこちらが古いかも。和名類聚抄(938年、平安期の辞書)でも「辛菜」を「加良之」と読んでいるようです。
いずれにせよ、アルコールの「辛口」を除いたとしても「ピリ辛」も平安時代(10C)までは遡れます。前回はええ加減なことを書いてしもたなぁ。反省。
ここまで整理しますと、文献上では塩分の「からい」が万葉集(確実なのは746年)、ピリ辛の「からい」が本草和名(918年)に初出です。8世紀と10世紀ですが、あくまで文献初出というだけですからどちらが早いとかは言えません。酒の「からい」については「醇酒」「辛酒」の読みが確実でないのでまだまだです。
さて、ここまで「
日本国語大辞典」や角川古語大辞典、大漢和辞典(大修館)など日本最大級の辞書を引きながらいろいろ解いてきたのですが、その中で用例としてよく挙げられるものに「
新撰字鏡があります。これは平安期編纂の漢和辞典で、国内最古とされます(9C末頃編纂 確実なのは901年)。新撰字鏡は、実は群書類従(第二十八輯)に入っていますので図書館で手にとることが出来ます。なので、繰ってみました。
この内容には、いろいろ考えさせられました。実は先ほど検索しましたらネットにもありましたので該当ページをリンクさせていただきます(→
奈良女子大学電子画像集より)。実際にぜひ見てください。
酉部です。まず酷から。
【酷】(略)急也、極也、熟也、酒味也、加良志
酷は、今はひどい、むごいなどの意味です。残酷の酷ですね。もともとは酒の意の酉と、音(コク)及び「きつくしめる」意を表す「告」から出来ていて、舌をしめつけるような濃厚な酒の意味だそうです。つまりアルコール度数が高い酒ですな。そして読みは「からし」と。そうか。
【醎】【鹹】(略)弥加支阿地波比、又加良志
鹹はもちろん塩の「からい」で、その偏の部分は岩塩の産地の意味だそうです。その別字体で、酉偏に咸の字もあるようです。その解説の前半「弥加支阿地波比(みかきあじはひ、か?)」はその「みかき」の意味がよくわからないのですが(汗)、やっぱり読みは「からし」です。
【醲】(略)厚酒也、加良支酒
これは酉に農という字ですが、これも濃い酒の意味のようですね。そして、「からき酒」と。
【醋】(略)報也、酢也、酸也、加良之、又須志
この「醋」にちょっと驚いたわけです。この字はつまり「酢・酸」ですよね。その読みを「須志(すし)」だけでなく「からし」とも読んだと。へー!
古代日本は、みんな「からい」なのか。
新撰字鏡は現在の漢和辞典ほど分厚くないので、とりあえず通読しました。関わりのありそうな部分はちゃんと見たつもりですが、酉部以外で「からし」は出てきませんでした。辛や芥といった漢字の記載もありませんでした。植物の欄で「干薑」がありましたが「久礼乃波自加弥(クレノハジカミ)」とだけ。
ということで新撰字鏡からは、「からい」の事例は塩味が1例、酒のからくちが2例、酸味が1例という結果に。salty&dry&sourでピリ辛(hot&spicy)はありませんでした。他に「酷」の急やら極などが、味覚でない感情を表しています。
これをもってピリ辛の「からい」は9世紀にはまだ存在せず10世紀になってようやく現れる、とするのは早計です。アルコールの「からい」を前述のように「甘くない」ととらえずアルコールのピリリと舌を刺す感じとすれば、もう刺激の「からい」は登場していることにもなります。
そろそろまとめなくてはいけませんが(汗)、先に時系列だけ追います。
ピリ辛の「からい」が定着していく流れですが。
宮中女官の日誌である「お湯殿上日記」の明応6年(1497)に「たなかより
から物三十まいる」の文言があります。この「から物」とは大根のことらしく。女房言葉ではこのころ大根を「からもの」「からみぐさ」などと称したようです。大根は季節によってはえらく辛いですもんねぇ。
山椒は、室町時代末の狂言に「此山せうの粉の
からいので涙のこぼるるやら〜」と出てくる様子。
そして、あの
日葡辞書(1603年)に「
Cara-mi」の項が登場。意味は、芥子、胡椒の類がひりひりすることであると。
一方塩味の「からい」ですが。
「からい」の中でピリ辛の意味が大きくなり区別のために登場すると考えられる「しおからい」という言葉ですが、文献上の初出は今昔物語です。巻第二十八の五。
「此の鮭、鯛、塩辛、
醤などの
塩辛き物をつづしるに…」
今昔は成立時期が難しいのですが、12世紀と考えるのが主流でしょうか。
「しおはゆい」は室町時代末、御伽草子・番神絵巻に出てきます。
「丑十二月、中央大日如来、あちは
しほはゆし」
そしてやはり日葡辞書(1603年)に「
Xiuofayui」の項があります。意味はもちろん塩からいです。
「しおはゆい」は徐々に消えてゆきますが、夏目漱石が「こころ」で「此所で
鹹はゆい身体を清めたり」と書いていますので、大正時代までは生きていたのでしょう。
「しょっぱい」は、東海道中膝栗毛です。19世紀はじめです。
「名物さとうもちよヲあがりアせ。
しよつぱいのもおざいアす」
「しょっぱい」は辞書的にはそれ以上遡れません。
膝栗毛には「しおはゆい」も見えますので、当時は並立していたことがわかります。膝栗毛ではこの「しょっぱい」を言ったのは駿河の由比宿の人。しおはゆいの台詞は喜多さんです(何とやら、
しほはゆきやうにて、変なにほひのする酒だ)が、喜多さんも実は駿河出身ですわな。十返舎一九がそもそも静岡の人ですからね。静岡ももちろん東日本と考えていいでしょう。そして弥次喜多が出版されたのは、江戸です。
しかし東日本はこの時期しおはゆい・しょっぱい一辺倒でもなく。
明治はじめの仮名垣魯文の戯作「安愚楽鍋」では「杯洗の水は鍋の塩の
辛へのを調合して〜」と書かれています。「かれえ」と音便化していますな。仮名垣魯文は江戸っ子で、これは明治初期の東京の牛鍋屋が舞台です。漱石の「鹹はゆい」のことも踏まえ、この時代の東日本では言葉がまだ混在していたことがわかります。
あくまで文献だけをたどるなら、ですが…
味覚の「からい」という表現は当初は塩味を示す言葉として現れ(8C)
↓
酒のアルコール、および酢の味としても「からい」が用いられ(9C)
↓
カラシナや蓼などの舌への刺激も「からい」の仲間入り(10C)
↓
酢の「からい」は廃れ、そして徐々にピリ辛が台頭
↓
区別としての「しおからい」が登場(12C)
↓
大根の辛味(15C)や山椒の辛味(16C)に押され「しおはゆい」も登場
↓
日葡辞書に「しおはゆい(鹹)」「からい(辛)」と記載(17C)
↓
「しおはゆい」が訛っていつ頃か「しょっぱい」が生まれ
↓
東日本では塩味はからい・しおはゆい・しょっぱいが並立 (19C)
↓
東日本ではしょっぱいが席巻、一方西日本ではからいが頑張る(20C)
↓
「しょっぱいに統一しろ」「アホか!」でワシが理屈を捏ねだす(21C) ←今ココ
こんな感じですかね。
もっと根本的なところも少しだけ補足したいと思います。「からい」という言葉はいつ出来たか、という話なんですが。
まず、日本語の成立時期はいつか。
難しい問題です。旧石器時代から弥生時代まで説は様々ですが、小さくとも人間集団としての村や国が成立していれば、言語はあったとみるべきでしょう。ならば、倭奴国が金印を賜与された1世紀には、日本語はあったと。少なくとも邪馬台国にはいくらなんでも日本語はあったのではないでしょうか。国家が成立していて社会がある以上、言葉がないはずがない。そして卑弥呼とか難升米とか中国とも朝鮮とも違う独自の名前があるので、文字はともかく固有の言葉はあったはずです。
魏志倭人伝は3世紀末です。そのときすでに「からい」という言葉があったかどうかですが。
根幹語ですから、日本語が存在していれば僕はあったと思うのですね。証明することはできませんが。
で、魏志倭人伝には、倭国の習俗が細かく記されています。食べ物に関しても、稲を栽培してるとか、魚介を潜水漁しているとか、酒が好きだとか箸がなく手づかみで食べているとか。その中に、
「有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味」
という一節があります。薑(生姜)、橘、椒(山椒か)、蘘荷(茗荷)は有るけれど、以て滋味と為すを知らず。こういうものは当時の日本人は食べなかったのです。
魏志倭人伝の著者(または著者に状況を伝えた人)は、日本中を調査したわけではなく間違いも多いでしょう。北九州沿岸地方、また目の前に居た人だけの様子かもしれません。それを踏まえたうえで、当時の日本ではあまりスパイシーなもの(辛いもの)は食べられてはいなかったと。神武天皇の「植ゑし椒 口疼く」のことは以前書きましたが、一般的ではなかったのかも。あの「ハジカミは口にひひく」は実は8世紀に書かれたものですしね。3世紀では、椒を食べるのは広まってなかったんかなー。
だいたいスパイスって、抗菌防腐効果を期待したり、少し鮮度が落ちたものを美味く食べたりするものじゃないですか。大航海時代の原因ともされるスパイスですが、「沈没して魚蛤を捕る」「倭の地は温暖にして冬夏生菜を食す」と書かれた日本にとっては、さほど必要がなかったのかもしれません。いつだって新鮮なものを食べていたみたいですから。
当時「からい」という言葉があったなら、やはりhot&spicyの方面ではなかったと思うのですね。まず、塩だなあ。
日本最大の国語辞典「日本国語大辞典」は「からい」について以下のように説いてます。
古くは塩の味を形容する語であり「あまし」と対義の関係にあったと考えられる。塩味にも通ずる舌を刺すような鋭い味覚の辛味を形容する例は平安の頃より見られるが、塩味を「しおはゆし」「しおからし」と表現するようになるにしたがって、「からし」は辛味に用いられる例が多くなってくる。
権威ある国語辞典がこう言ってくれていますので、これで「まとめ」としてもいいのですが、次回、もう少しだけ続けます。