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    好き嫌いはイナメナイ

  • 2013.03.03 Sunday
  • まじめな席での話です。

    「それは年代別で購買層が違うでしょう」
    「リサーチは徹底しないといけませんね」
    「そうですね。どうしても価値観は否めませんから」

    この会話を聞いて僕は? となったわけです。そのときは話の腰を折るのはやめて、あとで確認してみました。あんたさっき「価値観は否めない」て言うたよな? さすれば彼(若い人です)は、はっきりとその発言は覚えてはいなかったようですが、その「価値観は否めない」という言葉に違和感は持っていないようです。
    誤解の無いように書いておきますがこれは、僕が若いものの言葉遣いをとがめだてようとして問うたのではありません。そんな横丁のご隠居みたいなつもりはなく、「あ、これは久々にブログネタになるな」と思ってニヤニヤしながら聞いたんですもちろん(そっちのほうが性格悪いか)。

    通常僕らが聞いて違和感のない言葉遣いは「価値観が違うことは否めない」でしょうね。価値観が異なるのを否定するわけにはいかない。これが自然。じゃ「価値観は否めない」という言葉は、実に不自然に聞こえますが本当に間違っているのでしょうか。
    僕も学者じゃないから自信はありませんけど、例えば会話なら、この部分だけ取り出せばこういう言い方はあるかもしれません。「(このように押し付けられた僕にとって異なる)価値観は(人間関係のしがらみもあってなかなか)否めない」と感情を補足したりしてね。やっぱりちょっと不自然ですが。それに、使用した彼は文脈上そんなつもりで言ったのではないですな。「拒否できない」ではなく「否定できない」でしょうから。
    まあ四の五の言ってますが、前置きが長すぎます。これは言うまでもなく、SMAPの「セロリ」の歌詞に出てくる言い回しに影響されたものであることは、僕でもわかります。

      育ってきた環境が違うから 好き嫌いはイナメナイ

    作ったのはあの山崎まさよし先生でございます。もちろん本人も歌っておられまして、SMAPはカバーです。しかしながら、SMAPが人口に膾炙させたというのは否めないかなぁ。
    この「好き嫌いはイナメナイ」というのも、ヘンですよね。好き嫌いがあるのは否めない、とすべきかな。しかし、ラップか吉田拓郎ならともかく、普通はこのメロディにそんなに言葉は押し込めません。山崎まさよし氏もわかってて、それで歌詞はカタカナにしてるんでしょう。そして2番の歌詞で、

      もともと何処吹く他人だから 価値観はイナメナイ

    これですな。それにしても「もともと何処吹く他人だから」というのも解釈が難しい(笑)。

    うたというのは、耳で聴くものです。読むものじゃない。だから、あまり文法がどーのこーのと言うべきではないとも言えます。多少言葉が足らなくったってね。僕も「好き嫌いは否めない」と最初に聴いたときはやっぱり違和感はありましたけど、一応脳内補正はします。で、「好き嫌いがあるのは否めないよなぁ」と頭の中で置き換えて意味を咀嚼します。
    しかし、脳内補正の手間がいるぶんだけ、うたに集中できないのも確かでして。ここが僕の不器用なところかなと思ったりもします。
    惜しいなーと思うんですよ、そういうのは。僕は特にSMAPの大ファンというわけではなくて、メディアから流れてくるのをただそのまま聴くだけですが(だからおそらくシングルA面のうたしか知りませんが)、その中で「セロリ」はいちばん好きな歌ですね。だから貶そうなんて気持ちは全然ないのですけど。

    話が少しそれますが、SMAPのうたでもうひとつ「おっ?」と思ったのがありまして。大ヒット曲「夜空ノムコウ」。えっと「あれから僕たちは何かを信じて来れたかな」の「来れた」がら抜き言葉だろうと言うのではありません。

      君が何か伝えようと握り返したその手は 僕の心のやらかい場所を今でもまだ締め付ける

    「やらかい場所」か(笑)。これ、僕の立場からは間違いとは言えませんね。関西弁やないですか(笑)。スガシカオは東京の人だったはずなのになー。まあ字数の関係上「わ」を落としたというのが正解でしょうけれども。
    しかし、山崎まさよしといいスガシカオといい、この頃SMAPとオフィスオーガスタは癒着してたのかな。

    だいたい、歌詞に対して「日本語としておかしい」なんて言ってたらサザンのうたなど聴いてられないわけです。そもそも「ただの歌詞じゃねえかこんなもん(by桑田先生)」ですしねぇ。「胸騒ぎの腰つき」って何だ?とよく話題になりましたが、あれが「胸騒ぎ残しつつ」だったらやっぱりインパクトに欠けていたでしょうよ。「砂混じりの茅ヶ崎」と言われたって、別に茅ヶ崎市が砂嵐に襲われたなんて思いません。「生まれくセリフわ」ってなんだよいったい。しかし日本語云々より、語感が大事。
    でもね、これは気になるんです。

      四六時中も好きと言って 夢の中へ連れて行って

    「真夏の果実」ですけれども、この「も」が気になる。「も」がなけりゃあなぁ。他にいくら傍若無人に言葉を破壊しようが桑田佳祐なら全然気にならないのに、真夏の果実の「も」だけはどうしても引っかかるんです。バラードだからかなー。

    うたの歌詞というのは、こういうのありがちなんです。ちょっと軽く分類を。
    まずは字数の都合で日本語としてヘンになってしまう、という場合。
    メロディ上歌詞がうまく入らなかったり余ったりした場合、例えば「わ」を削ったり「も」を付け加えたりして無理やり調整してしまうことがあります。上記の例です。「生まれく」なんて明らかに削ってますね。
    これで有名なのに「やると思えばどこまでやるさ」という村田英雄先生の「人生劇場」がサンプルとしてよく挙げられますね。「どこまでやるさ」なら話はわかるけど、つーやつです。

    他に「用法がおかしい」というのがあります。
    サンプルとして「お座敷小唄」がよく挙げられます。「雪に変りはないじゃなし」の部分ですが、これなら二重否定で、雪に変りがあることになってしまいます。溶けて流れりゃ同じはずの富士の高嶺の雪と先斗町の雪は違うものだということに。「雪に変りがあるじゃなし」もしくは「雪に変わりはないじゃないの?」なら話はわかるけど、ってとこで。
    こういう用法上のことで、僕が子供の頃から気になっている曲に郷ひろみの「禁猟区」があります。
    「あながち僕はハンターで腕の未熟もかえりみず逃げれば追うの癖があり」なんですが、この「あながち」はどうなのか、ということです。
    きちんと用例を調べあげたわけじゃないので間違ってると断定はできないのですが、どうもヘンな感じがしてむずむずするんです。「あながち」って「あながち嘘じゃなかったような」なんて感じでつかいますよね? 必ずしも、とか一概に、みたいな場面で、打ち消しを伴います。この禁猟区の「あながち」は、難しい。

    さらに、文法的にはなんらおかしいところはありませんが、よく聴くとなんかおかしい、というヤツ。
    これのサンプルとしてよく挙げられるのに「パイプくわえて口笛吹いて」というのがあります。菊池章子さんの「星の流れに」です。阿久悠さんも例題として挙げてらっしゃいました。
    確かにパイプをくわえながら口笛を吹くのは至難の技ですが、こういうことを言い出せばだんだん人生幸朗師匠ふうになってきます。「あなたから許された口紅の色は からたちの花よりも薄い匂いです(冬の色:山口百恵)」色を聞いとんねん色を! 何で匂い言うねん! みたいな感じでしょうか。最近ではよく「瞳を閉じて(平井堅)」が挙げられます。瞳閉じられんのはネコや、人間はマブタを閉じるんじゃ! てな感じで(笑)。
    こういうのは文学的な比喩とか衒いもあったりしますので、あながち間違いとも言えない場合もありますから注意が必要ですけどね。

    こうしてうたには無数の「日本語としておかしくね?」という言い回しが出てきます。
    はっきり言って、いちいち気にはしていないわけです。そんなのに着目しながら音楽を聴いていたら、つまんない。たいていは「好き嫌いはイナメナイ」の如く脳内補正して、それで終り。
    しかし、自分が好きで、何度も繰り返し聴くようなうたですと、引っかかってしまうこともあるんです。
    以下に挙げるうたは、僕が過去にブログでも「好きなうた」もしくはそれに類するうたとして言及したことがあるうたです。好きだからこそ、気になってしまう。

    「今はもうだれも」。名曲です。アリスのはじめてのヒットとして知られるこの曲は、実はチンペイさんの作ったうたではなくカバーです。そもそもは京都のバンド「ウッディ・ウー」がリリースしたもの。作詞作曲の佐竹俊郎さんはもう伝説の人ですね。その「今はもうだれも」の一節。

      淋しさだけがじっとしてる 止めど流るる涙に ひとつひとつの思い出だけが

    引っかかるのは「止めど流るる涙に」です。この「止めど」とは何か。
    ひとつの解釈としては「止めれど」の「れ」が落ちたもの、という考え方です。「止めれど(も)」なんて言葉はあまりつかいませんけど、まあ「止めても」として、止めようとしても流れる涙。文脈としても合致します。
    しかし、この場合後ろが「流るる涙」ですから、文語です。だから「止めれど(も)」かと思ったのですが、よく考えたら文語なら「止むれど」ですな。「止めれど」ではないのか。
    もうひとつの解釈は「止めどなく」の「なく」が落ちたのでは、です。涙は、どんどん溢れ出してきているのです。男としてそれはちと情けないのでは、とも思いますが、そういう解釈も成り立ちます。
    いずれにせよ「言葉足らず」なのですけど。
    余談ですが、この「止めど」、後に記録的大ヒット曲として甦ります。サザンの「TSUNAMI」。

     とめど流る清か水よ 消せど燃ゆる魔性の火よ

    こっちのほうがさらに解釈が難しい。「流るる」じゃなくて「流る」ですよ。これはもう桑田先生一流の「日本語文法破壊」ですな(笑)。桑田さんが「今はもうだれも」を聴いたことがないはずはありませんが、これは影響を受けたのかどうかはわかりません。
    なお「今はもうだれも」には他にも「愛されたくてみんな君に 僕の中に悲しみだけが たったひとつの残りものなの」という、助詞がどっち向いてるのかよくわからない謎めいたフレーズもあります。解釈できるけどアナグラムみたいになっちゃうよ(笑)。

    他、簡単に挙げていきます。まず岡林信康の「君に捧げるラブ・ソング」。

      何も出来はしない そんなもどかしさと のがれずに歩むさ それがせめての証し

    せめての証し、が入らなかったんでしょうけどね。残念。このうたで僕は一編書いたこともあるくらい好きなんですが。
    RCサクセションの「雨上がりの夜空に」。

      そりゃあひどい乗り方した事もあった だけどそんな時にもおまえはシッカリ

    この歌詞に、何もおかしなところはありません。もちろん気持ち悪いのは「おまえはシッカリ」ですが。これは「シッカリしていた」の省略であることは自明であり、これが落ちてしまったのはメロディー上しょうがないことだというのはよくわかっています。しかし、昔からこれ気持ち悪い。
    スピッツの「チェリー」。

      ズルしても真面目にも生きて行ける気がしたよ いつかまたこの場所で君とめぐり会いたい

    名曲ですね。とくにこの「ズルしても真面目にも生きて行ける気が」という一節を聴いて、僕は思わず涙がにじんでしまった、と以前書いたことがあります。
    その感動を生んだうたに対してとやかく言うのも野暮の極みだというのはわかっています。しかしこのフレーズには、言葉が足らん。ですが言葉を補って説明すると、感動も薄れそうなのでこのまま措きます。うーむ。
    僕が思う最大の違和感は、「真面目にも」の「に」ではないかと思います。これが「真面目でも」であれば、半分くらいは違和感が解消されていたでしょう。しかしながら「真面目に(暮らしていて)も」という言葉の持つ語感も捨てがたいんですよ。

    いわゆる「ら抜き言葉」については、僕は一応寛容な立場に立っています。「れる・られる」の受身・尊敬・自発・可能という4つの用法から可能だけを抜き出すことに成功したら抜きは、日本語の発展であるかもしれないとも思っています。ただ、それはアタマでそう思っているだけで、心情的には本当に気持ち悪い。保守的なんです。だからTVでら抜きをつかうタレントを好きになれなかったりします。
    うたの世界は、ら抜きだらけ。しかしこれは、「やると思えばどこまでやるさ」式のしょうがない省略であると思っています。少なくとも「好き嫌いはイナメナイ」よりはマシかと。だから目くじらたてることはないのですが、自分のとても好きなうたのなかに混じってくると、いかにも残念に思えます。
    「どうしてもっと自分に素直に生きれないの」とかね。このうた好きなのになあ。「信じれるものが何ひとつないけれど」というのも、惜しい。これは大好きな永井龍雲のうたですが、そのためこの「悲しい時代に」という名曲にほんの少しの引っ掛かりを感じてしまいます。

    以上は、野暮な話でした。うたはそうやって聴くもんじゃないというのは前述したとおりです。ただ、好きじゃないうたについて言及するとどうも攻撃的な文になる可能性があって、今回は自分が好きなうたにだけ、ツッコミを入れました。

    ここからは蛇足なのですが、最初に書いた話について収束させなければなりません。「価値観は否めない」について。
    つまり、うたの歌詞ならいいんだよってことです。さらにゆずって、私的な会話の中でおどけて言うこともかまわない。ですが会議とか、公的な場で出てくるようになると、困ったなと。まさか文書に入るようなことはないとは思いますが。
    うたの歌詞がここまで影響力があるなんて思いませんでした。ただの歌詞なのに(by桑田先生)。しかしながら、今の若い人は、言葉に触れる機会として、書籍などの活字よりもTVでタレントさんが喋る言葉や流行歌などの方が比率が高い人もいるのかもしれません。そうなると、うたの歌詞などの影響下で言葉をあやつる人も当然出てくるでしょう。
    「水道のカランが壊れてさー、水がとめど流れて参っちったよ」なんて普通に使用される可能性もないじゃなし。どうしよう。また言葉の隔絶が始まるぞ。
    うたの歌詞は、言葉の規範にしていい場合と、そうでない場合があります。そう桑田先生にちゃんと言ってほしいと思うんですけど(笑)。
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    | 2013/03/03 | 言葉 | 07:09 | comments(7) | trackbacks(0) |

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  • 2016.12.30 Friday
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    | 2016/12/30 | - | 07:09 | - | - |

    コメント
    たかが歌詞なのに、細かいことが気になる人は損な性格ですなあ。



    かく言う私も気になってしようがないのです(笑)。曲としては素晴らしいだけに残念で仕方ない。カラオケではら抜きにこそっと「ら」を補充して歌ったりしています。

    「夜空ノムコウ」など教科書に載っているということですが、音楽の教科書とはいえ国語教育上どうなのか、と思ってしまいます。

    嵐の大野君のソロ曲に「たなびく風に身を委ねたなら」というのがありますが、「風にたなびく」ですね。しかも「身」はたなびきませんな、普通。
    • sho
    • 2013/03/03 9:47 AM
    うん、たしかに気持ち悪いですねw
    歌の場合はメロディーを壊さないように字数優先だったりするわけで、それは仕方ないと割り切って許容してますけど〜。
    有名になりすぎてる歌の場合、その歌詞ってホントに日常的に(文法とか気にせずに)使うこともありますからね。
    なんだったら(歌詞の引用だとわかるように)あえて歌詞どおりに言ったりすることもあるぐらいですし。
    文字を抜いちゃうことで凛太郎さんのように気持ち悪く感じたり、本来の伝えたかった意味がわかりにくくなったりっていう弊害はあるでしょうし、歌詞作るほうも断腸の思いで削ったりするんでしょうけどねぇ。
    現にスピッツの歌詞、スピッツ大好きと公言していた友人が「ズルをしても真面目に生きれる」って風に意味を履き違えて聴いてましたから。
    オイラ正しませんでしたけどww
    >shoさん
    本当に、たかが歌詞なのにおたがい損な性格ですなあ。

    しかし僕はカラオケの時に「ら」を入れて歌う、なんてことはさすがにしませんが(笑)。つーか、そういうのは出来るだけうたわないようにつとめます。永井龍雲の上記のうたはカラオケに入っていないことは確認済みで(なんで無いねん)。
    「夜空ノムコウ」が教科書記載ですか。それは知りませんでした。言葉の意味を理解させなければいけない小学生の教科書ではないでしょうが、ややこしい教材になりますねー。
    嵐の大野君のソロは知りませんでしたが、不思議な歌詞ですね。たなびく、といえば枕草子以来の美しい言葉だと思っているのですが、そんな無理やりにつかわなくてもいいでしょうに。
    >にがさん
    「歌詞作るほうも断腸の思いで削ったりするんでしょうけどねぇ」
    みんな本当にそうだったらいいんでしょうけどねぇ(笑)。山崎まさよし氏にはその「断腸」の感じがカタカナ表現に出ていますが…そうでないように感じる歌詞もありますよ。ここに挙げなかったものの中にはね(悪口になりそうなのは避けましたので^^)。
    歌詞が日常の中に溶け込んで引用されたりするってのはよくあって、上記の「やると思えばどこまでやるさ」なんてのは僕らの親世代がよく使用していましたよ。橋幸夫の「なのにヨーなぜに眼に浮く潮来笠」とかもそうかな。「目に浮く」って(笑)。しかしこういうのはあくまで歌詞であることを前提にしていましたので(「頑張れよ。やると思えばどこまでやるさだよ!」みたいに)、さほど問題はなかったような。だから、あえて歌詞どおりに言ってくれるほうがいいんですがね。日常会話に溶け込むほうが怖い(笑)。
    スピッツもねー、わかりにくい歌詞が多いかもしれませんね。誤解したら困りますが(汗)。訂正してあげてよ(笑)。
    単にアリスとSMAPに反応しただけ(笑)のコメントだと、すでにお気づきでしょう。

    言葉は本当に難しいと思います。
    国語の教員免許を持つ娘の言葉遣いに、国語教育の危機感を感じてしまいます。
    しかしながら、彼女の書く文章が気持ち悪いくらい私に似ている(笑)

    ってことは、私の日本語の使い方も危機に瀕しているってことですね。

    ときどき、歌詞を書いてくれたら、曲をつけるからって言われますが、歌詞と詩は別もんでっせ。

    曲を書ける人が詞を書くのとは違います。

    べーやんはメロディーは作れるけど歌詞が書けない。ちんぺいさんは世界にこだわり、同じような言葉とメロディーになる。きんちゃんはわかりやすい言葉が好き。メロディーは複雑。
    アリスは、それらの融合なんです。
    曲はそこにアレンジが加わるから、言葉の使い方が変だとしても、聞きやすさを優先してしまう。

    未だにら抜き言葉には、非常に違和感を感じる私ですが、歌詞には寛容(笑)

    歌詞を書いてと言われて、悪戦苦闘していた時に阿久悠さんを尊敬する気持ちが更に昂まったことは否めません。
    • アラレ
    • 2013/03/05 3:12 AM
    >アラレさん
    言葉が難しいかと言われたら、日常遣っているものだもの難しいはずはない、と答えたい気がするのですが、やっぱり難しいのかなあ。僕はさほど難しいとは思わずこうやって書いているのですがねぇ(汗)。難しいと思ったら書けないよ。しかし、国語の先生が出来るお嬢さんが僕の文章を見たら、なんておっしゃるでしょうかね。やっぱり添削されそうな(笑)。
    歌詞については、やっぱりアラレさんには哲学があるなあ。僕などは、歌詞も詩も同じ範疇だと思ってしまってましたから(汗)。まあ僕には、歌詞を書いたら曲をつけてやるなんてことを言われる奇特な人はまわりにいませんので書くことなどないのですけど(笑)。
    歌詞ってやっぱり語調を合わせるのが重要で、だから僕などは七五調で言葉を連ねればそれでいいのか、なーんて単純に思ったりして(反省)。しかし万葉の時代には、長歌も短歌もうたいあげる歌謡だったのですから、それでいいのかともまた思ってみたり。
    チンペイ先生はいつもいい詞を書かれますね。あの人の綴る言葉を聴くと、詞も詩も心だなと思います。ただ、文語と口語が混ざるのが少しだけ気になったりもしますので、お嬢さんに添削していただけないでしょうか(ワシには荷が重い 笑)。
    うーん、今更でこちらに書き込んじゃいますが
    違和感のある歌詞を書いてる人は単に「学がない」だけとしか思えないんですよね
    分かってたら皆さんのように気持ち悪くて納得できないでしょう
    聞きかじった(?)言葉で歌詞を作ってるから日本語として破綻するんですよ
    個人的に今一番気になっているのが
    アジカンのRe:Re:の中の「後悔してんだよって そう言い逃したあの日」
    あー気持ち悪い
    メロディライン含め上記以外全部好きなので
    余計残念なんですよね
    • のびろん
    • 2019/06/24 1:36 AM
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