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    西宮砲台23 正解のない文化財保護という問題の中で

  • 2012.05.19 Saturday
  •  西宮砲台は昭和49〜50年に大改修が施され、現在の姿となりました。これが悪評紛々であるらしいことを、様々なところから聞きます。 僕も以前おもねって、「コンクリート製の現代建築のようだ」と書いたことがあります。それは周りの声が、そうだったからです。
     趣きは、確かに減じたとみていいでしょう。僕は昔の姿を知りませんが、古写真を見る限りは、昔の岩肌ゴツゴツのほうが迫力はあります。
     しかしあれは、修復すべきものだったという考え方も、あると思うのです。きっかけはもちろん崩壊の心配があったからですが、火災で「荒れホーダイ」になる以前の、海舟や佐藤与之助が設計し、杭を何本も打ち込んで地盤を固め、石工さんが精密に石を削りピタリと継ぎ目を合わせ、鍛冶屋さんの鉄具で繋げ、左官屋さんが迷彩のために薄墨を混ぜた漆喰を丁寧に塗りこめた砲台本来の姿を取り戻すことが、砲台の名誉回復に少しでも繋がるのではないか、という考え方もまた、あってもいいのではないでしょうか。どうかな、ダメかな(汗)。

     強いて言えば、問題は「遅すぎた」ということにあるのかもしれません。
     明治17年の火災以来、「荒れホーダイ」であった時間が長すぎました。1884年から1975年までおよそ90年、あの状態であったこと。人の一生より長い期間、岩肌をずっと晒していたわけで、そうなれば「砲台はそういうもの」という感覚が市民に生じてくるのは当然でしょう。
     人は、僕を含めそういうものだと思います。現状というものは、そしてずっと見てきた風景というものは、確実に脳裏に焼きつき定着する。郷愁も懐古感情も生じる。どうしても否めないことです。そしてそれが変化すると、すなわち破壊になってしまう。そういうことは、僕だって分かっているつもりなのです。
     しかし、流入民が何を言う、ワシらは子供の頃からあれを見て育ち、あの岩肌がこれ我らが愛する砲台なのだ、と言われたら、砲台に人一倍哀憐の情を持つと自負する僕も、もう一言もないのです。

     そのように砲台を愛する方々になら僕はごめんなさいを言いますが、果たして野坂氏はどうなのか。
     砲台について野坂氏はかなり詳しい。三層構造であるということもご存知で、もしかして建造当時の姿かたちすら勉強しておられた可能性もあります。砲台へのかなりの知識理解はお持ちだったと思うのです。
     その上で、復元後の様子を「けったいな姿」とおっしゃる。仮にも人々に多大なる影響を及ぼす流行作家という立場で、小説ながら「それで終わり、アホみたい」と書かれる。野坂氏の中では、愛憎が渦巻いていたのかもしれません。
     しかしながら、いくら一夜をそこで明かした経験もあるからといって、砲台復元について野坂氏が全国版の読者多数の週刊誌でそこまで言っていいとは思えないのです。
     南野武衛氏はじめ砲台復元チームは、相当に研究された様子がみられます。そして、少なくとも外観は完全に復元しています。湊川崎砲台の古写真を見ればそれは一目瞭然です。それを「モルタル、セメント吹き付け、建売り住宅の壁」と言われては、南野氏はかなり悔しかったでしょう。「西宮文学風土記」の著述からは、その無念の思いが伝わってきます。
     文化財保護とは、何でしょうか。
     法律的なことはふくさんが記事にしてくださっています。→西宮砲台の修復メモ ぜひ参照してください。
     ふくさんのお話によれば史跡とは「歴史上の事件に関係のある場所、古い建物やその遺構のこと」です。情緒的に言うならば、そのものの歴史的背景やその時代の人々の思いも、保護の対象として考えていくべきであるのかもしれません。賛否両論はあるでしょうが、復元チームはそういったことも踏まえて仕事をしたように思えます。

     対して野坂氏は、自分の追憶の中の砲台だけが正しいのです。
     砲台は、昭和50年に復元工事が行われましたが、実はそれ以前に一度だけ手が加えられています。昭和9年に、室戸台風によって砲台に被害が生じたとき、保存のための工事を施しています。それは、砲台に屋根をつけるという方法でした。昭和11年に竣工しています。
     古い砲台の画像、例えばこちらに載る砲台の写真には、屋根がありません。これが、本来の砲台の形状です。火災でボロボロになってしまっていますが、その外観は表面の漆喰剥落、砲門枠組損壊等をのぞいては、建設時のままと言えます。
     しかし上記事でふくさんも引用されているこちらの砲台の画像には、丸いプレートのような屋根が覆いかぶさっています。これが、室戸台風被害によって設置された屋根です。そしておそらくは、昭和5年生まれの野坂氏に馴染みがある砲台には、既に屋根があったものと推察できます。
     画商のセールスを行いながら、夙川の上流にある進駐軍クラブ、「パインクレスト」のボーイになってみたり、香櫨園海水浴場でボートの番人をしたり、(中略)
     夏の終り頃だったか、香櫨園の浜へ泳ぎにいき、東山女専の生徒と知り合ったり、また大坂南の軟派女学生とつきあい、やがて十八歳になろうとしていたが(後略)
     (「アドリブ自叙伝」より)
     野坂氏は青春時代に香櫨園浜によく足を運ばれていることが知れます。これは、戦後ですね。この時代の砲台には、当然ながら屋根がありました。
     僕は、この屋根をつけるという工事は、残念だったと思っています。昭和50年の復元工事は、砲台を「元の姿に戻す」というポリシーの元に進められました。だから僕は肯定しているのですが、しかしこの屋根は、元々の砲台の姿を損なうものでしかありません。さらにこの屋根は、砲台の正体を誤解させる原因ともなっている、と僕は思っています(それが何故かということについては、以後の記事で述べます)。
     野坂氏は、前述しましたように砲台についてはかなりの知識を持っておられます。砲台がもともと三層構造であることまでご存知です。ということは、この屋根は本来なかったものであるということは、知っておられたはずです。なによりヘリポートのような形状で、岩肌を晒し古色蒼然とした当時の砲台とは見るからに違和感があります。
     「あのときは屋根をつけるよりしょうがなかった」という考え方も当然あって、ですからこの賛否は別とします。が、この屋根も当然「滅びゆくものの美しさ」を損なうものであることは間違いありません。
     しかし、この屋根に関しては、野坂氏は触れてらっしゃいません。
     それは、野坂氏の心象風景の中にある砲台には、歴然と屋根が存在するからです。当然ながら屋根がなくては、一夜の宿にはなりません。そして触れないどころか、当該随筆では「一夜の宿と頼んだこともある」とあえてわざわざ書かれています。ということは、この屋根に関して野坂氏は肯定的に捉えていることになります。
     繰り返します。野坂氏は、自分の追憶の中の砲台だけが正しいのです。歴史的価値やその背景よりも、自らの青春期に存在した砲台の姿がそれを凌駕しているのです。
     批判に一貫性が無いと僕には思えます。
     ただ、郷愁や懐古の情を否定しようとまでは思っていません。野坂氏は、自分の感情によって、この復元工事を残念なものに思われた。そういうことも、それはあるでしょう。野坂氏がそう思われるのは自由です。
     しかし全国紙で書くならば、他に言い方は無かったものでしょうか。 
     「けったいな姿」そして「角を溜めて牛を殺す」という言葉まで遣われています。これでは、まるで復元チームに対する罵倒ではないですか。
     野坂氏がこの批判を書いたのは、奇しくも今の僕の年齢とほぼ同じ。言ってみれば若造ですよ。そういう立場で、ただ自分の追憶の中にある砲台と姿かたちが違うからといって、南野氏ほか復元に懸命に携われた方々に対し、「角を溜めて牛を殺す」とは、絶対に言いすぎです。

     うわー書いてしまいました。もう傘寿を過ぎた、しかも闘病中の氏に対して、これは僕も絶対に言いすぎです。ただ、全国誌で南野氏他がここまで批判されたのがあまりにも気の毒だっただけです。
     今記事につきましては、批判は受けます。で、批判されればあやまりたいと思います。ホントごめんなさい。


    【西宮流(nishinomiya-style)ブログより転載】
    ※なお、転載にあたって大幅加筆を行っています。そのため、コメントとの整合性に多少の違和感があることをご了承下さい。


     
     
    【いただいたコメント】


    う〜〜〜ん、微妙ですねえ。わたしも自分の心情を測りかねています。少なくとも、あの復元が100%正しかったとは思えないのです。
    [ imamura ] 2012/05/19 12:38:04

    >imamuraさん
    どうも申し訳ございません。PCの前で頭を下げています。
    これについては、おそらく怒られるだろうと思っていたのです。それは、seitaroさんの当該記事でのコメント欄を読ませていただいていますので、もうわかっていたことでした。昔の姿を知らない流入民に言われたくないわい、とお感じになるのは、当然のことだと思います。予定稿でしたのでアップしましたが、これを出すのには相当に躊躇しました。
    正直に申します。慶応元年「石堡塔御築造出来形帳」によれば、外観は
    外周壁厚三寸、下地棕櫚縄・横縄入両返し弐通仕付、油・石灰中途迄五篇塗立、上塗薄墨色塗
    です。この通りに復元チームがやってくれたのかどうかは、どこかに残っているはずの資料を見られていないので僕も分からないのです。果たして縄を入れて油と石灰混合のものを9cm厚塗りまでしたのかどうか。表面の色は旧に復したとは思いますが。それは、湊川崎砲台の明治期の古写真と本当に変わらない外観になっていたからです。
    [ 凛太郎 ] 2012/05/19 15:59:45

    (続き)感情論を抜きにして考えても、例えばふくさんがおっしゃったように「現状維持」がやはり良かったのではないか、と僕も揺れました。それは、岩肌が見えることで、構造がよく分かるからです。石工さんがどれだけ継ぎ目をピタリと合わせているか、が漆喰を塗ってしまうと分かりにくくなる。それは、確かに言える事ではあるのです。
    ただ、お役所のやっつけ仕事ではなかったことだけは、伺うことは出来ます。
    当時の予算がどのくらいであったのか、ですね。'70年代、第一次オイルショック後であり、昔のように篤志家の寄付でもないと、なかなか何のプラスにもならない事業には予算は付けにくかったのではないかと拝察しています。
    技術的にも、例えば透明樹脂で全てを覆うような保護の仕方が出来たのかどうかは、その方面に疎くよくわかりません。金額の推定も出来ません。そうした中での最善の方法が「外観の復元による保護」ではなかったのかと解釈しています。
    これは僕がただぼんやりと思っているだけで、何か資料の裏づけがあるわけではありません。誠に申し訳ありません。
    [ 凛太郎 ] 2012/05/19 16:00:34

    (続き)僕は以前からコメント欄での応答などで、当時の市民感情はどうだったのか、ということを繰り返しお伺いしてきました。どこまで市民があの岩肌の砲台を愛していたのか。ふくさんの上記事の欄外でもお伺いしましたが、これがなかなか微妙です。
    もちろん、限りない愛着を持っていた人もいらっしゃると思います。南野武衛氏のお話ですと、市民は「荒れホーダイ」と言っていたのに修理すれば「滅び行くものの美しさを無くした」となり、じゃあどないしたら満足してもらえたんや、との裏の声が聞こえてきそうです。これは、PR不足もあったと思います。もう少し人々の意見を聞くべきであったのかもしれません。しかし市議会選挙の論点になるほどではなく、難しいところです。もしかしたら市民にしてみれば「知らんとこで勝手にやりおった」との感情が、その悪評に輪をかけたのかもしれません。そこで、砲台について議論が高まったという話が残っていれば僕はうれしいと思うのですが、「西宮現代史」などではそこまで読み取れず残念でした。imamuraさんにお伺いしたいのですが、当時の反響はどうだったのでしょうか。
    [ 凛太郎 ] 2012/05/19 16:01:37

    (続き)野坂昭如さんの意見に対する僕の書き方は、暴言の部類に入ると思われ、それに対しては不快な思いを持たれたことが想像され、それについては陳謝いたします。野坂さんももう少し言いようがあったとは思うのですが、それに対する僕の意見も同罪です。
    ただ「自分の追憶の中の砲台だけが正しいのか」と僕は強調しましたが、それについて字数の関係上ばっさり予定稿からカットした話があります。(追記:この部分は上記事には補足しました)
    僕は、砲台修復に関しては、昭和50年の復元を劣悪であるとまでは思っていません。しかし、昭和9年の、室戸台風における被害が生じたときの保存工事は、いかにも残念だったと思っているのです。それは、あの砲台に屋根をつけた、ということです。
    上ふくさん記事が画像をのせて下さっていますので参照していただければと思いますが、まあるいプレートが被さっています。もっと古い画像、たとえば西宮芦屋研究所員さんがビアホール砲台の画像を載せて下さっていますが、それにはありません。
    http://nishinomiya-style.com/blog/page.asp?idx=10001166&post_idx_sel=10041237
    [ 凛太郎 ] 2012/05/19 16:02:13

    (続き)この屋根については、これから徐々に記事を出しますが(新説を発表します^^;)、砲台の正体をわかりにくくしている元凶であると僕は思っています。
    「元凶」という言葉を遣うのは強すぎ、当時の状況も知らず不遜ですね。申し訳ありません。ただ、あれは残念だったと思っているのです。
    あれも、砲台の原形を損なう修理のひとつであることは間違いないのですが(賛否は別として)、野坂さんはそこにはふれないのですね。それは、野坂さんの追憶にある砲台には、もう屋根がついていたからです。そうでなければ一夜の宿にはなりません。
    なので、なんとなしに不公平感があるのです。「あんなヘリポートみたいなものを上に乗っけて、台無しじゃないか」とでも言っていてくれていたら、僕も少し書き方は変わったと思います。一貫しているな、と。
    いずれにせよ「正解のない」と表題に書きましたが、なかなか難しい問題だったと思います。
    [ 凛太郎 ] 2012/05/19 16:04:01

    (続き)しかしながら、今記事はどうも心象を害したように思います。もう最初から謝るつもりでおりましたので、繰り返しますが、どうも申し訳ありませんでした。
    [ 凛太郎 ] 2012/05/19 16:05:52

    心象を害したというようなことは全くありませんよ。ここへ来るまでに慎重に理由を明らかにされてきてますから。一貫性がありますし、わたしも心を揺すられているのは事実です。(そうやなあ、凛太郎さんの言う通りかもしれんなあ)と。けど、割り切れないんですよね。これ、郷愁だけなのかもしれませんが。いや、それだけではない、という気持ちもあったり、それを説得力ある言葉では表せないし。とにかく微妙、複雑な思いがありますね。(昔の)あれを愛する気持ちなんかは全くなかったですし。あ、あんなのがあるな、ぐらいで。そして、復元されて「なんでやねん。なんでその姿やねん!」ということになったわけで。ああ、整理できないこの気持ち、なんやろ…。
    [ imamura ] 2012/05/19 16:57:12

    >imamuraさん
    結局、僕は理屈ばかり言っているような気がします。まあその裏には大いなる感情があるわけなのですが、言葉を重ねないと分かってもらえないのではないかという焦りがあって、このようになっています。
    そういうものでは、ありませんよね。
    だいたい、郷愁や懐古の情といったものが、説得され翻意とか、論破されたりするなんて聞いたことがないわけです。ノスタルジアというものは、そう簡単に覆らない。
    僕も、そういうものを云々しようと思ったわけではないのですが…やはりなかなか難しい問題を書いてしまったなと今思っています。
    [ 凛太郎 ] 2012/05/20 7:21:54
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