スポンサーサイト

  • 2016.12.30 Friday
  • 一定期間更新がないため広告を表示しています



    | 2016/12/30 | - | | - | - |

    西宮砲台8 星型要塞になりそこねた砲台

  • 2012.05.03 Thursday
  •  西宮砲台は、文久3年(1863)8月に着工しました。今津砲台も、同時期です。和田岬砲台、湊川崎砲台は春には既に着工してます。この遅れが何に起因しているかは、定かではありません。
     まず、基礎工事として、浜に地杭打ちがなされました。西宮砲台は1541本、今津は1157本と記されています。積み上げる石材の重量が何トンだったのかは分かりませんけれども、なんせ砂浜ですから基礎工事をしないとズブズブと埋まってしまいます。
     そして、そこに円形堡塔を建造するわけですが、この石材を岡山県の島から求めています。備中国、現在の笠岡市になる北木島、白石島、真鍋島、神島外浦と。まず西宮や神戸といえば石材の名産地です。大阪城の石垣だって西宮から運び出しているくらいです(刻印石が多く残っていますね)。なのに、なんで御影石を使用せず遥か笠岡諸島から運んだのかといえば、ひとえに安かったからです。
     御影石は、高い。今も高級品ですが、江戸時代もそうだったようです。さらに切り出し賃、運賃も高くついたようで。海っぺりに建造するわけですから島で切り出して船で運ぶほうが便利、陸揚げしやすいということもありますが、一義的にはどうも予算の問題だったようです。
     「西宮今津砲台建造日記」には、塩飽島の石はいくら、北木島はいくら、という内容が切々と書いてあります。予算の逼迫が伺えて、ちょっと悲しい気持ちになったりしますよ。
     ※御影石というのは石材としての花崗岩の総称であり、笠岡諸島の石も御影石の一種です。ここで書いたのは六甲山系の石、という意味で御影石という名称を使いましたが、大変にややこしい書き方だったようでした。お詫びして訂正します。「六甲の石は、高い」。

     この予算の無さが、どうも響いたのではないかと考えられる事柄があります。それは、砲台の外郭が星型稜堡から、円堡に変更されたことです。
     もともとは、この台場は外郭が星型に積まれる予定でした。
    オランダ式の五稜郭に似た堅城の出現が予定されていた(西宮市史)
     市史二巻のp977に「水野家史料」として、その図面が載っています。今津・西宮両砲台とも、外郭が五稜郭のような星型に設計されています。与之助さんが図面をひいた物か、またはその写しでしょうか。
     海舟設計の台場は、多くはそのようになっています。神奈川台場も、また舞子砲台もそうです。星型要塞は死角を作らない構造で、西洋では有効性が認められていました。
     西宮・今津砲台に先行していた和田岬砲台は、その星型稜堡で造られたようです。現在砲台を管理している三菱重工のサイトでその様子を伺うことができます。
     なのでおそらくは、途中で計画変更があったのでしょうね。和田岬はなんとか造れたものの、西宮、今津となると予算的に相当苦しくなっていたのでしょうか。
     予算不足の原因として、人夫を集めるのに相場の倍の賃金を投じたということがあります。これは、当時のインフレで熟練工を集めるためにはしょうがなかった、という話もありますし、また工事を急いだことが挙げられると思います。長州藩は尊皇攘夷派の公家を通じて、砲台建設を急かしているようです。早く造れ、王城が夷人に蹂躙されたらどうするのだ、と。なので、突貫工事のため工賃を弾まざるを得なかった、とも考えられます。勝のとっつぁんの舌打ちが聞こえてくるようです。
     結果、西宮・今津砲台は当初計画を変更、円形土塁になりました。

      

     現在も、その円形に築かれた土塁が残っています。防波堤の建造などにより、西側にしかありませんが、痕跡は残されています。古写真を見ますと、東南側にも昔はしっかりと残っていたようですね。
     ここが星型の要塞であれば、面白かったでしょうね。もう少し砲台場に対する見方も変わったかもしれません。観光名所になったかどうかはともかくとして。

     しかし、残念ながら勝海舟や与之助さんは、砲台完成を見届けることは叶いませんでした。その話は次回。


    【西宮流(nishinomiya-style)ブログより転載】




    【いただいたコメント】


    親しみやすい文章で書かれていて、いい勉強になります。ありがとうございます。
    [ imamura ] 2012/05/03 8:41:32

    御影石という定義が微妙なのですが、花崗岩には違いなかったのではないでしょうか。それにしても六甲山から切り出していたと思っていました。
    修復後の姿見るにつけ、なんとかあの石材の膚が残せなかったのかと思ってしまいます。
    [ seitaro ] 2012/05/03 22:28:02

    内部を見学できるようにすべきですね。曜日と時間を限定するなど工夫すれば出来ると思うのですが。
    [ imamura ] 2012/05/03 23:26:19

    >imamuraさん
    ありがとうございます。Web上でものを書き始めてまる8年になりますが、文章はなかなか上達しません(汗)。
    僕も内部は見学したことがありません。人並み以上に砲台には関心をもっているのですがね(笑)。ときどき、見学ツアーのようなものはイベント的に行われているようですね。
    市に申請すれば僕でも見学は可能じゃないかと思いますが、ある程度人数を集めないとダメかもしれません。誰でも見られる機会を作ってほしいですね。一年のうち土日含む一週間程度でかまいませんので。
    [ 凛太郎 ] 2012/05/04 6:39:00

    >seitaroさん
    すみません。御影石は六甲山地の石、というつもりで書いています。さまざまな資料もそんなふうでしたのであまり考えずに書いたのですが「御影石=石材としての花崗岩」という考え方であるようですね。誠に申し訳ありませんでした。石については素人で(歴史も素人ですが)。
    史料によりますと、のちに一部六甲からも切り出しています。それは、推測ですが石材が足らなくなったからだと思われます。岡山からの運搬途中、海難事故があったようで、石材が海に沈んだことが日記に書かれています。そういった不足分を補う程度ですが、六甲山の石は使用されているようです。この話は書きたかったのですが字数オーバーしましたので割愛。すみませんでした。

    「石材の膚」については、同様のご意見が多いのです(野坂氏も含め)。お気持ちはわかります。ただ、僕は異なる考えを有していまして、後に一話書く予定です。しかしこれを書くのは、勇気がいります(汗)。
    [ 凛太郎 ] 2012/05/04 6:40:11
    このエントリーをはてなブックマークに追加 Check


    | 2012/05/03 | 西宮流 | 05:49 | comments(1) | trackbacks(0) |

    スポンサーサイト

  • 2016.12.30 Friday
  • このエントリーをはてなブックマークに追加 Check


    | 2016/12/30 | - | 05:49 | - | - |

    コメント
    コメントする
    通りすがり・暇人・名無しなどの呼びかけにくいHNはご遠慮下さい








       
    この記事のトラックバックURL
    言及リンクのないトラックバックは受け付けません ごめんなさい
    トラックバック

    CALENDER

    S M T W T F S
         12
    3456789
    10111213141516
    17181920212223
    24252627282930
    << June 2018 >>

    CATEGORY

    ANOTHER BLOG

    メインブログ
    酒・旅・フォーク・歴史・プロレスをテーマにときどき更新


    ちょっと歴史っぽい西宮
    別館・西宮歴史探訪サイト
    凛太郎の自転車操業
    西宮地域ブログ

    PROFILE&BBS&MAIL

    自己紹介です。
    BBS
    掲示板です。
    Mail
    メール送信フォームです。

    NEW ENTRIES

    SEARCH THIS SITE.

    ARCHIVES

    RECENT COMMENTS

    RECENT TRACKBACK

    BLOG PARTS


    RECOMMEND


    MOBILE

    qrcode

    SPONSORED LINKS


    OTHERS


  • フィードメーター - 凛太郎亭日乗


  • ついったー




  • 無料ブログ作成サービス JUGEM