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    | 2016/12/30 | - | | - | - |

    再び、出雲大社の話

  • 2010.06.19 Saturday
  • 夏、僕が出雲大社へ本殿特別拝観に出かけてからもう2年が経とうとしています(2010/6現在)。暑い夏でした。したたる汗を今でも思い出します。
    その折、僕は自分の考えをまとめて記事にしました。それが、以下です。
     ・出雲大社特別拝観
     ・大社本殿内部のこと
     ・出雲大社は本当に牢獄か

    以下内容が重複しますが失礼します。
    出雲大社については、梅原猛氏が「神々の流竄」「隠された十字架」等で、これはただ祭祀のための施設ではなく、神を大和から追放し監禁、幽閉した施設だという見解を出されました。さらにその梅原説にのっかった形で作家の井沢元彦氏が「牢獄」「監視役つき」「正面から拝ませない」などというセンセーショナルな見方を展開され、この説は大手週刊誌で連載され大きな反響があったようです。
    僕は梅原氏の説については、最初十代のときに読んだこともあり当時は大きな影響を受け、内容はよく承知していたのですが、井沢氏のリメイクについては読んでいなかったこともあり詳細はよく知りませんでした。ただ周りに井沢氏の信俸者がいて強く奨められ、書籍化されたものを読みました。
    そうしたうえで、出雲大社本殿を拝観し、井沢説に強い違和感をもってしまい、その自分が感じたことを記事にしたのです。それが上記記事です。

    現在、出雲大社では御本殿大屋根特別拝観がとりおこなわれています。近所に住んでいればすぐに駆けつけるのですが、2年前も4年前も出雲に出かけていまして、そんな隔年で行くわけにもいきません。今回は見送りになりそうです。

    上記記事は、それから2年、アク解の検索ワードには継続的に「出雲大社 怨霊」「大社 牢獄」などという怖い言葉がしばしば現れます。アクセスされているようですが、長めの記事なので読まれているかどうか。読まれていても、おそらく「井沢先生の悪口言いやがって」というのが感想でしょうねぇ(汗)。当方そんなつもりもないのですが。
    今回はキジッシーさんのブログ「ものの姿と言の葉」でとりあげていただきました。ありがとうございます。以下の記事です。

     ・出雲大社「本殿」
     ・出雲大社本殿その2
     ・出雲大社その3

    自分が書いたことに言及していただくのはうれしいもので、早速御礼のコメントをさせていただいたのですが、僕はご承知のように長文癖があります。あまり人様のブログに長々と書き付けるのも失礼かと思い、こちらで記事にさせていただこうと思います。

    キジッシーさんは当初、井沢説を底に敷かれた上で、ご自身で本殿内部をご覧になられ、その上で丁寧に考察されました。こういうことは、「ものを考えるという真摯な姿勢」です。情報を取捨選択もせず鵜呑みにしがちである昨今、僕も見習うべきであり襟を正す部分です。そして、疑問を呈されました。それは、
     /栖韻直接、大國主命を拝さずに「御客座五神」を拝すのはどうしてか
     ◆峺羌匣存淇澄廚箸呂匹里茲Δ並減澆如△匹里茲Δ別魍笋魏未燭靴討い襪里
     「御内殿」の天井に絵が描かれていないのはどうしてか
     で凖造らは御客座五神を拝むことになるが、なぜ大國主命が祀ってあると言うのか
    以上四点です。

    このうち、,鉢い砲弔い討蓮▲ジッシーさんは僕の書いた内容にも一理あると考えてくださったようです。
    ,砲弔い討蓮∨榲惰睇瑤砲ける祭祀の模様が書かれた図絵も残っており、僕は2年前私見で「拝礼の主体は国造である。そして国造の拝礼場所は本殿内上段・御客座五神の前であり、その場所においては御神座は拝礼主体の国造に正対している」と考えました。国造は大國主と向かい合って祭祀を行っている。これには、ご賛同いただいたようです。
    さらにい砲弔い討皀ジッシーさんは、拝殿は後世の建造物ではないかという考え方を一応取り上げていただき解決と言っていただいたのです。
    が、しかし。
    キジッシーさんにはお気遣いいただいたものの、あの記事には拝殿に対する考えがすっぽりと抜けているのです。
    拝殿は後世の造営だと考えています。天空の社とされる本殿の場合、祀る場所としての拝殿は創建当初時点ではその存在を考えにくいこと。また、前記事には書いていませんが玉垣・瑞垣に囲まれ楼門・八足門が存在するその外側に拝殿があるということも、造られた順番としては最も遅い時期であろうという推測の元になっています。
    しかし、いくら拝殿は後世、だと僕が主張しても、現在拝殿は存在しているわけですから、その拝殿が「御客座五神」に正対しているという説がある以上、ここは本来避けては通れない話であるのです。
    拝殿が存在していなかった(と推測される)時代はそれでもいい。しかし後に拝殿は造営され、善男善女は現在ここから拝するようになっている。その拝殿は「横向きの大國主」そして「正対する御客座五神」に拝するという形態になっているではないか。これは大社の姿勢、ものの考え方ががそうなっているからではないのか。もしも大國主を尊重して祀っているならば、拝殿は本殿西側に造られてもいいはずだ。それが南側に造られたということは、やはり大社側とすれば一般人には大和側の御客座五神を拝ませたいのだ、という主張がなされる可能性もあります。それについて、自分の考えをまとめなければなりません。

    この拝殿については、あの記事を書いた後で気が付いたことがあります。そのことは、キジッシーさんの記事へのコメントでも言及させていただきました。
    こちらのHPに拝殿正面の画像が載せられています。出雲大社の拝殿は巨大な注連縄が有名です。この注連縄の位置を見ると、普通の神社の拝殿と異なる点が見受けられます。注連縄の位置は、正面から見て右側、つまり東側にずらして設置されているのです。この拝殿は、完全な大社造ではなく正面中央に注連縄を張りバランスのいいかたちにすることは可能です。しかしわざわざ東側に寄せています。
    本殿内では東側に御神座があり、この拝殿の注連縄の位置は、大國主命の座する場所と直線上で結ばれる形になっています。
    もしも御客座五神を拝ませたいと大社側が考えているなら、注連縄の位置を逆の西側に寄せて造営するでしょう。それが露骨ならば、次善策として普通に正面中央でもいい。しかし東側に寄せているということは、やはり拝殿からは大國主を拝んでいただきたいと大社側は考えているからではないでしょうか。
    遥拝、という考え方があります。神様の向かれている方向というものは確かに重要ですが、それ以上に拝む自分がどちらを向いて拝むか、です。拝殿から拝めば、横顔であっても大國主を拝んでいることになります。
    これは決定打ではありません。ただ、少なくとも善男善女は知らず知らずのうちに大國主ではなく御客座五神を拝まされている、大社側はそのように仕向けているのだ、という井沢説の反証にはなりえると思います。
    キジッシーさんは「デッドスペース」という考え方を導入されています。仮に本殿内部の道筋を一種の参道であるとすればその道筋から「右か左にずらさざるを得ない」とされます。僕もそうだと思います。

    ただ、これ以上のことはわかりません。「知っている人は、拝殿を介さず本殿西側から拝礼している」という話が井沢氏から紹介されています。井沢説からは、それならやっぱり拝殿をなぜ西側に造らないのだ、と言われてしまうかもしれません。
    確固たる自信もなく消極的にしか申せませんが、本殿の入り口が南面しており、きざはしもそれに連なる以上、取り囲む玉垣、瑞垣の入り口(楼門、八足門)も南側に造営せざるを得ないでしょう。そうなれば、拝殿だけ唐突に西側に造るということは実に不自然です。神社建築ということから考えますとそんなおかしなやり方は難しい。
    さらに、大社背後に聳える八雲山(宇迦山)の存在もあると思います。この登拝を許されない神聖な禁足地である八雲山の位置を考えますと、拝殿の位置は八雲山と本殿を結ぶ線上に存しないといけないのではないかとも思えます。

    次に、キジッシーさんの疑問である◆峺羌匣存淇世箸呂匹里茲Δ並減澆如△匹里茲Δ別魍笋魏未燭靴討い襪里」ということについて、僕はコメントで「逆コの字型の本殿内の道筋は一種の参道であり、そうなれば御客座五神とは境内摂社じゃないか」と記しました。実に浅薄ですね(汗)。
    この点については、キジッシーさんの言説の方が説得力があります。
    書き漏らしていたことがありました。牛飼神様の設置は後世です。これはあのとき神職の方に確認しました。もちろん、そもそも具象神であり、日本の神像の歴史から考えても創建時にこれがあったということは考えにくいことです。したがって牛飼神様は省きます。
    その上でキジッシーさんは「客座」という名称に注目され、「直接は恐れ多いので御客座五神に間を取り持ってもらう」のではないかとの推察もなされました。これに僕は、なるほど、と思いました。監視役ではなく仲介役。こちらの方が、国譲りの経緯から見ても納得がいきます。また、「御客座五神は大和系」とキジッシーさんは書かれますが、僕はこの五神は大和系と規定するよりもっと超越した上位神であると考えており(それは上記記事で言及しました)、そうなればなおさら「取り持ってもらう」という五神の位置づけがはっきりするように思えます。

    そして、キジッシーさんの疑問「御内殿の天井に絵が描かれていないのはどうしてか」ということについては、こちらもうなってしまいました。こういう視点は僕には全く欠けていましたから。
    八雲立つ出雲であるのになぜ雲が七つしかないのか、またその雲のうちひとつが逆方向を向くのはなぜか、という視点では確かに多くの言説がなされています。ですが、上面の雲の絵は天井の3/4にしか描かれておらず、御内殿の上には雲がない、ということの指摘は、実に斬新で鋭い。
    僕はコメントで「雲隠れした大国主そのものが八つ目の雲であるのでしょうか」と場当たり的なことを書いてしまいましたが、その実さっぱりわかっていません。
    わからないのでこれ以上は言及できませんが、このことに関連して「八」という数字について思いつくことを少し。
    「八」という数字は日本では「多い」ことを旧来から示します。百そして万という数字に並べて「八百万(やおよろず)」がそのものずばりです。特にきっちり8,000,000柱の神様がいらっしゃるわけではありますまい。「八百八町」「嘘八百」しかりです。
    この「八」がいつから縁起のいい数字とされるようになったのでしょうか。字面を見れば「末広がり」ですから一目瞭然ですが、離れていく、分かれるさまを表しているともいわれます(「分」の冠の部分がまさにそうですね)。いずれにせよ漢字の「八」という渡来字が日本に入ってきてこういう考え方(めでたいにせよ分かれるにせよ)が出てきたはずですが、八雲立つ時代にもはやこういう解釈があったのか。そこは、今後の課題ですねぇ。

    キジッシーさんは結論(最終的疑問)として、
    1)国造が本殿でおこなう祭祀は、どの神に対してなされているのか?(なされていたのか?)
    2)「御客座五神」の名称がどこから来て、どういう役割なのか?
    3)平安時代においても僻地にあった出雲大社を「雲太、和二、京三」と言ったように破格の扱いにしたのは何故か?
    を挙げておられます。そして三番目の疑問こそが、その集約であるとされています。僕も全くのところそれに賛同します。これに比べたら他の謎など枝葉末節。
    「雲太、和二、京三」という言葉は、平安時代源為憲によって作られた「口遊」という子供用の教科書に載せられた(この中には掛算の九九やいろはうたに類似する「あめつち」「たゐにいて」などの仮名文字非重複歌謡が記載されている)暗記用の数え歌のひとつです。橋は「山太(山崎橋)、近二(瀬田橋)、宇三(宇治橋)」、大仏は「和太(東大寺)、河二(知識寺)、近三(関寺)」と。
    ただ、この「雲太、和二、京三」という言葉が独り歩きしているような気はします。本当に大仏殿や大極殿よりも大きかったのかには疑問もあります。床板面積ではこれらは凌駕できなかったでしょう。
    これは、高さです。
    出雲大社は、伝承ではその高さは三十二丈(96m)、また十六丈(48m)あったともいわれています。三十二丈はさすがに難しいとしても、十六丈だと当時の大仏殿(十五丈)を上回ってしまいます。法隆寺五重塔が31.5mであることを考えると、これも実際は信じがたい数字です。ただ、発掘調査からこれが事実である可能性が出てきました。
    これは、あくまで可能性です。本当に48mあったかどうかはわからない。しかし、出雲大社は平安中期から鎌倉初期にかけて、7回も倒壊の記録があるのです。現在の社殿を見て「倒壊」という言葉の想像が出来ません。
    倒れる、ということはすなわち相当に高く頭頂部が重い不安定な構造だったということでしょう。塔ならそんなに倒れない。柱を高く掲げてその上に社殿がある、重心の高い構造であったことがよくわかります。高床式の社。このような建造物だったとされます。
    この「極端なまでの高床式神社」という特異な部分が、出雲大社における最も解けない謎なのです。空に向かって何本もの柱が遥かに延び、その上に天空の社が建つ。こんな不可思議な建物が存在したということ。
    これ以上の謎は、ありません。

    梅原猛氏は「神々の流竄」において、出雲神話の舞台は実際は大和であり、素戔嗚や大國主は天照大神系の神々に敗れ、出雲にそれら神々が流されたのだと書かれます。
    この論文が書かれたのはもう40年も前になります。当時は確かに出雲には考古学的遺跡は少なく、出雲には何もないのに唐突に神話だけが出てくる印象があったかもしれません。しかし、その後の出雲の発掘ラッシュ。決して出雲は僻地ではありませんでした。神話を持ち得るに値する土地であったのです。
    梅原猛氏の説は、まだまだ傾聴に値する部分はあります。ですが、見直さねばならない部分も出てきています。
    井沢元彦氏は「雲太、和二、京三」という言葉が当時は生きていたということから、出雲大社は大仏殿や御所よりも大きい、普通このようなことはありえない、それが怨霊信仰というものだ、と説きます。どうも前述したように「雲太、和二、京三」が独り歩きをしているように思えてなりません。源為憲は高さを説いたので、大仏殿や御所と、天空の高床式社である大社と、建物としてその規模を比べる対象にはどうしても思えないのです。建物の種類が全く違う。
    この説ですと、怨霊信仰から大仏殿は大社の高さを超えてはならなかった、また御所はわざと大社よりも低く造られた、ということになりますが、そんなしばりは本当にあったのでしょうか。「雲太、和二、京三」からは、僕はどうしてもそこまで想像は羽ばたかせられません。大極殿を八丈(24m)として、御所の高さを超える塔はたくさんあると思うのですけど。

    僕は、決して出雲大社の鎮魂の要素を否定するものではありません。それは何度も書いています。ただ、鎮魂の社だとしても、最大の謎はやはり、神殿そのものを巨大柱によって50m近い高さまでさしあげる、という天空の社という存在がどうして、どんな意味で建築造営されたのか、という部分だと思います。
    この建物は、和二や京三とは比較にならない特異な建造物です。他に例がない。そういう意味では正しく「破格の扱い」だと思います。比べるものなし、というところでしょうか。
    いったい何故こんな建物を造ろうとしたのでしょう。さっぱりわかりません。
    地上から離したかったのか。隔離したかったのか。
    それとも、はるか天に神殿を近づけたかったのか。
    神社とは、聖域の具象化である、と僕は思ってきました。そんなことをツラツラと書いたことがあります。 しかして、その聖域を空中に作ってしまうという発想。それも、最近の前衛建築家が考えたことではなく、はるか上代のことなのです。
    いったい、なんだ、これは。この空中神殿が本当にあったとすれば、それは世界七不思議にランクされてもいい。

    キジッシーさんは記事末尾にこんな言葉を書き付けられています。

    「好奇心を羅針盤に、疑問に思ったことを帆風として、想像とロマンの世界への航海にでることは、専門家の特権ではなくて、むしろ素人の特権だ」

    そのとおりっ!!諸手を挙げて賛成です(笑)。キジッシーさんは、また新たな航海に出られるはず。そのときには、是非僕にもその航海日誌を拝読させていただきたいと切に願っています。


    ※追記しました(2010/6/23)
     
    記事を書いてのち、さがみさんのコメントにちょっと触発され妄想が進みましたので追記させていただきたいと思います。「御客座五神」のことです。

    繰り返しますが、御客座五神とは古事記に曰く、天地開闢の時の最初の神々です。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇麻志阿斯詞備比古遅神、天之常立神の五柱です。この後、国之常立神に始まり伊邪那岐神・伊邪那美神までを神代七代とします。そしてイザナギ・イザナミから天照大神以下の天つ神の系譜、そして素戔嗚尊から大國主に至る国つ神の系譜が始まるわけです。
    御客座五神という言い方は、出雲大社でのお祀りから、かのように呼ばれているのであり、一般的には別天津神(ことあまつかみ)と言われます。高天原におわす神なので、天つ神の最高神と考えることが通常であるかもしれませんが、「別(こと)」という言葉から、僕はこの五柱を超越神ととらえています。
    以前の記事にも書きましたが、例えば国譲りの際に天照大神は高御産巣日神に後ろ盾になってもらっています。しかしながら、大國主も兄神に焼かれて死んだ時などは神産巣日神に救われています。天照大神以下天つ神、ひいては大和系の神々だけの直系神ではないのでは、という考え方を持っています。
    したがって、井沢元彦氏の説による「監視者」にはふさわしい神ではない、と僕は考えています。監視するなら建御雷神あたりがふさわしい。

    そこまでをおさえて、進めます。
    仮に大國主が怨霊、祟り神であったとして。
    怨霊信仰がいつから日本に存在したのかはよくわかりません。一般的には平安時代初期からとされます。その嚆矢は、早良皇子です。桓武天皇の弟皇子である早良皇子は長岡京造営にあたり無実の罪を問われ皇太子位を剥奪され流罪、憤死します。この早良皇子が怨霊となり祟り、桓武天皇は長岡京を諦め平安京に遷都せざるを得なくなります。このあたりが、史実に怨霊が登場する最初とされます。あるいは、その前の他戸皇子、井上内親王までを含めてもいいかもしれません。
    ただ、文献上でははっきりと出てこなくとも、それ以前にも怨霊とされた可能性のある人物は多く存在します。大津皇子、長屋王、藤原広嗣、また淳仁天皇も含んでいいかもしれません。蘇我豊浦大臣(蝦夷或いは入鹿)も含まれるでしょうか。中でも長屋王は藤原不比等の四人の息子たちを次々と死なせたとされます。また梅原猛氏は、聖徳太子こそ怨霊であるとの有名な説を打ち出されています。
    その怨霊信仰、祟りというものの初出は、三輪明神たる大物主でしょう。
    「日本書紀」崇神天皇の七年。大物主が祟った記述があります。原文引用は頭痛がしますので簡単に書きますと、崇神治世、疫病が流行死者も多数、人心は離れ反逆者もあらわれます。天照大神の威光を畏れ御所から笠縫へ離して祀ったのもこのときです。しかし厄災おさまらず。占うと、大物主命の祟りと判明します。
    大物主は、子孫の太田田根子に我を祀らせないことが原因だと告げます。なので崇神天皇は太田田根子を探し出してこれを祭主とし、ようやく疫病おさまり実りも戻ったとされます。
    大物主は大國主と同形とも言われておりこの話は実に興味深い。時期的にも出雲大社創建と近い頃では、と妄想もします。

    ここで重要なのは、子孫による祭祀がなされなかったことが祟りの条件とされていることです。
    梅原氏、またその流れの井沢氏は、怨霊の条件として「高貴であること」「政治的敗者で恨みをもって死んだこと」を挙げられます。それは、確かに間違ってはいない。ただこの「子孫祭祀が叶っていないこと」も条件のひとつに挙げられるでしょう。少なくとも早良皇子以前には。
    聖徳太子は、山背大兄王以下は滅ぼされ、子孫が断絶しました。だから、梅原氏の聖徳太子怨霊説に説得力が生じると思います。
    さて、出雲におわす大國主の場合はどうか。
    大國主の子孫と言ってまず思い出すのは、滅ぼされた事代主、建御雷神に敗れて諏訪に封じ込められた建御名方神の二柱です。これら神は、大國主を祀ることは出来ません。また大國主は艶福家ですので他にも子供がいたわけですが、古事記によれば高名な阿遅志貴高日子根神(迦毛大御神)も大國主の子とされます。この「大御神」と冠される(大御神と呼ばれるのはアマテラスとこちらの二柱だけ)カモノオオミカミも、出雲から離れています。
    結局、大國主の祭祀を執り行っているのは、出雲国造なのです。

    出雲国造の始祖は、天穂日命です。
    アメノホヒは、天照大神の第二子であり、ニニギの叔父さんにあたります。天つ神の本流と言ってもいいでしょうか。
    そのアメノホヒは、神話によればそもそもは国譲りの最初の使者です。ところが、国譲りの説得に失敗したどころか、大國主に心服し三年も高天原に戻りません。なので、建御雷神が切っ先立てて脅迫し国譲りをさせたことになっています。
    このように神話上はアメノホヒは大國主の家来とも言えますが、天つ神であることは間違いありません。アマテラスの子です。様々な解釈があろうとは思いますが一応、征服者側であり、その子孫がこの現世においても祭祀の主体となっていることに、大國主としては無念の思いがあっても不思議ではないと思うのです。
    井沢元彦氏ふうに書けば、出雲国造家こそ大國主の監視者という解釈も出来ます。

    さて、出雲大社本殿の造りを振り返ります。→出雲大社HP
    このように大社造りは田の字型。その最も奥(北東位置)に大國主の御神座がおわします。御神座含む北半分が上座であり、国造は上座で御神座に正対し(北西位置)、祭祀を執り行っていると考えられます。
    御客座五神はどこにいらっしゃるでしょうか。
    御客座五神は北西位置で南面、つまり祭祀の主体である国造を睨む位置にいらっしゃる、ということです。
    井沢氏の論のように、面する方向を重要視するなら、そういうことになります。御客座五神は大國主の方向を向いていません。つまり監視していない。こちら五柱の監視の対象は、出雲国造ということになります。
    祟り神かもしれない大國主に対し、征服者側の神の末裔である国造が失礼無きよう祭祀を執り行うその姿を、五柱はじっと見ていることになります。超越神たる立場から。

    妄想が進みましたが、これは井沢氏ふうに考えればそうなる、ということであって、実態はそんな恐ろしいものではないと僕は考えています。大社内部のあの清涼たる空気に、監視者だの何だのはあまりふさわしいとは思えない。
    「客座」という言葉はつまり、主人の座る亭主座に対応した言葉です。大社本殿内で言えばもちろん亭主座は北東位置の御神座であり、それに対した形での客座でしょう。キジッシーさんのおっしゃるようにこの「客座」という言葉はもっと重要視されてもいい。本殿は、古い住宅形式を継承しているとの説がありましたが、おそらくその御客座五神のおわす北西位置は「客座」であるのでしょう。
    では、御客座五神の役割とは何か。
    少なくとも大國主の監視ではないでしょう。監視であれば大國主を見ているはず。御客座五神が見ているのは、国造です。かといって国造を監視しているとも思えない。お客様ですから。
    私見ですけれども、これは国造の祭祀に力を貸しているのではないだろうかとの見解を持ちます。
    大社は、子孫祭祀が実現していません。一種敵側とも言える天つ神の子孫である国造が祭祀を行っています。これでは、鎮魂祭祀が不十分になる可能性もあるのではないでしょうか。大物主の例もあります。
    そのため、別天津神である五神に後ろ盾になっていただいているのでは、とも考えてしまいます。そして五神は大國主と国造とを取り持ち、大國主を祀り上げているのではないでしょうか。

    鎮魂とは、祟りを食い止めること。そして祟られないためには、その魂を鎮めることに最善を尽くすこと。だから、あらゆる力を借りたい。そのための別天津神の出馬ではないか。
    このように、私見として考えました。
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    | 2010/06/19 | 雑感 | 12:06 | comments(3) | trackbacks(0) |

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  • 2016.12.30 Friday
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    | 2016/12/30 | - | 12:06 | - | - |

    コメント
    こんばんは。出雲大社の記事興味深く読ませて頂きました。
    今回「取り次ぐ」というところに興味がわきました。
    源頼朝は後白河法皇と散々交渉事を行っていますが、文書で交渉する場合は必ず院近臣にあてて送付して、法皇に取り次いでもらうという形を取っています。
    また当時の皇族の発行する文書は「その意思を伺った」代理人が発行するという形をとります。
    「取り次ぐ文化」というのはかなり昔からあると思われるのです。
    神様関係も神様の間に複雑な関係や上下関係があると古くから人々の間に理解されていた可能性があるような気がします。
    • さがみ
    • 2010/06/21 10:14 PM
    >さがみさん
    ありがとうございます。
    「取り次ぐ文化」が日本で特に発達した文化なのかどうかは世界状況を知りませんのでよくわかりませんけど、面倒くさいですよね(笑)。御簾は上げてくれませんし、院宣だの宣旨だの綸旨だのと。
    当初は畏れ多いことから、また後には権威付けの必要性から、というところでしょうか。まあしかし今でもそういう文化はあるかな。社長にはなかなかお目通り出来ず秘書室を通して…。

    神様間の複雑な関係は、おっしゃるとおりだと思います。唯一神であればこんなことになならなかったのですけれども、八百万ですのでね。
    出雲大社本殿の場合は「御客座五神」は大國主より上位神であると考えられますので、秘書の取次ぎとはちょっと趣が異なるとは思いますけど、難しいですね。僕が思うに「取次ぎ」より「取り持ち」かもしれないなと。
    もう少し飛躍させると「後ろ盾」に近い存在にも思えてくるのですが。

    ここまで書いて、ちょっと妄想が膨らんでしまいました(笑)。さがみさんのレスにこれ以上長々と書き付けるわけにもいきませんので、記事に「追記」という形にしたいと思います(汗)。
    ヒントありがとうございました。
    出雲大社につきまして、大変興味深く読ませていただきました。私も、井沢氏の怨霊説をだいたい信じてしまっていたのですが、凛太郎さまの記事を読ませていただき、そうではなさそうと思いました。本殿を拝むとき、大国主の横を拝むことになるので、井沢氏の高天原の五神を拝ませているという説は、誤りになりそうですね。
    凛太郎さまの出雲大社の記事は、本当にありがたいお話でした。
    • よしゅあ
    • 2020/04/26 6:47 PM
    コメントする
    通りすがり・暇人・名無しなどの呼びかけにくいHNはご遠慮下さい








       
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