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    | 2016/12/30 | - | | - | - |

    出雲大社は本当に牢獄か

  • 2008.08.16 Saturday
  • 前回よりの続きになります。非常に長文になりますがお許しを。
    僕の知り合いに、熱狂的な「井沢元彦」ファンが居ます。僕よりも若い人なのですが、この人も、今回の特別公開で出雲へ出かけたらしいのです。理由は「井沢先生の言われるところの"霊魂の牢獄"をこの目で見たい」ということらしいです。彼女から感想は聞いていませんが、果たしてどう感じたのでしょうか。

    井沢元彦氏は、週刊ポストに歴史読み物を連載しています。「逆説の日本史」ですね。この連載の是非はひとまず措いて、この読み物では出雲大社のことを「霊魂の牢獄」と表現しているらしいのです。実におどろおどろしいですが、僕も読まずに批判など出来ないので、事前に当該本を読ませていただきました。
    その内容というのは、かいつまんで言えば、大國主を祀る出雲大社は、国譲りを強要され(そして殺され)た大國主命が怨霊と化して大和朝廷に祟りを為すことを恐れ、日本で一番大きな神殿を立ててそこに封じ込めたのだ、という話です。
    これを一読して驚いたのは、この説はまるまる梅原猛氏のコピーであるということです。しかも、そのことについて触れていない。読んでいない、ということであれば勉強不足であると言うだけのことですが、その他の部分では井沢氏は盛大に梅原氏の著作から引用しているのです。なので、あえて書いていない、と判断できます。盗作とまでは申しませんが、これでは井沢氏の著作を信用に足るものであるとは思えなくなってしまいます。同人誌やブログで書いているのとは訳が違うのです。日本で発行されている総合週刊誌で最も売れているとも言われるポストで連載している読み物であるのですから、影響力が違います。出典は明記するのが当然でしょう。しかし、この書籍には参考文献の欄がありません。

    それはさておき。
    井沢氏は、大國主命を怨霊であると考えています。それは、考え方としてかまわないと思います。国譲りの経緯の理不尽さと、その後の対応を考えればそういうこともありうるでしょう。既に、先人がそういう説を唱えられています。井沢氏が考え付いたことではありません。
    しかしながら、井沢氏はその「証拠」として何点かを挙げられています。これがどうも腑に落ちないことが多いのです。

    ひとつは、大國主大神が横を向いて鎮座している、ということです。
    これは事実です。僕も拝観して確認しました。→出雲大社HP
    これについて井沢氏は、参拝者を大國主大神に正対させたくないからだ、と説きます。支配者(大和朝廷)とすれば、この国の正統な主権者ではない大國主大神を真正面から拝ませたくないのだ、と。しかし祟り抑えのためには神殿を造営しなくてはいけない。だから横向きにしたのではないか、と。
    井沢氏の説が説得力に欠けるのは「その人が横を向いているところへ頭を下げるのはおかしい。こんな形で神を祀っているのは、世界広しといえどもおそらく出雲大社だけではないか」と書かれている点です。
    これは、事実ではありません。出雲の国にはこうした形式の神社はもちろん他にもありまして、井沢氏はそのことについても言及しています。しかしながら、大社の影響下にある神社以外に、横向きの御神座を持つ大きな神社が日本には存在するのです。
    それは、鹿島神宮です。
    鹿島神宮はご承知のとおり常陸国一宮で、創建は紀元前とも言われる伝統ある大神社であり、かつて神宮という冠を持てたのは伊勢、香取とこの鹿島神宮だけでした。それほどの神社です。この鹿島神宮の御神座は、出雲大社と同様横を向いているのです。
    形式は、出雲大社と少し違います。まず鹿島神宮は、北面を向いているのです。従って南面を向く出雲大社とは180度のズレがあります。なので御神座は東向きです。そして出雲のような片面板仕切ではなく、本殿の中が外陣・内陣と完全に分かれていて(全仕切りで扉がある)、奥の内陣に御神座が向かって左向き(つまり方角は違えど出雲と同じ)に存しています。
    これは、もちろん僕も実際拝観などしたことはなく、伝えられる図面で書いていることですが、想像するに出雲の御神座と同様にお社が内部にあるのではないでしょうか。何故なら、御神座の前には狛犬が配置してあるらしいからです。

    さて、この鹿島神宮の御祭神は、なんと建御雷神なのです。タケミカヅチ。
    つまり稲佐浜で、大國主命の目前で剣を突き立てその切っ先の上にあぐらをかいて国を譲れと強要した武神そのものです。
    井沢氏の論法ですと、タケミカヅチも大和朝廷に反する存在であり怨霊であるかもしれないということになりますが、それはちょっと考えられないでしょう。出雲一族を倒した建御雷神を同様に考えることには無理があります。

    さらに井沢氏は、出雲大社の田の字型の本殿を、アメリカ映画に出てくる保安官事務所に見立て、「霊魂の牢獄」であると説きます。入り口を入って奥へ行くと、保安官他の机があり、さらにその奥に留置場があるという様式に例えて、御客座五神を保安官ないしは看守になぞらえ、牢獄の大國主大神を監視しているのだ、ということらしいです。
    まず理解しにくいのは、御客座五神が監視に相応しい大和朝廷の神である、と規定している点です。これら五柱は、高天原に初めて生まれた神々であり、大和朝廷を象徴している神ではないはずだと思っていたのですが。天つ神の中でももっと超越した神々なのです。
    この神々の後に、国之常立神が現れカオスから天地が生じ、さらに多くの神々が生まれ、伊弉諾尊・伊弉冉尊が国産みをして、そして天照大神や素盞嗚尊が登場するのです。
    大和朝廷を象徴する神と言えばまずアマテラスであり、それに連なる神々でしょう。そして、大國主大神はスサノオの子孫ということになっています。
    確かに国譲りの際には、アマテラスは高御産巣日神に後ろ盾になってもらっています。しかしながら、大國主も兄神に焼かれて死んだ時などは神産巣日神に救われています。要するに、この五柱の神は超越者なのだと思われます。井沢氏はこの五柱を「奪った側」と規定されていますが、そうとも言えないような。
    もしもアマテラスやタケミカヅチが御客座五神であれば百歩譲って「看守」であると言ってもいいかもしれません。そこに少し首を傾げる部分があります。

    井沢氏は、「征服者のアマテラス側では、自分たちを拝ませたい。しかしここは一応はオオクニヌシを祀る社である(中略)何も知らない善男善女は正面から入り、オオクニヌシに向かって拝礼したと信じて帰る。しかし実際は、ヤマト系の五神に拝礼しているのである」と書きます。
    私見を書きますが、出雲大社は昔から善男善女が拝礼する対象だったのでしょうか。
    かつて、出雲大社は十六丈(48m)の高さを誇った天空の社でした。それは、どうも考古学調査からして事実の可能性が高くなっています。つまり、こういう感じでした。→出雲大社HP
    この聳え立つ本殿。森があり磐座があり古木があり、それらに対する畏敬の念から発生する聖域拝礼から由来する神社とは一線を画したものです。極めて人工的なものであり、古来から一般の人が拝礼に訪れる場所であったとはとても思えません。今でこそ善男善女が集う縁結びの神ですが、かつての大社はそういう存在ではなかったのではないでしょうか。井沢氏は、現代の尺度で古代を判断しようとしているのではないでしょうか。
    この天空の本殿を祀るという行為は、やはり限られた人々だけに許されたものであったのではなかったかと僕は考えています。
    この天空の社は、上へ昇らないとおまつりは出来ないでしょう。階段の下に拝殿を置いて供物を捧げ祭祀を行うには遠すぎます。だからこそ、前回書いたように本殿内での祭祀が行われてきたのではないでしょうか。本殿は兼拝殿であったのです。
    その本殿内での祭祀は、国造を中心としてなされていたはずです。その国造の座する場所に正対して御神座が位置づけられています。
    拝殿が出来たのがいつかは分かりませんが、少なくとも同時に出来たものではないと考えられます。本殿が今の高さ(24m)になってからでは、とも考えられます(これは僕の勝手な推測。調べていません)。
    善男善女は、もちろん天空の社であった時代からでも下から拝礼をしていたかもしれません。ですが、この社は善男善女に拝礼させることを当初からの目的としていたのか、という点に疑問が残るのです。現代において、大國主大神がそっぽを向き御客座五神に善男善女が正対して拝んでいる、というのは本殿が地上に降りてきて後の結果論ではないのでしょうか。

    僕の私見としての結論はこうです。
    ・そもそも、出雲大社は一般の人たちが拝礼する造りにはなっていない。
    ・神南備山その他の自然発生的な聖域拝礼と異なり、完全に人工的に造られた聖域であり、一般的な人たちの信仰対象として出発していない。
    ・当初天空にあった本殿は、拝殿の役割も兼ね、限られた人間だけが拝礼をするために造られている。
    ・拝礼の主体は国造であり、国造の拝礼場所(本殿内上段・御客座五神の前)に対して御神座は正対している。
    このように考えている人は既にいらっしゃるかどうかは分かりませんが、これは、自分の目で見てきたことから導いた結論です。

    井沢氏は、その「霊魂の牢獄」論において、もう二点証拠を挙げられています。
    まず注連縄についてです。
    出雲大社では、注連縄のの張り方が普通と違う、という点に着目されています。出雲大社の注連縄は左本右末である(つまり巻き方が逆)という珍しい形態であることから、これは「死者の着物を左前にするのと同じことである」とされ、大社が死の宮殿であることのひとつの証とされています。
    僕は注連縄については全く知識がありませんでしたので、検索しました。するといいサイトに出会いました。→注連縄の豆知識
    このサイトで勉強させていただいたのですが、このサイトの中で、注連縄の形のいろいろというページを拝見させていただくと、左本右末の形式は全国で一割程度存在するらしいのです。
    これは、もちろん出雲大社をはじめとして、同じ出雲の熊野大社、また三輪明神(大神神社)も名を連ねています。三輪明神さんは、大物主を祀っているわけですから大國主と同形であり共通項があります。そして津島神社もそうらしいのですが、ここの祭神は素盞嗚尊であり、大國主に連なると考えていいでしょう。
    ですが、大山祇神社もそうであるらしいのです。ここは関連性を見出せない。大山積神(オオヤマツミ)を祀る神社ですからね。素盞嗚の奥さんの櫛名田姫の親であるところの足名椎命・手名椎命は大山積神の子であるらしいですが…遠すぎますね。むしろ大山積神の娘であるところの磐長姫と木花咲耶姫の姉妹と、天孫である瓊瓊杵尊(ニニギ)との関係の方がすぐに思い浮かびます。神様って血縁関係が入り組んでますから、みんな親戚みたいなもんですし。でも、オオヤマツミが怨霊であるとは思えないのですがねぇ。

    さらに井沢氏は、出雲大社の柏手は「四柏手」であることから、これを「死柏手」であると言われ、これも出雲大社が死の宮殿であることの証明にされようとしていらっしゃいます。
    これには驚きました。この「死柏手」の事は、梅原猛氏が「隠された十字架」その他の著書で相当昔に書かれていることなのですから。それをまた井沢氏が書かれているわけですが、この「死柏手」については、もう既に昔に論破されている説である、ということを井沢氏はご存知無かったのでしょうか。
    これについては坂本太郎氏の「遣唐使も四船で組織されていた。古代には四の数が忌み数ではなかった証拠である」という意見が有名です。この考え方でいくと、四天王も四神も四道将軍もみんな縁起が悪いことになります。当然、坂本氏は全て言及されています。
    そもそも、四を「し」と読むのは、渡来発音であるということです。いち、に、さん…というのは音読みです。古来より日本は「よ・よっつ」です。出雲大社創建の時代では、四柏手に死の意味を持たせたとは到底考えられません。むしろ「よ」から「よきこと」と考えられていたとも言われます。
    井沢氏が坂本氏の反証を知らずに梅原氏の意見をただ取り入れたのか、それとも知って無視したのかは分かりませんが、この態度はどうなのか、と疑問に思います。少なくとも「死柏手」を信じている人がいるのです。これは訂正すべきでしょう。

    さて、四柏手は、出雲大社の他にも、宇佐八幡でもなされているとは井沢氏の指摘どおりです。さらに、新潟の弥彦神社でも四柏手であるそうです。さらに、伊勢神宮では祭祀で、四柏手を2回繰り返す八開手という柏手が行われているそうです(→西野神社社務日記)。古来は四拍手が正式であり、二柏手はそれを簡略にしたものである、という意見もあります。そうであれば、出雲大社その他は古式を遵守しているということになります。いずれにせよ、怨霊封じ込めの四柏手ではないと言えると思います。

    いろいろ考えてしまうわけですよ。僕は。
    井沢氏の支持者から見れば、以上のようなことは揚げ足取りにしか見えないかもしれません。枝葉末節であると。僕も、怨霊説を全く否定しているわけではありません。少なくともその可能性はあったのかもしれないと思っています。あのように理不尽に国を譲らされて隠れさせられた神です。鎮魂は必要だったとは思います。
    ですが、日本人はそういう鎮魂の方法を採るのだろうか、というところにまだ疑問が残ります。こんな力ずくの方法で封じ込めるというやり方は、西欧的ではないでしょうか。
    井沢氏は、梅原氏の影響を強く受けておられるようにも拝察致しますし、あの法隆寺夢殿の救世観音に釘を打ち込み白布でぐるぐる巻きにして秘仏とし聖徳太子の怨霊を封じ込めた、とする説と同様に大國主を封じ込めようとした、と考えられたのでしょうが、ああいう救世観音のやり方は鎮魂ではなく呪詛である、と僕などは思うのです。
    鎮魂のためには、日本人はもっと柔らかな方法を採ると思うのですね。もっと怨霊をいい気分にさせて気持ちをやわらげるような。聖徳太子が怨霊だとして、その名にいみじくも「聖徳」と美名を冠して治めるような。恨みを持って死んだらその霊を慰めて「どうかあばれないで下さい」とするのが通常であると思うのです。なんでこう霊の意思を逆なでするようなやり方を採るでしょうか。
    以上のような理由で、僕は「霊魂の牢獄」論には賛成できないのです。
    長くなりましたが、出雲大社の本殿を拝観して来て後、様々に考えたことをまとめました。

     

    以下蛇足ですが。 
    僕は井沢氏の著作を全て読んでいるわけではなく、批判めいたことを書いて申し訳ありませんが、僕が読んだ限りでは、井沢氏の論法にはどうも強引過ぎる部分が数多く見られます。僕などはその思想的背景も含め、とても井沢氏の歴史論に諸手を上げて賛成することはとうてい出来ませんが、あの連載が数多くの支持を集めていることは知っています。なにせ週刊ポスト連載でありますから、その影響力は多大です。
    ただ、危険であるなとは思うのです。あれはあくまで「逆説」の読み物であって、あれをもって正史であると判断するには落とし穴が多すぎるように僕は思います。冒頭に書いた知り合いなどはまさに「洗脳」されているのかとも思える程で、今までの日本の歴史観を批判しています。
    批判するのはいいのです。ただ、まず鵜呑みにするのではなく自分の頭でよく考えて欲しい。本当に井沢氏が言っていることが正しいのか、それをよく判断して自分の歴史観を持って欲しいと思います。
    そして、出来れば歴史学者への敬意をもう少し持って欲しい。塙保己一が群書類従を編み、本居宣長が古事記を懸命に解読し、そして幾千もの人々が必死で古文書を解読しながら日本の歴史というものの形を浮き上がらせてきたその努力というものを馬鹿にして欲しくはないのです。井沢氏も、その数々の研究の上に乗っかってああいう事を書いているのですから。

    僕は、非常に恐ろしさを感じています。歴史談義に限らず、どういう場面でも自分で考えることを放棄している人が増えていくことが本当に心配です。


    ※その後関連記事書きました(2010/6/19)。
      再び、出雲大社の話
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    | 2008/08/16 | 雑感 | 23:11 | comments(15) | trackbacks(0) |

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  • 2016.12.30 Friday
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    | 2016/12/30 | - | 23:11 | - | - |

    コメント
    最近の歴史番組や書物の中には斬新さを狙うあまり枝葉末節にだけ目を向ける人も多いですが歴史の流れの中でいろいろなことを考えないといけないのでは?と思う今日この頃です。
    私のブログにお越し下さるブロガーさんが5月に拝観されましたが大筋で凛太郎さんと似た感想を書かれていました。
    その方は「敬意を感じる」と表現していたのが印象的です。

    いや〜、、やっぱり自分の五感で感じたかったなぁ。
    • jasmintea
    • 2008/08/17 8:25 PM
    凛太郎さん
    私は出雲大社には行っていないし、史実についても勉強もしていないので、詳しいことはわかりませんが、「封じ込める」というのが西欧的、という考え方には同感です。
    やはり、日本では、御霊様を慰めたり、自分が懺悔することによって、御霊様には納得して霊界へお帰りいただく、という考え方の方が一般的な気がします。
    しかも、それも御霊様の話。神様にまで、そう考えるかどうか…。それとも当時は、神様は今よりもっと現実的で身近な存在だったのか…?
    >jasminteaさん
    行かれなかったのは残念でしたね。
    今回は久々に事前にかなり勉強もしましたし(その勉強ってのは、先入観を取っ払うためもありました)、神経も自分なりに研ぎ澄ませたつもりです。わりに真剣に対峙しましたよ。
    帰りの車内ではアタマを休ませずメモを取りながらずっと考え続けまして(こういうことやってると楽しいですねぇ^^)、まあその結論が記事であるわけですが、自分でもこの帰着には満足しています。本当にどっかで発表したい(ネットに載せているのですから発表したんと同じですけど^^;)。

    しかし、素であの空間に立ち向かえば、同じ結論は出るような気もするのですね。その方は「敬意」とおっしゃられましたか。なるほどなあ。そうなんですね。少なくとも封じ込めたりはしていない。結論ありきで色眼鏡を掛けなければ、あの清涼感を感じるはずだと思うんです。
    最近メディアなどで歴史をセンセーショナルにとらえることが流行っているようですね。TVもそうですし、出版物もそうかも(加治将一なんてのはねぇ 笑)。とにかく、何でも鵜呑みにせず自分の頭で咀嚼して欲しいと願うばかりです。
    >よぴちさん
    よぴちさんのおっしゃるとおりだと思うんですよ。「御霊様には納得して霊界へお帰りいただく」という日本の思想文化というものは。封じ込めというのはよけい負のパワーを増大させるだけだということを古代日本人は知っていたと思うのですね。
    呪詛というのは古代からよくやられていることですが、それは現実に生きている人に対して呪うわけで、死んでしまえばもうあとは祀り鎮まっていただくしか方法がないように思うんですけどねぇ。

    ダイコク様は神なんですけど(もちろん最初から神であると古事記には書いてありますけど)、そこに何が投影されているか、ということで、昔からここには征服された民のことを想定します。大國主はアマテラスにせっかく自分が治めていた国を強引に譲らされるわけでして、それは出雲国家が大和朝廷に負けた、という事柄を象徴している、とみるわけです。そして、滅ぼされた出雲の支配者を鎮魂しているのだ、という解釈が前提になっています。「国つ神」と「天つ神」の対立構造ですね。
    大國主という人物が実際に居たのかどうかは分かりませんけれども、出雲国(といいますか環日本海国家の象徴)の首長と解釈するんですね。それが大和朝廷に敗れた、と。

    神話って、まるきり荒唐無稽の作り話であると言ってしまえばそれまでですけど、やっぱり何の意味もなしにこういう話は伝えられてはいないと思うんですよ。何か史実があって、そういう言い伝えが生まれたのではないだろうか、ということです。

    日本海側というのは、大陸に近いこともあって、古来日本では先進的地域であったということは想像がつきますね。越の国もまたかなりの力を持った地域であったのではないでしょうか。結局、その大和朝廷も福井から出た継体天皇が治めることになります。乗っ取った、とも解釈できます。
    敦賀は古来から日本の表玄関的な場所であり、新羅との繋がりが深い。気比神社の主神であるイザサワケ、或いはツヌガアラシトという人は何ものだったのか、ということがまた気になってしまいます。おっと話がまたそれていますね(汗)。
    出雲大社の記事を楽しく読ませていただきました。

    最後まで読んでいてこの夏休みに仕事した先の先生との会話を思い出しました。

    インターネットの普及が教育に及ぼす影響。

    情報を鵜呑みにして知ったつもりになる怖さ

    情報の正誤を人に委ねて、ネットにある情報だけが正しいと思い込む。

    見て触れて感じて考えることをせずに、情報を入手しただけで考えたことと混同する。

    教育する側がそれを推奨する風潮にある。考える力がなくなっている。

    などなど。
    帰りがけに話し始め最後はカバンを置きいすに座り、勤務時間外に一時間半以上話し込みました。



    マスコミの活字
    声の大きな人の意見また聞きやちら見による事実の歪曲

    大切なのは、自分の足をその場に運び、自分の目で確かめて自分の五感で感じること。

    有名な作家さんの言葉よりも
    その有名な作家の言葉を流用?して
    インパクトの強い言葉で興味を引く本よりも

    暑さの中、正装して何時間もかけて楽しみながら現地へ行き失礼のないように
    拝見してきた凜太郎さんの記事が私には心に響きます。


    ♪人には黒く見えるカラスが私には白く見えてしまう。

    なぜ好きですか?
    なぜ嫌いですか?
    百じゃなければ0ですか?

    (さだまさし作詞作曲♪不良少女白書)
    なぜ?と考えることをもう一度心がけたいなって思いました。

    山陰は、まだまだ未踏の地です。

    歴史のみならず風景やおいしいおそばが思い浮かぶ記事で、楽しかったです。
    こんばんは。
    出雲大社に関する記事を興味深く読ませていただきました。
    読ませていただいて、やはり「自分の感じ方」や「自分自身の思考」というものを大切にしなければならないなあと改めて思わせていただきました。

    先入観を取り去るということは簡単なようでいて難しく、人の意見を鵜呑みにするなということもまたそうなのですが。

    で、私自身が出雲に関して思ったことですが

    1、怨霊を慰撫するために神社を建てる風習は奈良時代以前にあったのだろうかという疑問。
    私の思い違いもあるかも知れませんが、やたらと怨霊を祭り上げる風習は桓武天皇以降に出てきたのではないかと。
    (古代に詳しい方にこの辺はお聞きしたいところですが)

    2、出雲大社が牢獄ならばなぜ10月に出雲に八百万の神が集まるという伝承が今日まで残ったのか。
    しかも、神様を迎える儀式、神在祭、神様を送る儀式まできちんと現在も続いているということはどのように解釈すべきなのか。
    出雲以外の全国津々浦々十月は「神無月」です。

    というように大きな疑問が二つほど出てまいりました。

    余談が長くなりましたが
    今回の記事は色々と考えさせられるところがありました。
    ありがとうございました。
    • 2008/08/19 10:21 PM
    ↑上記のコメントは さがみ が書かせていただいたものです。
    また記名ミスをしてしまい失礼いたしました。
    • さがみ
    • 2008/08/19 10:22 PM
    >アラレさん
    情報は全て主観なのだ、と僕はいつも思っています。それは数字データでさえそうだと。そのデータそのものは客観であったとしても、それを配置する場所に必ず主観があるのではないでしょうか。
    みんな人間が作るものなんです。だったら人の主観より自分の主観を持ったほうが精神衛生上いいと思って僕はいつもあーでもないこーでもないとグダグダやっております。まあひねくれものというだけなのかもしれませんけれどもね(汗)。
    それと、流されるのが嫌い、という性格が迎合を避けるという結果に繋がっているのかもしれません。

    そんなこと言いながら、僕も「客観的に言えば」なんて慣用句はよく使用しますけれどもね。でも僕が「客観的」と言った段階でもう客観じゃあないんでしょうねー。実は。
    何にせよ難しいことです。人を疑うのが美徳であるとも思えませんし、自分を御することは最も大変なことですから。
    まあひとつ言えるのは、鵜呑みにするより自分で考えた方が人生楽しいということは間違いないのでは、と客観的に思います(笑)。

    出雲も石見も伯耆も因幡も楽しいですよ。風景は美しく食べ物も酒もうまい。もちろん僕の主観ですけどね(笑)。
    >さがみさん
    ご丁寧にありがとうございます。
    先入観を取る、ということは本当に難しく、自分の思考方向ををまず白紙に戻すということはかなりの努力が必要だろうと思います。一種自己否定ですしねぇ。まあしかし、僕の場合は他の方と比べて性格が捻じ曲がっていますので、まず「人の言うことを疑ってかかる」ことが常態化しています。この悪い性格は、ことこの場合については有利かもしれないなと思ったりして(笑)。そして、歴史に関しても、特定の人を除いて人物の好き嫌いが少ない。あんまり人に惚れないのですね(汗)。これは感情移入しにくいということで、そうなると創作は書きにくいですね。その点さがみさんは実にうまく自己コントロールをされてらっしゃってすごいと思います。

    さて、1についてですが。
    怨霊そのものは、古代から居たと思うんですね。三輪明神の大物主大神は大國主の和魂ですが、この方は祟り神の性格も持っていまして、普通の祭祀では駄目なので子孫の大田田根子を探し出してこれを祀らせてようやく鎮まったとされます。また、藤原広嗣や長屋王は怨霊ですね。長屋王が不比等の四人の息子たちを次々と死なせたことははっきりと書かれてあることです。
    しかしながら、大物主はともかく、長屋王らの事跡は続日本紀に書かれてあることであり、この編纂は奈良時代より後ですから、その当時祟り神として本当に恐れられていたのかどうかは確実であるとは言えませんね。僕の見解は、藤原四兄弟が次々と死んだことは事実でしょうから、やはり恐れられたのではないかとは思うんですけど。
    それ以前ですと蘇我豊浦大臣は化けて出てきています(これは蝦夷か入鹿かはっきりしませんけど)。また梅原猛氏の「聖徳太子怨霊論」がありますがこれは史料には出てきていません。
    で、それら怨霊が居たとして、どうやって祀ったかと言えば、神社にはしていないのですね。そういう施設は造ってはいない。ただ、古来から行われるはずの殯の儀式を省略して早く本葬してしまったりということはあったと言えるかもしれません。崇峻天皇や大津皇子などがそうですね。殯は甦りを期待しての期間ですから、甦られては困る人たちをとにかく葬ってしまう。しかし神社にはしていない。
    鎮魂施設については、前述の梅原氏は、法隆寺こそ太子鎮魂の施設だという論であるわけですが、これは賛否あります。
    結局史料的には、桓武天皇の早良親王や他戸親王に対する御霊神社が最初ということになります。ただこの御霊信仰は、おっしゃるように祀り上げて良き神に変わってもらおうという新しい考えで、ただ鎮まることを望む信仰は僕は平安以前にもあったと思っています。氏神信仰が祖先鎮魂も含むという点と、慰霊という考え方はゼロでななかっただろうという推測です。
    祀り上げて良き神にしてしまおうという御霊信仰は、これは僕も考えが浅く私見にすらなっていませんが、もしかしたら渡来のもの(百済か)から来たのかも、とぼんやり思っています。だから天智系桓武から始まった、と。
    さて、出雲大社はそもそもいつ出来たのか、という根本的問いもあります。まさか神話の時代、紀元前ではありますまい。また、最初からあれは神社であったのか、という点にも僕は疑問を持っています。あれは住居ではなかったのでしょうか。極めて人工的ですし。また鎮魂には子孫の祭祀が望ましいのですが、大國主の子孫は事代主や建御名方もやられちゃってますし、祭祀を天つ神側の国造が代行しています。
    なんだかとりとめなくなりました。ごめんなさい。

    2についてですが、僕は牢獄論ではありませんので、八百万の神が集まってくることに関しては、いろいろな意味を考えては居ますが決定打はありません。ただぼんやりと考えていることは、八百万の神と言っても最初は国つ神だけではなかったのだろうか、とは思っています。大國主は国譲りの敬意から、現界ではなく黄泉の国をつかさどる役割を与えられており、死んでしまった神が集合するのでは、と思うのです。それは、事代主などの敗者側ですね。面白く考えれば敗者側の一発逆転の陰謀の相談をしているようにも思えますけど(笑)。
    ただ、何故10月なのか、ということは考えがまとまっていません。こういうのは難しいなあ。

    いろいろ考える機会をこちらこそ与えていただいてありがとうございます。まとまれば記事にしたいですけど、無理かなぁ?
    怨霊について色々と教えていただきありがとうございました。やはり古代は考え出すと深いですね。
    今後とも宜しくお願いします。
    • さがみ
    • 2008/08/21 6:15 AM
    >いやいやとんでもない。こちらこそでございます。
    しかしアレですね、怨霊が一番パワー出していたのは平安時代なんでしょうけれども。早良親王に始まり菅原道真、平将門を経て大怨霊崇徳院まで。しかし、貴族だから怖がるんで武士はそんなの気にしないのかと思いきやそうでもないですねぇ。鎌倉以降も結構怨霊は頑張ります。
    気になるのは頼朝の死因ですね。落馬とも糖尿とも、ですが、確か怨霊が出たってのもあったんじゃなかったですかねー。安徳天皇が(史料名失念で検索…保暦間記か)。
    この史料によると義経も行家と一緒に亡霊として出てきたってことになってますが、これも怨霊だったんかしらん。化けて出てくればやっぱり怨霊か。
    僕は以前、鎌倉が義経を祀っていないので、こりゃもしかしたらやっぱり北行したんじゃないの、なんて書いたりしたこともあったのですが、考え直さねばいけないでしょうかねー。やっぱり鎌倉は義経の霊を恐れてたのかな。まあ保暦間記は成立が後年らしいですから、決定打とも言えませんけど。
    "かつての大社はそういう存在ではなかったのではないでしょうか。"という言い方も井沢氏の解釈と同じ一個人の解釈ではないのでしょうか?この時代に関しては私も興味があり、出来る事なら真相を知りたいとは思いますが、今現在の段階では十人十色の解釈が出てくるのは仕方がないと思いますし、それがまた面白いと思うので、他人の独自の解釈を否定する必要はないと思いますが。
    • こまさ
    • 2012/04/23 2:51 AM
    >こまささん
    井沢元彦氏の説を僕が否定していることに問題がある、とおっしゃられるのであれば、それはどうも申し訳ありませんでした。僕としては、十人十色の解釈のうちのつもりだったのですが。
    井沢氏の説を否定するような書き方で不快なご気分にさせたことをお詫び申し上げます。
    亭主様へ

     大変知性的で冷静な論考、ありがとうございました。中立的でバランスが取れていて、信頼できる論という物はこういう物かな、と思います。
     私もかつては井沢元彦節に心酔した一人です。また、梅原氏の怨霊論にもはまった経験があります。
     一度興奮から冷めてしまうと、やはり井沢氏の論は主観的でとても歴史の審判に耐えるようなものではないと思いますし、歴史に対して主体的に考える姿勢のない現代日本人に末恐ろしいものを感じるのは、亭主様と同じです。

    出雲大社と鹿島神宮の主神の向きについてですが、出雲は西、鹿島は東を向いているということでよろしいのでしょうか?ということは、どちらも「海」の方角を向いていることになりますよね。海を神聖視する思想からこのような配置になったのかなぁ、くらいしか私の貧弱な頭脳では考えられません。亭主様はいかが思われますか?
    • 2014/03/15 9:08 PM
    >平さん
    恐れ入ります。これは入る穴を探さねばなりません。
    僕は井沢氏の説には賛同できなかったのですが、もちろん完全否定するつもりもなく、大國主が当時怨霊とされた可能性もあると思っています。ただ、一次史料とまではゆかずとも他説、歴史関係書籍を全く読まずに「井沢説全面肯定」という人が結構いらっしゃったように見受けられたので、これは恐ろしいと思ったのです。気持ち的には井沢説否定ではなく、考えずに鵜呑みすることは肯定したくない、というところでしょうか。

    主祭神、と申しますか本殿内の御神座の向きは、そういうことになりますね。なるほど海の方角ですか。
    出雲大社の南側もかつて海だったはず。と申しますか大社の立地は島で、斐伊川の土砂堆積で対岸と繋がったと聞きます。鹿島神宮も古代、半島の端のような場所に位置していました。いずれも結構まわりは海。しかし「大海」という観点で見れば、平さんのおっしゃることはあたっているかもしれません。
    というのも、この「祭神の向き」という問題は、難しすぎるのです。
    出雲大社については、書きましたようにある程度理解できるのです。本殿が南向きであり、それに沿って社殿入口も南で、逆コの字型の順列の最奥でありますので。結果的に西面しているとも言えます。
    鹿島神宮は、難問です。出雲よりもっと難しいと思っています。
    そもそも本殿が北面していることがわかりにくい。普通は太陽信仰がありますし、太平洋側であれば神奈備信仰もあって山を背にすれば南面するのですが…。通説では武甕槌が武神であり、蝦夷を意識して北面しているとされます。頷けるのですが、内殿が東面しているのでその北面説が揺らぐのです。
    この東面も、出雲の逆コの字ではなく、本殿内前部と後部を隔絶したような理解しにくい構造になっています。出雲の西面よりも更に意味を持たせてあるような。奥にあって結果的に西面しているのではなく、意志を持って東面していますので。
    こういうのは本当に性根入れて考察しないと分からないと思いますが、素人の僕には荷が重過ぎます。難しいですねえ(汗)。
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