ら抜き言葉に関する雑感、その2です。
前回記事で、僕はら抜き言葉が地方によっては昔から遣われている言葉である、と言うことの他に、「日本語の進化」の可能性があるかもしれない、と書きました。
このことは、ら抜き言葉擁護論の主体となっていることです。
助動詞「れる・られる」には4つの意味があります。
可能・受身・自発・尊敬です。これは分かっていただけると思います。
このことが、例えば日本語を習得する外国語文化圏の人たちにとって難しいことであるのはわかります。ややこしい。
「チーズがありますが、お義母さんは食べられますか?」
この場合、「お食べになりますか(尊敬)」なのか「食べることが出来ますか(可能)」なのかわかりません。
しかし「食べれますか?」と聞けば、「食べることが出来ますか」だけの意味になります。分かりやすいですね。このように「ら抜き」は可能だけの意味をあらわします。
これは合理的なことです。今まで曖昧で理解に食い違いが生じる可能性があった部分を見事に修正していると言えます。ある意味日本語の完成度が高まったという見方も出来るのです。
日本語には「可能動詞」と分類される一群の言葉があります。「行ける」「書ける」などですね。これらは(ややこしい話ですが)五段活用動詞に限って認められています。ただ、下一段活用(食べる等)や上一段活用(見る)などは、助動詞「られる」を使って可能をあらわさなくてはなりません。その「られる」には尊敬や受身の意味もあるのです。これは不合理です。なので、「食べれる」「見れる」は新しい「可能動詞」の出現であるという見方も出来ます。
「行ける」だって本来は「行かれる」で可能の意味もあらわしていたのでしょう。しかし時代が移るうちに「行ける」という言葉が出現した。その当時はこれもおそらく「日本語の乱れ」だったのでしょう。しかし文法学が完成する頃には既に「行ける」があったためにこれを日本語文法は「可能動詞」として採用しました。文法学の完成時点がもう少しずれていれば、おそらく「見れる」「食べれる」も「可能動詞」として採用されていたでしょう。日本語文法を完成させた時期だけの問題なのです。
この時代、日本語文法ももう少し整理すればいいのにと思います。そもそも文法学というものは「実際に遣われている言語」を整理説明するためのものであるはずです。言語が主体で文法は従。なので、文法がこうであるからと言って実際遣われている言語を過去につくられた文法体系に合わせることなどは本末転倒であるはずなのです。
「日本語の乱れ」を声高に叫ぶ人たちも、「行ける」「書ける」はOKなのです。これらはかつて「乱れた日本語」であったはずなのに。「可能動詞」というお墨付きがついたとたんに「正しい日本語」になる。権威主義もいいところです。
こういう権威主義が嫌いな僕は、慣れませんが「ら抜き言葉」を非難することは出来ないのです。自分は頭が固いのでなかなか遣えないくせに(笑)。
次回、蛇足に続く。