ちょっと酔眼ながら、雑感を。
先日宴席で、お札の人物の年齢の話が出まして。具体的には、福沢諭吉って老けている印象があると。
「ありゃ70歳くらいか」
「いや、諭吉はもっと若くに亡くなってますよ」
「晩年の肖像じゃないかも」
その場でさっと検索した人がいて、それによると56歳のときだという説が有力だそうです。
その場に56歳の人が実際に居まして。比べて諭吉さんはやっぱり老けてます(その人が白髪を染めていることもありますが)。と言いますか、昔の人ってだいたい老成してるんですな。
その場では、
「じゃ新渡戸稲造っていくつやねん」
「伊藤博文はじいさんやろ」
「板垣退助って仙人みたいやったもんな」etc.
でも伊藤博文って暗殺死ですから、たぶんそんなに長生きはしていない。板垣退助は長命したと思いますが、岩倉具視とかは60歳まで届かなかったかと。
今お札に肖像画が使われた人の全ての没年を調べたりするのはたいへん面倒なのでそういう話はしませんが、神功皇后も昔は紙幣になってましたよね。あの方確か享年100だったのでは。武内宿禰は300歳超えじゃなかったですか。
そういう神話の世界はともかく、早くに亡くなった方もいらっしゃいますな。樋口一葉がそうだ。野口英世も黄熱病で若死ですね。50歳過ぎだったか。そろそろ僕も野口英世が死んだ歳に近づいたな、と思います。
宴席での話ですが、このとき夏目漱石の没年齢を検索したひとがいました。49歳だそうです。これは意外でした。漱石も老成していた印象があって、黄熱病で客死した野口英世よりも若くして死去していたとは思わなかったものですから。
それにしても49年間の生涯で、すさまじい業績をあげた人だったのだなと思います。
そのときの話題にはのぼらなかったものの、紙幣の人物としては、僕は聖徳太子だけは没年をはっきりと記憶していました。確か漱石と同じ、享年49のはずです。そもそも聖徳太子非実在説まであるくらいですから、本当かと問われればそれは困るのですが、年表等にはだいたいそう書いてあります。
と、うっかりしていたのですが、明治以降の人はだいたい満年齢表記になっているはずですが、昔は数え年でした。それに、明治以降の太陽暦と異なり、昔は太陰暦です。その計算はたいへんややこしく酔っ払いでは無理ですが(シラフでも無理かな)、聖徳太子は多分満47〜8歳で亡くなっているのではないでしょうか(皇太子の死は薨御だっけ薨去だっけ?)。
そうか聖徳太子は、漱石よりも若いのか。
それより、僕はもう聖徳太子の歳を知らぬ間にこえてしまっていたのかもしれないぞ。うーん。
お札と関係ないのですが、享年49と言って思い出すのは、織田信長ですね。
信長は謡曲「敦盛」を好んでいました。その一節「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」は有名ですが、その五十年に一年足らずして本能寺に斃れたと。
そう思っていたのですが、これまた満年齢に直すと…。光秀に討たれたときは、多分今の僕と同じくらいか。
そうやって、昔なら「聖徳太子や信長に比べて、今のワシのテイタラクはなんぞや」という話になるのですが、まああんな人たちと比べてもしょうがないのはもうよく分かっています、この歳なら。ただ、このくらいの歳で死なねばならなかった彼らの心境というものを、ぼんやりとでも考えたいとは思うんです。
彼らは、死に際してどう思ったか。
小学生の頃に読んだ学習漫画では、聖徳太子はいまわのきわに「悪いことは何もしないよう、そして善いことだけをするように」と言って亡くなっています。さすが子供用の漫画ですからわかりやすい。これ原文はどうだったかといえば「諸悪莫作、衆善奉行」ですね(これだけは思い出せなかったので検索)。
たいへんな業績を残して死の床にいた太子です。満足していたのかもしれない、と思ったりもします。
ただ、太子はいろいろな言葉を残しており、他にも遺言的な意味のものがいくつかあったと思います。全ては思い出せませんが、ひとつ名高いものに「世間虚仮、唯仏是真」があります。
これ、いろいろな解釈ができると思うのです。仏教的思想だと思うのですが、字面だけ追えば「世間虚仮」というのは、結構厳しい言葉ではないかと思うんですね。この世の中を否定している。虚しい仮の世なのだと。太子は、やはり思い残したことが多かったのかもしれません。天皇にもなれませんでした。
それでも太子なみの業績を残していたならば、凡人の僕なら「余は満足じゃ」と言いそうなのですけれどもね。
信長は、その死におよんで「是非に及ばず」と言ったとされています。この言葉はいろいろ解釈可能ですが、寝込みを一気に襲われたわけですから、是非を言う間もなかったのは確かです。その生涯を振り返る時間すら、ほぼなかったかもしれません。ただ自害のときの一瞬、何を思ったでしょうか。
みんな満足して生涯を終えてはいないかもしれない。僕なら、ここまで成し遂げれば莞爾として逝きそうな気もするんですけれどもねー。
やっぱりそれは、僕のココロザシが低いからなんだろうな。史上に残る人物は、目指すところが高すぎて。天下統一なんてのは僕など考えも及ばない。まあしかし、それでもいいのかな。そんなに戦争に明け暮れる人生も送りたくないし。
だんだん何を書いているのかわからなくなってきました。話がこんなふうに流れてゆく予定ではなかったのにな。酔ってるとこれだからいかん。
昔は、だいたい酔っ払ってブログを書いていました。しかし、最近は朝とか休日とか、ほぼ素面の時間に書いています。それは直接的には生活のリズムを変えたことが最も大きな要因ですが、筆力が落ちたことも大いにあります。もう酔っ払うとヨレヨレで、言葉が出てこないわ調べるのが面倒くさいわ考えがまとまらないわでもうワヤクチャになってしまいます。現に今がそうだ(汗)。
まあね、今日はいつも以上に呑んでいるということもありますが。
なんで呑んでいるかと言えば、もちろん今日はただの週末ではなく11月15日、坂本龍馬生誕の日であるからです。この日は、呑むことに決めています。
だんだん寒くなってきましたので、今年も地鶏鍋をしつらえています。これは龍馬はんが亡くなった日に食べようと思っていて食べられなかった軍鶏鍋を、代わりに食べようという趣向です。酒は高知の栗焼酎、ダバダ火振。うまく手に入りました。
そんなのでやってましたら、酔うわけで。
坂本龍馬はんは、慶応3年11月15日に京都で斃れました。
その妻おりょうさんの言葉で、亡くなった日と誕生日は同じであったという証言があります。この同時性はいかにもドラマティックですから、諸説は押しやって、多くのファンは今日を誕生日と認定しています。
明治以前は太陰暦ですから、細かいことを言っていたらきりがない、という考え方もあります。んで、龍馬はんの誕生日に今日は乾杯、なのです。
ただ今年は、なんとなく龍馬生誕祭よりも、どうも龍馬忌のほうに思いがゆきます。
坂本龍馬はんは、だいたい享年33とどんな書物にも書かれています。なので僕は、自分の33歳の誕生日には大いに反省しました。ワシはまだ何事も成し遂げてはおらぬ。龍馬はんを見よ。人生そんなのんべんだらりとしていていいのか。
しかし、反省すべきときはもう少し前でしたな。計算は難しいのですが、亡くなったのは満なら31歳か。
彼は、31歳で死んだのか。やっぱり、業績がすごすぎる。
それから幾年。ワシはなんにも成し遂げてない、というのはもう止めていますが、その31歳だったとき、また33歳だったときと、今とを思い比べ、あまりにも成長していないのに愕然としてしまうのです。
…まあそんなことはいいか。落ち込むから(笑)。
龍馬はんの享年に追いついてしまった(と思い込んでいた)年の11月15日に、僕はこの日を意識して、酒を呑む日として吉例化しようと思いました。以来、ずっと呑んでます。
また、僕は30歳代後半にブログを始め、ほどなくヒロリンさんと知り合い、その日を命日ではなく「龍馬生誕祭」として祝うという考え方に賛同し、以来ずっとこの日はネットの向う側に向けて乾杯をしています。
みなさん元気ですか? 乾杯!
気づけば、皆さん忙しくなられてなかなかお顔を出して下さらなくなりました。ヒマな僕だけが、なんとかしがみついて書いています。
いつだって俺はここにいる。そう言えるように、なんとか続けてゆきたいなと思っています。
話がとっちらかって、もうわけがわかんない記事になっていますが、久しぶりに酔っ払って書いてます。大目に見て下さいな。