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  • 2016.12.30 Friday
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    | 2016/12/30 | - | | - | - |

    石巻・女川

  • 2016.01.14 Thursday
  • まだ松の内かな…昨年調べたけど確か関東は七草までが正月だが関西は小正月、つまり15日までが通常だから…一応、謹賀新年、凛太郎です(汗)。

    今年も年末年始の旅の話から始めようと思います。
    なんとなく細かくいろいろ歩きました。ダラダラ書くとひたすら長くなりそうなので、表題に絞って書きます。
    まず仙台に一泊。欠かせないイベントである光のページェントを見たのち、うまい魚と浦霞を堪能し、さらに牛タンと麦飯で腹いっぱいになって熟睡した僕は、夜明け前の仙石線に乗り込みました。
    三年前、僕は塩釜、松島へ出かけました(→記事)。そのとき仙石線は、松島より向こうはまだ線路が完全復旧していませんでした。
    石巻へは、小牛田経由でゆくことは出来ましたが、石巻から先は一部開通のみ。終着である女川までの線路は、昨年3月にようやく通じたのです。

    本塩釜、松島海岸駅と3年前に訪れた駅を過ぎる頃から、空が白んできました。
    車窓風景には、更地が広がっています。報道で何年か前に見た光景とあまり変わっていません。このあたりはみな5年前に、波にさらわれた地域です。朝7時頃、石巻到着。
    寒いな…。((+_+))
    まだ店など開いている時間ではなく、とりあえずコンビニのイートインで熱いコーヒーを喫します。
    石巻へは、2度目です。最初に来たのは、もう20年以上前です。結婚前だったから…もう正確なところは当時の何やかやを引っ張り出さないとわかんない。しかも、その時僕は用事があって来たので、観光も何もしていません。
    とりあえず、歩いてみるか。
    まずは駅からほど近い「鋳銭場跡」へ。
    ここは仙台藩の通貨鋳造跡なんですが、特に何が残っているわけでもなく地蔵を祀った祠があるだけです。
    藩政時代の銭座とはあまり関係ないのですが、祠の周りには江戸期の庚申塔残欠が多く集められています。さては明治の宗教政策の名残か。こういう「ちょっと歴史っぽい石巻」を調べたら実に面白そうなのですが、旅の者なので詳細はわかりません。
    さらに東へ向かって歩き、ハリストス教会を過ぎると旧北上川に近づいてきます。
    ここには「石巻総鎮守」の扁額が掛かる大島神社があります。
    なんとも神寂びた風情です。18世紀半ばの造営で、位置的におそらくは津波に襲われたはずですが、今も敢然と建っています。
    河畔には、義経伝説に彩られた旧跡「袖の渡し」と、石巻という地名の由来という説のある「巻石」があったはずなのですが…(参考HP→宮城県ナビ)、地震の地盤沈下で姿が見えません。小島も津波にやられてしまっていました。

    僕は、石巻随一の観光地であり景勝地であるところの、日和山公園へと向かいました。
    町の南に位置する丘陵地で、式内社である鹿島御児神社が鎮座し、鎌倉期以来の有力国人であった葛西氏が拠点として「石巻城」を築き、旧北上川が港として栄えた時代は名の如く天候を読む日和山だったところであり、当然ながら眺望が素晴らしい。芭蕉も来ています。
    そんな歴史的興味から、えっちらおっちらと僕は急な坂道を上ったわけです。
    僕の石巻についての知識は、司馬遼太郎氏の「街道をゆく 仙台・石巻」を読んだ程度で、薄っぺらいものです。そこで、伊達政宗にスカウトされて北上川の治水工事を遂げた土木家、川村孫兵衛のことを知ったわけですが、日和山公園には川村孫兵衛の銅像も建っています。
    もちろん、市域は一望でした。孫兵衛が尽力して水源確保そして水運を仙台藩にもたらした北上川の威容も眼下に広がっています。
    僕は、海側に視野を移しました。
    さすれば、海岸から山までの間に広がっていたはずの市街地が、全く消えています。息をのみました。
    道すらもありません。現在新しく造営中でした。建物と言えば、寺院がひとつと、付随する墓地だけ。
    この日和山には、多くの人々が避難し、津波に呑まれてゆく町を見つめていたとされています。あまりにも凄まじい爪痕でした。あとで町の人から聞いたのですが、もう日和山より南の平野部には、町を復興する予定はないそうです。「ここより下に家を建てるな」ということでしょうか。

    僕は山を降り、北上川の中州に建つ「石ノ森萬画館」へと向かいました。そろそろ開館の時間です。今世紀にはいってから石巻の町は、石ノ森章太郎さんで町おこしをしていますが、僕が前に行ったときにはまだそんな話は出ていない頃でしたね。
    川の中州に立地してますので、当然ながら津波被害に遭いました。ただこういう流線型の建物であったため(→wikipedia画像)、中州にあった他の建造物が壊滅した中、強烈な圧を受けつつも何とか生き残ったということのようです。
    展示は、非常に面白かったっす(書いてたらキリがないので割愛)。
    再び、町を歩きます。
    駅まで波は押し寄せたらしいので、中心部はほぼ被災地であるわけです。あれから5年、もちろん復興は進んでいますが、まだまだ更地も多い市街地です。歪んだガードレールや曲がったアーケード。祠だけ残されたお稲荷さん。
    僕は阪神大震災の後に西宮市に越してきたのですが、その頃のことを思い出しますね。5年では、まだまだ全て旧には復しません。
    萬画館から駅への道は「石巻マンガロード」と称され、サイボーグ009や仮面ライダー、キカイダー、ゴレンジャーらのヒーローたちがモニュメントとしてあちこちに立っていました(→案内)。彼らは、押し寄せる津波にさらされ、流れ来る瓦礫と戦いそして、今も敢然と立っている。こういうの、ちょっと思いが揺れますね。

    朝はパンとコーヒーだったのでそろそろ腹が減ってきました。
    せっかく石巻にいるのですから魚を食べようと思い、町のお寿司屋さんに入って、寿司を食べるのは怖いので(笑)、値段が分かっている海鮮丼を注文。しばし待ちます。
    出てきた丼には、マグロはもちろんのこと、ホタテや白身やイカなどがどっちゃり乗ってます。すごいな。石巻らしくクジラまで。うひゃあ。
    僕は、海鮮丼あるいは東京風のちらしというものは外では滅多に食べません。それは、僕にとっては刺身と飯のバランスが悪いから。いい店であればあるほど、刺身がたっぷり乗ってます。小さな丼の飯ならマグロの刺身ふたきれで食べられてしまうご飯食いの僕にとっては、困ってしまうわけです。
    この店の海鮮丼は、まさにそれ。さあどうしようか。解決する手段は、もう一つしかありません。
    「燗酒を一本お願いできますか」
    乗ってる刺身の半分くらいは酒とともにいただくことにします(笑)。
    さすが石巻。魚介は新鮮でうまい。ねっとりと脂がのった魚を噛みしめ嚥下し、さらに酒を含むと、なんといいますか豊かで幸せな気持ちになりますね。まあ昼からホント申し訳ないですが、結構なもんです。半分ほど刺身を食べて酒が尽きれば、めしに移行します。これだと魚と飯のバランスを考えずにワシワシと食べられる。うまいねぇ。やっぱり丼は頬張って勢いよく食べないと。ふぅ…ごちそうさま。
    夏に来れば金華サバも乗るよ、と聞かされて、ちょっとだけ後ろ髪ですな(笑)。

    さて、石巻をあとにして女川行の列車に乗り込みます。
    女川は、初めてです。
    2015年3月21日に、ついに石巻線が全線開通し、女川まで線路が繋がりました。
    震災がなければ女川には行かなかったか、と問われれば、肯定せざるを得ません。これは、物見遊山です。しかし行かないより行ったほうがいいだろう。そう考えて、訪れました。
    石巻からは約30分。車窓風景は、今は穏やかです。
    昼過ぎに終着、女川。真新しい立派な駅舎が出来ています。
    降りてみて…町はまだまだ更地です。一応駅前商店街だけが出来ているのですが、まだまだ殺風景な様相です。道すらまだ作りかけです。
    三陸特有のリアス式海岸。山が海に迫り、そのまま海へと落ちている地形。だから良港だったと言えるのですが、山に囲まれた狭隘な谷間の、そのわずかな平地部分にあった女川の町は、完全に津波に飲み込まれました。襲った波が逃げる場所がなかったのです。波は山にぶつかり斜面を駆け上がり、上がりきった波は再び戻って町を襲う。
    そして、震災屈指の被害を記録しました。

    湾を見下ろす高台に、町立病院が建っています。僕はそこまで上ってみました。結構な急坂です。
    この病院は海を見下ろす標高16mの丘陵にあるのですが、何とこの丘の上まで波はやってきました。一階部分には津波が襲ってきたのだと。
    報道でそのことは知っていましたが、実際その地に立つと、驚愕します。海水面はあんなに低い場所にあるのに…。
    病院の柱に、津波到達点が刻まれていました。一階床より1.95m。なんだこれは。信じがたい。つまりこの地点では、津波の高さは17mを超えたのです。
    慰霊モニュメントがありました。死者・行方不明者827人と刻まれています。
    人口は約1万人でしたが、この湾に面した町域にはどれだけの人が居たのでしょうか。様々な計算がありますが…死者率は最も高い地域であったとも言われています。この丘の上に逃げてさえ、波に呑まれた方が何人もいるのです。
    当時「想定外」という言葉が世を席巻しましたが、これは確かに想像を絶しています。

    僕は町をうろつき様々見たのち、駅舎に戻りました。
    駅舎の二階には、温泉施設があります(→女川温泉ゆぽっぽ)。震災前から駅前に温泉はあったのですが、もちろん被災し、リニューアルオープンということになります。当然、入ります。
    いいお湯ですね〜。(^▽^) 今日は結構歩いたのですが、足の疲れも消えてゆくようです。
    ゆっくりと入って、併設されてる休憩室でしばし憩います。もちろん、湯上りにはビール。
    ここから海が見えます。とても穏やかです。その穏やかさに、さまざまな思いがわきおこります。
    そうこうしているうち、小牛田行の列車が来たようです。駅が温泉なので、ギリギリまで憩っていられるのがいいですね。ポカポカのまま、車中の人に。

    そのあとも僕はあちこち寄って、31日には津軽の妻の実家で年越し。大酒のあと、僕の両親が住む実家にも行って、正月の休みが過ぎてゆきました。
    今年は、もう少しブログで遊びたいとは思っていますが…どうでしょうかね(汗)。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
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    | 2016/01/14 | 旅行 | 22:02 | comments(0) | trackbacks(0) |

    伊賀上野紀行 2

  • 2015.01.23 Friday
  • 前回の続きです。僕は上野を歩いています。

    〔金谷〕の向うに、菅原神社が見えます。上野天満宮。上野の総鎮守社です。
    ここに、松尾芭蕉は処女作「貝おほい」を奉納しました。29歳のときです。そして、江戸に出てゆくわけです。
    しかし神社というのは、基本的に開放されていていいですね。無料で(笑)。
    そして、町を散策します。
    上野の町は、商店街もありますがやっぱりシャッターが下りている店舗が多い。郊外にいくつか大型店舗が出来ますと、車社会ですからどうしてもそうなりますね。町は戦災にあっていませんから、道がそんなに広くないことも影響してしまうかもしれません。しかし、そのため古い町並みが結構残っているわけで、観光客には有難いのです。城下町らしい。連子格子の木造建築が並んでいます。
    上野と書くと、東京の上野と勘違いされるために「伊賀上野」という呼称が定着していますが、正確に調べたわけではありませんが江戸幕府が開かれたときに、現在の上野あたりに藤堂高虎の屋敷がおかれたのは事実で、そこから「上野」という名称となったとも考えられます。伊賀のほうが「元祖・上野」とも言えるのです。
    その上野の二之町、三之町あたりは、本当に風情があります。僕は武家屋敷や古い商家、寺院を眺めつつ散策を楽しみました。

    町の南まで歩きますと、「蓑虫庵」があります。
    芭蕉の門人である服部土芳の草庵です。芭蕉門人が結んだ庵が上野にはいくつかあり、芭蕉も上野に戻ったときには立ち寄っていたらしいのですが、現存しているのはこの蓑虫庵だけだということで、県指定史跡となっています。
    芭蕉翁生家と違ってこちらは文化財として指定されているようです。江戸期より現存していると考えていいでしょう。入場料は300円。
    ここまで、城址にあった芭蕉翁記念館(300円)に入っています。残りは900円と少し。うーむ…入ります。

    蓑虫庵とは、芭蕉が貞享5年(1688)にここを訪れたときに、
    「みの虫の音を聞きに来よ草の庵」
    の句を贈ったことからその名が付いたとされています。ここで詠んだ句ではなかったようですが。
    もうお昼に近い時間となっています。朝は寒風に悩まされましたが、徐々に天候もよくなり、青空が見えてきています。
    蓑虫庵は、そのいおりだけではなく庭も美しく保たれ、様々な記念物、句碑などがあります。しかし、他に観光客の姿はなく、梢が風に揺れるだけの静寂な空間が広がります。僕は少し座り込んでしまいました。朝から歩き詰めでしたので。
    こういうときには、やはり俳句を詠むべきなのでしょう。
    僕の父親は80歳を過ぎてからも句会に出たりして、俳号まで持っているようなのですが、僕は本当に不調法で、駄目です。僕の文章というのは実にクドクドしていて、短文は苦手。twitterもアカウントだけでほったらかしていますしね。説明好きで、17文字では意を尽くせません。
    それに俳句というのは、約束事が多すぎるんです。まず季語をいれなくてはいけない。つまり季節を詠まねばならないわけです。季語を入れなければ川柳になりますが、川柳だってそこに諧謔の精神が必要になります。妙味を加えなければ成立しない。ただ五・七・五だけではいけないのです。
    子規は「写生」を唱えました。情景を描写せよ。そうか。
    まず僕には、朝、駅に降り立って町へ向かう、あの寒風吹きすさぶ風景が浮かびます。枯野を流れる柘植川。周りの山々は白く、風花が舞い、しかも懐まで寒い。そんな情景を、17文字で表現できるか。

     木枯らしや 旅にしあれば しんどいな

    これでは小学生の文章です。どうすればいいのか。
    だいたい、季語ってのも難しいんです。今はどう考えても冬。しかしながら、まだ1月10日ですから松の内です。つまり新年であり初春。これは、太陰暦と太陽暦の齟齬からそうなってしまったのでしょうが、つまるところ今は冬なのか初春なのかどっちだ。もうよくわかりません。

     北風や山白き里歩きたり

    これだと冬です。「初山河」とかそういう言葉を入れれば良いのでしょうか。さっぱりわからん。もちろんそんな勉強もしてきてませんし歳時記も読んでません。いきなり蓑虫庵に座ってるから俳句を作ろう、なんて思ってもトレーニング不足なんですわ(言い訳)。

     金も無き我に吹きつけん木枯らしか

    これは少しマシでしょうか。ですがこれは芭蕉の「笠もなき我を時雨るゝかこは何と」のパクリであることは明白です(汗)。ダメだこりゃ。
    蓑虫庵を出て、再び古い町並みを歩きます。晴れてきました。

     城下町見上げる冬の空高し

    なんか気取ってるわりに心にしみる言葉を紡げません。修行が必要かなあ(才能が無いとは思いたくない)。
    腹も減ってきました。
    今日は早く起きて出てきたわりには、しっかり朝食はとってきています。これは僕が前夜、急に酒を飲むことになり「メシいらん」と言ったので、そのぶんのごはんをカミさんがおにぎりにしてくれていたからです。早朝僕はブログをアップしながらそれを食べ、昨日食べるはずだった粕汁もすすってきました。なのでここまで保てていたのですが、そろそろ腹の虫も動き出しています。しかしあまり金はないしなあ。
    その前に僕はちょっとトイレに行きたくなり、大きなショッピングセンターがありましたのでそこに入りました。
    さすれば、入り口でマクドナルドのコーヒー無料券を配っています。
    ショッピングセンター(イオンですが)の中にマクドが併設されているようです。マクドもいろいろあって苦しいみたいですからねぇ。僕はありがたくそれをいただきまして、トイレを借りたのちそのマクドへ向かいました。
    マクドナルドに入るのは…もう何年ぶりかよくわかりません。人がテイクアウトしてきたものを食べる機会は幾度かあったと思うのですが。じゃ、ちょっと腹ごしらえをします。
    「ホットコーヒー下さい。それから、チキンクリスプひとつ」
    僕はマクドのハンバーガーは苦手な方なので、違うものを。会計は100円です。コーヒーはタダですから(笑)。
    座って、コーヒーを喫して一息つきます。ふぅ。
    そして、チキンクリスプにかぶりつきます。
    うまいですね(笑)。初めて食べたのですが、空腹というだけではなく、このちょっとジャンキーな感じが気に入りました。これで100円マックとは恐れ入ります。安いウイスキーに合いそうだな。今度そうしよう。
    まあ、こういうことでもないと、いい年こいたおっさんが独りでなかなかマクドナルドとかには入れないわけです。周りは子供連れの家族や、若い人のグループ。やっぱり完全に浮いています。
    ですがこれも、一種の旅情ではないかと思うのです。〔金谷〕で伊賀牛を食べるのも旅情なのでしょうが、こういう旅情もあっていい。僕は、何だか若い頃を思い出していました。切り詰めて切り詰めていたあの頃の旅。日記には細かく使った金額を書きこんでいた時代。愉しかった日々。
    こういうときに一句、なのでしょうけれども、難しい。その情感が表現できないのです。
    短歌なら、なんとかなりそうに思うわけです。もう少し文字数があれば、この感傷的な気持ちをなんとかあらわせる。

     初春や不如意の旅に過ぎし日見ゆ チキンクリスプひとつ頬張り

    しかし俳句だとどうでしょうか。

     はつはるや チキンクリスプ美味しいね

    これでは5歳児の感想ではないですか。もう諦めます(汗)。

    僕はこのあと寺町を歩き、大超寺に津田三蔵の墓を探し、そして江戸時代の藩校跡である崇廣堂や伊賀越の仇討ちで有名な鍵屋の辻などを訪れました。もちろん崇廣堂などは外から眺めただけ(入れば有料)。
    そうこうしているうちに、冬なので徐々に日が傾いてきました。上野散策もこのあたりで切り上げようと思います。
    しかしまた、JRの駅まで歩きますよー♪ (楽しそうなフリ)

    帰りは、このまま関西本線で西へ行き、奈良経由で大阪に出るルートをとります。行き帰り同じではつまらないですからね。そうしてのんびりと普通列車を乗り継いで、大阪は梅田まで出てきました。
    まだ懐には500円と少し残っていたわけです。なので上野の町からJRの駅まで伊賀鉄道に乗ったりしても良かったのですが、すっからかんになってしまうと何だか不安なので、使わずにきました。この用心深いあたりが年齢なのでしょうか。昔はもっと綱渡りの旅もしていたものですが、ああいうことはもうなかなか出来なくなったなあ。
    でも、ここまで来ればもう安心です。最寄り駅まであと4駅。さあ残った小銭で一杯やって帰るか。
    大阪には、驚くことにドリンクひとつとおでん2品、さらに〆鯖と小鉢が付いて500円なんていう立呑み屋があります。僕は暖簾をくぐりました。いつも混んでいますが、一人なのでカウンターに何とかもぐりこみます。椅子がない店ってのは詰めてもらえば入れるのですよ。
    僕は燗酒を一本、そしておでんはごぼう天と玉子をチョイス。全くもって安いですよねぇ。
    では一杯。

    うまい…。(´▽`)

    さすがに昼はチキンクリスプひとつというおやつのような量だったので、腹も空いています。こういうときに燗酒は沁みますなあ。そしておでんをハグハグ。
    ケータイに付いてる万歩計を見ますと、驚くことにこの時点で40000歩を超えています。水沢の旅より歩いてるよ。ということで、足はかなり疲れています。かかとやふくらはぎなどあちこちが痛い。それでも立呑みに入るとは、我ながら…ただ座る店に財力が追いつかなかっただけですけど。
    呑みながらケータイのメモ帳を開きますと、駄作の俳句がいくつも(汗)。もう少し推敲するかなあ。しかしそれも今は面倒で。
    本当はもう一本呑みたいのですが、あと30円くらいしかありませんので、ここまでとします。ちょうどいいよこれくらいが。帰ろう。

     侘しさを楽しみて熱燗一本
     冬ざれや足ほころびて伊賀の旅
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    | 2015/01/23 | 旅行 | 06:17 | comments(4) | trackbacks(0) |

    伊賀上野紀行 1

  • 2015.01.18 Sunday
  • 少し前の話なんですが、この話は書いておくことにします。

    1月9日のことです。ちょっと用事があって、僕は夜遅くに金券ショップに寄ったのですが、そこで思わぬものを見たのです。
    「青春18きっぷ 1回分 1000円」 w(゚o゚)w オオー!
    18きっぷの説明はもういらないと思いますけど(知らない人は検索してね)、5回ぶんで正価11850円です。つまり1回分は2370円。それが1000円ですよ。
    何故こういう値段になっているかと言いますと、18きっぷの期限が1月10日で切れるからです。10日以降は紙くずですから、投げ売り状態になっているのでしょう。
    僕は10日、いちにち空いています。これは、買いだ。カミさんに電話をしました。「ワシ明日出かけてもいい?」と。了承を得る前にもう買ってましたが(笑)。

    で、翌日。僕は早起きして、この前の水沢の記事をアップしてすぐ家を出ました。甲子園口駅発6:04分。
    18きっぷですからもちろんJR線普通快速列車1日乗り放題であるわけです。ここからですと、静岡や広島や金沢まで行って遊んで往復することだって出来ます(東京や博多だとさすがに帰って来れませんが)。それが1000円。例えば京都まで往復すれば十分モトがとれておつりが出ます。
    僕は、忍者で有名な三重県の伊賀上野へゆくことにしました。
    伊賀上野は今まで盲点になっていたところで、過去1度行った事がありますが、それは17歳のときに自転車で行ったのです。京都からえっちらおっちら走って行ったので、主眼はサイクリングであり、上野では確か忍者屋敷へ入ったくらいだったと記憶しています。ちゃんと町を歩いていませんので、いい機会だと思いましてね。
    ルートは、このあと東海道線で大阪京都を経由して滋賀県草津へ。そこから草津線に乗り換えます。草津線というローカル線は未乗なのでこの機会に、と思いまして。終点の柘植から関西本線でちょっと西へもどれば伊賀上野。帰りは、その関西本線で奈良、大阪を経由して戻るつもりです。
    さて、大阪に着きました。ここで快速に乗り換えて…というところで、僕は重大な失敗に気が付いたのです。

    財布を忘れた。w( ̄▽ ̄;)wワオッ!!

    日帰りですので、手ぶらです。ポケットにケータイとカメラを入れただけです。財布も入れたつもりだったのですが…無いっ!
    今なら引き返せる。そう思いましたが、幸いにして小銭入れはポケットに入っていました。中身を見ますと、500円玉が2枚、他に100円玉もある。結構あるやん。千何百円かあれば何とかなるでしょう。面倒なので、このまま強行することにしました。

    京都を過ぎたあたりで夜が明けました。初めて乗る路線の車窓を楽しみつつ、伊賀上野駅には9時前に到着。
    寒い。曇り空で、周りの山々は白く、風花が舞っています。
    ところで伊賀上野駅は、町から結構離れています。街中まで3〜4kmあるのかな。その間を、伊賀鉄道(昔の近鉄伊賀線)が結んでいます。伊賀鉄道は松本零士さんデザインのペイントがなされた「忍者列車」で、向うのホームには、そのメーテルみたいなくの一の顔をした列車が停っています。面白い。
    しかし、乗りません。260円しますので(笑)。写真だけ撮って、僕は町まで歩くことにしました。

    寒風吹きすさぶ中を歩くのもなかなか大変です。途中で柘植川を渡るときには吹き飛ばされそうになりました。しかしこういうのも、旅の妙です。貧乏旅行とは考えないようにします(笑)。
    小一時間歩き、途中明治建築の旧小田小学校などを見ながら、上野城跡に到着。
    上野城は、砦の時代から考えるとさらに歴史を遡りますが、近世城郭を築いたのは筒井順慶の後継者、定次です。そして関ヶ原後にあの藤堂高虎が移封、家康の命を受けて拡張、さらに堅固な城としました。豊臣家に対する抑えの意味です。
    豊臣滅亡の後は、意味を失い高虎は津に本拠を移し、城は藤堂藩の支城として代々城代が入ることとなりました。
    ここで見るべきものは、石垣です。約30m。日本一の高さともされ、堀から聳えています。確かに凄い。上に立つと、足がすくみます。
    ただ、ガイドブックその他であちこちに「日本一の高石垣」と書かれているのですが、城址に来ますと「日本一、二の高さで有名な高石垣」という表示が出ています。これは何と正直な(笑)。
    実は、見た目部分においては大阪城の石垣の方が高いのです。しかし、上野城には水を湛えた堀がめぐらされ、堀の水を抜いたことは無く、実際の石垣の高さはよくわからない、となっているのです(大阪城は空掘なので明確)。そんなの測る気になれば出来ると思うのですが、曖昧にしているのがなんとも味わいですねぇ。ちゃんと測れば一位かもしれない。でも負けてるかもしれない。なので「日本一、二の高さ」と。
    でも立派な石垣ですよ。見る価値は、あります。
    現在は、その上に三層の天守が上がっています。これは、模擬天守です。戦前に築かれました。
    藤堂時代は五層天守が築造されようとしたのですが、工事途中で嵐により倒壊、その後大坂夏の陣が終わったために再建されませんでした。江戸時代は天守は無かったのです。
    なので、僕は城には入りませんでした。500円もしますのでね。

    城址は公園となっていて、俳聖殿、芭蕉翁記念館、忍者屋敷などがあります。
    忍者屋敷はパス。以前入ってますし、おっさんが一人で入るのもどうなのかと。それに700円ですから予算オーバーです。外から見れば、子供達が手裏剣を投げています。
    僕は城跡を降り、伊賀鉄の上野市駅前までやってきました。本当はここまで電車に乗ってくるはずだったのですが、今回はずっと歩いています。
    駅前の観光案内所で散策地図をゲット。全く下調べをせずに来ていますので、ここで多少の情報を仕入れます。
    これまでの経験から言えば、だいたい観光案内所というのはあまり役に立たないのです。スペシャリストは少ない。聞いても「さあ…」とよく言われます。先だっても某市の立派な案内所で不快な思いをしたばかりです。そんなことを聞くのは変人だ、という意味のことを言われましてね(汗)。
    でもまあ、一応ここでも聞いてみます。
    「津田三蔵の墓があるらしいのですがどこでしょうか」
    津田三蔵というのは大津事件の主犯なのですが、多分答えてもらえないだろうと思ってました。しかし窓口のおばさんはそれを即座に答えたばかりか「生家は残ってませんけどこのあたりだったと聞いています」と地図に印までつけてくれます。これはさすが。僕はそのおばさんとしばらく話しこんでしまいました。こういう経験は、萩の案内所以来です。

    さて、町を散策。
    まず向かったのは、芭蕉生家です。
    伊賀は忍者の里として知られていますが、もうひとつの目玉は芭蕉です。駅前に銅像も立っています。
    芭蕉は、上野出身でありそこから「芭蕉忍者説」も出ています。僕はそれほど文学的に芭蕉のことをよく知っているわけではありませんが、芭蕉は漂泊の詩人であったことから、ここ何年か旅をすればよく芭蕉に当たります。一関、平泉、多賀城、松島、大垣…そのため奥の細道も幾度も通読しました。
    その芭蕉生家ですが…結構立派な家です。入場料300円か。今回金のことばかり書いてますが(汗)。
    観光案内所でもはっきりとしたことはおっしゃいませんでしたが、これが本当に芭蕉の生家なのかどうなのか。こう書いては怒られるとは思いますが、芭蕉は正保元年(1644)生まれ。つまり400年近く前です。それにしては、立派過ぎる。芭蕉は昨今の研究では、出自は農家。表から見ればこの家は町家です。場所的には正しいと思われますが、家自体はおそらく建て直されているでしょう。幕末に日本に起こった一連の「安政の大地震」の最初は伊賀で、阪神大震災並みの強い揺れがここを襲ったはずです。
    したがって、外見を一瞥して入場は見送り(笑)。この中には芭蕉が故郷に帰ったときに利用した離れ「釣月軒」が当時そのままに残っているとされますが、隙間から覗いて終り(汗)。この釣月軒も、本当に芭蕉が起居した庵なのでしょうか。考え出したならきりがありません。
    ともかく、芭蕉の人生の出発点に立てたことで、もう僕は満足です。
    近くに「愛染院」という寺があります。
    ここは松尾家の菩提寺なのですが、芭蕉はここには眠っていません。周知のように滋賀県大津の「義仲寺」に遺骨は鎮まっています。そのかわりにここには、芭蕉の遺髪を納めたという「故郷塚」があります。
    これも、参るのには香華料として200円をおさめるということです。迷いましたが、やはり見送りました。

    全くセコい旅をしていますが、何だか若いときに戻ったような気もしています。学生の頃は、こうして有料の施設に入るときはずいぶん逡巡したものです。
    生家から愛染院、そして上野天満宮に至る、伊賀街道のあたりは「芭蕉街」と書いてあります。その名はともかく、風情のある町並みです。
    そもそも、伊賀上野は戦災にあっていません。そのために、古い町並みがあちこちに残っています。散歩には実に気持ちの良い町です。
    その一角に、伊賀牛で有名な〔金谷〕というお肉屋さんがあります。
    店頭で肉を売ってますので肉屋と書きましたが、まあ料亭ですね。超有名店です。
    池波正太郎氏が〔金谷〕の肉についてこのように書かれています。
     赤い肉の色に、うすく靄がかかっている。
     鮮烈な松阪牛の赤い色とはちがう。
     松坂の牛肉が丹精をこめて飼育された処女なら、こちらの伊賀牛はこってりとあぶらが乗った年増女である。      「食卓の情景」より
    この表現に僕は昔、相当にやられました。池波先生はやはり違いますな。
    もちろん今の僕には、こちらの二階座敷にあがりこんで、すき焼きを注文するような財力はありません。またいつか、ということにしておこうと思います。しかし仮に財布を持っていたとしても、怖気づいて入れないような気がします(笑)。入ればやはり酒も注文してしまうでしょうし、そうなれば1万円を超えるだろうしなあ。
    店頭の様子を写真にだけ撮って、僕は再び歩き出しました。

    たいしたことのない話を書いているのですが、思わず長くなっています。次回に続く。
     
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    | 2015/01/18 | 旅行 | 14:26 | comments(4) | trackbacks(0) |

    水沢紀行

  • 2015.01.10 Saturday
  • 謹賀新年、凛太郎です。皆様いかがお過ごしでしょうか。
    しかしもう正月はすっかり終わってますね(汗)。なかなかネットに入り込めなくて…しかしこの期に及んでも年末の話をします。

    昨年末までは、比較的穏やかな天候でした。
    僕は例によって正月は東北のカミさんの実家へ行っていたわけですが、道中あちこち寄ってつかの間の旅気分を味わいました。歩いた街は静岡と横浜、そして水沢なのですが、長々と書いてもしょうがないので、ここでは水沢の話だけにします。
    しかし、水沢市という自治体は今は無いんですね(汗)。水沢市は、江刺市、前沢町、胆沢町、衣川村と合併して、今は岩手県奥州市ということになっています。
    僕は鬱陶しい人間で、再々申し上げていますとおり市町村合併による新市のネーミングについては「つまんねーな」とずっと思っているわけです。「北九州市」とか「東海市」はては「四国中央市」といった大掛かりな広域名を一地域につけたりね。また一地域が代表して旧国名を名乗ったりすることもどうなのかと思ってしまったりするのです。和泉市や下野市や加賀市などこれはもう枚挙に暇がないくらい多い。こういうのは逆に地域の個性を殺すのではないかと思うのです。許されるのは壱岐市や対馬市、佐渡市くらいじゃないかと(これらは市域と旧国領域が一致している)。摂津市や土佐市や美濃市が旧国を代表しているわけでもないでしょうに。
    奥州市もその類のひとつです。奥州というのはつまり陸奥国のことで、その範囲は現在の青森・岩手・宮城・福島県全域に及ぶ広大な範囲なのです。
    本当は「陸奥市」としたかったのかもしれませんが、既に青森下北半島に「むつ市」が存在していたため「奥州市」としたのでしょう。
    この命名も、やっぱりどうなのかなとは一応思います。陸奥国ってかように広範囲だったのですから。
    しかしながら、矛盾しているようではありますが、これは許してもいいのではないだろうか、という気もすることはするんです(上から目線でごめんなさい)。それは、この地が確かに奥州を代表していた時期というものがあったと思うからです。
    水沢には、胆沢城があったのですから。

    東京に一泊した僕は翌日北上し、仙台で求めた牛タンの駅弁を食べ(ウマヒ〜)、昼頃に水沢駅に降り立ちました。
    水沢でおりたのは初めてです。岩手県には東北本線沿いに一関、世界遺産を擁する平泉、宮沢賢治の花巻、城下町盛岡、また啄木の渋民などがあり、ちょっとそれれば遠野などの観光地がたくさんあって、見過ごしていたのが現状です。
    年末の天候は穏やかで、町には月半ばに大量に降った雪がかなり積もってはいたものの、散策に影響するほどではありません。僕は勇躍歩き出しました。

    水沢は、城下町です。城は、わずかな遺構を除いて残っていませんが。
    歴史的には、ややこしいんです。水沢に城砦が出来たのは源頼義の頃ともされ、さすれば平安期になります。その後変遷を経て、江戸時代には水沢は仙台藩の領域になります。伊達政宗ですね。初期は代官支配、のち留守氏が城主となり明治まで続きます。
    「留守」という姓は、珍しいのですが東北では伝統があります。頼朝が奥州を征服した後、奥州の留守職を務めた伊沢氏が「留守」を称したことから代々留守氏となったのです。その留守氏も戦国時代に伊達家に屈し、江戸期の留守氏は伊達家からの養子を迎えて続きました。
    その水沢の町の基礎を築いた留守(伊達)宗利の銅像が、町の外れにある日高神社にあります。宗利は政宗の従兄弟です。
    日高神社はこのあたりの総鎮守であり、9世紀初頭からの歴史があります。弘仁元年(810)に勅命によって勧請され鎮座しました。つまりこの時期に、朝廷支配がこの地にまで及んだ、ということなのですが、それはちょっと措きます。大変に立派な神社で、前九年の役のときには源義家も戦勝祈願をし、平安時代末にあの平泉の藤原秀衡が再興、のち伊達政宗が社殿を造築、留守宗利が改築しています。
    他に書くことはいっぱいあるのですが(汗)、長くなってますのでこのくらいで。

    神社のあたりから町中にかけて、武家屋敷が多く残っています。まちなみはたいへんに美しく。
    その中に、後藤新平の旧宅があります。
    後藤新平は有名人なので説明の必要はないかもしれませんが、そもそも水沢で留守氏の家臣の子として生まれました。医者として出世しのち内務省官僚、児玉源太郎に引っ張られ台湾民政長官、満鉄総裁、東京市長、内務、外務大臣などを歴任した大変な辣腕政治家です。
    また、斎藤実の生家もあります。この人も水沢だったか。戦前の総理大臣です。やはり留守氏の家臣の子として生まれ、二・二六事件で軍部に射殺されました。
    水沢は、あの蘭学者、高野長英も生んでいます。生誕地に碑があり、旧宅が残り、記念館もありました。
    他にも様々な遺構、遺跡があり、相当に見ごたえのある町です。端折りますが、最後に留守氏菩提寺の大安寺へ。
    ここに、高野長英の墓があります。合掌。

    さて、散策を終え駅に戻ります。
    僕が水沢に来た一番の目的は、胆沢城跡へ行くことでした。しかしここは、かなり町から離れています。バスの便も少なく不自由で、タクシーを使うほど大尽ではないため、歩くことにします。幸い晴れています。
    というわけで、ひと駅北の金ケ崎駅まで行って下車。
    金ケ崎という町にも、実は武家屋敷群があります。ここは仙台藩北限であり、留守氏は水沢に移るまではここに居ました。
    ひとわたり武家屋敷を歩きます。重要伝統的建造物群保存地区であり、確かに見応えがありますが、雪が多い(汗)。城跡もあるのですが、足元もおぼつかなくなってきましたので切り上げて、南下します。
    しばらく歩くと、胆沢川を渡ります。渡れば再び奥州市に入ります。
    旧国道4号線をかなり歩いてヘバってきた頃に、ようやく鎮守府八幡宮の参道が出てきました。
    あたりには広大な雪原が遥かに広がっています。この雪原が、胆沢城跡なのです。

    胆沢城とは、天守閣を持った城でも中世の城砦でもありません。古代の政庁跡です。築いたのは、坂上田村麻呂です。
    はるかいにしえの昔、ここは大和朝廷の力が及ぶ場所ではありませんでした。2年前、僕は多賀城に訪れた話を書きましたが(→記事)、奈良時代はこの多賀城あたりが前線基地だったと言っていいでしょう。その北には、北上川が作った広大で肥沃な土地が広がっていますが、それはヤマトのものではなく、蝦夷の人々の楽園でした。
    朝廷は、この北の楽園を征服しようと目論見ます。
    それには様々な要因があるのですが、ひとつには「金が産出した」ということも大きかったのかもしれません。金はそれまで輸入に頼っていたのですが、奈良の大仏を建立するときにどうしても不足しました。そのときに東北から金が出て、大仏を金色に染め上げることが出来たのです。天皇は喜んで改元までしました。
    時は奈良時代から平安時代へ。豪腕で知られる桓武天皇は、蝦夷を手中に収めんと征東軍を組織し、派遣します。「征夷大将軍」というのは、そのときに出来た官職です。
    ですが、朝廷軍は散々に打ち負かされます。当時この水沢あたりには、阿弖流為(アテルイ)という英雄がいました。
    朝廷はついに、軍人のエースである坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、アテルイと対峙させます。その記録は残念ながら散逸しているので細かな情勢はわからないのですが、結果としてアテルイは降伏し、京に護送され首を斬られます。田村麻呂は延暦21年(802)にこの地に胆沢城を築き、鎮守府を多賀城からここに前進させました。

    鎮守府八幡宮まで歩いてきました。ここは、胆沢城の北東方面(丑寅の方角。つまり鬼門)で、胆沢城の守護として祀られたわけです。
    参拝客は誰もいません。年が明ければ初詣客も訪れるのでしょうが。
    この神社から南西の雪原が全て、胆沢の政庁だったわけです。総面積約46万屐9い。
    夏であれば、回廊跡など多少の遺構が目に入るのでしょうが、今は真っ白です。もちろんそれは承知の上で来ました。強がりではありませんがむしろ僕には、この風景のほうが相応しいようにも思えます。1200年前のものなのですから。
    城址を縦断します。多少自動車の轍があり、それが道だと思われますので。
    もちろんこんなところを歩いている人はいません。人影はもちろん見えず、静寂そのものです。僕は雪原の真ん中に立ち、晴れて風がないのをいいことにしばし佇みました。風でも吹けばたちまち地吹雪となってホワイトアウトで遭難しそうな場所です。
    胆沢城の東には、北上川が流れているはずです。ここからは見えませんが。
    このあたり、つまり北上川の西側はこのように広い平野となっていますが、東側は山が迫り、狭隘な地形となっています。
    天才的軍事指導者だったと思われるアテルイは、わずか300人ほどの兵でその北上川東岸に朝廷軍4000を誘い込みました。山が迫る最も狭い場所まで敵軍をおびき寄せ、山から伏兵を出して前後を塞ぎ反撃に転じ、朝廷軍を川へ逃げさせ1000人を超える溺死者を出させました。
    その場所は「巣伏村」だったと伝えられますが、はっきりしたことはわかりません。ただ、川西岸から見ますとそういう狭隘な地形がなんとなくわかります。おそらく視界に入るどこかに、アテルイが朝廷軍を壊滅させた戦場があるのでしょう。

    だんだん日が傾いてきました。まずい。冬はこれだから困る。僕は胆沢城をあとにして旧国道に出て、さらに南下しました。
    道沿いに、薬師堂温泉という立寄り施設の看板が出ています。ありがたい。一も二もなく飛び込みました。
    東北の冬は温泉に限りますな。首まで湯につかると、もう蕩けそうです(笑)。
    と…一時間以上も風呂に入ってしまいました。外はもう薄暗くなっています。早く駅まで戻らないと。バスなどもないので、このまま歩きますよ(汗)。水沢駅に戻る頃にはすっかり日が暮れていました。いやーよく歩いた。何キロかはわかりませんが、万歩計は32000という数字を示しています。
    この日は盛岡泊まりということにして普通列車に乗り込みます。

    盛岡では、以前訪れたことがある安くてうまい居酒屋へ。もうビールなんぞ頼みませんよ。燗酒です燗酒。
    猪口にそそいでくぃーっとやると、何とも陳腐な表現である「五臓六腑に染み渡る」というのが本当に実感できますな。マグロ中落ち、焼牡蠣、海老鬼殻焼を頼み、大徳利を三本呑んで、酩酊。東北の冬はこれに限ります。勘定は安い♪ 
    さらにこれでは終わりません。盛岡ですから冷麺を食べなくては。
    名代の焼肉屋に入って…しかしついハラミとミノを注文してしまいました(汗)。冷麺だけにしようと思ったのに。ジョッキを2杯飲んで、それから冷麺を。やっぱり美味いねー盛岡冷麺はー。
    ホテルまでは千鳥足です。なんたることか。雪が降ってなくてよかった(汗)。

    翌日、カミさんの実家へ。昼前には着きました。既に宴会の準備が整っています。津軽の正月行事は、大晦日の昼から始まるのです。一升瓶がどーんと置いてあります。あとはしーらないっと(笑)。

    正月一日から、天候が荒れ始めました。2日に僕は出てきたのですが、列車があちこちで止まっていますよ(汗)。ホント予定どおり帰れたためしがない。でもまあ途中一泊で、3日には僕の実家へたどり着きました。帰省のハシゴもなかなか大変ですが、親が生きている間はこういう旅が続くのでしょうな。

    遅くなりましたが、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
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    | 2015/01/10 | 旅行 | 05:22 | comments(0) | trackbacks(0) |

    冬の山形など

  • 2014.01.05 Sunday
  • 謹賀新年、凛太郎です。みなさまいかがお過ごしでしょうか。

    今年の年末年始は、予報によって正月寒波来襲を覚悟していたのですが、案外おだやかでした。僕は例によって東北に行ったのですが、列車が全然遅れなかったのってどれだけぶりだったでしょうか。ありがたいことでした。
    もしかしたら東北では全然動けないことを覚悟して、僕は休みの初日、小田原とかを歩いていたのです。小田原って実は8歳のときに行ったきりだったので、北条五代を意識して観光したことがなかったんです。
    そんな感じで安全策をとって神奈川周辺をウロウロしていたのですが、どうも天気が持ちそうなのでやっぱり北だ、と思い直し、その日は夜に福島まで移動して泊。やっぱり夜は冷えますね。燗酒が胃の腑に染み入ります。

    翌朝、奥羽本線で米沢へ。
    米沢は、約20年ぶりになります。そんなに間があいたか。そのときは自動車で来たので、かなり細かくまわりました。なので今回は、冬の雰囲気だけ味わえれば良いと思っています。まず上杉神社へ。
    駅から歩いていったのですが(バスは本数がありませんしタクシーなんぞガラじゃない)、2kmちょっとだとナメていたら結構大変。雪が年末寒波の名残で残っていまして。しかも消雪装置が働いていて水がじゃんじゃん道に出ているのでぐちょぐちょなんですな(汗)。足をとられます。うわ、油断していて革靴を履いてきてしまっているので(防水もしていない)、じんわりと水が染みてきますよ(涙)。
    しかし、向かう道筋には歴史っぽいものが数多く残されています。義経旧跡なんてのも。義経はここまで来たのか。こういうものは、歩かないと気が付きませんね。
    すっかり足が冷たくなった頃、神社に到着。靴が水を含んで重くなっています。うーむ。

    上杉神社は、つまり米沢城の本丸跡です。
    米沢城の起源は古い。鎌倉時代に遡りますが、長い間長井氏が支配していたこの城を、室町時代に伊達氏が攻略します。あの伊達政宗は、ここで生まれたとされます。
    それだけでも歴史の色が濃いわけですが、その後変遷を経て豊臣時代、上杉景勝が会津に移封され、米沢城には直江兼続が入ります。大河ドラマのときには、おそらく大変な人だったのでしょう。
    その後関ヶ原合戦があり西軍についた上杉氏は大幅に減封、会津を取り上げられ米沢に押し込められることに。当然石高が減り苦しい財政となり、中興の祖上杉鷹山が「なせばなる、なさねばならぬ」と藩政立て直しをするのです。
    だからここには、上杉鷹山の銅像がいくつも建っています。

    上杉神社は、謙信を祭っています。かつて鷹山も合祀していたのですが、分祀して今は謙信だけです。
    謙信の遺骸は崩じたときに、鎧兜を身にまとわせそのままの姿で甕棺に入れ祀られました。移封の際にその遺骸をそのまま米沢に持ってきて、祠堂を建て祀りました。今は遺骸は墓所に移されていますが、その祠堂跡が、城の一段高くなった郭に残っています。
    そこへ登る石段は除雪されているようだったので、ちょっと登ってみたのです。さすれば、途中から除雪が途切れ、どんどん雪深くなってきました。うわ、ラッセルになったぞ! 靴だけでなく僕のズボンまで雪にまみれ、えらいことになってしまいました(汗)。
    しかしこうなればもうヤケクソになりますわな(笑)。もう僕は雪であろうとなんであろうとかまわず歩き回りましたよ。どうせぐしょぐしょなんだ。
    あちこち旧跡をみたあと、謙信を祭る神社に参拝、米沢城址をあとにしました。

    足がつめてーなー(笑)。おまけに雪がちらついてきました。どこかでめしを食べようと思いましたがふらりと入れる店がなく、そのまま駅に戻り、米沢牛を使った駅弁を購入、再び列車に乗って今度は上山へ。
    しかし上山は米沢から近すぎた! その結果、乗車時間が短く急いで駅弁を食べなければならない始末(笑)。しかし名物駅弁「牛肉どまんなか」は旨かったっすけどねー。
    「かみのやま温泉」で下車。上山城へと向かいます。
    町は、上山藩の城下町として栄え、その名残がよく残っている古いいい町です。以前上山へ来たときには僕は斉藤茂吉記念館一点集中で観光したため、あまり町を歩いていなかったのです。
    古い町並みを抜け、お城へ。しかしお城は年末で閉館してました(汗)。まあいいか別に上らなくても(どうせ復元天守ですし 笑)。
    さて、足の冷たさもピークに。お風呂に入ろう。
    城を抜け、月岡公園を横切って、下大湯共同浴場へ。かみのやま温泉は共同浴場が充実していて幾つもありますが、その中でも最も歴史が古いと言われています。
    さあ入りましょう。まずは列車内で網棚から拾ってきた新聞紙を靴の中に詰め(乾かしたいのよ)、番台へ。料金は150円。この間まで80円だったそうで(笑)。共同浴場ってこういう極めて廉価な場所がしばしばありますな。これだけでもよかったのですが雪で髪も濡れたので別に洗髪券も購入(100円)しますと、蛇口のカランをひとつ渡されました。面白いシステムですなあ。
    さて、ゆっくりとお風呂に入ります。一年の垢を流すようで、いいですねぇ。熱めのお湯が冷え切った身体に心地いい。思わず入るときにうなり声がでますわな(オヤヂ)。地元の人がたくさん来ています。
    で、そのカランなんですが別にシャワーがあるわけではなく、熱いお湯と水の蛇口が二つあって、それを桶に適宜あわせて洗髪に使うのです。その水と湯の蛇口を使用する権利を得たわけですが、でもカランがひとつしかないから、水とお湯のどっちかしか出せません。使いにくいわ(笑)。しかしこれもまた、旅情というものですけど。
    結局2時間近く入ってしまいました。のぼせる寸前やな。結構でございました。
    靴は完全には乾いていないものの、ポカポカなのでまあよかろう。その後、履いているうちに乾きましたよ。

    本当は次に、上山の北にある長谷堂城跡にも行こうと思っていたのです。「東の関ヶ原」といわれる長谷堂合戦の舞台。
    関ヶ原は、そもそも家康が上杉攻めを敢行せんとして大軍を会津に向けて進攻したわけですが、石田三成が挙兵して家康は大軍を反転、関ヶ原に向かうわけです。で、上杉は家康方の山形城の最上義光を攻めるんです。これについては記事にしたことがあります。
    上杉軍の大将、直江兼続は果敢に山形を攻めるわけですが、ここで前線の上山城と長谷堂城が踏ん張るんです。ここを獲られると山形城は裸同然になるわけですから。そうするうちに関ヶ原西軍敗北の報が入り、伊達政宗も乱入して上杉方は撤退を余儀なくされます。その負け戦と困難な撤退戦に、あの直江兼続がつい死を覚悟したとも言われる長谷堂合戦の舞台を見ようと思っていたのです。
    しかし、また雪深い長谷堂城跡に行けば、もうラッセルは必至。せっかく温泉に入って靴も乾いてきたのに…僕も勇気ある撤退をしました(笑)。
    車窓から長谷堂城跡を見ます。山形城からすぐ近くの小山です。あの城を突破していれば歴史が変わった、とまでは言いませんが…いろいろな思いがわきおこります。
    僕はこのあと山形の町をぶらつき、カミさんの実家へと向かいました。

    いやー津軽の正月はまたキビしい(笑)。朝から晩まで酒です。もう僕は体力がもちましぇん。
    そして津軽から僕の実家へと転戦し、ようやく帰ってきていまブログ書いてます。
    明日からは日常か。さあ、今年もスチャラカでスーダラな人生でいくぞ〜。

    本年もどうぞよろしく。



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    | 2014/01/05 | 旅行 | 23:39 | comments(2) | trackbacks(0) |


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