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  • 2016.12.30 Friday
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    | 2016/12/30 | - | | - | - |

    百度石・千度石・万度石

  • 2016.01.18 Monday
  •  どーもー凛太郎です。たまには出てきますよ。v( ̄∇ ̄)v

     1月は、初詣でや十日えびすなどで、神社にゆく機会が結構あります。
     僕は石造物を見るのが好きで、それがために一昨年はお墓のブログを連載したりしてしまったのですが、もちろん神社でも一生懸命に見てます。
     日本は木造建築物が多いため、なかなか古いものが残りにくい。そこへいきますと石は、燃えませんし地震や水害にも強いため、歴史の生き証人になってくれることが多いんですね。
     今日は、百度石をちょっと見てみたいと思うのですが。

      
     
     これは、鳴尾八幡神社の百度石です。嘉永三年(1850)と側面に刻まれています。立派ですね。
     「百度石」とは何かということについては、あまり説明が必要ない事柄だとは思いますが、むろんお百度詣りのためのものです。
     お百度詣りを知らない人もいるかな…。
     お百度詣りというのは、そもそも百日間連続参詣という祈願「百日詣」が起源とされます。
     ところが危急の願い事があって、百日もかけていられないという場合が生じたときに、これを簡略化する方法がいつ頃か編み出されたと言われます。すなわち参拝したら、また神社の入口まで戻って再び参道を歩き参拝、これを百回繰り返すというやり方です。これが、百度詣り。
     「お百度を踏む」なんて言葉が既に慣用句になってます。営業の基本だ、とか言われたり(汗)。
     願掛けの一種であることは間違いないのですが、こういうのは民間信仰であって、神道の作法というわけではなく文献的にもルーツを調べるのは難しいようです。神道関係の書籍を読んでも全然出てきませんね。これは、民俗学の分野でしょう。そもそも昔は神仏習合ですから、別にお百度詣りが神社とは限らないわけです。寺院でも仏頼みがあります。
     文献的初出は、吾妻鏡とされます。探してみますと文治五年己酉(1189)の8月10日の項に、
     「今日鎌倉に於いて、御台所御所中の女房数輩を以て、鶴岡百度詣で有り。これ奥州追討の御祈請なり。」
     と、あります。このときは、源頼朝が奥州に出兵し、平泉の藤原氏と戦争をしています。既に義経は討たれたあとで、鎌倉軍が一気に藤原泰衡率いる奥州軍を壊滅させようとしていたとき。しかし奥州軍は強いですから、鶴岡八幡宮に祈願をしたのでしょう。御台所というのは北条政子のことでしょうかね。
     これは、100日もかけていませんからお百度詣りだろうと推測されます。ということは、平安時代末にはもうこういう信仰が成立していたとみていいでしょう。

      

     これは、瓦木の熊野神社の百度石です。
     百度石というものは、そのお百度詣りの一種の目印になるものです。ここまで戻って、また参拝を繰り返します。
     お百度詣りが百日詣から派生したものであるとすれば、本来は参拝ののち一度境内を出て、再び鳥居なり山門なりをくぐって参道を歩きなおすのが正統であるとは思うのですが、そこまで形式を考えずとも百回参拝すればいいわけですから、このように参道途中に置かれていても適うのではないかとは思いますね。鳴尾八幡さんや熊野さんは、そういう感じ。
     
     ところで、今もおそらくお百度詣りというものは為されている、とは思うのですが、僕個人は信心深くないのでやったことはありません(汗)。また、お百度詣りをされている方を見たこともない。
     一応wikipediaも見てみましたら、「百度参りは人に見られないように行うとか、裸足で行った方がより効果があるなどとも言われる。」なんて記述がありました。
     「言われる」ですから断言ではないものの、これホントかなあ(汗)。丑の刻詣りとかと間違えてるんじゃないでしょうね。昨今wikipediaは事典辞書よりも影響力がありますからねぇ。みんなすぐコピーしてブログとかに載せたりしますので拡散しやすい。
     マナーとして参拝者が多い時間帯は迷惑でしょうが…。
     
     閑話休題。甲子園素盞嗚神社の百度石です。

      

     なんだかモダンですね。(^-^) 見た目からして新しいものです。昔の遺物ではない。ということは、おそらく今もお百度は踏まれているとみていいでしょう。こちらですと、優勝祈願とかで参られる方もいるのかな?
     素盞嗚さんの百度石は、参道途中の脇に位置しています。
     百度石は参道入り口、もしくは参道途中に置かれるのが通常です。しかしながら、例えば参拝者の多い神社ですと場合によっては、参道の真ん中に置くと危ない場合があります。なので脇に寄せられているのかもしれません。
     実際は、参道の中に置かれることは今は少ないんじゃないでしょうか。

      

     こちらは西宮港の鎮守である住吉神社の百度石です。いちおう参道脇で本殿正面に位置しています。
     そして、拝殿と百度石の距離がかなり近い。祈願者にやさしいとも言えます。
     住吉さんはもともと港の築堤の上にまつられてますから、そもそも長い参道はありません。ですが築堤上ですから段差があります。階段上り下りはキツいですから、それを避けてくださるのはありがたい。
     
     これは、今津の福應神社なんですが。

      

     さすがにこれは参道脇などではありませんね。拝殿の前に置いてあります。
     福應神社さんは、国道43号線建設による遷座があって、これに限らず全てが旧来の位置ではないと思われます。石造物は、固められたり寄せられたり。このようによく見える場所にあるだけでも良しとせざるを得ないか。ただ本来の目的に使われているかどうかは…わかんないですね。拝殿近くにあることで、お百度を踏みやすくして下さっている、という見方も出来ますが。

     僕が知る中で、参拝場所と百度石が最も近いのは、鳴尾の妙見さんだと思いますけど。

      

     しっかりと百度石が存在しますが、妙見さんに参道は…

      

     鳥居脇の石標が百度石です。近い。\(*^▽^*)/

     ところで、神社には百度石だけではありません。千度石、万度石というものも存在します。
     これは、松原天神さんの千度石です。

      

     かなり大きい。さすが千回の目標となるだけのことはあります。となりに小さな百度石があるのがおわかりいただけるでしょうか。
     さらに、こちらは万度石ですが。津門神社です。

      

     「萬度石」と刻まれています。
     この千度石・万度石については、前にも別の場所で書いたことがあります。そのときは「スパルタ式やな」と評したんです。軽い気持ちで。
     ですが、その後少し考え方は変わりました。
     江戸時代の村の鎮守については、一昨年に結構細かく調べたのですが、神社は基本的には「みんなのもの」です。村人が氏子として、みんなで維持している。「宮座」と言って、神主さんも持ち回りでやっているところが多い。
     だから、神様が(神社側が)百回参らないと願いを叶えないよ、なんて上から目線で言うことはないのです。石造物は、全て寄進です。祈念することがあって、或いは叶った御礼として、様々なものを奉納します。百度石もそのひとつ。押しつけなんてありません。
     歴史的には、村の鎮守さんが一時的に「上から目線」になったことはありますけれどもね。明治初年から昭和20年までの、国家神道の時代は。しかしそれも80年足らずで、戦後は、元に戻ったはずです。

     そういう意味においては、松原天神さんの千度石は明治41年ですから、まあキビしい時代だったかもしれません(笑)。しかし津門神社の万度石は、見た感じは新しい。
     少し失礼して裏面を拝見させていただきました。

      

     「沖縄復帰記念 昭和四十七年」と刻まれています。そうか。
     つまりは、思いがこもる万度石だったわけです。スパルタとか書いてしまったことを陳謝いたします。
     
     津門神社には、百度石もありました。

      


     後方に、歌碑があるんですけど…「朝の○ 忘れられたる百度石」ああ読めない。(T_T)教養がありません。

     というわけで、西宮市内の百度石を少し紹介しましたが、他にもありますので、お立ち寄りのときは探してみられるのも一興ではないでしょうか。

     さて、こちらは僕が市内で最もお気に入りの百度石です。山口の丸山稲荷神社の奥宮にあります。

      

     素朴な自然石なのですが、寄進者のお名前が「髪結保次郎」と刻まれているのがな
    んとも味があると申しますか、カッコいいのですよ。(^ー^* )

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    | 2016/01/18 | 西宮流 | 05:47 | comments(0) | trackbacks(0) |

    鳴尾駅にて 2

  • 2015.12.19 Saturday
  •  鳴尾駅は、高架駅であるために竣工の暁には南北に抜ける自由空間ができるようです。現在はまだ上り線に行くための地下道がありますが、これが取っ払われるわけですね。

      

     しかしこの地下道、現在のところ旧駅の唯一の名残です。

      

     ところで、僕が西宮に越してきたころ、まだ郷土史などはかじっておりませんでしたから、てっきり「鳴尾」という町の中心は駅の北側だと思っていました。旧国のあたりは寿市場があり飲食店も多く、人出が多い感じもしていましたので。

      
     
     里中町あたりは、繁華街とまでは言いませんがやっぱり栄えているように思います。ことぶき市場はもう残念ながら空洞化してますが、飲食店やスーパー、銀行などが軒を並べてますので。
     鳴尾という町、言い方を変えれば「リアル鳴尾」は駅より南側であるということを知るのは、もう少し後になります。
     「駅裏」という言葉を遣っていいかどうかわかりませんが、やはり本来の鳴尾の成り立ちから言えば北側はそうであり、南側が駅の正面であったのです。
     その南側の、駅前広場です。北側にはそういうものはありません。

      

     しかし、ロータリーがあるわけではなく、多少寂しい感じもします。駅前円形広場は一種の小公園ですが、ここは昨今には珍しく喫煙が可能なため、時間帯によっては非常に空気が悪い(笑)。
     他には、とくに何もありません。パチンコ店と不動産屋さん学習塾と、小さな飲食店が何軒か。そして正面にはコンビニ。このコンビニは、かつて本屋さんだったと思うのですが…。

      

     おっと、本屋さんだった名残がありますねー。(^▽^)/
     詳細がわかりませんので痕跡とまでは書けません。看板がある以上は、もしかしたらファミマの経営はまだ本屋さんなのか、配達販売くらいはまだやっておられるのか。よくわかんないですけど。

     しかしこの駅前という場所は、発展しようがなかったと言えます。
     盛り場はもちろん、バスターミナルやタクシーの溜り場も作りようがない。場所がないんです。
     駅を出たらそこには壁があるんですから。

      

     言わずと知れた国道43号線の防音壁。
     明治時代、鳴尾の有力者たちが村の中心と駅を直に結び、鳴尾村を発展させようと路線をカーブさせたことは前述しました。その村の中心と駅を、この広い道路が断ち切ったわけです。
     国道43号線。かつて第二阪神国道と呼ばれたこの広い道路は、戦後すぐに計画がなされ、昭和32年に工事が始まり、38年に神戸〜尼崎間が開通しました。
     その鳴尾の有力者の代表であり、村のために路線の土地を提供した元村長の辰馬半右衛門氏は、38年に亡くなっています。せっかく直結された駅とまちを分断するこの43号線の工事を、氏はどのような思いで見つめておられたのでしょうか。

      

     甲子園付近では、43号線が高架しています。これはかつて甲子園筋に走っていた路面電車を跨ぐためにそうなったのですが、その高架下スペースに43号線を紹介するパネルがいくつか掲示されています。見れば、その歴史を知ることができます。

      

     古い写真も資料として示されています。かつてこの道は、10車線ありました。
     この広い道路が、様々なものを押しつぶしてゆきました。
     例えば今津も、鳴尾と同じ運命をたどっています。今津村の鎮守社(福應神社)と檀那寺(常源寺)は43号線の下敷きとなり移転。そして「リアル今津」と言えば六角堂や大関のある辺りだったはずです。旧阪神今津駅(現久寿川駅)は、そのリアル今津と直結していました。
     今は今津と言えば、阪神阪急今津駅あたりがすぐ連想されるでしょう。あのあたりは本来、村外れの場所で、墓地があったところです。
     あえて短絡的に言えば、道路がまちを変えたわけです。

     鳴尾に話を戻します。
     かつては、駅から鳴尾の中心である本郷エリアへは、もちろんちゃんと道が繋がっていました。ですがその道は43号線によって無くなり、かわりに地下道が設けられました。

      

     これは、43号線開通と同時に竣工しています。

      

     一応自転車用のスロープもあり、側面はやはり武庫女プロデュースのかわいい絵画で飾られてますが…地下道ってちょっと面倒くさいんですね(汗)。横断歩道よりはいいかもしれませんが。せめて信号があれば良かったのですが、都市計画として鳴尾地区を南北に結ぶ道路は小曽根線と本郷学文筋が指定され、ここには信号はできませんでした。

      

     しょうがないので地下道をくぐって南に。こっちからやと駅が見えませんがな。
     駅の南側に、かつての鳴尾本郷の中心道路が延びます。今は、駅と直結していません。

      

     道路名は「本郷中筋」。そのものズバリなんですけれどもね。
     視界に、かつて西宮ブログの聖地のひとつであった「Jダーツ倶楽部」跡地が…。(:_;)
     この道の先に、西方寺や乗誓寺などの村のお寺さん、村役場(現鳴尾支所)、小学校(西に移転)などの村中枢部。そしてその南に「鳴尾ミステリーゾーン」が広がっているわけです。
     昔のほうがよかった、とか、そういうことは流入民の僕にはわかりませんし、それについてとやかく言う気もありません。ただ鳴尾は、以前のほうが華やかだったのだろうという想像はつきます。
     「なるおぎんざ」という名称が、この間まで残っていました。道のあちこちに表示が出てたのですが、今歩いてみますとちょっと見当たりません。あれ、撤去されたかな? こんな感じでした。→tyuさんの記事
     それほど商業施設が多いわけでもなく、最初来たときはなんだろうと思ってしまいました。しかしながら鳴尾村誌などをひもときますと、かつてはずらりと商業施設が建ち並ぶ繁華な場所だったのです。これは、震災の影響もおそらく大きいとは思うのですが…。

      

     かつては市場もあったのですが、電柱の表示にしか名残はないようです。

     いろんなことを考えてしまうわけですよ。
     国道43号線は「戦後復興」の一環として計画されました。大阪〜神戸間を結ぶ大動脈として。
     そのときは、それが必要だという判断で造られたものです。後世の人間がとやかく言うことではありません。しかしながら、まちを完全に分断したことは事実です。なんせ10車線ですから、幅員は、場所にもよりますが50mあります。
     のち、43号線は騒音と排ガス問題で交通量を減らすべく8車線となり、さらに阪神高速の開通で交通量が減り6車線となりました。それならば最初から…繰り言ですが。

     ぼんやりと考えます。
     鳴尾がもしも、工事が始まる前に市制を施行して「鳴尾市」となっていたならば、ここまで無残な分断のされかたは無かったのではないかと。
     西宮町は大正末に市制を施行し、その新生西宮市に昭和前期、今津町、芝村、大社村、甲東村が次々と合併してゆきました。ただ、共に広域協力体制をとっていた精道村と鳴尾村は西宮市に合併せず、精道村は昭和15年に単独で「芦屋市」となりました。
     同規模の鳴尾村も、単独市制を目指していました。
     戦前の鳴尾村は、繁栄していました。村域南部には豊年製油や昭和電極などの工業団地があり、そこへ川西航空機がやってきたことで一気に人口が増えます。また鳴尾競馬場を擁し、甲子園球場や浜甲子園阪神パークなどの人を集められる施設をいくつも持っていました。単独で市となれる要件は整っていたと思われます。
     しかし、ご存知のとおり戦争の空襲で鳴尾は焼け野原となってしまいます。
     もしも川西航空機が、鳴尾に移転してこなかったならば。
     鳴尾競馬場は飛行場になることもなく、空襲はあったとしてもあそこまで徹底して破壊されることはなかったでしょう。空襲は計8回におよびました。米軍は、紫電改を生み出した川西航空機と軍用飛行場を狙ったのです。→ちょ歴西宮
     しかし、それでも戦後、鳴尾村は復興を目指しました。
     村は昭和23年に市制研究特別委員会を発足させます。文書には、昭和26年4月1日より鳴尾市設置の予定、と記されていました。
     昭和22年には占領されていた甲子園球場も復活。24年には鳴尾競輪場も出来ました。甲子園大プールを含め、多大な入場税収入が見込まれていました。
     しかしここに「シャウプ勧告」というものが出てきます。これは占領下における日本の税制改革ですが、この中に入場税および遊興飲食税は府県税とする、という改革案が盛り込まれたのです。これは、大きな痛手でした。
     しかし、何とかしようと村は模索をしました。そこへ昭和25年9月「ジェーン台風」がやってくるのです。
     再び、鳴尾村は壊滅的被害を受けました。
     そもそも村は戦後復興により多額の臨時経費を支出しています。その財政危機のさなか、徴税できないほどの被害でした。鳴尾村は、経済的基盤を失ったのです。
     昭和26年に鳴尾村は単独市制を諦め、西宮市の一部となりました。
     もしもジェーン台風が来なかったならば。
     阪神パークも再開をしようとしていました。そして、人口増の足音はもうすぐ近くまできていました。30年代には浜甲子園団地。その後には大規模な武庫川団地が出来ます。未来は、明るかったはずです。戦前から埋め立て計画はあり、一部実現していました。それは、のちに鳴尾浜工業団地として結実します。

     ifばかりを連ねましたが、僕は別に鳴尾が単独市になっていたほうがよかった、とか言うつもりもありません。そんなことはわからない。ただ、43号線が造られた昭和30年代に鳴尾がひとつの自治体であったならば、鳴尾地域はあんなぶった切られ方はせず、もう少しマシだったのではないかと。
     さすれば、鳴尾駅にも急行くらいは止まったのではなかったかと(笑)。
     おかげで僕は、神戸で人との待ち合わせに遅れたのです(汗)。そのため僕はあの日、阪神電車の車中でそんなことばかりを考え、こうして愚痴を理屈で捏ね上げた記事を書くに至ったのです。( ̄ー ̄;

     本郷学文筋方面から再び駅を眺めます。

      

     ・・・( ̄  ̄;) うーん
     駅だと思えば、慣れていないせいか僕には若干の違和感があるのですが、逆に風景に溶け込んでいるという見方もできます。43号線と妙にマッチしてると言いますか…。
     来年は、上り線も高架に切り替わる予定だそうです。楽しみですね。
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    | 2015/12/19 | 西宮流 | 19:29 | comments(0) | trackbacks(0) |

    鳴尾駅にて 1

  • 2015.12.11 Friday
  •  もう12月も半ばです。一年が終わるなあ。今年は、腰を痛めたりや何やらでWebではほぼ何も出来ませんでした。いろいろ書こうと考えていたことは、また来年ですかねー。
     最近は、快復してます。本調子とまではまだまだいきませんが、社会生活くらいはなんとか普通にいとなめています。

     この一年でも、街はずいぶん様相が変わりましたね。
     僕の住む甲子園界隈では、甲子園警察署が何だか建て直しをしています。別に普段から警察のご厄介にはなっていないので(笑)、あまり関係ないとも言えますが、ひとつ気がかりなのは、南側にある石造十三重塔です。

      

     まだここにありますが、これどうなっちゃうんでしょうかねー。明治から昭和初期にかけて存在した鳴尾の遊覧施設「鳴尾百花園」の唯一の遺構と言ってもいい歴史的遺物なのですが。そこにおられた警察関係の方にちょっと尋ねてみたのですが、「へーそうなんですか?」と言われてしまいました(汗)。だいじょぶかなぁ。

     変化として大きいのは、やはり阪神電車の武庫川〜甲子園間の高架工事でしょうか。ついに下り線が運行開始しました。
     まだ上り線が下を走ってますので、日常生活的には小曽根線の西開踏切の遮断間隔が短くなったので多少渋滞が緩和されたかな、というくらいですが、大きく変わったのは何といっても鳴尾駅でしょう。
     といって、僕の最寄り駅は甲子園駅ですので、鳴尾駅にはあまり関わりがありません。めったに利用しない。ですが先日、ららぽーとのイトーヨーカドーでちょっとカミさんと買い物をしたあと、僕だけ神戸に行く用事がありまして。で、鳴尾駅から電車に乗ったのです。

      

     なんだか、雰囲気が変わりましたねー。
     ちょっと近未来的な…こういうデザイン、流行りなんでしょうか。このデザインには武庫川女子大が関わっているという話を聞きました。あそこには建築科がありますから、そういうこともあるんでしょうね。
     ちょっと検索しましたら、こんな感じみたいです。→建築学科ページ
     なるほど。この丸い曲面は、風をうけた船の帆のイメージなんですか。この浦舟に帆を上げて〜で有名な謡曲「高砂」の一節に「波の淡路の島影や〜遠く鳴尾の沖過ぎて〜」とありますが鳴尾と言えばやはり船の行き交う鳴尾浦なのですね。

      

     僕はそういうデザイン的なセンスは全く無い不調法人間で、船の帆を近未来的か、とか言っちゃって反省です。ごめんなさい。しかしまあ、カッコいいかなあ。

      

     構内も、出来立てですから当然ですがきれいですね。
     トイレ前にちょっと面白いものが。

      

     タイル壁には、寛政年間(18世紀末)に刊行された「摂津名所図会」の中から鳴尾に関わる絵図が何枚かピックアップされています。
     鳴尾浦の帆船の絵があります。武庫女のデザインのコンセプトですからね。
     しかしこの画像ですと、小さすぎてわかりませんな(汗)。
     実はアップを撮ろうとしたとき、用を済ませて出てこられたご婦人と鉢合わせしまして。僕のことをトイレ前でカメラを構えている変態だと思ったのでしょう、キッと強く睨まれてしまいました。いやいやそんなつもりは…。しかし気が弱い僕は即座に退散(汗)。また興味のある方は、直接ご覧ください。

     ホームに上がります。

      

     見晴らしがいいですね。六甲の山並み、そして甲山まで一望です。
     この風景は、今だけ。レアなものになるはずです。いずれ上り線ホームが出来れば、北側の視界はなくなるはずですから。
     駅名表示です。

      

     鳴尾(武庫川女子大前)と。
     いつから「武庫川女子大前」という副名称が併記されるようになったんでしたっけ。
     鳴尾駅には学生専用の改札口があるくらいで、乗降客に占める女子大生の割合は相当高いはずです。ましてや新駅のデザインまで大学が関わっておられます。
     「鳴尾駅」が「武庫川女子大前駅」になったりしないでしょうね(汗)。駅名なんてのは滅多に変わらない、と思いきや、案外簡単に変更されたりしますから。頼むよ、鳴尾という地名には伝統があるんですから。

     列車が来ました♪

      

     と思ったら、急行でした。通過です。(^_^;)
     鳴尾って、普通しか止まんないんですね。これだったら甲子園駅まで戻ったほうが早かったかも。
     しかし鳴尾に止まる列車が少ないとはなんたることでしょうか。これについては、いろいろifを考えたくなるのです。

      

     駅から線路を見ても、路線がカーブしているのがわかっていただけると思います。ホームまで曲線です。
     尼崎から来ますと、武庫川を渡ってすぐ線路は南方面へカーブし、鳴尾駅はかなり南に位置します。
     武庫川駅と甲子園駅を真っ直ぐ結べば、線路は鳴尾八幡神社の北側を通って、駅は明和病院あたりにあってもおかしくなかったはずです。それを、わざわざ八幡さまの参道を横切ってまで南に引っ張ったことについての逸話を、ご存知の方も多いと思います。
     これは簡単に言いますと、当時の豪商だった鳴尾辰馬家ら村の有力者が、鳴尾村の今後の発展のために村の中心近くに駅を誘致すべく、そのために路線敷設用の土地を確保し阪神に無償提供したことによります。
     そうして明治38年に阪神線開通と同時に鳴尾駅が誕生したのですが…以来100年以上が経ち、鳴尾駅には今、特急も急行も止まらない。これはどうしたことなのでしょうか。

     その歴史を考えたいと思うのですが、長くなってますので次回に続く、ということで。
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    | 2015/12/11 | 西宮流 | 07:09 | comments(0) | trackbacks(0) |

    旧阪神国道線の敷石

  • 2015.01.18 Sunday
  •  いろいろな考え方がありますが、1月15日までは松の内でありつまり正月気分で良い、との見方もあります。ということで(汗)、謹賀新年、凛太郎です。ヾ(- -;) イマゴロデスカ?
     新年発売の「大阪春秋・西宮特集号」につきましては、読んでいただいた方に厚く御礼申し上げます。
     m(_ _;)m
     僕が書きました砲台の話は、ここで連載した内容のダイジェストであり全く新鮮味はございませんが、他に偉い先生方が執筆された興味深いお話が多数載っていますのでご勘弁いただければと。

     さて、今日は小ネタなんですが…。
     こちらでも時々話題になっていますが、阪神甲子園駅の改修工事が進んでいます。

      

     派手な屋根がつきましたねぇ。
     もちろん甲子園駅だけではなく、駅以東は高架工事で鳴尾駅含め大きく変貌中なのですが、こちらの駅にはかつて甲子園筋を走っていた阪神甲子園線の痕跡が残っていましたので、工事の状況がやはり気になるわけでして。
     
     阪神甲子園線とは、戦前に開通し国道2号線上を走っていた路面電車「阪神国道線」の支線で、上甲子園から浜甲子園までを繋いでいました(戦前は中津浜まで走っていた)。昭和50年まで存続していましたので、ご存知の方も多いと思います。
     既に廃線となって40年ですが、43号線高架橋の下に架線支持金具の跡があったり、こちらで書きましたように球場東側に架線柱跡がいくつかあったりと、なんとなく往時の痕跡のようなものがあるので、昔を偲ぶことができます。
     そして、甲子園駅には、停留所の屋根の一部が残されていました。

      

     この画像は何年か前に撮ったものですが、この部分がかつての甲子園線の停留所覆屋根です。この前に路面電車が停まり、昇降客の雨除けになっていたのです。
     これは、ほぼなくなりましたねぇ…。

      

     わずかに一部分まだ残っていますが。しかし段階をおって撤去されていて、もはや風前の灯火と言っていいでしょう。時間の問題ですな。もうすぐ歴史遺産がひとつ完全に消えます。
     さて、駅にはもうひとつ、架線柱が完全な状態で一本存在していたのですが。

      

     これは、まだありますね。(^ー^* )
     東側駅舎は工事によって解体され、この架線柱に隣接していたタイ焼き屋さん(廉価で皮が分厚かったのが好みでした。僕はしっぽの先まであんこがはいってない方が好き)も無くなって寂しい思いをしていましたが、こいつはまだ残されています。
     これは、旧甲子園線の遺構として残される可能性もありますねー。期待したいと思います♪

     さて、僕はこういう話も含めまして、以前にサイト「ちょっと歴史っぽい西宮」で、西宮の路面電車の廃線跡の記事を書きました(→こちら)。
     その折に、甲子園線の痕跡はこのように在るものの、国道線の名残はバス停名を除いて一切ない、と書きました。
     確かに2号線上にはいくら探しても線路も架線柱も何もなかったわけですが、これを少し訂正したいと思います。実は敷石の一部が残っていました。知りませんでしたよ。
     昔の「宮っ子」を繰っていましたら、こういうことが書いてありまして(→1998年9月:まちかどスポット)。
     どうやら平木小学校に、阪神国道線の線路の敷石が移設されていたらしいのです。
     では、平木小へ。

       

     小学校は阪急神戸線の北側にあり、正門は御手洗川(東川)に面しています。
     平木小は昭和49年11月に開校。阪神国道線は昭和49年3月に上甲子園以西が廃線となりましたので、時期的には合致しています。
     僕はもちろんOBでもPTAでもありませんので中には入れません(汗)。門の外から校内を見ます。

      

     門からすぐ、御影石がずらりと敷き詰められているのが見えます。これが、国道線の敷石の一部を移設したものに間違いはないでしょう。
     大阪から神戸まで、もちろん西宮を横断して走っていたかつての路面電車、阪神国道線の痕跡で、市内に残るものはこれがおそらく唯一だと考えられます。「何も名残は無い」と書いてしまったサイトのほうには、このことを追記したいと思います。
     ただ、なぜこちらに敷石が運ばれたのかについては、あちこち資料を見てもその事情を知ることは出来ませんでした。おそらくは、歴史的遺物であるということから保存に尽力された方々がいらっしゃったのだろうと想像するのみです。
     ありがたいことですね。廃線となって40年を超え、若い人は2号線に路面電車が走っていたことなどもう知らないでしょう(鉄道マニア除く)。しかしおそらく平木小学校の卒業生は、みんなそのことを知っているはずです。そうして、語り継がれてゆくものがあるのだと思います。

     それでは、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。現在ブログはほぼ冬眠中ですが。(^▽^;)
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    | 2015/01/18 | 西宮流 | 13:43 | comments(0) | trackbacks(0) |

    西宮の踏切いろいろ

  • 2014.01.26 Sunday
  •  阪神電鉄の高架工事および甲子園駅の改修工事が進んでいます。( ̄  ̄)
     便利になるのは有難いことです。駅のリニューアルも良し、また高架化によって例えば小曽根線の渋滞がなくなるなら助かります。しかし反面、歴史好きとしては、駅に残る路面電車甲子園線の痕跡が消えるのは非常に残念ですし、江戸時代からある用水路が暗渠化されるのもまた寂しいことです。
     そして、踏切は当然なくなります。

     

     上鳴尾墓地に程近いこの踏切。どんどん工事が進んでいます。踏切が無くなるのは有難いのですが、残念なことがひとつ。この踏切の名前が消えるのが惜しい。この踏切名は「焼屋敷踏切」といいます。昔の字名からきています。

     

     古いアザ名はどんどん消えて、統合され美名が冠せられたり、どこもかしこも甲子園○○町になったり、○○何丁目という無機質な町名が横行したりするのは、時代の流れです。先日も神呪字中谷が上甲東園に呑み込まれました。そんな流れにわずかに抗っているのが、橋名や公園名、そして踏切名と言えます。
     「焼屋敷」というだけで、どれだけイマジネーションが膨らむか。焼けた屋敷は、平重盛の館か。足利尊氏が籠った松岡城か。それとも「屯倉屋敷」が転化したのか。考えるだけで面白いのに…( ̄  ̄;)
     踏切は、いつかはみんな消えるでしょう。安全を考えれば当然のことです。でも、いい踏切名って時々あるんですねぇ。そんなのを折にふれて写真に撮ったりしていました。ちょっとこの機会に放出します。

     阪神電車は、市内の本線はこれで全て高架化されます。しかし武庫川線は、しばらくは残るでしょう。

     

     終点ほど近い上田にある「入江」踏切。もう鳴尾浜も埋め立てられて久しく海岸線は遥か彼方です。しかしこんな踏切名が、昔はここまでは海だったんだぞと訴えているようにも見えますねー。(^^)

     JRは武庫川と夙川という高い川の堤防を蒸気機関車が越えなければならないために、明治7年の開通以来市内では高さを保って敷設されています。したがって踏切はほぼ無いのですが、夙川を越えた芦屋寄りにはいくつか存在しています。

     

     大師踏切。文学散歩の視点でseitaroさんが記事にされています。
     この「大師」とはどういう意味でしょうか。大師と言えば西宮においては神呪寺なのですが、もうひとつ菊谷町にある栄潤寺が「越木岩大師」とされています。この踏切は栄潤寺の真南に位置します。もしも踏切名の「大師」が越木岩大師由来だとすれば、栄潤寺開山は昭和2年なので、それ以降に出来た踏切ということになります(踏切はとにかく最初の名称を改めない)。ということは、渡辺温が事故にあった昭和5年は、まだ出来たての踏切だったということでしょうか。ちょっと調べる価値はありそうです。

     

     西守具踏切。いいですねぇ。この「守具」という名は非常に貴重です。つまり、夙川近くにあった「夙」という村が「森具」と名を変えるに至ったミッシングリンク的地名なのですから。詳しくは「ちょっと歴史っぽい西宮」を参照して下さい。長いけど(汗)。

     阪急神戸線には、ご存知「昭和園道踏切」があります。

     

     いわゆる「西宮七園」において、昭和園だけが地名から失われています。そのわずかな痕跡がこの踏切名であるわけです。

     

     甲陽線には「水道路踏切」があります。
     上ヶ原浄水場から神戸まで水道を引いた、その水路上の道です。この踏切もseitaroさんが紹介されています。細雪の水道路と西宮の水道路踏切
     その筋ではかなり有名な踏切のようです。僕はハルヒについては不調法モノでよく知らないのですが、聖地であるようです。

     今津線はいろいろ揃ってますよ。

     

     線路とやくじんさん筋が交錯するところにあるこの踏切。今は段上という町名も「だんじょう」としか読みませんが、そもそもは「だんのうえ」なのです。その歴史を示す踏切名。この「ノ」が実に効いています。

     

     甲東市場は、震災前までは存在していたと聞いています。今はもう既にありませんが、踏切名だけがその名残を伝えています。

     

     消費組合とはまた古い。戦前の呼び名でしょう。今の若い人には「生協」と言っても通じないかも。コープという名が席巻しています。
     で、その消費組合はどこらへんにあったんやろな?(それを調べてへんのかいな (゚O゚)\(--; ォィォィ )

     今津南線は、完全高架になりました。あの踏切も消えるかと思っていましたら、見事に生き残っています。朝晩、車両が車庫入れのために、高架線から一旦地上に降りて神戸線に入る、そのごく僅かな時間だけに必要な踏切として。

     

     いいですねぇ。球場前踏切。\(^▽^)/
     笹舟さん、seitaroさんが紹介された「勇者たちへの伝言 いつの日か来た道」が話題になっていましたが、その追憶の西宮球場の名残りの踏切です。
     まだ「球場橋」も「球場前線」もあります。以前にも書いたことがありますが、こういうのは是非とも残してほしいわけです。子供たちに「どうして球場前?」と問われれば、大人たちは「ここに西宮球場という野球場があってな。ほんで阪急ブレーブスいうてな…」という話をしなくてはならない。そうして、語り継がれていくものがあるんです。
     踏切も、なかなかに歴史を語ってくれます。


    ※初出:西宮ブログ「凛太郎の自転車操業
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    | 2014/01/26 | 西宮流 | 07:32 | comments(0) | trackbacks(0) |


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