ぱみゅぱみゅ

  • 2012.04.18 Wednesday
  • 最近、大人気なくもきゃりーぱみゅぱみゅにハマってますね(笑)。
    いや、それほど大げさな話ではないのですが、耳にこびりついて離れないといいますか。TVをほとんど見なくなってからはラジオをよく聴くようになったのですが、オンエア回数がやたら多い。そして、聴いた後はアタマの中で「つ〜けまつけまつけまつけぇる」の無限ループです。中毒性があるな。

      
      つけまつける (通常盤) youtube

    中高生女子に大人気だということですが、僕のようなおっさんにも「妙な懐かしさ」を感じさせます。パッと思い浮かぶのはジューシーフルーツの「ジェニーはご機嫌ななめ」。
    調べてみますと、Perfumeと同じ中田ヤスタカ氏の仕掛けなんですね。なるほど。前にPerfumeについても書いたことがありますが(→これ)、しょうこりもなくまた同じ仕掛けにホイホイと引っかかっているわけでして。
    新曲の「CANDY CANDY」もいいですねー。そもそも最初に彼女のことを知ったのは某tvkの屋根の上の番組だったのですが、当時高校生だったきゃりーぱみゅぱみゅを観て、てっきりキワモノだと思ったらその受け答えが妙にしっかりしていて論理だっていて、あまりにも外見とかけ離れていたので実に印象に残っています。あのときも、脳内はPONPONPONに占領されたなあ。「ぽ〜んぽ〜んうぇいうぇいうぇい」が離れない(笑)。

    ところで。
    とにかくおっさんにはその「きゃりーぱみゅぱみゅ」という名前が言いにくい(汗)。これは年配層にだけおこる現象かと思いきや、若者たちも結構苦労している様子。「ぱみゅぱみゅ」ってね。「ぱむぅぱむ」とか「ぱみゅぴゃみゅ」とかになったりして。
    これをうまく言うためには、ドラえもんの口調を真似するといいそうです。なるほど。確かに言えます。しかし人前でそういうわけにも…。

    これ、なんで難しいかといえば「pamyu」という発声を日本人はかつて経験したことがなかったからではないかと思うんです。えっと、外国語はよくわからないのですが、あるのかなぁ。あるかもしれませんが僕は知りません。少なくとも日本語にはない発声ですよね。
    「ぱ」という口唇をはじけさせて出す音。それに+して「みゅ」という難しい音。mというのは両唇鼻音といって鼻にも息を送らないといけません。さらに口蓋に舌をまるめるようにつけて発音する「ゅ」という拗音。このややこしい連続音を間伐入れずに出さなければならないという…。しかもそれを繰り返すのですよ。生半可ではありません。ためしに「みゅぱみゅぱ」と言ってみてください。ワシは絶対言えねー。
    こんな発声は、自然には生まれることはないだろうなと推測。分析するまでもなく、無理筋の発声ですよ。

    だいたいですねー。「みゅ」という発声だけとってみても、日本語には本来なかった音なんです。
    キラキラネームのときに少し触れましたが、拗音、つまり「ゃゅょ」というのは、上代日本語にはおそらくなかった発音だと言われています。だから、「きゃ しゅ ひょ」なんていう音は、ひらがな一文字では表せないのです。これは、漢字の伝来とともに日本語に入ってきた外来音でした。和語じゃなかったのです。
    外国語として漢字を読まねばならなかった上代日本人は、だから苦労して読んだのです。
    拗音は、母音がイ行の音につきます。清音ですと き・し・ち・に・ひ・み・り につきます。濁音は ぎ・じ・ぢ・び ですね。半濁音は ぴ です。きゃ・きゅ・きょ・しゃ・しゅ…とあって、清音ですと21音、濁音12音(現代ではじとぢが同じなので9音)、半濁音3音です。
    このうち、半濁音については日本語の古代p音がf音そしてh音へと変化した経緯があるので除きますが、あとはみな漢字と共に入ってきた発音だと言われます。
    客(きゃ)急(きゅ)協(きょ)社(しゃ)主(しゅ)諸(しょ)茶(ちゃ)忠(ちゅ)…などと拗音は漢字によって日本語に入りました。濁音も逆(ぎゃ)牛(ぎゅ)業(ぎょ)…と。半濁音も、今は失われていますがかつては黒田官兵衛を「くゎんぴょうえ」と発声していたことなどが知られています。連音だと今も八百八町(はっぴゃくやちょう)発表(はっぴょう)とかありますね。
    ところがこれらのうち「みゅ」だけは該当する漢字がないのです。
    ま行ですと「みゃ」は脈など、「みょ」は妙や名などに音がありますが「みゅ」だけは、ないのです。
    これは、例のキラキラネームを書いているときに日本語の発音について本を読んでいて僕も最近知ったことなのですが、そう言われればそうだな、と。思いつきません。
    金田一春彦氏の指摘だったと思いますが(そうじゃなかったらごめんなさい^^;)、音便化によって「みゅ」の例が日本語で一点だけあるそうです。「大豆生田」という地名が栃木県にあったそうで、これは「おおまみゅうだ」と読むそうです。地名としてはもう失われているようですが(検索しても見つからない)、人名として残っているらしく。足利市の市長さんは「おおまみゅうだ」さんらしいですね。
    おそらく「まめうだ」が音便化して「まみゅうだ」となったと推測されますが、いつ頃からこういう音になったのでしょうか。興味が尽きません。また、山梨県には「大豆生田」という字名が2ヶ所(笛吹市石和町と北杜市須玉町)に残っているらしいのですが、笛吹市は「おおまめおだ」、北杜市は「まみょうだ」と読むらしいです。

    地名・人名ですので「みゅ」は一応日本語として存在はします。でも字名とかは一般的とまでは言えませんね。漢字伝来時からの音ではおそらくありませんし。
    明治以降文明開化とともに「みゅ」は欧米からの外来語として日本にやってきます。「ミュージック」「ミュージアム」「ミュータント」等々。しかし、日本人はこの発音を苦手としてきました。
    「Communication」という単語があって当然これは「コミュニケーション」であるわけですが、これが「コミニュケーション」とよく言い間違えられます。これはつまり日本人のDNAが「ミュ」という音をなかなか受け付けないからでしょう。ミュージックの如く冒頭に出てくればなんとかこなしますが、コミュニケーションのように途中に出てくればとたんに言い間違える。ましてや「ぱみゅぱみゅ」なんて(笑)。

    きゃりーぱみゅぱみゅの話のつもりでしたが、結局「言いにくいよその名前」の話になってしまいました(汗)。この記事は「音楽」カテゴリで書き出したのですが「言葉」カテゴリに変換…。



    | 2012/04/18 | 言葉 | 05:49 | comments(10) | trackbacks(0) | - | by 凛太郎 |

    花に嵐のたとえも

  • 2012.04.06 Friday
  • 毎年、この時期は気候が安定しない気がしますね。そりゃそういう季節だ、と言えばそれっきりなのですが、それにしても先日の前線通過の嵐はすごかったと思います。各地にまた被害が出ているようです。
    「春の嵐」って言い回しはよくありますけど、ここまでそのものズバリってのもね。関西では午後過ぎから大変なことになって、僕は車に乗って移動中だったのですがワイパーも利かずいっとき停車しました。視界の悪い車窓から外を眺めていますと、停めてあった自転車が軒並み倒れ、木が折れんばかりにしなり、何か立て看板みたいなものがガランガランと飛ばされていました。台風でもここまでは吹かないな。
    ただ、例年ですともう咲き出している桜が、寒い冬だったせいで大幅に開花が遅れたのが幸いしましたね。あの風雨でも何とか保てたようで、今日あたり、ぼちぼち咲きはじめました。
    なごみますね。咲きそめし桜は。
    しかし、油断はできません。月に叢雲、花に風ですから。今年の桜はどうでしょうか。このまま何事もなく咲き誇ってくれれば良いのですが。

    つきにむらくもはなにかぜ、と言えば、井伏鱒二の「ハナニアラシノタトヘモアルゾ」をどうしても連想します。
    唐代の詩人である于武陵の五言絶句「勧酒」。

      勧君金屈巵  君に勧める 金屈巵(キンクッシ)
      満酌不須辞  満酌(マンシャク)辞するを須(モチ)いず
      花発多風雨  花発(ヒラ)けば風雨多く
      人生足別離  人生 別離足る

    五言絶句は一句が五字で四句。20文字から成ります。そして起承転結で構成し韻を踏む。この制約の中で思いを語ります。いかに中国語が表音文字であるとしても、この簡潔さにはほとほと感心します。詩人というのはすごいな。
    僕がこの思いを書くならば、以下のようになってしまいます。

    ここに金屈指という黄金の杯がある。君のために用意した。今日は特別の日だから、ぜひこれで呑んでもらいたいんだ。さあ、あふれんばかりに美酒を注ごうじゃないか。断らずともよいだろう。君とこんなふうに呑めるのも、もうこれで最後なんだ。だから…。
    好事は永劫には続かない。花が咲けば、なぜか風が吹き雨が降りそれを散らしてゆく。全くどうしてなんだろうな。こうして君とも別離のときが迫る。この寂寥感はいったいなんだ。いかに人生に別れはつきものだとしても。

    長げぇな(汗)。ここまで書かないと僕には同じ気持ちが語れません。于武陵は20文字だというのに、全くダサいことおびただしい。
    この漢詩は、文豪井伏鱒二の訳が有名です。

      コノサカヅキヲ受ケテクレ
      ドウゾナミナミツガシテオクレ
      ハナニアラシノタトヘモアルゾ
      「サヨナラ」ダケガ人生ダ

    感動的ですよね。漢詩に対し、日本の詩らしく七五調でつづる。文士というのは、こういう芸当をこなせる人のことを言うんだ。
    この名訳は、日本においては于武陵の詩を超えて一人歩きしている感があります。「花に嵐のたとえもあるぞ/さよならだけが人生だ」といえば、もう知らない人がいないと言っても過言ではないでしょう。于武陵も井伏鱒二も知らないとしても。

    さて、今年はスガシカオの「Happy Birthday」を。2ndアルバム「FAMILY」所収。

      
       FAMILY スガシカオ ニコ動

      うまく話ができなくて本当はすまないと思ってる
      しばらく悩んでもみたけどそのうち疲れて眠ってる

    この曲は僕にとっては福耳の「星のかけらを探しに行こう」のカップリング曲のイメージが強く(→tudou)、僕は杏子サンの声が大好きなのでもちろんこのバージョンも好き。検索してみると、アニメーションの挿入歌などにもなっていたようですから、知っている人も多い曲だと思います。

    スガシカオは、昨年事務所オフィスオーガスタを辞めたんですってね。あの事務所に集うミュージシャンはみな仲がよさそうに見えていたので、喧嘩別れではないと思いますが、いったい何があったのでしょうか。
    それよりも何も、彼は同時にレーベルからも離れてしまいました。まあここは事務所とレーベルが表裏一体みたいな感じでしたからそうなるのも然りなのかもしれませんが、つまりインディーズになったという解釈でいいのでしょうかね。
    この人と僕とはほぼ同年輩なわけですが、ある意味さすがだな、と。なんせ30歳で脱サラしてミュージシャンになった人ですから。僕はTV「sakusaku」でスガさんの人となりを見て、実に面白い人だと知って以来気になっているのですが、意志が強いといいますかね。もうこの歳になれば、安定を志向する人が多いと思うのですよ。しかし、イバラの道をまだ行くのか。
    自分に自信があればこそ、なのでしょうけれどもね。そんな姿を見ていて、僕もまたいろんなことを思うのです。

    昨年の今日、僕はこんなことを書いています。「今年は、おそらく僕にとっても何かが変わるかもしれない年になると思います。それが吉凶どちらかは、まだ分からない」と。
    その、僕にとっての動の年は過ぎました。残念ながら、吉とはいかなかったようです。いいことばかりは続かない。月に叢雲、花に風。花発多風雨。ハナニアラシノタトヘモアルゾ。
    ただ、人生 別離足らずともいい。まだ少し、もう少し、さよならに猶予をくれないか。

      賑やかなこの街の空に思い切り張り上げた声は
      何処か遠くの街にいるあの人への Happy birthday…
     
     
     
    | 2012/04/06 | 随感 | 06:07 | comments(9) | trackbacks(0) | - | by 凛太郎 |

    Googleの恐怖

  • 2012.04.01 Sunday
  • これについて書きたかったのですが、ここしばらくバタバタしていてとりかかれませんでした。
    まずは、こちらの方の記事から。→「俺の+1返せ!ヽ(`Д´)ノウワァァァン!! URLリダイレクトでBloggerブログが悲惨なことに……
    「Blogger」というブログサービスがあります。アメリカ発のブログで、世界有数の利用者を誇り、2003年にGoogleが買収しました。つまり、Googleがやっているブログです。
    これが先日、えらいことをやりました。世界中でURLを変更したのです。
    といっても、わかりにくいですよね。具体例ですが、実は僕もBloggerでひとつブログを開設しています(→これ)。持ってるだけの幽霊ブログなんですけれども。
    このブログのURLは本来「http://p-lintaro2002.blogspot.com/」だったのです。それが知らぬ間に「http://p-lintaro2002.blogspot.jp/」に変わっていました。末尾に注目。com/→jp/と。つまり利用者の国ごとでURLを分けたのです。
    上記ブログの方は、Google+1ボタンやTwitterボタン、Facebookのいいね!ボタンなどがリセットされたということで大変のようです。加えてURL変更ということは、今まで育ててきたURLが消えることですから、検索上位にランクされていたものが滑り落ちたりなど様々な影響があるはずです。
    幽霊ブログである僕には、実質上の被害はありません。URLが変わってもリダイレクトされますので、リンク張っていても修正の必要はなく困ることはないのですが、それにしても。

    そのリダイレクトなんですが、Googleはもうひとつ、知らぬ間にリダイレクト機能を入れています。それはGoogleの本業ともいえる検索機能においてです。これは、多くの人が気が付いていると思います。
    アクセス解析を見ていましたら、あるときからリンク元に「http://www.google.co.jp/url?〜」で始まるURLが目立つようになりました。Google検索からのリファラであるのは間違いありませんが、その場合は「http://www.google.co.jp/search?〜」で始まるURLだったはずなのです。
    おかしいな。
    「http://www.google.co.jp/url?〜」にアクセスしても検索ワードを確認できません。このようになります。
    これは、リダイレクトのURLだったのです。
    Googleにログイン状態で検索機能を使うと起こる現象のようです。あるときから僕もそうなりました。
    Googleで検索すると候補が羅列されますが、そのひとつをポチっとしても、そのサイトに直接飛ばないのです。「http://www.google.co.jp/url?〜」というURLへ一度飛んで、そこからリダイレクトされて当該サイトへ着地します。つまり、ワンクッションおくのです。
    どうしてこんな仕様にしたのでしょう。僕のような古いPCだと、一行程多いぶんそれだけでも重い。余計なことはしてほしくないのです。利点は検索先に検索ワードを知られにくい(アク解の邪魔をする)くらいです。意味わからんな。

    「Blogger」のURL変更。検索機能の仕様変更。いずれも「リダイレクト」で当該サイトに飛ぶまでにワンクッション置きます。どうしてこんなことをGoogleは始めたのか。
    もちろん公式にアナウンスはしていませんが、想像はつきます。
    そのワンクッションの間に、Googleは利用者の個人情報を取得し集積しているのであろうと。

    Googleは、2012年3月1日にプライバシーポリシーを変更しました。こちらです。
    この内容は、実に恐るべきものです。
    Googleがネット上で行っているサービスは、表向きはこういったことです→Googleサービス
    ネットに接続しているユーザーで、このなかのサービスをひとつも利用したことがない、という人はまれでしょう。世界中のほとんどの人が、何かを使用したことがあるはずです。
    僕もブラウザにツールバーを入れ、検索をし、Googleマップを活用しYoutubeを観て、リーダーでフィードを読み込んでいます。
    Gmailを使いブラウザをGoogleChromeにして動画をアップするなど、もっと深く関わっている人も多いはずです。
    いまや、Googleなしではネットライフが成り立たない仕様にまでなってきています。
    またSMSとして、Facebookの後追いにもかかわらずGoogle+を押し、かなりのアカウント数を獲得しています。
    さらに、近年はスマートフォンの普及に力を入れ、Androidを端末として徹底しはじめました。
    これらで集積されたデータを、すべて一元化した、とGoogleは宣言したのです。

    どういうことかと言いますと、まずGoogleは顧客情報の収集を相当な広範囲で行いました。
    住所氏名、メールアドレス、電話番号、クレジットカード、顔写真などの情報。何かサービスを利用する場合に、アカウントを作成することになります。その際にこれら情報を入力させることを推し進めました。
    Google+は、低調だといいます。結局twitterやFacebookを凌駕できませんでした。しかし、それでもいいのです。使わなくともアカウントさえ取得してくれれば。それで、氏名(本名)などの個人情報が収集できます。
    そして、それぞれのアカウントが持つ個人情報を、一元化したのです。今までは、YoutubeやGmailやChromeなど、それぞれアカウントは別でした。それを統一したのです。
    これで、こんな検索をして、こんな動画を見ているユーザーはどこに住んでいる何という名の人だ、ということが結び付けられました。アドセンス利用者などはクレジットカード情報まで入っています。
    これまでも、Googleはユーザー属性を検索から割り出していました。このページを見れば、自分がどんなページを閲覧していて、どういう趣向を持った人間であるかが示されていました。これを見たときは驚きました。
    これは、Google検索を普段利用していないから大丈夫、というわけではありません。今はyahooもgooも検索システムをGoogleから提供されています。同じなのです。
    そして、検索と閲覧ページから割り出した個人の趣味や思想、さらに性癖までも、Googleは個人情報と結びつけたのです。
    そして、Android。Googleは端末情報を一手に入手しました。これで、自分のみならず通話の相手方のアドレス、電話番号までもが握られたのです。GPS信号によって場所もわかります。何時にどこで誰と会話し、メールし、どんな情報を探したかをGoogleは掌握しはじめました。
    プライバシーポリシーにはっきりと書かれています。
    Googleは、ご利用のサービスやそのご利用方法に関する情報を収集することがあります。
    たとえば、Googleの広告サービスを使用しているウェブサイトにアクセスされた場合や、Googleの広告やコンテンツを表示または操作された場合です。(※筆者注 ほとんどのウェブサイトページにはGoogleによる広告が既に入っている)
    Googleは、端末固有の情報(たとえば(中略)端末固有のID、電話番号などのモバイルネットワーク情報)を収集することがあります。
    Googleでは、お客様の端末のIDや電話番号をお客様のGoogleアカウントと関連付けることがあります。
    お客様が Google サービスをご利用になる際または Google が提供するコンテンツを表示される際に、サーバーログ内の特定の情報が自動的に収集および保存されます。
    電話のログ情報(お客様の電話番号、通話の相手方の電話番号、転送先の電話番号、通話の日時、通話時間、SMSルーティング情報、通話の種類など)
    そして、
    Googleは、当該他のユーザーに対し、お客様が公開しているGoogleプロフィール情報(お客様の名前や写真など)を表示することもあります
    何ということでしょうか。
    GoogleのCEO、エリック・シュミット氏は明言しています。
    「私たちは、あなたがどこにいるか、何が好きか知っています」と。(→ソース)
    これは、ジョークに名を借りた恫喝以外の何ものでもないでしょう。僕たちは、既にGoogleに尻尾どころか首根っこを掴まれているのです。

    何だか、とんでもないことになっています。
    Googleが僕たちをここまで丸裸にする理由とは、なんでしょうか。それは、表向きはピンポイント広告のためだとされています。個人に完全に合致した広告を個別に出すために情報を収集しているのだと。
    しかし、そのために住所氏名や現在地と、嗜好や性癖まで結びつけてデータベース化し、その情報を第三者に提示する必要なんて、全くないはずです。
    その目的は、端的に言えば「弱みを握る」ためであるとはっきり言えます。
    今や、Googleの言うことには逆らえないのです。電話やメールの中身まで知られているのですから。
    Googleマップのストリートビューに「この家に住んでいる人はこういう性格でこういうことをやっています。勤め先はどこ、子供は何人、趣味は○○で、よくアダルトサイトを閲覧し、不倫をしています」と表示することは、今のGoogleなら簡単にできるのですから。
    Googleは、どんどん傲慢になってきました。
    CEOシュミット氏は「他人に知られたくないようなことは、そもそもすべきではない」「ストリートビューに写るのが嫌なら、引っ越せばいい」と発言しています(→ソース)。脅しです。
    いつでも私達は、あなたをおとしいれることができるのだよ。そう言っているのと同じです。

    実際、陥れられた例が存在します。(→毎日新聞記事)
    Google検索には「サジェスト機能」というものがあります。検索フォームに入力した文字列から検索ワード候補を予測表示する機能です。「かぼちゃ」と入力すれば「かぼちゃ レシピ」とか「かぼちゃ スープ」とか出てきますね。
    記事によりますと、このサジェスト機能によってある日本人男性が被害をうけました。
    この男性の実名を入力しようとすると、途中からフルネームとともに犯罪行為を連想させる単語が検索候補の一つとして表示され、それを選択すると男性を中傷する記事が並ぶという。
    男性は数年前、当時の勤務先で思い当たる節がないのに退職に追い込まれ、その後の就職活動でも採用を断られたり内定が取り消されたりする事態が相次いだという。このため調査会社に調査を依頼。その結果、あたかも犯罪に加担したかのような中傷記事がインターネット上に1万件以上掲載され、その中傷記事にサジェスト機能でたどり着くことが分かった。
    この男性は地裁に仮処分申請をして、地裁はGoogleに対し差し止めを命じる決定をしました。当然のことです。しかしGoogleは「日本の法律には従わない」とこれを拒否したのです。
    Googleは、ひとりの人生をめちゃくちゃにしたのです。自身の持つひとつの「機能」で。
    こんな恐ろしいことが、あってもいいのでしょうか。

    Googleは、支配者になったと言っていいかもしれません。
    歴史において、支配者は現在まで「武力」において世界を制圧してきました。権力、すなわち服従させる力は武力に裏打ちされてきました。
    これは、大航海時代や戦国時代の話ではありません。現代においてもそうです。冷戦は終結したといわれますが、現代も国家間の均衡は軍事力によって保たれています。また市民に対する国家権力というものも、そうです。国家が法律を制定し、それに服従しない場合に警察権を発動する。同じことです。
    Googleは武力にかわる力学として、情報を手に入れました。
    人を服従させるのは、パワーだけではなかったのです。
    日本の戦国時代においても、軍事力以外に「諜略」という手段で相手を屈服させることがありました。あくまで武力に対して位置づけは従でありましたが、情報を握ることの重要性はもちろん軽視できないものでした。
    そして、その情報収集力が従ではなく主となる時代が来たようです。

    Googleは、統治者になる可能性があります。少なくとも、統治者を動かす力はあります。
    それは、その情報収集能力によって直接統治者の首根っこを掴む、という手段はもちろんのことですが、対抗勢力を動かす力も持っています。そして、現代が曲がりなりにも民主主義であるとするならば、Googleは世論形成できる力も、今は持っています。
    世論を右傾化したいと思えば、そういう意見の検索順位を上げればいい。逆もまた可能です。人は、簡単に流される。それは、震災以降の「拡散希望」を見れば明らかです。

    今後、Googleはネットバンクを始めようとしています(→ソース)。これは、一面便利にはなります。スマホで簡単に決済ができるようになります。しかし、金銭の出し入れをGoogleが管理することなり、また個人情報といともたやすく繋がります。
    また金銭授受を世界規模で掌握することになりますので、既存の銀行はみなそのデータを欲しがります。ローンを組むための調査も、Googleが既に個人情報を持っていますから手間がいらない。さらに投資も、基礎調査はGoogle任せ。飛躍的にスピードアップし、そしてメガバンクもみなGoogleと提携。いつのまにかその傘下に入るでしょう。
    そこまでくれば、株式売買もGoogleが管理することになると思われます。
    Googleはおそらく、世界金融を握ることになります。

    さらに、軍事にも大きな影響力を持つことになります。
    もともとGoogle earthという人工衛星を用いたサービスは、アメリカ国防省と提携しています(→ソース)。これは、知らない人も多いと思いますが事実です。そうして、マクロからミクロ(ストリートビュー)まで、Googleは地球をほぼ網羅しました。これが、軍事に利用されないわけがありません。
    今までは、米国防省との提携でこれを行ってきたGoogleですが、ここにきて国防省との連携を解除したとの噂があります。それは、もう情報を絞りつくして利用価値がなくなったからだとの見解が有力です。
    そしてGoogleは、そのデータを米国以外へ流そうとしているようです。これは、飛びつく国が多いでしょう。そうなれば、世界の軍事バランスが崩れる可能性があります。

    Googleが支配者になる、という話は、あながちデタラメでもないのです。やろうという意志さえ持てば、全人類を支配下に置くことが可能となります。そう遠くない未来に。


    とまあ、こんな話をつい書いてしまいました。もちろんこの記事は、エイプリルフールの記事ですよ(笑)。分かっておられるとは思いますが。
    GoogleのURLリダイレクトがアタマに来まして。それに「Ads by Google」の広告も昨今とみに重いしね(汗)。で、文句を言う記事をひとつ書こうと思ったのです。ところが3月はどうもバタバタしまして書けなかった。そうこうしているうちに4月1日が近づいてしまったので、話を大げさにして書きました。
    しかしこの記事には、実は本当の部分もある。それが、怖いところです。
    この記事はある意味、Googleという企業に対する誹謗中傷ととられる可能性もありますから、僕は「支配者Google」に消される可能性もある(笑)。
    | 2012/04/01 | 企画 | 06:22 | comments(2) | trackbacks(1) | - | by 凛太郎 |

    春来たりなば

  • 2012.03.11 Sunday
  • やっと三寒四温になってきたが、今年は寒かったな。よくサンパチ豪雪とかゴウロク豪雪とか言うけど、今年も結構なものじゃなかったのかい。妻の実家じゃ一階が完全に埋まって昼なお暗い、と言ってたしね。僕の住む瀬戸内はそれから比べれば…でも寒いのは寒かった。

    イカナゴ漁の解禁。甲東梅林の開花便り。僕の住む町にも、春の兆しがぽつぽつと。春の訪れは嬉しく秋の訪れは寂しい。そういう価値観でずっと生きてきた。ここ20年くらいは花粉のせいで春もあまり歓迎しなくなったけど、それでもあたたかくなるのは有難い。今年はとくに。

    ケータイの万歩計機能だが、ある日の歩行距離が20km以上という結果に驚く。ハーフマラソンやがな。31240歩。確かに待ち合わせの時間に余裕があって梅田から難波まで、さらに立売堀から福島まで歩いたがそれにしても。歩幅設定を見直そう。消費カロリー1068kcalには満足。

    J開幕。多くの評論家が京都のJ2優勝を予想。けど、そんなに甘いもんじゃないのよ。ワシらは天皇杯優勝の年に降格も経験してる。そして、初戦を落とす(汗)。でもこれは、そもそもネガティブ思考だけに想定内ともいえるのよ。サンガは若いチーム。ネガっても伸び代はあると信じてる。

    歳食うと時間経過が早すぎて。もうW杯最終予選か。で、イラクとあたるね。ジーコが敵か…。感情的に、面白い試合になりそう。メンバー次第では思わずイラク側目線になったりして(汗)。問題は日程。イラクとの初戦は9月だから、それまでジーコがイラク監督でいられるか(笑)。

    神田の「万惣」閉店の噂が流れてしばらく。デマであれと願ったが本当のようだ。池波正太郎先生の随筆を読んでここのホットケーキを初めて食べたのが25年くらい前か。以来数度。ああ地元でありせば駆け込むのに。あの柔らかなバターと香ばしさは忘れられん。行ける人は急げ。

    googleの新プライバシーポリシーで個人情報ダダ漏れが懸念されているが、Facebookのほうがもっと怖いのではないか。なんせ実名で、個人の家族、学歴、職歴、交際関係、趣味、行動パターンを自ら網羅するという無防備なお人好しが多く、それはおそらくどっかでデータベース化されてる。

    トリニダード・トバゴという国について、ドワイト・ヨークの国、青山テルマのルーツってことくらいしか僕は知識がない。その「トバゴ」がタバコのことだと知ってあっと驚く。へ〜。こういうの、バングラデシュがベンガル、ジャーマンがゲルマンだと知った中学生の時の感動に似てる。

    「つながる」という言葉が苦手だと前から言っているが、昨今流行っている「絆」も耳タコでイヤ。これで長い記事も書けるがやめておく。簡単に言えばどっちも「つな」だから、綱(ツナ)で繋(ツナ)がれ束縛される語感がどうしてもしてしまう。何でも枷は嫌い。流行にも呑まれたくなく。

    不思議なもので「賢いなあ」と言われると馬鹿にしてるのかと思う。「利口だな」と言われるともっと気分が悪い。これは子供に対する褒め言葉だからだろう。「頭いいですね」と言われても上から目線の言葉に聞こえてイヤ。もうええからアホかいなと言え。その方が褒められた感じするわ。

    先日ラジオで「部屋とYシャツと私」を初めて全部聴いた。まともに聴いたことなかったんよ(汗)。ところで平松愛里さんは「三日酔い」という言葉を3日連続で泥酔して帰ってくることに遣っている。三日酔いってニ日酔いを超えて翌々日まで気持ち悪いことを言うんじゃないの (・・。)ん?

    目を疑うものが我が家から発見された。新聞紙に包まれた、おそらく4〜5年前の「棒だら」である。しかし、カビも生えていないし悪い臭いもしない。捨てるのは簡単だから、と思い、戻してみる。朝晩水を換え、一週間経ったら煮てみる。これが旨かったんだな(笑)。乾物おそるべし。

    「勝てば官軍」という言葉を勘違いしている人が多すぎる。勝つこと=正義ってことじゃないんだよ。仮に間違っていても、勝った者が正義を主張するという理不尽な状況を示しているんだ。例え議論であっても、勝った者が正しいとは限らない。真実はそんなことじゃわからない。

    「あきらめたらそこで試合終了だよ」安西先生はそういう(by SLAMDANK)。最近は諦めてとっとと先の段階へ進んだほうがいいような気がしてる。本当に次がないなら粘ろうとも思うけれど、拘泥になってもしょうがない。頑張るのも、時と場合によりけりだわ。

    ギターの弦を張り替えた。ただ島村楽器で安売りしてたから思わず買ってしまっただけのことで、何か予定があるわけでもない。が、張りたてはいい音がする。つい右指の爪を伸ばしたくなる。でも、もう大人なんだから爪は切らないとダメってことくらいは知っている。

    たまたま見つけて、坂庭省悟さんの「花嫁」を聴く。やわらかくてやさしい、高く澄んだうたごえ。これが本物の「花嫁」なのだな、と思う。このひとはもういない。省悟さんが逝ってから、まる8年が経つ。ここにも、こころざし半ばにして世を去った人がいる。

    死というものは、徐々に迫るものというイメージを持っていた。余命幾日というカウントとともに。けれども、それはいきなりやってくるかもしれない。脳卒中。心臓発作。交通事故。通り魔。明日生きているという保証はない。現に一年前、2万人ものひとたちの人生が唐突に打ち切られた。

    2ちゃんまとめの「3.11以降に更新が途絶えたブログ」が界隈で話題に。僕のRSSリーダーにも、1年間更新のないブログがある。ネットの住人の安否は、多くは確認できない。例えば僕が突然死んだら、その死を知らせるすべがない。そうして、ネットに途切れた足跡だけが残る。

    いわばそれは、墓標のようなものだろう。さよならも言えずに逝ってしまった人の。できうるならば、いつまでもサーバー上に残しておいて欲しい。その人の生きた証しとして。ブログ文化が浸透して10年。消去されていなければ、そうした墓標は既にあちらこちらに存在しているはず。

    また、春が来る。季節が巡ることに感慨を覚えるのは、生きているから。今、その生を素直に寿ぎたい思いが強い。きれいごとではなく、心からそう思う。たとえ華やいだ人生ではなくとも。
    今年は鎮魂の春となった。あまりにも多くの人々の命日となった3月11日に黙祷を捧ぐ。
    | 2012/03/11 | 短文 | 07:27 | comments(6) | trackbacks(0) | - | by 凛太郎 |

    キラキラネーム 5

  • 2012.02.26 Sunday
  • ここまで、難読命名について書いてきました。
    キラキラネーム1

    これについては、揶揄もおもねった賛同もしない、というスタンスで書いたつもりでしたが、ただ「読めない・読まれないのは困るはずだ」という考えは一貫して持っていました。名前は記号である、と極端なことは言わずとも、名前というものは自分以外の人に識別してもらうための役割が重要なことはいうまでもないこと、との認識を持っていました。
    簡単に言えば、名前は読まれてナンボである、ということです。呼ばれるために存在しているのだから。
    だから、僕も現在いわれるところの「キラキラネーム」を読みこなせる能力の必要性を感じますし、慣れていこうとは思います。社会生活の中で、相手の名前を間違えずに呼ぶ、ということは重要なことだからです。
    それと同時に、今後親になる若い人には、できるだけ簡単に読める命名を望んでいます。
    親の立場からしても、読めない名前では不便だし子供が困るということはわかっているでしょう。一度で読んでもらえない名前、聞き返される名前、電話で説明できない名前では、益はないという理解はあるはずです。だから「読みやすい名前を」と僕らが望んでも、的外れの要望ではないはず。そう僕は疑いませんでした。
    それでも難読命名が行われ続けている理由を、僕はこんなふうに考えていました。
    ・難読かもしれないと思いつつ、それでも自分が拘る名をどうしても付けたい
    ・まわりも同様なので、トレンドだと信じて疑わない
    ・本当はもう少し読みやすい字を用いたかったが、字画占いで致し方なかった
    ・自分が付けた名前が、まさか難読であるとは思っていない。
    つまり、難読にしたくて難読にしているわけではないのだろう。そう思っていました。そこへ漢字に対する意識の変化、頭文字切り読みなどの新訓、使用音韻の欧米化などが加わり、結果として読みにくくなってしまった。
    ですが、あくまで結果としてそうなっているだけで。親はまさか「読まれないほうが良い」などとは微塵も思っていないはず。子供の幸せを願わぬ親はいない。
    このことには確信を持っていました。

    以下、このシリーズの前半記事についたコメントです。
    うちの娘もキラキラじゃないですが、まず読んでもらえません
    ある種それも狙いなので一発で読まれたら悔しいですが
    これには、本気で驚いたわけです。一発で読まれたら悔しい?一発で読まれなければ悔しいの間違いではなくて?読まれないのが狙い?!
    僕の大前提が崩れました。そして、頭を抱えてしまったわけです。
    この方は、長いお付き合いでわかっていますが、決していいかげんな人ではありません。思慮深く真面目で娘さん思いの、ちゃんとしたお父さんです。
    子供のことを思っているにもかかわらず、読みにくい名前を付ける、という心理が存在する。
    驚愕でした。

    その心理について考えていきたいと思うのですが、その前に、もしかしたら僕の前提は間違っていたのかもしれない、と思える点が他にもありました。
    それは「読まれないのは困るはず」という部分においてですが、そんなに人は名前(いわゆるファーストネーム)を呼ばれる機会が多いのだろうか、ということです。それは、考え直さねばならないのかもしれません。
    自分のことで考えてみます。
    仮に僕の名を「西宮凛太郎」として、「凛太郎」「凛太郎ちゃん」と名前で恒常的に呼ぶのは、親兄弟、親戚、妻、義父母など。まとめれば「身内」ですね。それ以外には、存在しないのです。身内は名を読み間違えるなんてことはありません。
    それ以外は、すべて姓でした。幼稚園のときですら「西宮クン」と呼ばれていたと思います。小中高においても、教師が最初に名前の確認をしますが、その時だけで以降は姓のみです。同級生らも「西宮ぁ」「西ちゃん」「ニッシー」などニックネームも含み全て姓です。凛太郎、などと名で呼ばれたことなどありません。
    これは、地域差など事情によってかわるだろうとは思います。僕の妻は、幼少期通じてずっと名前だったようです。学年10人程度の小規模校だったこと、同じ姓が多かったことなど(言葉悪いですが田舎だったこと)が要因としてあります。僕は住宅地の一学年何百人のマンモス校でした。
    また人間関係の親疎もあるかもしれません。女の子同士は名前で呼び合う例も多かったかも。しかし少なくとも僕は、学校生活において名前を呼ばれることはほとんどなかったのです。姓由来の渾名ばかりでした。
    親疎、というのは、重要なことだと思います。後にまたふれたいと思います。
    他では、例えば役所や病院で呼び出される場合。しかしこれも、書類にはふりがなを打つのが一般的ですし、今は個人情報ということもあって氏名呼び出しを避け番号などで対応する場合も多くなってきました。
    電話で(口頭で)説明できない名前は大変、とはよく聞く話です。僕の本名は姓のほうが難しく、説明では苦労しました。ただ、最近はそういう説明の機会が減ったように思うのです。対面では名刺を出せばすむことですし、また電話で説明する機会も減りました。連絡手段としてメールの占有率が高まったせいではないか、と思っています。さまざまなものの予約なども、メール使用が増えました。
    社会では、姓が一般的です。僕なら「西宮さん」でしょう。初対面で名刺交換していきなり「凛太郎さん」と呼びかける人は、変人です。
    あるいは、役職。また組織にいるひとは外では組織名(○○会社さん)など。
    名前というものは、考えるほど用いられていないのです。名前が読めない、なんてことは、実社会においてはさほど重要なことではないのかもしれません。著名人でなければ。
    だから「読まれない名前のほうがよい」ということにはなりませんが、昔より難読名のリスクは減ったような気もしています。難読で困るのは、本当は姓のほうです。名は、社会では呼ばれなければ呼ばれないで済んでしまいます。
    今の親御さんたちは、そういった「リスクの軽減傾向」も踏まえて、読みにくい名を付けているのでしょうか。そうであれば、これは僕などよりも一枚上です。

    では、なぜ読まれにくい命名をするのか、ですが。
    前述したように、拘りの名を付けたい、流行に乗る、或いは姓名判断・画数占いの結果などで難読になってしまっている場合も、やはり多く存在するとは思います。
    しかし、一度で読まれないことを狙いとしている方がいることがわかりました。そして、これは特殊例とはいえない、と今では考えています。そう考えないと、この難読命名の氾濫の説明がつきにくいのです。
    他にしっかりとしたサンプルがあるわけではありませんが、少しネットをさまよって散見していますと、同様の意見がいくつも見えます。
    その中には「これなんて読むの?と聞かれることによって印象付けられる」という考えの方もいらっしゃいました。これは最終的には他人に多くその名を知ってもらいたい、という願いから逆に読めない命名をするという離れワザですね。
    他に、難読が個性なのだ、と考えられているふしもあります。オンリーワンを目指せば「すっと読まれるような名前じゃだめ」ということです。
    しかし、ただ単純に「簡単には他人に名前を読まれたくない」という意見も、いくつか見たのです。
    いろいろ考えられるのですが、ひとつにはこの考えは、実は日本古来よりの伝統的思考ではあるのです。何度も書いてきましたが、これは諱(いみな)の考え方と同じものとも言えます。

    僕だって、そんなに簡単に名前を呼ばれたくありません。親しくもないのに。
    大学で、はじめて同じ講義で隣り合わせた人に「姓じゃなく名前を教えてくれ、それで呼ぶから」といわれて実に気持ち悪かったことを思い出します。彼は、おそらく一気に親しくなろうと思ったのでしょうが、順序が逆です。親しくなってから「凛太郎」と呼んでくれ。
    だから、名前で呼び合っている人たちは、本当に親しい関係に見えます。
    昔レーガン大統領が来日した際に中曽根首相と「ロン・ヤス会談」を実施しましたが、あれは親しさアピールです。ですが、多少の違和感はありました。作られた親しさが丸見えだったのと共に、ファーストネームを呼び合うということに日本人は慣れていない、ということがあります。昔YMCAに少し顔を出していた時、あちらの人はすぐに「ジョンと呼んでくれ、凛太郎!」と簡単に言うので、閉口したおぼえがあります。
    名前というのは、僕だけのものなのです。その名を共有できる人は、限られた人なのです。この心理、わかってもらえる人もいると思います。ぜんぜん親しくない人に名前で呼びかけられれば、戸惑うでしょう。
    諱(いみな)的ものの考え方というものは、僕の中にもまだ伝統的に息づいているように思います。
    日本人は、直接的に名を言うことを、避ける傾向にあります。名を呼べるのは、親疎に関わります。基本的には身内、そして親友等に限られます。
    そしてさらに、どれだけ近くても、両親や祖父母など目上の身内を名前では呼びません。「兄ちゃん」という言い方はあり「弟ちゃん」という言葉はありません。
    日本では伝統的に、目上の人を名前では呼べないのです。
    それは、名前を呼ぶという行為が、相手との親密度合いを示すと同時に、相手を取り込んでしまうことだからです。支配下に置く、とも言えます。

    諱。かつて、実名には何か神秘的な力が宿っていると信じられていました。他人に実名を知られると呪われる危険性もあるともされていました。そして、実名を声に出して呼ばれると、実名に宿る神秘の力が消滅するとも思われていました。
    この言霊信仰の強い日本のことです。咒詛的意味合いは当然のごとく存在し、人々は、実名を知られることを恐れました。他人には知られたくない。呼ばれたくない。知られることを忌む名。「いみな」です。
    こういう話で必ず引き合いに出される歌があります。「万葉集」の巻頭第一番。雄略天皇の歌。

     籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます兒 家聞かな 告らさね
     そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそ座せ
     我こそば 告らめ 家をも名をも

    雄略天皇は菜を摘む女性に「家はどこだ、名を告げよ」と言います。自分は大和の国を統べる王である。私も、家も名も言う。だから…と。
    これは単に自己紹介をしあう歌ではありません。求愛の歌なのです。そして当時、女性が名を名乗る、名を知られるということは、その人に征服される、つまり愛を受け入れるという意味だったのです。
    名前というのは、その人そのものでした。
    なので古代(古代に限らずですが)、女性の名前というものはなかなかあらわれてきません。紫式部も清少納言も小野小町も、本名はわからないのです。例外的に高貴な身分の女性、后妃などは記録に名が残りますが、それも大半は何と読んだかはわからず、便宜的に「彰子(ショウシ)」「定子(テイシ)」などと音読みしています。
    おそらくこの時代は、名は確実に訓読みであったはずです。じゃあ「あきこ」「さだこ」だろうと思ってしまいますが、そうではない可能性もあります。
    読みのわかっている人もいて、伊勢物語に登場する藤原高子は「たかこ」ではなく「たかいこ」です。難しい。藤原明子(染殿后)や慧子内親王は「あきらけいこ」であったとされます。和歌の詞書などに仮名で書かれたものがあったため判明しているのですが、女性名の読みは一筋縄ではいかないのです。
    言い方をかえれば、これは「難読命名」です。当時の状況をよく知らずに言っては間違いの元ですが「あきらけいこ」なんて知っていないと読むのは難しいかと。
    彰子や定子も、実際はどう読んだかはわかりません。儀子も式子も、ちょっと難しい読みだったのかもしれません。そう思うから「ギシ」「ショクシ」などと仮に読んでいるのです。
    このように、名前を仮読み(音読)せざるをえない状況。諱(いみな)の役割を、千年以上経っても見事に果たしている、といえます。諱は忌み名。読まれないためのものなのです。

    女性に限りません。男性名も、それは言霊的意味合いを持っていました。
    名簿捧呈という儀式があります。貴族の家人となるとき、自分の姓名を記した名簿(ミョウブ)と呼ぶ札を、主人に奉げます。これは、その名を奉げることにより相手に従属したというあかしになるのです。名前は、自分の全てだったのです。平将門も、藤原忠平に名簿を奉げました。
    武士が名を名乗るときは、命のやりとりをするときです。「やあやあ我こそは」と名乗り、一騎討ちをします。鎌倉武士は「名こそ惜しけれ」の精神です。名前は、それだけ重要なものであり、呪術性を帯びていると思われていました。
    このように普段は実名を諱とし、声に出すのを避ける傾向は、のちに「通称」を生んだことは以前にも書いたとおりです。太郎や次郎などの生まれ順命名から、官職名が名前に入り込んでくる過程は前述しました。
    そして、実名である諱は、ほとんど読まれることは無くなったのです。護良親王は「もりなが」か「もりよし」か、また織田信雄は「のぶかつ」か「のぶお」か、なんてよく論じられますが、そもそも伝わっていないのでわからないのです。

    江戸時代になると、この傾向はさらに顕著となります。僕はその3で「大名や公家が悪い」と書きましたが、そもそもこの時代の実名は読まれることがないので、読みはあまり重視されないのです。いや、むしろ読まれることを恐れてわざと「難読命名」にしていた可能性もあります。それほど、この時代の諱の読みは難しいのです。もしも相手が呪詛的意味合いで名を呼ぼうとしても、読めないのではどうにもしようがないわけですから。
    それでも殿様であれば、諱は公式文書には現れますが、一般的な武士であれば実名は使用することは大抵ありません。家老クラスでも大石良雄は内蔵助で通っていて、良雄も「よしお」か「よしたか」か説が分かれています。幕末においても西郷さんは吉之助、大久保さんは一蔵です。明治になって戸籍が出来て、諱採用で大久保利通となったのです。
    戸籍以前に死んだ人は、村田蔵六(大村益次郎)であり河井継之助であり小松帯刀であり、坂本龍馬であり中岡慎太郎です。みんな通称です。龍馬はんの諱が「直柔(ナオナリ)」であり、慎太郎さんが「道正」であるというのは、マニアしか知らないことかもしれませんね。
    高杉晋作の諱は何と「春風」だとされています。すげーな。この人詩人だから、誰かから一字貰うだの何だの関係なしに自分で名づけたのでしょうね。これこそ今で言うキラキラネームかと(笑)。

    そして、明治以後。僕も時として迷うのですが、海軍軍人で総理までつとめた山本権兵衛は「ごんべい」なのか「ごんのひょうえ」なのか。
    これは、本称は「ごんべい」、武官となって「ごんのひょうえ」と格式をもって読ませるようになったとの話がありますが、つまるところ「どっちでもいい」のだと思います。結局、戸籍には読みがないわけですから。首相経験者で言えば、近衛文麿(フミマロ)も「あやまろ」と読まれたりします。
    日本は、伝統的にそういうことがあるのだと思います。正式なものは、書面上が重要で訓ずることはさほど重視しないのです。「有職読み」というのがありまして、音読みOKの伝統があります。藤原定家(テイカ)や二宮尊徳(ソントク)などは、そっちの読みが一般的になっています。木戸孝允(コウイン)や伊藤博文(ハクブン)なんてのも言いますね。これは現代でも大野伴睦(バンボク)なんて人がいました。麻原ショウコウなんてのもそれにあたるかもしれません。
    だいたい、日本では中国から輸入した漢字をつかっているわけで、読みなんてあまりこだわらないのです。そもそも「日本」もニホンかニッポンかよくわからない。国名ですらこれでは、あとは何をかいわんや、です。固有名詞の漢字の読みなんて、実はどうでもいいのかもしれません。

    だったら、もう怖れることはないのかもしれません。今の子供たちの名前が読めなくても、いいんだ。諱はそもそも、読まれないものなのです。
    社会も、そうなっていけばいいのだと思います。名前を読まなくても、そして呼ばなくてもいい社会へ。時々ニュースなどで「名前の読み方が間違っておりました。お詫びして訂正致します」などと謝罪したりしますが、そんなのいらない。読めないのが普通。それが常識の社会であればいいんです。どうしても読まれなければならない場合には、書類には振り仮名必須。あとは、有職読みでよし。
    しかし、大翔ならダイショウでいいけど、琉絆空はどうすんだよ。リュウハンクウ?(笑)
    そのあたりで僕もつまづいてしまうのですが(汗)、少なくともこういう名前の人は読めなくてもしょうがないと思うべきです。実際に読めないのですから。そして、それが当たり前なのだから、読めなくても寂しがらなくていい社会になればいい。うんうん。

    ただ、この時代は本当に変わり目だということは、自覚しないといけませんね。
    これまでは、まず名前で国籍がわかりました。そう書くといろいろ問題が生じそうなので、民族性としましょうか。国籍が違うとしても、この人は日本に関係があるな、と名前でわかったのです(ヨーコ・ゼッターランドさんなど)。
    しかし、愛莉穂(アリス)や星愛(セイラ)では、これは難しそうです。
    今は、パスポートすら非ヘボン式の表記がOKになったようで。譲二さんはJojiではなくGeorgeと綴っていいようです。Aliceもいいんだな。こうなると、何か海外で事故などの際(縁起でもない話で申し訳ありませんが)に、日本人が居たのかどうかというのが判別しづらくなりますね。
    名前の無国籍性が、どんどん進んできています。いや、琉絆空(ルキア)や楽心(ラウ)はそれ以上だな。名前の無帰属性とでも言いますか。
    それはそれでかまわないわけですが、時代の変わり目であることは間違いないでしょう。

    そして、以下は諱にも難読命名にも関わることですが。
    その4で名前を解読してつくづく思ったのは、名前の重層化が進んでいることです。
    従来の名は、漢字と読みが一体化していました。なので、まず漢字から考えるわけです。健やかに育ってほしいと願い、健太と名づける。さすれば、もう読みは通常ケンタしかないのですね。健治でも、まずケンジか、たけはる。
    そして、漢字の持つ意味と読みは、連動しています。健康のケン。
    しかし今は、その連動性がなくなってきています。音先行で漢字を当てはめるという手法が、読みと漢字の持つ意味とを乖離させる現象がおこっています。
    大きく羽ばたけと願い、大翔くん。しかし読みは「やまと」。上昇していく漢字と、日本の国土を象徴するかのような音。まさに「天と地」ほど違います。宇宙戦艦ヤマトくらいしか共通項を見出せません。
    こういう字面と音が乖離した例は、多く見出せると思います。音和(トワ)くん。音楽が好きな親御さんなんでしょう。そして読みは「永遠」。ひとつの名前に、ふたつの意味をこめています。やりますねー。考え抜いた結果でしょう。
    穏空くん。おだやかな空。雨や風のない空の下で、すくすくと生きろ。人生に荒れた空はゴメンだ。そんな両親の思いが伝わるようですが、読みは「しずく」。漢字は晴れていて読みは雨が降っています。これはすごい。
    これは、何でしょう。ここには乖離どころか、相反した名前がふたつ存在しています。穏空という字が持つ意味にひきずられると、絶対に「しずく」にはたどり着けない。読まれたくないとすれば、これほどの名はなかなかありません。これはつまり、穏空が通称でしずくが諱なのでしょうか。
    現在の命名というやつは、相当に奥深いと考えなければならないようです。

    「読まれたくない名前」から結論をひっぱり出そうと思って蛇足の記事を書き始めたのですが、結局、答えは出せずに終わりました。
    ただ「名前は、人に呼ばれるために存在しているもの」という考え方は、改まりました。
    名前が識別のためだけに存在しているのであれば、名前記号論とでもいうべき考え方に到達し、最終的に「番号にしておけばいい」までいってしまいます。それでいいのか。
    古来より、人の名前はそんな単純なものではなく、もっと奥深い大切なものでした。それに気づかせてくれたのは、このキラキラネームの存在と、名づける親の心であったことだけは、間違いないと思います。
    好きか嫌いか、でいえば、まだ好きじゃないんですけどね(笑)。でも、もう少し見方は、かえてみよう。

    キラキラネームの話、終わります。長いのをここまで読んで下さった方々に感謝いたします。
     
    | 2012/02/26 | 言葉 | 13:14 | comments(10) | trackbacks(0) | - | by 凛太郎 |

    キラキラネーム 4

  • 2012.02.22 Wednesday
  • 前回の続きになります。
    私ごとながら、僕には子供がいません。これについてはもうなんともしようがないのですが、残念なことがいくつかあります。
    それは、例えば子供手当てがもらえないじゃねーかチキショー、などという即物的なものに始まり、いかにも楽しそうな親子連れを見ては心に冷たい風が吹く、てなことまで様々あるのですが、子供の名前をつける機会がなかった、ということもあります。
    これは残念でした。やっぱりね、僕もね、いろいろ考えていたのですよ。妻もそうかもしれません。
    そして、妻はいわゆる「ママとも」というグループに入りそこねました。こういうネットワークというのはバカになりませんでね。また、僕などはなんだかんだいって人と接触する機会はありますが、子供の話などほとんどしません。ということは、我が家は昨今の子供の命名事情に実に疎かった、ということになります。
    前々から少しは気づいていたものの、まさか子供の名前がここまできているとは思わなかったのです、実は。で、たまたま日経の記事が目に入って「えっ?!」。と驚き、その驚きから自分を納得させるために、ここまで長々と書いてきたわけですが。
    しかし書いてきただけで、結論というものは出ず(汗)。
    あとは、僕がやるべきこととしては、このキラキラした子供たちの名前に慣れることです。既にこういう名前が現状として多いのですから、少しは読めるようにならないと。好きだの嫌いだのと言っていられません。世の僕と同世代、そして僕より若い人たちは、こういう子供の名前に慣れているはずで、僕よりもずっと読めるのではないかと思います。僕は、遅れているんだ。
    しかし、実際に子供と接触のない僕は数をこなすわけにもいかず、日経新聞記事に載る名前群を分類し、理屈でなんとか追いつこうとしてみます。
    サンプルは、以下です。
    男の子名
    大翔(ヒロト ハルト ヤマト) 颯太(ソウタ ハヤタ フウタ) 陽翔(ハルト アキト ハルヒ)
    心星(ミショウ) 允彪(マサト) 英虎(エイト) 穏空(シズク) 音和(トワ) 叶星(トキ) 騎士(ナイト) 憩(カイ) 虎琉(タケル) 紫久伶(シグレ) 志耀(シデン) 楽心(ラウ) 希汐(キセキ) 希星(スバル) 空星(ソラ) 健萌絆(トモキ) 心暖(コノン) 琉絆空(ルキア)
    女の子名
    陽菜(ヒナ ハルナ ヒナタ) 結愛(ユア ユウア ユイナ) 愛菜(マナ アイナ イトナ)
    愛莉穂(アリス) 愛月(アイル) 葵絆(キズナ) 旭花(アヤメ アキナ) 海(マリン) 祈愛(ノア) 好笑(コノエ) 世愛(セナ) 聖白(マシロ) 愛聖(アイラ) 一葵(イチル) 華弥(ハナビ) 芽祈咲(メイサ) 沙星(サラ) 詩空(シエル) 深愛(ミアイ) 星愛(セイラ)

    新聞には、「最近はやっているのは心(こころ)、愛(あい)、楽(らく)の頭文字をとって、それぞれ「こ(ここ)」「あ」「ら」と読ませるあて字。「心愛」と書いて「ここあ」と読む名前もランキングの上位に入っている。」と記されています。この心愛(ココア)ちゃんは聞いたことがありました。なんと無理な読みをするのか、とそのときは思いましたが、もうそれが普通であるようなのです。
    ちょっと分類してみます。

    この中で一応読めるのは、希汐(キセキ)。普通の読みであるといえます。ただ「キセキ」という男の子の名前が存在していると思わないので、音で迷うわけです。汐(シオ)と読んで「きしお」など従来寄りの名前に読もうとしてみたりね。
    深愛(ミアイ)も何とか読めると思います。深で「み」は名乗り読みですが、すっと読めました。京都生まれなので深泥ヶ池を知っていたせいでしょうか。
    しかし、他のは難しすぎますよ。分類しつつ読み進めます。

    ○音読みの漢字の頭文字だけを使用する
    こういうのは、昔からあった、といえばあったのです。音読みで、由(ユウ)→由美子(ユミコ)など。
    ただ、のばす音が多かったと思いますね。央(オウ)をオと読んだり。しかし、それ以上は切れません。漢字の音読みで頭の文字だけ使用する、というのは、斬新としかいいようがありません。
    穏空(シズク)の(クウ→ク)、紫久伶(シグレ)の(レイ→レ)は、何とか旧式の頭脳でも対応できる範囲内だと思います。愛莉穂(アリス)祈愛(ノア)結愛(ユア ユウア)のア、楽心(ラウ)のラ、は想定外ですね(笑)。
    最も難しかったのは愛莉穂(アリス)のス。これは最初わからなかった。稲の穂が出たときを確か出穂(シュッスイ 夏子の酒で知った)と読むのだと思い出し、そのスイでスか!と気が付いた次第です。よくこんな難しい読みを(汗)。

    ○訓読み(用言)の頭文字だけを使用する
    訓読みでは、送り仮名部分を排して名乗り読みとすることはよくなされることです(送り仮名を切っているわけではないのですが便宜上そう書きます)。
    直す→直弼(ナオスケ)としたり。「正しい」をただし、ただ(まさ)と読むようなものです。しかしそれ以上落としては意味がわからなくなってしまいますので「正しい」を「た・ま」と読むことはまず無かったといっていいでしょう。ところが今は、それをやるわけです。
    好笑(コノエ)は「好む」の「この」ですから頭文字ではない。名前では好で「よし」と読むことが多いのでまさか、と思うのです。愛菜(イトナ)も「いとしい」の送り仮名落しで、頭文字だけではありません。しかし前例がないため、読むのは極めて難しいですね。
    ここで頻度が高いのは大翔、陽翔の「と」で、とぶの頭文字です。「翔」という字をどうしてもつかいたい。イメージがいいのでしょうね。これを「と」で切って止め字にするワザは、若い親御さんたちにとっては一大発見ではなかったのでしょうか。
    芽祈咲(メイサ)は、いのる、さくの頭文字。健萌絆(トモキ)の萌えの「も」もこれですね。琉絆空(ルキア)の「あ」が空き家の「あ」だと気が付くまでに、しばらくかかりました。

    ○訓読み(名詞)の頭文字だけを使用する
    心暖(コノン)の「こ」。健萌絆(トモキ)琉絆空(ルキア)の「き」。無理筋だと思うのですけれどもねー。
    英虎(エイト)は、とらの「と」なのですね。虎の首をぶった斬ったようなものですな。あまりといえばあまり…。
    そして允彪(マサト)の「と」もそうなのですけれども、彪は虎の縞模様のことで、トラとはあまり読みません。これは、名乗り読みですね。後でふれます。

    ○読みの頭文字ではなく一部を使用する
    音和(トワ)の「と」は「おと」の「と」ですかね。こんなのわからんぞな。旭花(アキナ)の「な」は「はな」の「な」でしょうか。
    読みの後ろ文字利用の前例として「人」を「と」と読むのは、いちおう定着しています。しかし語尾でしかつかわれませんので、音便の結果とも考えられます(直人 ナオヒト→ナオト)。いきなり頭にトとして出てくるこの例とは異なります。
    祈愛(ノア)の「の」は「いのり」の「の」ですかね。それだと真ん中を抜き出して使用しているということになりますが…。そんなことを本当にされたのでしょうかね?

    ○難しい(珍しい)読みを用いる
    心暖(コノン)の暖(のん)。これ、読むのです。よく知ってるなー。暖(ダン)の唐音読みで、現在では音便化して暖簾(のれん)くらいしか使用されてないかも。憩(カイ)も相当難しい。僕の簡単な漢和辞典には「ケイ」しか載ってません。ただケイ・カイという音からして、おそらくは失われた呉音と思われます。うーむ。
    よくもここまで難しい読みを。学者かよ。
    とにかく今の名付け親は、恐ろしいほどの教養があります。心星(ミショウ)のショウも、呉音でしょうね。経典にでも載ってるのか。アタマ悪いワシらには無理ですよ(涙)。
    華弥(ハナビ)のビは、漢音です。これはむしろ呉音のほうが一般的ですね。弥勒菩薩のミ。ビと読む例をなかなか思いつきませんわ。
    訓になると、もっと難しく。
    中でも楽心(ラウ)の「う」は本当に難しい。「心」は「うら」と読むのです。おそらくそこから来ています。こんなの古語だよ、と僕などは言いたくなります(汗)。「うらやましい」の語源は「心(ウラ)病む」からきているという話も。現在では「うら寂しい」みたいな言い回しに残っています。よくそんなの見つけてくるな。しかも、その頭文字だけを切って…絶対読めません。

    ○難しい(珍しい)名乗り読みを用いる
    心星(ミショウ)の「み」。心で「み」という人名読みは確かに辞書にのっています。うーん知らなかった。穏空(シズク)のしず。名乗り読みにありました。おだやか→しずか、という連想でしょうか。
    允彪(マサト)の「まさ」も難しいですね。虎琉(タケル)も、なかなかトラを「たけ」とは読めません。
    「大」そして「陽」は、名前で大活躍している漢字ですね。名乗り読みも多いようです。陽は「はる」とも「あき」とも読むんですな。もうなつもふゆも何でも読めばいいんだ(笑)。ちなみに井上陽水氏は本名で、読みは「あきみ」。

    ○難しい名乗り読みの一部を用いる
    頭文字をもってきているのが前述した允彪(マサト)ですね。健萌絆(トモキ)の「と」は、健の珍しい名乗りで「とし」というのがあるようです。その頭文字かも。絶対読めない(笑)。
    聖白(マシロ)の「ま」。辞書に聖で「まさ」の読みがありました。実例思い浮かびません。もしかしたら「聖母マリア」の「マ」か、と一瞬思ったりして(笑)。愛聖(アイラ)のラも本当にわからん。名乗り読みで「あきら」「たから」というのがあり、その「ら」かもしれません。また「聖(キヨ)らか」という当て読みがあって、そこから「ら」を引っ張ったか…。「聖」をどうしても「ま」「ら」と読ませたい執念があるとしか思えません。
    世愛(セナ)結愛(ユイナ)の「な」は「まな」の「な」でしょうか。まな自体は難しくはありませんが、尻の字をつかわれるともう読めません。あるいは、難しい名乗り読みで「なる」というのがあります。幕末好きなら、正親町三条実愛(サネナル)という公家の名を知っているのではないでしょうか。そこからかな。
    一葵(イチル)は本当に悩みました。もしかしたら…と思うのは、東条内閣の外務大臣だった重光葵(マモル)の「る」です。しかしこんなところから引っ張ってくるかなー。謎です。

    ○何かに引っ張られた読みを用いる
    そのようには読まないものを、無理読みや連想読みしているものです。
    颯太(ソウタ ハヤタ フウタ)。「颯」という字は「颯爽」のサツですね。ソウは読むので「そうた」はいいと思うんです。「フウ」は読みませんね。でも立風なので、風だからフウでもいいだろうとしてしまったのでしょうか。「はや」はおそらく疾風(ハヤテ)のイメージが颯という漢字に内包されている、と思われたのでしょうかね。もちろん颯と疾風は違うものですが、同じ風だから、ということで。こういうのが、後に意味が不明となってしまう名乗り読みが形成されていく過程であるのでしょうか。
    陽翔(ハルヒ)のヒは悩みましたが、もしかしたら飛翔(ヒショウ)から引っ張られたのではないかと推測。
    叶星(トキ)の「と」は何でしょう。十の「とお」なんでしょうか。それとも吐(ト)と似てるから?(そんなアホな吐くと間違えるなんて^^;)

    ○熟字訓の一部を用いる
    大翔(ヤマト)はどういうことだろう。悩みました。これはもしかしたら「大和(ヤマト)」の「やま」ではないのでしょうか。しかし大和は熟字訓です。大(ヤマ)和(ト)ではなく、ひとかたまりで「やまと」なのです。大は「やま」ではなく、しいて言えば大は黙字です(「和」1字でやまとと読む。国の名は2字にしなくてはいけなかったので強引に大を付けた。和泉も同じ)。
    勘違いからの命名なのでしょうか。それとももしや「山は大きいなあ」てなイメージからの読みでしょうか。謎です。

    ○熟字訓を創作する
    希星で「すばる」。これはプレアデス星団のことでしょうけれども、これはいい出来ではないかと思ったりもするのです。「希」の字源は爻(糸を交差させる)と巾(布の意)で、目を細かく織った布、または刺繍をする意があります。その細かさから、かすか、まれ、めずらしいなどの意味ができました。
    昴は、星と星との隙間がごく小さく、まるで空に刺繍をほどこしたかの如くみえます。きわめて珍しい星の連なりで、かすかに瞬いています。これはうまい。新たな熟字訓として定着してもいいくらいだと思います。センスがある。しかし子供の名前としてはどうなのか。それは、わかりません。
    旭花で「あやめ」。これは、なんでしょうね。漢字の読みで考えても無理です。こういう熟字訓はないと思いますので創作でしょう。しかし、その意味から読み解こうとしても難しいですねこれは。

    ○外国語読みをする
    騎士(ナイト)。海(マリン)。説明不要ですね。詩空(シエル)については後述します。

    ○外国語読みの一部を用いる
    「月」を「るな」と読むらしいのです。すごいですね。英語のムーンよりもラテン語のルナのほうが採用されているのは、西欧の名前っぽい、ということでしょうかね。
    もうこういう読みは既に一般化していて、お得意の頭文字使用もなされているようです。愛月(アイル)のルは、おそらくルナの頭文字なのでしょう。星愛(セイラ)のラは、LOVEのラである可能性が高いと思われます。他に考えつかない。しかしこれは、非常に難読です(汗)。

    ○イメージ読み、またその一部を用いる
    「光」で「ぴか」、「星」で「きらら」という読み方が紹介されていました。なんともはや。漢字を擬音語・擬態語で訓じるというのは離れワザだと思います。
    こうしたいわゆる「オノマトペ」に漢字を当てた例として「莞爾(ニッコリ)」「吃驚(ビックリ)」などがあると思いますが、その逆(漢字にオノマトペを当てる)は例が思い浮かびません。なお「綺羅、星の如く」の言い回しのキラは、擬音語ではありません。
    余談ですが、その日本語の語彙には、実は擬音語・擬態語から発生したと思われる言葉がいくつもあります。車(クルクル)、砂利(ジャリジャリ)、猫(ネァ~コ)などがそうだと言われますが、光もそうだといわれます。ピカリ→ひかり。したがって光(ピカ)というのは、先祖返り現象であるのかもしれません。
    この難読名の話になると必ず出てくる名前に「光宙(ピカチュウ)」くんがいます。本当に実在するのか都市伝説かそれはわかりませんけど、こういうイメージで漢字を読んでしまう、というやり方自体はもう深く浸透しているようです。
    叶星(トキ)のキは、キララのキか。イメージ読みもこうして切られるととたんに難読に。沙星(サラ)のラはどう考えても読めないのですが、もしかしたらキララのラかも。そんな無理な(涙)。

    ○置字(黙字あるいは強調字)を用いる
    こういうのは何と考えていいのかわからないのですがね。名前の中に読まない字を入れています。
    前例がないわけじゃありません。例えば官職由来名で、内蔵助(クラノスケ)は「内」を読みませんね。内匠頭(タクミノカミ)もそう。中務省内蔵寮は「うちのくらのつかさ」であったわけですが、後には単に「くらリョウ」とだけ読まれるようになっていったようです。外蔵はなかったわけで(国の出納庁である大蔵に対し天皇個人の財宝関係を内蔵としていた)、徐々にただ「くら」と呼ばれ命名に使用される時代には「くらのかみ」「くらのすけ」だったのでしょう。
    右衛門(エモン)の右が落ちたのは、左衛門(ザエモン)があることを考えると音韻上落ちたのかどうかはわかりません。
    現代の場合はこういうのとは違うでしょうね。長い歴史の中で…というわけではない。字面の雰囲気を整える目的なのでしょうか。あるいは、占いによる画数の問題なのかな。
    空星(ソラ)。星はいらないじゃないですか。これは黙字なのか、それともソラのソとキララのラを組み合わせたものか。謎です。葵絆(キズナ)も葵はいりません。ただ葵は「キ」と読みますので強調したいと思ったのか。それとも雰囲気で置き字をつかったのか。いずれにせよ、読みにくさを助長する結果となっています。
    そして詩空(シエル)ですけれども、相当に考え込んでしまいました。空を「エル」? これはフランス語のciel(skyの意)で、空だけでシエルなんだ、詩が置き字なのだと気が付くまでずいぶんかかりました。

    これで、だいたい読んだと思います。ふぅ。
    ここまでで、全くわからなかった、手がかりもつかめなかったのは、旭花(アヤメ)。どうすればいいのでしょうか。五月の吉日(旭だけに九日かも)、日の出とともに生まれ、旭(アサヒ)と同じ「あ」がつく花のアヤメを名に…うーんストーリーすらうまく作れない。
    そして陽菜(ヒナタ)。そのタは何でしょう(汗)。
    いくらアタマ捻ってもダメだったのは、志耀(シデン)ですね。お願いですから誰か正解を教えてくれませんか。気になってしょうがない。なんで耀がデンなんだ。それにシデンって何? 戦闘機の紫電か、ガンダムのカイ・シデンか、市電か(え?)。

    そんなふうに今ふうの名前を読む特訓をして、時代に追いつこうとするポーズをしたところで、この長々と続いた話を〆るつもりでした。しかし、この話を書こうと思ってから約1ヶ月、全4話のつもりだったものの、いろいろ考えつつ実際に書き進めているうちに、もう少しだけ書きたくなりまして。これは、ある種の結論となります。すみませんが次回へ。
    | 2012/02/22 | 言葉 | 05:57 | comments(2) | trackbacks(0) | - | by 凛太郎 |

    キラキラネーム 3

  • 2012.02.19 Sunday
  • 前回の続きです。
    どうもこういう話を書くと「今どきの親はけしからん」みたいな話になりがちですが、僕はこういう現象をただ興味深いと思い、自分の考えたことを書き留めているだけです。好き嫌いで言えば好きではありませんけど、非難する気持ちまではありません。ひとさまのお子さんの名前にケチをつけるなんてことは、人としてすべきではないと思っています。
    前回、ティアラちゃんについては少し筆が滑ったかもしれません。反省しています。

    ただ、読めない、というのは、本当に困ったことだとは思うのですね。
    書面にしか現れなかった諱(イミナ)などの時代と違って今は、名前は大いに人に呼ばれます。そういう機会が多い。なのに、読み方がわからなければ人はあなたのことを呼ぶことができない。困るのです。
    アルファベット圏にせよ、アラビア語圏にせよハングルにせよ、識字能力のある人であれば、書かれた名前を読めない、ということはありえないのではないかと思います。中国だって、漢字さえしっかりと習得していれば、読めるはずです。もしかしたら、母国語で書かれた文字列(名前)を、高等教育を受けた人が読めない、などという現象が起こりえるのは、日本語だけであるのかもしれません。これは、えらいことではないのでしょうか。
    しかしこれは、今の親の責任だけではないと思います。

    僕の同級生に「直」という名の男がいました。これは「なおし」と読みます。しかし、これが読まれない。来る先生来る先生が間違える。「ただし、でいいの?」「すなお君か?」「なおき?」もう気の毒でした。あだ名は当然「チョク」です。
    他にも「裕美」ちゃんがいましたがこれも「ゆみ」か「ひろみ」かわからない。こういう名前は、自分が親になったらつけないでおこう。その時は思いました。
    こういうのは、日本語における漢字が悪いのです。と言いますか、その漢字を読んできた昔の日本人たちが、悪い。
    そもそも漢字というものは、中国においては1字1音です。しかし日本においては、音と訓ができてしまいました。さらに音読みでも幾通りもある場合が。「直」であれば「チョク」。また呉音で「ジキ」です。正直のジキですね。これは、音が伝わった時期によって読みが異なってしまったのです。詳細はこちらを。
    訓ですと、なおす。なおる。ただちに。すぐ。漢字に和語を当てはめ、そのように日本では読み慣わしてきました。
    じゃ、なおしとかすなおとかただしって、なに? これは「名乗り読み」と呼ばれる読み方です。人名だけにつかわれる読みです。
    普通は、訓読みに近い読みとなっています。直はなおす、という意味だから、なおし、とか。
    しかし、よくわからないものも。裕美の「裕」は音で「ユ・ユウ」。訓だと「ゆたか」ですね。この一字で「ゆたか」と読む男性名はよくあります。しかし「ひろ」とは何でしょうか。これが「名乗り読み」です。ゆたかでゆとりがあって、ひろい心がうまれるから「ひろ」でも良かろう。そんな感じでしょうか。連想ゲームか。昭和天皇が「裕仁(ヒロヒト)」であったことから、昭和では爆発的に使用されるようになったらしく。
    しかし「裕」は「ゆたか」そして「ひろ」だけではなく。漢和辞典には音訓以外に、人名読みも出ています。それを列挙すると「すけ・ひろ・ひろし・まさ・みち・やす」と。おーいなんだよこれは! これが「名乗り読み」というやつか。すけって何? そもそも「右」という字には助けるという意味があって、「右」「佑」「祐」は「すけ」と読むけど、祐と裕が似てるから間違えたんじゃないの?(暴論)
    しかしそういう暴論を言いたくなるほど「名乗り読み」というのは多いのです。さっきの「直」だと「あたい・すなお・ただ・ただし・ただす・ちか・なおき・なおし・なが・ね・のぶる・ま・まさ」と並んでいます。なんだこれは(汗)。

    こういうのは、昔の人が悪いんです。この「名乗り読み」とは、そう読んでもいい、ということではなく、昔の人はこう読んだ、という蓄積であるのですから。あくまで、前例。
    楠木正成は「まさしげ」です。しかし成をなぜ「しげ」と読むのか。正成という名前だったら、普通は「まさ(ただ)なり」だと思いませんか? 源頼朝は「よりとも」。なんで朝が「とも」? 鎮西八郎為朝も三代将軍実朝も「とも」。ところで実はなんで「さね」? 実の中には種があるから?
    キリがないのでやめますが、名乗り読みなんて本当に意味がわかりません。現在の法律が「漢字は制限するけど読みは自由だよ」なんて言っているのは、この時代からの日本の伝統なんです。
    大名の名前なんて、本当に読めませんよ。幕末の教科書記載レベルの有名どころでも伊達宗城(ムネナリ)、山内豊信(トヨシゲ)、松平容保(カタモリ)、板倉勝静(カツキヨ)、堀田正睦(マサヨシ)なんてね。こんなの知ってるから読めるんです。徳川家茂(イエモチ)にせよ一橋慶喜(ヨシノブ)にせよ。普通は喜を「のぶ」とは読めないよ。こんなのみんなDQNネームではないのですか。
    こういう人たちがいたづらに「名乗り読み」を増やしたのではないかと推測。
    「信」は音で「シン」、訓はありません。どう読もうと自由とはいえ、昔から名前では「のぶ」と読んできたじゃないですか。なんで「のぶ」と読むんだと言われればそれは困りますが、織田信長だって松平定信だって乙羽信子だって、みんなノブちゃんじゃないですか。それを「しげ」とか増やすなよ(汗)。「保」は1字で「たもつ」くっついて「やす」。それでいいじゃん。なんで「もり」と?(汗)。
    別にかつての支配者階級たちを擁護するつもりはありませんが、実際にはこの時代、こういう読みはほとんどおもてに出ることはなかったと推測されます。「諱」ですから。伊達宗城は「殿さま」であり、伊予守、大膳大夫。仮に親であっても通称で(亀三郎など)呼ぶでしょう。宗城(ムネナリ)様と呼ばれることはまずありませんでした。なので、誰も「城をナリなんて読めないよ」と困る人がおらず、比較的寛容であったという見方もできます。今と違って。
    しかし、こうした昔の人物名の読みは、辞書には載ってしまいます。歴史書を読み解くために。
    そうして、ひとつの漢字に数多くの「名乗り読み」というものが蓄積され、辞書にたまってしまうのです。いくら室町時代の公家や江戸時代の大名はヒドいよと言っても、もうしょうがない。時は遡れない。これらは前例となって、ズラズラと列記されてしまっています。
    しかしながら、以前であればそういうのが名付けに利用されることはあまりありませんでした。あまり珍しいものは特殊なもの、とわかっていましたから。また漢字と音は連動していましたので、「かずお」と名付けたければ「和夫」か「一雄」か、あとは数種の入れ替えしかない。「よしこ」なら「良・芳・好・美・佳・淑・善・義・喜・嘉」とバリエーションは豊富ですが、これらの字はせいぜい「良子(リョウコ)」「佳子(カコ・ケイコ)」と重箱読みするくらいでほとんど読みでは間違えない。「淑子(トシコ)」はあったかもしれませんが「好子(コノコ)」はないでしょう。今ふうの「遥詩香」なんてありえません。ある程度の大枠がありました。
    今は、まず響きの良い名前の読みを選び、そこに漢字を当てはめる時代。まず漢字は音訓から探すとは思いますけれども、そこに満足がいかなかった場合、人名読み一覧まで見て「あ、こんな読みもあるんだ♪」と採用してしまう。辞書に載っていることをお墨付きのようにして…。

    僕の個人的な思いとしましては(あくまで個人的として)、これから親になる若い人は、まずは、できれば最低限、新例は作ってほしくないんですよ。読むほうが大変だから(汗)。
    名前ってのは、自分で読むよりも他人に呼ばれることのほうが多いじゃないですか。せめて、前例がある読みのほうが読まれやすいと思うのですよ。
    その前例も「容保(カタモリ)がいるから保はモリでいいんだな」じゃなくて、「やす」とか「たもつ」などの、できれば読み慣わされているものを選んでほしい。でないと、ワシらが読めない。「世界にひとつだけの名前」というお気持ちはわかりますけど、読む側のことも少しは気遣ってくれたら…。

    しかし、いくら僕がそんなことを言ってもムダで。新しい名前は、どんどん生み出されています。自由だもんなあ。
    さて、日本の命名には現在、ルールというものはほぼありません。戸籍には読みかたが記載されないため、どんな読みも可能です。よく「太郎と書いてジローと読んでもいい」という話がありますが、事実です。
    ただし、使用できる字には制限があります。

    戸籍法の50条(第4章「届出」第2節「出生」)に、
    ・子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。
    ・常用平易な文字の範囲は、法務省令でこれを定める。
    と、あります。
    その法務省令とは、戸籍法施行規則の第60条「常用平易な文字の範囲」です。以下。
    戸籍法第50条第2項の常用平易な文字は、次に掲げるものとする。
    1. 昭和56年内閣告示第1号常用漢字表に掲げる漢字
    2. 別表第2に掲げる漢字
    3. 片仮名又は仮名(変体仮名を除く。)
    1の漢字は常用漢字2136字であり、2は人名用漢字861字です。つまり使用できる漢字は計2997字(2012/2現在 これは増減の可能性あり)となります。他は、ひらがな、カタカナということになります。
    逆に言えばこれ以外は使用できないわけです。例えば英数字はダメ。1郎やQ太郎では受理されません。変体仮名というのは、ちょっと変換できないのですが、うなぎ屋さんの看板に「うふぎ」みたいに読めちゃう字がよく書いてあるじゃないですか(わかるかな^^;)。あれです。あの字はダメってこと。

    さて、僕は「名には常用平易な文字を用いなければならない」なんて法律で決めるのはおかしい、と思っています。漢字がこれだけたくさんあるのに、それに国家が枠をはめて押し付ける権利なんてあるわけがない。実に阿呆らしい。憲法が保障する表現の自由に反しており、違憲の疑いもあると考えています。戦前は、自由でした。
    そもそも常用漢字なんてのは戦後の「当用漢字」1850字がもとになっているわけで、この当用漢字というのは国語審議会が日本から漢字を全廃することを目的にして定めたものです。だから「当用」なんです。過渡期だよ、いずれ漢字は全部無くすからね、それまで当座これだけは遣ってもいいよってこと。えげつないことが国家によって推し進められようとしていたわけですが、そんな流れは当然ながら揺り戻しがきて、現在に至っても漢字は無くなってはいません。でも、その名残として、今でも新聞記事は「ら致」「破たん」「隠ぺい」などと書きます。読みにくいったらありゃしない。そりゃ当時は活字を1850字用意すればよかった新聞社は当用漢字はありがたかったかもしれませんが、もうそんな活字拾ってる時代じゃないでしょう。このデジタル時代に、制限なんて無意味です。常用漢字なんて廃止してしまえ。
    しかし個人の心情としては、僕は「名には常用平易な文字を用いるべき」という考えを持っています。国が法律で決めるべきことじゃない、とは思いますが、人への気遣いという面では、読みやすい名前のほうがいいという考え方であるからです。
    それはともかく。
    上記戸籍法が施行された昭和23年当時は、法務省令で定めるところの常用平易な文字は当用漢字1850字しかありませんでした。そこには「之・也・吾・彦・奈・輔」などの当時の名前の基本となるような止め字、また「浩・淳・聡・昌・朋・弘」など人気の字が含まれていなかったために、昭和26年に別表で92字だけ追加しました。これが最初の人名用漢字です。しかし+92字ではやはり少なく、徐々に追加されまた訴訟もあり、最終的に現在861字まで増えたわけですが、特に2004年には3倍強になりました。要望も多く、ここで一気に増やしたようです。
    このとき要望の実態調査に関わられた笹原宏之氏の著作「日本の漢字」を読んでいましたら、興味深い記述がありました。
    このとき全国で最も「人名漢字に入れてくれ」との要望が多かったのが「桔」と「苺」であったということです。「桔」は桔梗の字ですね。この当時の親がどういう名前を付けたがっていたのかがよくわかる気がします。桔と苺はこのとき人名用漢字となりました。そして、全国に苺ちゃんや苺姫ちゃんが増えたみたいですね。
    さらに「僾」という、にんべんに愛という字の要望が多く上がったらしいということです。僕はこんな漢字知りませんでした。読みは「ほのか」と。その響きは実に若い人に人気がありそうです。
    ですが、意味は「ぼんやりしている」ということのようで。僕の漢和辞典には「むせぶ・呼吸がつかえる」ともありました。かくれる、という意味もあるらしいです。あまりいい漢字とはいえないような。
    笹原氏も指摘されていますが、音先行で「ほのか」と名づけたくて、どういう漢字を当てはめるか調べた際、「仄」では灰みたいだし「恍」では恍惚の人みたいで困る。「僾」は人に愛し愛されるみたいな感じで、これはぜひつかいたいと思ったが、人名用漢字にないので要望、という流れではなかったのだろうか、と。
    こういう話を読みますと、思わず「やはり法律で漢字は制限したほうがいいのか」との思いに揺れてしまいます。笹原氏はもっと驚くべき漢字が要望に上がった、と書かれています。
    それは「胱(コウ)」。字面は確かに「月光」に見えます。月の光とはイメージがいい、男の子ならコウキとでも付ければ、女性でも「柴崎コウ」とかいらっしゃるし…と思われた方がおられたのでしょう。しかし、よく見てください。これは「膀胱(ボウコウ)」の胱です(汗)。
    法務局に要望する前に、漢和辞典を見ないのでしょうかね。漢和辞典がもしも家に無かったとしても、この時代なんらかの調べる手段はあると思うのですが。要望には「腥(セイ)」もあったようです。月と星か。意味は「なまぐさい」。調べないのでしょうか…。

    もしかしたら、漢字の位置づけが変わってきてしまっているのかもしれません。漢字は、音も示しますが字の中に意味も内包しています。その「表意文字」の部分が、徐々に薄れてきてしまっているのでしょうか。
    イメージというものは、あるようです。その漢字の雰囲気といいますか。「感字」という言葉もあるようで。
    例えば「空」という字は人気があるようですが、どうも「抜けるように高くどこまでも広く青い空」というイメージだけが突出し、空虚な、なにもない空っぽ、あく、すくなどの良くないイメージはどこかに行ってしまったかのようです。そもそも「穴」に音を表す「工」が重なった字です。穴なんですよ。僕なら命名にはつかいたくない。しかしイメージは「からっぽ」より、そこから派生した「sky」へ。
    中国で象形文字から発展し形成された漢字は、1字が1音節を示す表音文字であると同時に、ひとつの意味を持つ表意文字でした。日本へ輸入された漢字は、そのまま中国語として用いられると同時に、日本語を表記するための表音文字として取り入れられました(万葉仮名)。しかし漢字は中国語としても徐々に日本語に入り、中国語としての字義を示すだけに留まらず、訓読みというものが発明され、表意文字として日本語の中に完全定着しました。表音文字としての漢字(万葉仮名)は、ひらがなカタカナとして発展的解消しました。
    現在は、命名は音先行。漢字は、名付けにおいては再び万葉仮名化してゆく傾向にある、とも言えます。ただ、良字を選ぶ。「琉絆空(ルキア)」も、例えば「流飢哀」などとは名付けない。大切な子供の名前ですから当然のことでしょう。しかし、そのくらいの意味しか持たなくなってしまったのでは、とも思えます。
    それでも漢字をつかうのか。それしか音をあらわす文字がなかった古代とは違って、今は表音文字としてのひらがな、カタカナがあります。それで事足りるはず。それでも、名付け親たちは敢然として漢字をつかう。どうしてでしょう。
    暴走族の「夜露死苦」と同列にしたら親御さんたちに怒られるかもしれませんが、なんだか漢字をつかうとカッコいい感じがする。重みが増すように思える。この「重み」というのは、肝要なことであるのかもしれません。もっと言えば、呪術性が加味される、とも言えるでしょうか。
    漢字を、日本語としては表音文字としてのみとり入れていた時代にも、その表意性が浮き上がってくる場合もありました。よく知られていることですが、万葉集で「恋(コヒ)」を「孤悲」と表記している事例が多くあります。詩的ですね。このようにすれば、万葉仮名はただの表音文字にとどまらず幾重にも想いが層をなすことになるのです。
    現代の親も、やはりかつて万葉仮名で古代の詩人がやったように、文字を重層化させて、思いをこめようとするのでしょう。幸多かれと。前途に良き未来あれ、と。
    そんな人々の思いがある限り、命名において漢字は廃れてはいかないのではないかと思えます。

    しかし、今の名前は難しい(汗)。その思いをこめた漢字が読めないよ。その恐るべき用法について、次回
    | 2012/02/19 | 言葉 | 07:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | by 凛太郎 |

    キラキラネーム 2

  • 2012.02.15 Wednesday
  • 前回の続きです。「日経新聞」 の、難読命名が増えたという記事からの話です。リンク切れの場合は前回を参照してください。

    さてその「読みにくい」ということの原因ですが、3つほど要因があるのではと思います。
    ひとつは、総論みたいなものですが、名前をより個性的にしようとする心理が働いている、という説。これは、日経の記事でも言及されています。少子化でもあり、親だって名前をつけるチャンスが少ないのです。なので、他人とは絶対に違う名前にしたい。個性を持たせたい。漢字も厳選したい。そして結果、キラキラした名前になってしまう、という話です。
    次に(各論的になりますが)、その名が今までの日本の名前に無かった音の連なりになっている、ということ。
    みしょう君、しでん君、るきあ君、せいらちゃん、しえるちゃん、のあちゃん。こういう日本人の名前の響きに、我々はまだ慣れていないと思うのです。経験がないので、そのように読むという発想が出てこない。
    さらに、漢字の使い方ですね。
    心愛でここあちゃん。こころ・あいの頭だけをとった命名。僕らからしてみれば、どうひっくり返っても読めないわけですが、名前の読みは自由だからなあ。
    最も多いのは「翔」と書いて「と」と読ませるものでしょうか。すごいな。「とぶ」の「と」なのでしょうけれども、「とぶ」と今打ち込んでも「飛ぶ・跳ぶ」としか変換しません。基本的には「かける」が翔の訓です。
    「翔ぶ」で、とぶと読むのが一般化したのは、「翔ぶが如く」からかな。「翔んだカップル」のほうかな。意味は「天翔る(あまかける)」ですからもちろん「とぶ」と訓じてもいいと思います。しかしその「と」だけを借用するというアイディアは、まさに翔んだ発想。
    これら要因が重なって、読めない名前となっているのではないかと考えます。

    まず、個性を重視した場合。
    しかし、個性的な名前にしたい、という親心は、今に始まったことではありません。そういう気持ちをみな持っているからこそ、「寿限無」という落語を聴いて大爆笑するのです。
    実際に珍しい名を子供につけた親として、織田信長がいます。信長の長男(後の信忠)は「奇妙」という名でした。次男(後の信雄)は何と「茶筅」です。それに比べれば、今の子なんてかわいいものかもしれません。
    僕が、こんな名前があるのか、と最初に驚いたのは、江崎玲於奈博士のノーベル賞受賞のニュースであったかもしれません。「れ、れおな?!」 日本人とは思えませんでした。でも、そんなの今じゃ普通なのかも。
    気の毒なのは、思い切り個性的な名前をつけたつもりで、実はそうでなかった場合ですね。
    僕のごく親しい間柄の人に、男の子が生まれたときのことです。もう十何年か前ですけど。
    「"陸"という名前にしたんや。大地にしっかりと足をつけて生きていけるように。どないや、ええ名前やろう。個性的で」
    「そやなー。他にない名前やな」
    僕はそう同意しました。本当に珍しい名前だと思ったのです。珍しすぎて、学校でいじめられるのではないかとまで危惧しました。しかし…。
    「陸」という名は、実は常に名前ランキングの上位に入っている「ありふれた名前」でした。ある年は1位になったことも。へー。少なくとも僕ら(上記命名者も同世代です)のまわりにはいない名前でしたので、個性的だなと思ったのですが…。名付けたあいつは、どう思っているでしょうか。個性的と信じていたはずなのに。多分クラスに2、3人は陸クンがいるんでしょうね。世の人の発想は、似てくるのです。
    颯太クンや陽翔クンも、個性を重視して名づけられたのかもしれません。難しいもんだな、と思いますね命名というのも。
    もう「陸」じゃ駄目なんだ。もっと「世界にひとつだけの名前」を付けなくては。only one。そういうのが高じて、難読命名に繋がってしまうというのは、わかります。親の気持ちとしてね。

    そして、音の問題が出てくるのでしょうが。
    しかしこれは、時間が解決するのかもしれません。みしょう君や、るきあ君、しえるちゃんが「よくある名前」になればね。そうなれば琉絆空くんに対して心構えが出来て「えーっと琉球のリュウやろ、あ、ルかもしれん。絆はキヅナのキだけとって、ルキ。空はなんかわからんけど、ルキまでくればルキアかもしれん。よくある名前だから」なんてね。経験をつめば、なんとかなる可能性もあります。
    しかし、ルキアなんてどこから思いつくんでしょうねー。何かの登場人物にいるのかもしれませんが、あたしゃ知りません。けれども、ルキア君って多いらしくてね。もしかしたら、僕らの世代のヒロシやタカシ並みであるかもしれません。
    こういう名前は「音先行」であるのは間違いないでしょう。日経も「音の響きやリズム、イメージを重視する傾向が急速に強まっている」と書いています。漢字はあとから当てはめるということ。で、その「音」の発想がどこからあるのか、ということですが。
    元ネタがわかりやすい名前もあります。外国の名前からとったりすればね。樹里亜や紫音、健翔。外国で通用する名前にしたい、という親心。実際は世界に通用するためにはいくら名前を外国ふうにしてもダメで本人の実力なわけですが(笑)。しごく日本的な名前でも本人次第で通用しますからね(例:イチロー)。
    しかし気持ちはわからなくもない。こういうのは、森鷗外が有名ですね。子供に於菟、茉莉、杏奴といった名前をつけました。於菟(オットー)と聞けば、僕などはオットー・ワンツを思い出しますねー(独のプロレスラーですが)。鷗外はドイツ生活が長かったわけで、そのことが反映されています。案外、当時は切実な思いだったのかもしれません。
    他に、小説や漫画、ドラマ、アニメなどの登場人物からのあやかり名とかね。こういうのは昔からあったことです。きれいな女優さんやアイドルの名を拝借する、とか。しかしながら、今のアニメとかの名前は、日本人という設定であっても昔みたいに「正太郎」とか「甲児」じゃないですからね。
    僕の知ってる範囲内で、ハルヒちゃんが3人ほど実在しています(笑)。ハルヒならまだわかるけど(西宮市民なので)、「ひたぎ」「ほむら」「いのり」「まぎか」…。こういう名前に僕ら世代は慣れていませんので、どうしても戸惑い、結果読めないわけです。まして「カミーユ」「ゲンドウ」なんて、無理。
    さらにただ「響きがいい」というだけで選んだ文字列とか。「ティアラ」という名前は実在するんですってね。驚きです。
    しかしながら。
    この「てぃ」という発音を名前に入れるということは、相当な冒険ではありますまいか。日本語の音韻ということから考えますと。

    日本語の本来の「音」というものは、どういうものであったのか。古代にテープレコーダーがあるわけではないのに、研究はなされています。学者とはすごいものだと改めて思いますが、上代(古事記の時代)には日本語の音節は88音あった、とされています。万葉仮名でそれだけ書き分けられている、ということです。古代人は現代人よりある意味複雑な発音をこなしていたことになります。「こ」にも「ひ」にも2種類の発音がありました。この話はあまり関係ないのでここまでにしますが。
    そのうち、整理統合されてきまして、近代には68音になったわけです。50音図を思い出していただければいいかと。あいうえおかきくけこ、ですね。あかさたなはまやらわがざだばぱ×5=75、そこから「じ」と「ぢ」は現在同じ発音なので外す、等の作業をしますと67音になります。「ゐ」も「ゑ」も現在は発音としては基本的に消滅しています。「を」も発音はwoですので、もう音としては存在していないことになります。字だけ残っているわけです。
    この67音が、日本語本来の音韻です(半濁音ぱぴぷぺぽについては、諸説ありますが)。それに撥音(ん)を加えて、68音です。(上代に「ん」はなかったようです)
    しかし、音節はまだあります。促音(っ。っだけでは音節にならないので、てっ・かっ・とっ等として成立する)、拗音(ゃゅょ。「きしちにひみりぎじびぴ」に付いて成立する。きゃ・しゅ・ちょ)、長音(ー)などです。
    これら音節が出来たのは、音便化もありますが、漢字の音が日本語に入ってきて生まれた音が多いわけです。ずっと昔の日本語には、こういった音はなかったのです。現在でもこれら音節には単独のカナがなく、こっ、ちゃ、きゅ、しょ、とカナを組み合わせて表記せざるをえないわけです。(撥音「ん」だけは後にカナが出来た)。
    これら拗音などは、漢字と同時に日本に「外来音」として入ってきたとも考えられますが(8世紀には既に存在したとも考えられています)、「日本語」の発音として定着したのは室町時代くらいでは、とも言われます。音便化でも拗音が遣われ(「しませう」が「しましょう」となる等)、名前にもとり入れられます。名前に入れば、それは完全定着ですね。最初は役職名の通称化からだったかも(「弾正」「修理」「日向」など)しれませんが、のちには官職に関係ない名前も出てきます。「坂本龍馬」なんてのはそうですね。
    漢字によってもたらされた拗音などは、こうして長い時間をかけて日本語の音に定着しました。現在では、日本人だれもが何の問題もなく発音できると思われます。

    明治以降、今度は欧米の言葉がどっと入ってきました。そこには、今まで日本語になかった発音、あるいはかつて存在したかもしれないが既に消滅した発音が数多く含まれています。「うぃ・てぃ・とぅ・でぃ・どぅ・つぉ・ふぁ・ふぇ」など、何とか聞き取ったその音に、日本語も対応しなくてはいけません。なので、拗音を超えて「ぁぃぅぇぉ」などの文字をつかって、なんとか表記してカナで消化しようとがんばりました。「Tiara」もチアラなどではなく「ティアラ」と、原音に近づけた表記にしました。
    しかしこれらは、まだ日本語の音韻として完全定着するには至っていないのではないでしょうか。
    年配の方々はまだ「ティー・ディー」をちゃんと発音できず、TBSをてーびーえすと言ったり、Dを「でー」と言われたりします。まだまだこれらは「外来音」の域を出ず、日本語の音として定着するにはもう少し時間がかかるのではないか、と僕は思っています。漢字の促音や拗音だって結構時間がかかったんだ。まだDを「でー」としか発音できない世代が残るうちは…。いや、僕だって「クォーツ」「ウェイト」など正確に発音できているかどうか。「うえいと」とつい言います。
    しかし、その「完全定着」していない音をもう「名前」に使用する人たちがあらわれたのです。おいおい気持ちはわかるけどちょっと待て、早すぎるぞ、と僕なんかはどうしても思ってしまうのです。おじいちゃんおばあちゃんは、「ティアラちゃん」と呼びかけられず「テアラちゃん」になってしまう場合もあるのではないですか。孫の名が呼べない悲哀、なんて話はあまり聞きませんが、無いとはいえません。僕だって、もしもウェンツ君なんて現れたらそれは「うえんつ」と発音してしまうでしょう。
    苦言を呈するわけではありませんが、まだ日本語として完全に定着していない音韻をもちいた名前をつけるのは、人にやさしくない態度ではないでしょうか。これだけは、思うのです。

    そして、名前に外来音を使用した上で、さらに「漢字」に当てはめようとするのです。それは無理だよ(汗)。漢字にはそもそも無い音だもの。
    「シェリー」としたかったのに漢字に「シェ」の音が無いのでしょうがなく「詩絵里」にした。これは「しえりちゃん」であれば読めます。しかし「シェリー」と読めといわれてもこれは予備知識なしには読めません。役所は漢字でなくてもひらがなカタカナで受け付けてくれるんだから、無理に漢字にしなくてもいいと思うのですが。その、それでも漢字をつかう心理は、非常に興味深いものがありますね。
    「ティアラ」ちゃんは、某芸能人の娘さんに実際にいらっしゃるらしい。しかしながらその漢字は、さすがにプライベートなので公開されておられないのか、検索しても説はあるものの確実な答えは得られませんでした。しかし、漢字であることは間違いないようです。絶対に、当て字だと思われます(笑)。
    こうした外来音で名づけようとすることも、読めない名前の一因になっているのでは、と思われるのですが。

    以下、名前における漢字のつかいかたについて言及したかったのですが、長くなりました。次回へ。
    | 2012/02/15 | 言葉 | 06:18 | comments(6) | trackbacks(0) | - | by 凛太郎 |

    キラキラネーム 1

  • 2012.02.12 Sunday
  • 先月の日経新聞の記事についてなんですけれどもね。これは面白い話だったので、読んですぐ書き始めたのですが、途中風邪引いたり味覚無くしたりやなんやで放置してしまっていました。せっかく途中まで書いていたので、いまさらですがアップします。以下の記事についての話。

     「心星、愛月… 読みにくい名前、なぜ増える?」 日本経済新聞WEB(2012/1/20)

    いずれリンク切れしてしまいますので概要だけ書いておきますけど、まずは、今の子供達は個性的な名前が増えたね、という話。ことに難読の名前が多いようで。
    例として「心星、允彪、英虎、騎士、楽心、希星、愛月、葵絆、海、聖白、一葵、詩空」というのが載せられています。すぐさま解答で恐縮ですが、「みしょう、まさと、えいと、ないと、らう、すばる、あいる、きずな、まりん、ましろ、いちる、しえる」と読むそうです。僕はひとつも読めませんでした。いや、もしかしたら騎士、海はナイトでマリンかも、と思いましたが、それを自分の解答として出すにはさすがに抵抗がありましたよ。他は、読めないですねぇ…。リンク先にはもっと多くの読めない名前が挙げられています。
    こういう名前のことを、キラキラネームと言う人もいるらしいですね。雰囲気が伝わるな。ただし、聞いた話によればこの「キラキラ」というのはどうも蔑称的であるかもしれませんので、表題に使うのはどうかな、とも思いましたが、わかりやすいのでまあいいかと(抗議あれば謝ります)。ネットではDQNネームとも言うらしいので、それよりはマシかな。
    さらに、個性的な名前だけではなく、現在多数の子供につけられた名前も、読めないのだそうで。どういうことかと言えば、読み方が多岐にわたるのらしく。
    昨年(2011年)の人気ランキングの上位が例として挙げられていますが、男子1位の「大翔」くん。読み方「ひろと」「はると」「やまと」等。女子1位の陽菜ちゃん。「ひな」「はるな」「ひなた」等。なるほどね。他に男子上位の颯太くんは「そうた、はやた、ふうた」など。「颯」か。難しい字が流行ってるんですね。陽翔くんは「はると、あきと、はるひ」など。へー。そもそもランク4位の陽翔くんって、あたしゃ「ようしょう」としか読めなかったよ(汗)。

    うーむ。
    なんだか大変なことになっている、という印象が(笑)。もちろん、ひとさまのお子さんの名前ですから、とやかく言うのはよろしくない、ということはわかっていますよ。しかし、これは読めないぞ。えらい時代になってきたな。日経の記事も「読めねーぜ困ったな」というのが趣旨です。
    こういう傾向が良いのか良くないのかの判断は、僕にはできませんけど。好きか嫌いかと言われればそれは嫌いですが、良し悪しで考えるべきことなのかはわかりませんしね。
    ただ、もういろんなことが思いうかぶのですよ。こういう話からは。

    ひとつは、こういう「名前の時代による変貌、または流行」という現象は、日本だけの話なのか、ということ。
    以前「シャビという名は」という記事を書いたことがあります。サッカーW杯のメンバー表をながめつつ、各国の選手の名前からお国柄みたいなものを見た記事です。そのなかで、いわゆるファーストネームは、欧州諸国では驚くほど共通名があり、また伝統的な名前が多い、ということでした。聖書等の名前を今も遣っていたりするのです。大天使ミカエルの名を各国でマイケル、ミッシェル、ミハイルなどと名づけている。ジョンもヨハネも、みな昔からの名前。シャビも、ザビエルなのだ、ということ。そういう話。
    ヨーロッパの人の名前が、みんなそういう伝統名ばかりかどうかは知りませんし、珍しい名前もいらっしゃるのかもしれません。でも、少なくともポールやジョンは2000年前から存在した名前で、そういう命名法は今も生きているわけで。
    こういうキリスト教にまつわる伝統名(あるいはヨーロッパ的な名前)は、キリスト教の伝播(あるいは植民地支配)にしたがって世界に広まったと考えられるのでしょうか。南北アメリカ、そしてアフリカへ。
    例えばカメルーンの有名なサッカー選手エムボマの本名は「アンリ・パトリック・ンボマ・デム」です。「ンボマ」という名はいかにもアフリカの伝統的な名前っぽいのですが(「ン」から始まってる)、アンリはヘンリー、ハインリヒ、エンリケなどと同じヨーロッパの伝統名であり、パトリックは聖人名ですね。こういう名前は、おそらくヨーロッパとの接触以前にはなかったのではないのか、と推測します(推測ですみませんが)。大航海時代、また植民地時代、あるいは近年かいつかはわからないのですが、アフリカでも名前は時代により変貌がみられたのではないでしょうか。
    アジアは、どうなのでしょう。よく知らないので何とも言えないのですけど。
    イスラム圏では、ムハンマドやアブドゥラやイブラヒームなど、やはり聖人の名が多くみられるように思います。めずらしい名や変わった名があるのかどうかは知識がないんですけど、伝統名は存在するようです。
    中国においては、命名は規則的であるようですね。漢字1字か2字。3字ってのは存在しないようです。で、2文字の場合は、1文字目が輩行字と言って、兄弟に共通の字。2文字目が固有の字ということになるそうで。例えば胡錦濤主席には妹さんが二人いて、胡錦蓉さんと胡錦萊さん。この「胡」が姓で「錦」が輩行字ということになりますね。1文字名でも部首をあわせるなどの工夫があるようです。こうした伝統的な命名法が一応、生きているようです。珍しい名前はあるのかもしれませんが(一人っ子政策は輩行字の意味を無くしますからね)、よくわかりません。
    朝鮮半島も、基本は漢字による命名であるようです。ただ、ハングル表記が多くわかりにくいですね。中国の輩行字と同様の「行列字」というものが命名には存在するようで。金日成→金正日→金正恩ときて、次は恩のつく名になるのでしょうか。本来「行列字」というもののシステムはそんな簡単なものではないらしいのですが、書き出すときりがないので省略します。
    韓国の名前はよく耳にする機会が多いのですが、そんなにダブっていないような。ミョンバクとかヨンジュンとかチソンとかウヨンとか。流行の名前はあるのかな。ウヨンというのは我らがサンガのボランチでU-23韓国代表のチョン・ウヨン(鄭又榮)を念頭において書いたのですが、検索したらなんだか韓流アイドルにもウヨンという人がいるらしく。年齢も同じであるようですから、流行っていたのでしょうか。漢字表記が同じかどうかは知りませんが。
    変わったところでは、基本的には名前は漢字2文字であるはずだったのに、そうでない人も昨今では登場しているようです。韓国サッカー史上最高のFWと言われるチャ・ブンクン(車範根)の息子で、現在セルティックでプレーするチャ・ドゥリの名は、漢字では書けないのだそうで。車두리とハングルでしか表記できません(意味は「ふたつ」兄弟2番目だから)。こういう伝統的ではない名は、他にも見受けられるのでしょうか。もしかしたら、韓国でもキラキラした名前が誕生し始めているのでしょうか。

    さて、日本ですが、命名の仕方には歴史的変遷がみられます。古代から現在まで、人はさまざまに名づけられてきました。西洋の諸国のように、2000年前の命名がまだ現在も生き残っている、なんてことはありません。
    古事記や日本書紀には神の世界の話もあり(何千年前かは不明)、初代天皇からも2千数百年経過しています。その初代天皇である神武の名は、カムヤマトイワレヒコノミコトです。神倭伊波礼琵古命とか神日本磐余彦尊などと表記されますが、もしも神武天皇が実在したとして、この時代はまだ日本に漢字が入ってきてません。なので、あくまで漢字表記は後世の当て字です。
    この長い名の根幹は「イワレヒコ」ですね。ここに、古代日本の名前がどういうものだったか、という香りがうかがえます。崇神は「ミマキイリヒコ」、応神は「ホムダワケ」だったと言われます。ちょっと現在では名づけられる可能性が少ない名前でしょう。
    このあたり、神話の延長みたいな部分もあり、客観的な名前ではない可能性もあります(後世に尊名を諡られた、とか)。では当時の外国の文献にはどう載っているか、ですが。
    古くは漢書地理志に倭が登場、そして後漢書東夷伝に「金印」の記述がありますが、ここには日本人の具体名は出てきていません。有名なのは魏志倭人伝で、卑弥呼という女王が出てきます。しかしこの「ヒミコ」は固有名であったと断言はできません。「ひめみこ」などの一般名であった可能性もあると思われます。
    ここで出てくる固有名の可能性がある名は、卑弥呼が派遣した「難升米」「都市牛利」という人物です。なしめ、としごり、と読んだのか、よくわかりません。もうひとり、卑弥呼の後継者として「壹與」(梁書諸夷伝などでは「臺與」)という人物がいます。これは女性で、とよorいよではないかと言われます。トヨさんなら今でもおばあちゃん年代ならいらっしゃってもおかしくはないですが…他はちょっと現代では考えにくいですね。
    この時代、日本にはまだ文字がありません。漢字は入ってきていたとも考えられますが、あくまでそれは外国の文字です。日本語表記に使用されていません。
    その後、当て字、訓読みが生まれてきます。万葉仮名というものも。阿以宇衣於・加企久計古、みたいな感じで。ひらがな、かたかなはもう少しのちに生まれます。
    したがって古代の日本の命名は、漢字ありきではなかったと思われますね。まず音があって、それに漢字を当てはめる。イワレヒコやホムダワケ(品陀和気)なんてのも音先行ですから、いくつもの書き方があります。飛鳥時代まではそうだったのではないでしょうか。ウマコやイルカ、カマタリ、フヒトなんてのは、音先行なんじゃないかなぁ。蘇我「入鹿」や藤原「不比等」なんてのは、ただ読みに漢字を当てただけ、と僕は考えています。不比等の息子は長男ムチマロ、以下フササキ、ウマカイ、マロで、これも音先行の日本固有名でしょう。
    しかし、藤原武智麻呂(ムチマロ)の長男は、豊成(トヨナリ)です。このあたりから、命名の変貌が徐々に始まってくるように思えます。漢字2文字で表わし、良い字を遣う。音先行ではなく字面から入っている感じもします。まず漢字ありき。この頃、訓読みという方法が徐々に浸透してきたということもあるのかもしれません。不比等、武智麻呂が完全に万葉仮名方式であったことと比べて、一大変革であるような気もします。
    これは、中国名に影響されたといっていいでしょう。つまり、外国でも通用する名前にした、ということです。藤原豊成。おそらく中国との書類には、原を省略して「藤豊成」と署名したことでしょう。「トウホウセイ」と読んでもらってもいい、と考えていたのでしょうか。源氏や平氏はそもそも一字姓ですから、中国風ですね。
    現在、親が「この国際化時代、外国で通用する名前を」といって「樹理杏」とか「鞠林」とかつけたりする場合がありますが、それと共通するものを覚えます。外国といっても英語圏、広げても欧州語圏だけで考えるのも、古代に中国のことだけ意識していたこととカブります。考えることは、いつの時代も同じなのか?
    この「唐風名」は、平安時代に菅原清公によって朝廷に建議され、唐風好みの嵯峨天皇によって完全定着します。官位を持つ女性の「彰子」「定子」という子がつく名前も、このときに定着したとされます。
    ただし、この中国風名前も、定着はしたものの、実はさほど膾炙はしなかったのかも。「いみな」でしたからね。本名である「諱」は実生活では遣われず、書面くらいしか出てこない。かわりに通称がもちいられます。
    源義経は、「もしや義経殿では」「おーい義経ちゃん」とは呼ばれません。通称である「九郎」か、また役職名である「判官」「伊予守(予州)」などで呼ばれます。この「九郎」という通称に、諱とちがう日本的な響きがあります。
    そのうち役職名も、律令制度が形骸化したことで、通称と化してきます。勝手に役職名を自分の名として名乗るわけです。最初は箔をつける、という意味合いだったのでしょう。
    そういう由来の名前は多く、例えば旗本退屈男は早乙女主水介、忠臣蔵は大石内蔵助ですが、「助(介・輔)」とは本来、役所の次官のことです。主水は水道局であり内蔵は財宝管理所です。そこの次官という意味。蔵人、左京、右近とか、○○兵衛とか○○左衛門なんてのも、役職から発展した通称です。ちなみに大石の本名(諱)は、良雄です。
    こういう話は、支配者階級のことです。農民や町人は諱なんて持ってない。なので、五郎だったり三吉だったり与作だったりするわけです。ただ、長兵衛とか大左衛門とかいう官職由来の名前は農民や町人階級にも浸透してきます。女性は、おみつだったりおかよちゃんだったり。
    そして明治になり、戸籍作成の関係上日本の名は「姓・名」に統一されます。なので例えば武士のように通称と諱を持っていた人たちは、選ばなくてはいけなくなりました。「大久保利通」や「木戸孝允」「伊藤博文」らは諱からの名ですね。「江藤新平」「板垣退助」「後藤象二郎」なんてのは通称から。なんとなくわかりますね。
    そして四民平等ですから、誰もがどんな名をつけてもいい。だから、支配階級のものだった諱ふうの名前をつける一般の人も多く出てきました。良隆とか泰武とか雅秀とかね。
    もちろん通称ふうの次郎とか庄助も多かったのですが、政府は明治3年に旧官名禁止令を出します。おまえら官職に就いているわけでもないのに兵衛とか衛門とか名乗るな、という布告。そんなこと言われても(汗)。この布告は完全に守られることはなかった(そりゃそうだ)のですが、それでもいちおう禁止令なので、名前に兵衛や衛門、輔、丞などがついていた人は改名された例も多かったようです。ということは、さらに諱的な命名にシフトする後押しになったのかもしれません。
    諱ふうというのはつまり、中国っぽい名前と言ってもいいのかもしれません。なので、明治になって日本では外国ふうの名が増えた、ともいえるかも(これはさすがに話を面白く書きすぎているかな…)。
    そして通称ふうの名においては、官名禁止令があり、その命令は守られずとも効果はあったのか、又右衛門や弥次郎兵衛なんて名前は、徐々に減っていったのです。そうなると「○○ざえもん、なんて古臭い名前だな」みたいな感覚も生まれてきたのかも。
    名前の流行というものは、こうして生じていくのでしょうかね。女性は、貴族の命名法だった○○子という名が増えていったのかな。
    そうして、日本では流行の波をいくつもかぶって命名がなされてきました。昭和になったら「昭雄」「昭一」「忠昭」なんて名前が流行ったり。「昭」という字は、それまで知名度が実に低かったらしく、「照」のほうが知られていたようです。歴史上でも「足利義昭」くらいしか思い浮かびません。しかし昭とつく名がこのときどっと増えたらしいんです。女性は「和子」がトップ。これが流行ですね。遡って大正元年には「正一」、2年には「正二」が多かったと聞きますし。
    戦後、浩宮(現皇太子)誕生のときには「浩」が流行りました。荒木大輔の甲子園で大活躍した頃は「大輔」が新生児名前ランキング1位を続け、その中に松坂大輔もいたわけです。そもそも大輔って、高等次官を示す官職名だったとは前述のとおり。

    日本の命名の変遷をざっと見てきましたが、古代から平安時代に至るころ、支配者階級にひとつの転機があり(中国っぽい名が現れる)、諱や通称というややこしい時代を経て官職名が通称に入り込むという転機があり(大介とか権兵衛とか虎衛門とかね)、そして明治になって諱ふうの名が一般階級に増えるというさらなる転機があり、いくつかの流行を経て今に至っている。私見ですけど、そんなふうに僕は考えています。
    そして現代。第四の転機が来たのかもしれません。すなわち、読めない名前の大流行。
    その読めない名前について、いろいろ書こうと思ったのですが長くなりすぎました。続きは次回に。

    | 2012/02/12 | 言葉 | 08:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | by 凛太郎 |

    恵方巻に間にあえば

  • 2012.02.04 Saturday
  • 「砂を噛む」というのは、例えです。慣用句。ことわざというほどではないと思いますが、つまり味のないものを口に入れる、ということで、つまらない、面白くないことをあらわします。受験生ブルースに「すなをかむよなあじけない〜♪」ってフレーズがありますわね。
    味を感じない、ということは、まさに砂を噛むようなものです。つまんないの。というわけで、味覚障害の話の続きです。風邪ひいて舌がおかしくなっちゃったわけですよ(汗)。
    味がしない、と申しましたが正確には、味覚と嗅覚が失われました。「味」というのは舌だけではありませんね。味は香り、そして舌触りがプラスされて完璧になる。「匂い松茸味しめじ」と申しますが、松茸だって味が全くなければそれはうまくありませんし、しめじも実は香りが利いているのです。全ての食べ物は、それらが相乗されて味を構成しているのです。

    よく「見た目」というものが味には重要だ、美しく盛り付けられてこそおいしさを感じる、という意見があります。日本料理では特に強調される部分ではありますが、「視覚」は「味覚・嗅覚・触覚」に比べ、あくまで二次的であると考えられます。確かにいろどりがきれいであるにこしたことはありませんが、その見た目は味とは基本的に関わらないものである、ということが今回よくわかりました。
    思えば、真剣に味に立ち向かう人は、その瞬間には目を閉じます。世界的に評価の高い祇園の料理店「千花」では、ご主人が最後に味を決めるときには、必ず目を瞑り神経を研ぎ澄ませて味をみるそうです(こんな三ツ星の店行ったことありませんよ^^; 森須滋郎氏等の本からの受け売り)。利き酒だって、目を閉じますよね。「世界の料理ショー」のグラハム・カー氏は、そのうまそうな料理を味わう時、まず一口目は目を閉じています。その感じが、実に「味わってるな〜」と思わせてくれます。
    結局、視覚が味に関わる部分というのは、記憶によるのです。今までうまいものを食べてきた記憶が脳に蓄積されていて、その食べ物を実際に目前にしたとき、過去の記憶がよみがえり「ああ…うまそう…」と思うのです。初めて食べるものでも「これおいしそう」と思うのは、その蓄積された記憶が脳内でデータベース化され、それらを組み合わせて判断しているのでしょう。この食べ物がこういう色でこういう形状になって登場すれば、うまいに違いない。そう見極めます。そして、脳内で味の記憶を構築しそれをさらに反芻し、その食べ物に対して期待が高まるわけです。唾液も出る準備をはじめます(あるいは出てしまったりします…( ̄¬ ̄*)ジュルリ…)。この状態を「目で食う」と呼ぶのかと。また「音で味わう」も然り。中華風おこげに餡がかかるジューッという音を聞いて、聴覚的に期待が高まるということだと思われます。こういう音がすれば、うまいに決まってる、と。
    その視覚・聴覚は「味がしない」という状況下においては、邪魔でしかありません。うまそうなものを見ると僕も当然「ああうまそう〜」と思うではないですか。しかし実際にそれを口に入れても、まったくうまくない。「砂を噛む」が如しであるわけですから。つまり「目で味わった」ぶん、その落胆感が増すわけでして。悔しい。「見た目」なんてクソクラエです。この言葉についてよく「カレー味のうんこかうんこ味のカレーか」という究極の選択がありますが、味覚嗅覚を失うとこんなのは簡単に答えが出てしまうのです。(伏字は反転しないように)

    本格的に風邪引いたとわかったのが先月の23日。で、その風邪は鼻がグズグズいうのをのぞいてはもう先週中にほぼ治っています。体調もとくに悪くはない。しかし、なかなか舌に味覚が戻らず、嗅覚もほぼありません。このまま一生戻らなかったらどうしよう。そんな不安感がよぎります。
    カミさんが何か買ってきてくれました。

    「これ飲みなさいよ。ファンケルのサプリ」
    「なになに、"からだにしっかり届く亜鉛"とな」

    亜鉛のサプリメントなんてのもあるんですね。「亜鉛は、味覚を正常に保つのに必要な栄養素であるとともに、皮膚や粘膜の健康維持を助ける栄養素で、たんぱく質・核酸の代謝に関与して、健康の維持に役立つ栄養素です」と書かれています。なるほどねー。

    「1回に2錠づつ飲むのよ。飲みすぎてもダメなんだからね」
    「はーい」

    あきらめずに、回復を待つしかありませんね。
    火曜日にある人と食事の約束をしていたのですが「風邪引いてしまった」ということにして延期してもらいました。本当は風邪を引いたからではなくその後遺症が残っているだけではあるのですが「元気なのだが味がわからない」てなことを説明するのも難しいことですし、身体が動くなら来い、と言われそうでしたので、嘘をつきました(厳密にはウソじゃないよね^^;)。申し訳ない。僕だって悔しいのです。捲土重来を期して、今回は見送り。臥薪嘗胆の心境です。
    臥薪嘗胆てのは、焚き木を枕に寝て苦いキモをなめることですけど、このキモって熊の胆のことなのかな。熊の胆というのは今や高級品のはずで僕は服用したことはありませんけど、相当に苦いもののようですね。しかしこの舌の状態であれば、なめることに何の苦もないなー。これでは、耐え忍び「今にみていろ」と思うことはできませんね。

    しばらくは、口中は触感だけでした。
    しかし「触感」というものは、五感のひとつというにはあまりにもバリエーションがあります。そのことが、味覚嗅覚を失うとよくわかりました。まず、熱い冷たい。微妙な温度差。そして歯ざわり舌ざわり。サクッ。パリッ。ねっとり。シコシコ。ちゅるん。さらに、痛点も。辛い感覚は消えませんでした。ピリピリ。ヒーハー。それらは全て触覚に分類されます。僕の口中感覚は触覚に特化されていましたので、意外にも複雑であったこの感覚を十二分に味わいました。それしか食べる楽しみがないので。
    そうして味気ない生活を続けていましたが、少しづつは回復のきざしが見えてきたようです。まずは、鼻が通りました。
    ずっと鼻をかみすぎていて耳がおかしくなりそうだったので、界隈で話題になっていた奇跡の手間も金もかけずに鼻づまりを直す方法もやってみましたよ。さすれば、確かに鼻は通るんですね。すぐに元に戻るのですが(汗)。しかしながら、これも繰り返しているうちになんとなく通るように。これのおかげで治ったのかはよくわからないのですが。
    しかし、鼻は通ってもすぐに嗅覚は回復しないんですね。しばらくはダメでした。
    面白いことに、全てが均一に戻ってくるわけじゃなかったのです。レモン汁の酸っぱい匂いが最初にわかるようになった、と前回書きましたが、酸味関係の匂いは戻りが早かったですね。インスタントコーヒーの話ですが、うちにあったネスカフェのエクセラ(安いほう)は、直接ビンに鼻を近づけて匂いを嗅いでも何も匂いません。ところがそんな状態でもゴールドブレンド(高いほう)は、コーヒーの香りこそしないものの、酸味を感じさせる匂いはするのです。キリマンジャロやモカで感じるような。興味深いなと思いましたね。ゴールドブレンドのほうが複雑な香りを内包していたのでしょうか。
    そうして、段階を踏んで香りを少しづつ取り戻していきました。毎日ひとつづつ要素が増えていく感じ。炊き立てのごはんの香りがわかったときは、うれしかったですねえ。
    味も、徐々に回復。亜鉛が効いたのでしょうか。
    これも、興味深いことに段階をふみました。酸味が最初に回復したのは香りと同じ。毎朝レモン汁と塩と砂糖を舐めていたのですが、レモン汁から味がわかるように。逆に、甘味がなかなか元に戻りませんでした。どういうシステムなのでしょうね。これは個人差があるかもしれませんのでよくわかりませんが、僕はそういう順番でした。
    それだけではなく、味には「旨味」なんて複雑な感覚もありますのでね。ためしに化学調味料を舌にのせたりしました。昆布茶の粉を舐めてみたり。これも、日に日に回復してくるのでうれしかったですね。

    もう大丈夫だろう。そんな感じで、週末を迎えました。いよいよ、節分です。すなわち恵方巻。なんとか…間に合ってくれたようです。
    僕はその日、加古川市に用事がありましてそちら方面へ向かったのですが、その際こっそりと高砂市に寄りました。完全に私用ですが許してね。目当ては、焼き穴子です。
    瀬戸内産の穴子は播州名物でありまして、神戸や明石でも上質のものが入手できるとは思うのですが、高砂の穴子って何だか「別格」であるように思うのですね。事実、ファンも多いと聞きます。関東では煮穴子が普通でしょうが、焼き穴子のうまさというものはこれまた違うのですよ。香ばしさが絶品。
    店は夕方まではやっていませんので早めに訪れ、小ぶりのやつが二尾で一串になってるのを買い求めます。少し値ははりますが、これは本当にうまい。贈答用にもなるのですが、今日は自家消費なので簡単に包んでもらって、その後野暮用をいくつかこなして、夜にうちへ戻りました。
    家では、準備が整っています。酢を控えめに調味したごはん。海苔。そして具として干瓢、錦糸玉子、きゅうり、椎茸、茹でた海老。

    「おーい、穴子いれて六品やで。七品ないと七福神にならんがな」
    「あっ本当だどうしよう」
    「まあええか。わさび入れたれ。それで七つや(笑)」

    例年の如く、自家製です。巻き簾に海苔を置き飯を広げて、具を並べます。今回は焼き穴子が主役なので、他の具は薄味に。具の置き方ですがひとつだけ工夫を。
    穴子は海苔の幅を多少はみ出るほどの長さなのですが、その穴子を縦半分に切り、互い違いに置くようにします。一尾なので、尻尾から食べ始めるかアタマからにするか迷う可能性がありますので(笑)、こうして均一にしました。
    しっかりと巻いて(ちょっと、といいつつ結構穴子がはみ出してます♪)、海苔がパリっとしている間に食べましょう。今年の恵方は、北北西。ではいただきます。

    わしわしわし。

    う、うまひ〜。間に合ってよかった (T-T) ウルウル

    というのは心の声ですが(節分の太巻は黙って食べなければ福が逃げる)、ちょっと感動的なうまさでした。
    その砂を噛むような味気ない日々を過ごした果てのこの恵方巻、というのはあるかもしれませんよ。ですがしかし、そういうことを超えてこの穴子はうまい。焼かれてから既にずいぶんと時間は経ってしまっているはずですが、香ばしさは褪せることなく、力強い旨味を保っています。もう「高砂の焼き穴子最強説」を唱えてもいいのではないでしょうか。太巻に入れるのは少し贅沢な気もしましたが、自らへの快気祝いも兼ねて、ということで許していただこうかと。
    噛み締めるたびにあふれるよろこび。うまいのぉ(涙)。一時はダメかも、と思ったもんなあ。味わえるという幸せにじんわりとひたりつつ、無言で一本食べ終わりました。はひーうまかった。おかわりが欲しいよ(笑)。
    というわけで、味覚障害から復活の一幕でした。
    | 2012/02/04 | 飲食 | 19:11 | comments(2) | trackbacks(0) | - | by 凛太郎 |


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